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明宵実記  作者: 冬来春子
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はじまりの風


 女が生まれたのは、まるでその誕生を祝福するかのように、満月が煌々と輝り、数多の星が明々ときらめく夜だった。

 人々は、「稀なる力を持つ子だ。」「女神の再来だ。」と歓喜した。

そして女は、いつからか「大巫女」と称されるようになった。

 女は慈愛に溢れ、美しく聡明で、凛としたその背で一族を導いた。一族の長として、そうあろうと一心に努めた。

 終わりの見えない戦いの時代に、狂王の道具とされても、他の貴族たちに体よく利用されようとも、女は一族を守る術を考え、そのために動き続けた。毎夜、眠る間も惜しんで祈りだって捧げた。

 だが、女の愛する同胞たちは日々その心を擦り切らせ、それでも、それぞれの守りたいものを守るために果敢に戦い、そして散っていった。

 気付けば、女の手はいつだって震えるようになっていた。

 ―何が稀代の力だ。

 ―何が大巫女だ。

 ―頼むから、もう誰も連れて行かないでくれ。

 毎夜の祈りは、懇願に変わった。

 しかし、願いは届かなかった。

 戦いのなか、一人の男が死んだ。

 女を愛し、女が愛した男だった。

 ―なぜ連れて行った。

 懇願が、絶望に変わった。

 もう涙も出なかった。

 やはり自分が、何をおいても戦場に出ればよかったのか。

 そうすれば、もっと犠牲も少なく、男を失うこともなかったかもしれない。

 ―まだ、あなたに伝えていなかったことがあったのに。

 女は己の胎を、繊細な手つきで、優しく、優しく撫でた。

 まだ小さな小さな、生まれ出でたばかりの命。

 この先の未来に、この小さな命は在れるのだろうか。

「大巫女。」

 女の背後から呼び掛ける声がした。

 振り返れば、そこにはもう随分と減ってしまった一族の総員が頭を垂れて跪き、ひたすらに女の言葉を待っていた。

 女は暫くの間、同胞たちを見つめていた。

 そして、胎に当てていた手を握りしめて、立ち上がった。

「皆、行こう。」

 女の手は、震えていなかった。


 幾つの季節が過ぎたのか、もう数えることをやめて幾分も経った。

 何からも侵されない、穏やかな日々。

 迫り来ることのない、緩やかな時間。

 女たちは望むものを得た。

 ―死は私たちの許には訪れない。

 だが女は気付いてしまった。

 望みの代償に。

 成長や老いを止めた同胞。幼いままの我が子。

 逃れたはずの死が、目の前を歩いている。

 同胞はそれに気付かないふりをする。

 自分は目を逸らした。

 死への恐れは一層膨らみ、常に心の中に存在し続ける。

 女は確信していた。

 この里は壊れ出している。神経からじわじわと腐食していくように、時間をかけて、ゆっくりと。

 女神は自分たちを咎めているのだろうか。

 道を正す術はあるだろうか。

 だが、女の力は衰えていた。往年には到底及ばないほどに。

 己で施した封印が己に解けないなんて、なんという皮肉。

 ずっとこの先も、壊れ出して、壊れ続けて、壊れ去っても、ずっとここで、私たちは生きていくのか。

 私たちは生きているのか?

 生きるとは、なんだ―。

 答えの無いその問いを、女は何百、何千、何万と繰り返した。

 そんなある新月の夜、一人の赤子が誕生した。

 月明りのない、燭台の火が微かに手元を灯すような暗闇の中、その赤子は、夜空に浮かぶ満月のようにまろく光るようだった。

 女は赤子を抱き上げた。

 そして胸元に赤子を引き寄せたその時、女の全身を清しい風が吹き抜けた。

 ―この子だ、と強く思った。

 往年の女と等しいほどの、いや、それを凌ぐほどの霊力。

 この子なら、女神の封印を解くことができる。

 そして何より、せめてこの子は解き放ってやりたかった。この檻から。

 自分にこんなことを願う資格などありはしない。

 まだ生まれたばかりの赤子に。

 誰かの手で守られなければならないほど脆い命に。

 何の罪もない、この子に。

 自らが生みだした歪みを正させようとするなど。

 想いを託すなど。

 ―私は弱く、卑怯者だ。

 女は胸中で何度も、自分にその言葉を浴びせた。

 そして、祈った。

 この子のこれからが、どうか、どうか―。

「…この子の名はコウヤじゃ。昏き夜を照らし標となる光の子。」

 女は心の底から愛おしそうに微笑んで、赤子に頬を寄せた。

「そなたの生に、溢れんばかりの幸のあらんことを。」


 ただひたすらに、祈り続けている。



 ヒノオとコウヤは、眼下に里を望む崖の上に立っていた。二人とも外套を纏い、荷物をまとめて、旅装束に身を包んでいる。頬や額に走る戦いでの裂傷が赤みを帯びて痛々しい。

「これからどうするの?」

 ヒノオの問いに、コウヤは里を見下ろしながら答えた。黒髪がさらりと風に流れる。

「…色んなところに生きたい。色んなものを見て、聞いて、触れて。良いものも、そうでないものも、全部。」

 コウヤの横顔はとても穏やかで、凪いだ瞳は、嵐の去った後の雲間から差す日に照らされた湖面のようだった。

「大丈夫。私は私の幸いを、ちゃんと見つけられる。」

 そう言って、コウヤは柔らかく笑んだ。

 全てを受け止めて、背負っていくには、コウヤのそれはあまりに大きすぎる。彼女の愛した全ての者たちの、命を、叫びを、一生心に持っていなければならないのだから。ただ、その泰然とした面差しに、静かな微笑みに、彼女はもう歩き出しているのだと、ヒノオは思った。

 だから、「うん。」と、ただそれだけ返した。

「ヒノオ。」

 コウヤは体ごとヒノオに向き直ると、腰に佩いた太刀を鞘ごと抜き、眼前に拳を突き出すように構えた。

「我らが父なる御魂、日の大御神の血を継ぎし者。我ら一族に救いの手を差し伸べて下さったこと、心より御礼申し上げる。」

 ヒノオは一瞬驚いた顔をしたが、ふうと息をついて苦笑を漏らした。

「気付いてたんだね。」

 コウヤは軽く顎を引いて首肯した。

「足運びや武術の腕がかなり鍛錬を積んだ人のものだったから、ただ人じゃないって思うところはあったし、なによりその太刀。それは私の太刀と対で、それぞれ日の大御神と夜の女神から伝わる宝刀だ。それを持てるのはそれぞれの神の血を継ぐ者だけ。私は女神の太刀を。あなたは、大御神の太刀を。私は大御神の太刀を見たことはなかったけど、おばば様は気付いて、だから最初から。」

 ヒノオは目を伏せた。

「隠してたわけではないんだけど、黙っててごめん。」

 コウヤは、微笑んだまま首を横に振った。

 そして、静かに尋ねた。

「今の王は、どんな方?」

 ヒノオは、その姿を思い浮かべるように、ゆっくり語り出した。

「王は、…兄は、とても聡明で、その瞳は穏やかに民を映して、遠く先を見ていらっしゃる。」

 風が、ヒノオの顔にかかる髪をそっと払った。

「約束が、あるんだ。」

 そう言ったヒノオの瞳は、雲一つなく広がる空のようにとても澄んで、そしてとても一途だった。

幼い頃から追い続ける背を、遥かに見つめて。

 いつかその隣に、という強い意志をはらんで。

 コウヤは優しく目を細めた。ずっと知りたかった。一族がこんなところまで逃げ隠れる要因となった王という存在は、代を変わって、時を経て、どんな人が今その座にいるのだろう、と。コウヤ自身、王という存在に私怨はない。里の人間から伝え聞くだけで実際を知らない、平穏な日常しか知らないコウヤには、特別怒りや恨みを感じる対象とはならなかった。ただ、自分たちを脅かす存在という意識は少なからずあった。だから安心したかった。もう大丈夫だと思いたかった。見たこともない現王自身を信用したわけではない。出会ってたった数日だとしても、他でもないヒノオが現王を慕い、敬うから、コウヤは大丈夫だと思えたのだ。

「ヒノオ…、ありがとう。ここに来てくれて。あなたが手を差し伸べてくれたから、私は歩き出せた。一人じゃないって思える。もう大丈夫って信じられる。あなたが生きて、ここにいてくれてよかった。あなたに出会えて、よかった。」

 その言葉にヒノオは、はっと目を見開いた。

『俺の所為だ…。』

 あの夜、ヒノオは自分の生を呪った。

 どんなに時を経ようと、自身を呪ったその言葉はヒノオの心に棲みついて、耳元で囁き続けて止まなかった。

 だから―。

『あなたが生きて、ここにいてくれてよかった。』

 唇が小さく震えた。涙が、零れそうだった。ヒノオはそっと唇を噛んで、それを抑えた。そして腰の太刀を鞘ごと抜くと、コウヤと同じように拳を突き出すようにして、彼女の太刀と交差するように己の太刀を合わせた。

「また会おう。」

「必ず。」

 そう言って、二人は笑って背を向け、歩き出した。

 互いに一度も振り返らなかった。

 ヒノオは震える喉で大きく息を吸った。

 頬に、涙が一筋流れた。

 笑みがこぼれた。

 里から風が吹き上がる。

 まるで二人の背を押すように。



 真白い花弁が舞った。



 声が、聞こえた気がした。




『生きろよ。』


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