晴れ時々、掬い上げられた僕
暗闇の中で、用紙にペンを走らせる音だけが聞こえていた。
息ができない。もがくように伸ばした手さえ、暗闇の中では捉えられない。
息が止まる、心臓が、止まる。終わりを覚悟した瞬間、深海の底から、水面に浮上するような感覚に襲われる。
圧倒的な、浮遊感。
僕は目を覚ました。
くらくらする。網膜を刺す白が眩しい。ここはどこだ? どこもかしこも、白い。
白くて、清潔で、嘘臭い。
この思考は、なんだ?
何も考えているつもりがないのに、ぐるぐると頭が回転する。思考回路がヒートする。
「あ……」
声を出すと、しゃがれていて、かすれていた。
ペンが歩みを止める。
その持ち主らしい白衣の男の人が、僕を見るなり、一瞬ギョッとした様子で目を見開いた。
「や、やぁ」
ぎこちない様子で片手を上げる男性。この人は、誰だ?
「私は、その、……ドクター、だ。君の」
やけに言葉を濁して、男性は答える。視線がきょろきょろと泳いでいた。
「僕はーー僕はーー」
言葉を紡ごうとする。けれど、紡ぐ糸が足りない。何を話せばいいのか、わからない。
「君は、近藤くんだ。近藤真斗くん。わかるね?」
こんどう、まさと? 目を閉じて、僕は記憶の海を巡る。
そう、あれは、つみきの箱。積み木の箱に、僕の名前が書いてあった。
『こんどう まさと』
酷く汚い字で、ママに書かされた、わけのわからない図形。それは今思えば確かに、名前、なのだろう。
「わか、る」
必死に、声を絞り出す。それだけでとても体力を使う。体がいやに筋張っている気がする。胸元に視線を落とすと、薄い緑色の布の隙間から、ひからびたようにガリガリの体がのぞいた。これが、僕? これじゃまるで、病気みたいだ。
顔を上げると、ドクターと目があった。ドクターは、ばつが悪そうに目をそらす。
「その、……すまなかった」
「へぇ?」
肺を潰して空気を押し出したみたいな、情けない音が出た。今の僕じゃ、まともに喋れないみたいだ。
「倫理的な問題は、もちろんあった。だがね、これは、君のためなんだよ」
「……」
倫理? 僕のため? 何の話だろうか。
「あのままじゃ君は、お母さんに……いや、この話は良そう」
「ぁん、です、か?」
餌を求める金魚みたいに、みっともなく口をぱくぱくさせて、僕は尋ねる。それが精一杯だった。
「…くは、なん、で……?」
僕はどうして、ここにいるのか。それが聞きたいだけなのに、こんなにも、もどかしい。かさかさに乾いた舌が空回りする。何か、何かないかと、僕は視線をさまよわせた。
あった。ドクターの机の、白い用紙の脇に、なにかのパンフレットがある。そこには、
『IQ向上支援プロ……』
それ以上は、ドクターの腕で隠れて読めない。
「落ち着いて。君はまだ、目を覚ましたばかりなんだから。全身の筋力が低下している。話すことができないのは、そのせいだよ。ともかく、お母さんを呼んでくるね?」
「マ、マを?」
ママ。お母さん。……お母さんの方がしっくりくる。どうして、僕はお母さんのことをママなんて呼んでいたのか。恥ずかしいな。
「真斗、真斗、なのね!?」
部屋の扉が開き、女の人が現れた。お母さんに、どことなく似てる。けど、こんな顔だっらかな? ぼんやりとしか思い出せない。
「おっ、かあ、さん……?」
僕がしどろもどろになりながら口にすると、お母さんの顔が険しくなった。
「どういうことです? 私、治らないなら施設に入れるって言いましたよね!?」
突然、顔を赤くして激昂するお母さん。どうして、そんな顔で怒るのか。
「あぁ、今はまだ、うまく喋れないだけです。一時的なものですよ」
ドクターが慌てた様子でそう話すと、お母さんはほっと胸を撫で下ろして、優しい顔になる。
「良かった。真斗、これであなたも、やっと、普通になれるのね?」
そう言って笑うお母さんの顔は、温かくて、やわらかくて。
けど、薄っぺらくて。