一夜 後編
漆
洞穴の中は外よりほのかに暖かい。
削りっぱなしの壁に掛かった松明の炎が、コウヤとヒノオの影を映し出す。
足音が幾重にも反響した。
洞穴はヒノオが思っていたよりもかなり深く、もうずっと同じ景色が続いている。等間隔に並ぶ松明が余計に時を長く感じさせた。
「もう少しで祠だ。」
コウヤが隣を走るヒノオに言う。
先に続いていた松明が途切れた。最後の一つを通り過ぎると、そこには半円状にくり抜かれた空間が広がっていた。天井はとても人の手によって掘られたとは思えないほど高く、壁際をぐるりと松明が囲んでいる。奥には無数の祠が並んでいるが、それらから一段高い石段に、観音開きの祠が二つあった。一つは扉が開いており、屋根の頂に、円から放射状に細い線が伸びる、太陽を模した金の飾りが付いている。そしてもう一方は、屋根の頂に、円に月の満ち欠けを表す彫りの入った銀の飾りがあり、扉は閉まっている。こちらが女神の祠だ。この中に、鏡がある。
東西の塞の兵たちがコウヤとヒノオの前に立ちはだかり、その後ろに、女神の祠の左右に従うようにショウゲンとツルミが立っていた。
「来たか。」
ショウゲンが佩いた太刀の柄に肘を置いて、口元に悠然と笑みをたたえている。しかし、その奥の瞳は笑っておらず、纏う空気は血の気が引く程の冷たさだ。
ツルミは腕を組んで、研ぎ澄ました刃のような目でヒノオとコウヤを見下ろした。
「コウヤ、次代の大巫女ともあろう者が。」
その言葉に、コウヤは無意識に拳を握った。そして、二人の気迫に気圧されまいと全身に力を込め、決して口を開いた。
「ずっと、聞きたかったことがあります。」
ツルミとショウゲンは黙って先を促した。
「お二人が、里の皆が、私に良くしてくれたのは、私が次代の大巫女だからですか?ただのコウヤじゃなくて、大巫女になるコウヤだから、大切にしてくれたのですか?」
ヒノオは、はっとコウヤを見た。
ヒノオが里に来て、初めて里の手伝いに回った日。フヨウの態度を謝ったコウヤに、ヒノオが「君はとても大切に想われているんだね。」と言うと、コウヤは何か言葉を飲み込んだ。
自分に向けられる愛情は、本当に自分という存在に向けられたものなのか?
コウヤはこれまでずっと、皆からの想いを信じようとして、それでも心の奥底の最後のところで、素直に受け取ることができなかったのだ。
それはとても悲しく、寂しい。
「そうだな。」
ツルミがおもむろに口を開いた。
「お前はこの里の要だ。何をおいても守らなければならない、大切な身だ。」
コウヤの握りしめた拳が力を失っていく。俯いてしまったその背に寄る辺のない寂しさが滲む。
「だがな、」
そう続いたツルミの言葉に、コウヤが顔を上げた。コウヤとツルミの瞳がぶつかる。
ツルミはやはり無愛想なままだったが、その瞳には深い慈しみの色があった。
「決してそれだけではない。お前の成長が、笑顔が、どれだけ我々の喜びであり、安らぎとなったか。十数年ぶりの我らの新しい命。無垢なる希望。お前が生まれた日のことを、俺は昨日のことのように覚えているよ。」
それは、ツルミが普段見せることのない最大の心。そしてこの里の者全員の想い。
コウヤは目をこれまでないほど見開いてから、泣いているような満面の笑みを浮かべた。
「なら、もう、思い残すことはありません。」
そう言うと、コウヤは腰から太刀を鞘ごと抜き、切っ先をツルミたちに突き付けた。
「道を開けていただきます。」
その隣で、ヒノオも腰から太刀を鞘ごと抜いた。太刀を握る腕はだらりと下げて無造作に構えているが隙は全く無い。ツルミが剣呑に目を細めた。
「コウヤ、悪いことは言わん。今の内に引いておけ。ヒノオも、今ならば命は救おう。」
ショウゲンがなおも説得をする。が、コウヤは聞き入れない。
「いいえ、大叔父上。もう時は動き出している。止まることなどできないのです。」
「引かぬか。」
「引けません。」
「…そうか。」
ショウゲンは目を閉じて、聞こえるか聞こえないかというほどの声で「残念だ。」と呟いた。そして瞼を上げたときにはもう、その瞳に宿るのは敵意だけだった。
「命じる。コウヤとヒノオを捕らえろ。但しコウヤにはなるべく傷をつけるな。」
ショウゲンが兵に告げる。ツルミが続けた。
「男の方は瀕死だろうが構わん。やれ。」
洞穴内を、殺伐な気が渦巻いた。
洞穴の外では、ショウキとフヨウたちが対峙していた。
フヨウの背後から、次々に兵が飛び出した。手に手に持った武器をショウキに向かって振り下ろす。しかし、ショウキが右手を正面にかざすと、皆見えざる壁に弾き飛ばされてしまった。
その背後で異能者たちが、ある者は胸の前で手を合わせ、ある者は地面に膝を付いて両手を地面にあて、というようにそれぞれの体勢を作ると、炎や土、水、風、雷が生じ、大蛇や獅子、鳥などを形作る。それらは、もんどりうった兵たちの間をぬって、ショウキに襲い掛かった。だがこれも、ショウキが腕を一閃すると、炎、土、水、風、雷の龍が現れ、両者はぶつかり合い、牙をむき、爪を立て、咆哮を上げ、異能者たちの式は空中に溶けるように消えていった。残ったショウキの龍たちは、兵や異能者たちを抑え込みにかかる。
仕掛けては迎え撃つ、そんな攻防が続く。
一歩も動かずにその状況を見つめるフヨウは、ショウキと兵や異能者たち衝突で生じた風圧に舞い上がる外套や髪もそのままに、一向にショウキに爪先も触れられない状況に苛立ちを滲ませた。
「じれったいなぁ…。」
フヨウはそう呟くと、懐から短刀を抜き、吹き飛ばされたり動きを封じられた者たちの間をすり抜けて跳躍し、ショウキに刃を振り上げる。
ショウキは先の如く、眼前に結界を張りこれを阻んだ。ばちばちと火花が舞う。
「何度向かって来ようと私には届かぬ。」
「それはどうでしょうか。」
ばちっと、一際大きく火花が爆ぜた。フヨウの頬にいくつもの裂傷が走る。その口元に歪な笑みが浮かんだ。
フヨウの刃が結界をじわじわと突き破り始めた。
「なに…っ」
次の瞬間、結界が弾け飛んだ。その衝撃でショウキの手が裂け、血飛沫が舞う。肉薄した刃に、ショウキは寸前で顔を逸らしたが、避けきれずに目の下がぱっくりと切り裂かれた。
フヨウは勢いのまま、ショウキの横を抜け、その背後に着地した。ショウキが目の下の血を拭い、後ろのフヨウを振り返る。
「呪符か。」
フヨウもショウキを振り返ると、ゆらりと立ち上がり、短刀を手の中で器用にくるくると回して正面に構えた。その柄には呪符が何重にも巻かれている。これが結界の力を弱めたのだ。
「なるほどのぉ。」
弾き飛ばされていた者たちも起き上がり、ショウキを中心に円を描くように囲み始めた。そして、それぞれの位置に付くと、一斉に地を蹴った。
ショウキは全方位から迫り来る攻撃に、低く呟いた。
「なるべく穏便にと思っておったのじゃが、しかたないの。」
いうや否や、ショウキはすっと膝をつき、袖を押さえて右手を地面に叩きつけた。瞬間、ショウキの周囲の雪が爆発したように勢いよく舞い上がった。フヨウたちの視界が遮られる。
「…っ」
怯んだフヨウの頬を、何かが落下するように風が切った。すぐ脇を振り向くと鋭利な氷柱のような氷が深々と突き刺さっている。ばっと頭上を振り仰ぐと、地面に突き刺さっているのと同じような氷の塊が幾本も、その鋭い先をフヨウたちに向けている。そして、雨のように降り注いだ。
衣を地面に縫い留められ動きを封じられていく者たちを横目に見ながら、フヨウは氷を避け走った。
「くそっ。」
徐々にショウキから離されていくフヨウ。これではショウキに近づけない。
くっと顔を歪めたフヨウの両脇を突如、何かに挟まれるような衝撃が襲った。そのまま岩壁に押しつけられる。フヨウは力いっぱいに身をよじるが、腕も封じられているため動きが取れない。ショウキの氷の龍が、口で咥えて抑え込んでいるのだ。他にも龍によって岩壁に抑えこまれている者たちがフヨウの視界に入る。
舞い上がっていた雪が落ち着き、視界が明瞭になった。
地面から伸び上がる龍の中心に立つショウキは、真っ直ぐにフヨウを見上げていた。
フヨウが忌々し気に唇を噛む。胸の内から爆発するような感情を抑え込むこともせず、獣のように荒々しく息を継ぐ。
「そこで大人しくしておれ。」
そう言うと、ショウキは傾いた月に視線を移した。欠けるところのない満月。柔らかい光を浴びて、冷たい空気を大きく吸い込んで目を閉じ、深く息を吐きながら安堵したように囁いた。
「もうすぐ、もうすぐに、おしまいの時じゃ。」
風に乗って届いたその言葉に、フヨウの動きがぴたりと止まった。
「…いやだ…。」
その顔からは血の気が引き、全身が震え出す。息の仕方を忘れてしまったかのように喘ぎ、目の焦点が合わなくなる。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
半狂乱のように叫ぶフヨウをショウキが振り仰ぐと、氷の龍がぴしりと音を立て始めた。亀裂がみるみる広がり、氷の破片がぱらぱらと降り落ちる。フヨウの周りに竜巻のような風がおこり、見えざる刃となって龍を切り刻んでいく。
ショウキが目を瞠って呟いた。
「フヨウ、そなた…」
氷の龍が砕け散った。拘束が解かれたフヨウは、短刀を構え直し、岩壁を蹴る。
その瞳に映すのは、一筋にフヨウを見つめるショウキのみ。
「私はまだ、あなたと…!」
刃が肉を貫くにぶい音がして、鮮血が真白な雪を、ぽたり、ぽたりと、赤く染めた。
腰を低く構えたヒノオとコウヤに、兵たちが襲い掛かる。ヒノオがコウヤの前に躍り出て、太刀と腕にはめた籠手で攻撃を受けた。
「行け!」
受け止めた相手に蹴りを繰り出しながらヒノオが叫ぶ。
コウヤはその声に押されるように駆け出した。しかし、すぐにコウヤの前にも兵たちが立ちはだかる。力で押し負けるのはコウヤ自身もよく理解しているため、なるべく真正面から受け止めず、攻撃を受け流し、小柄な体躯を活かして軽やかに間をぬっていく。素早く懐に入っては太刀の柄を突き上げ、背後に回っては首筋に一撃を落とす。だが、目の前に振り下ろされた攻撃を避けきれず、咄嗟に太刀で受け止めた。コウヤの背後から一人の兵が手を伸ばす。その気配を感じ、振り返ったコウヤだが、眼前の兵の刃を流せず動くことができない。兵の手がコウヤの腕に触れそうになったその時、兵の首に鎖が巻き付いて後ろに引き倒された。
「あなたの相手は俺です。」
兵の首に巻き付いた鎖はヒノオの手に握られている。
コウヤは眼前の兵の手首を取ると、勢いをつけて足を振り上げる。そのまま足を相手の首にからめると関節を絞め、地面に引きずり倒す。そして、すぐに体を起こすと再び駆け出した。
ヒノオは鎖を引き戻すと、振り下ろされた刃に巻きつけこれを払い、みぞおちに鞘尻を打ち込む。鎖を腰の帯にしまい直しながら、息つく間もなく襲いかかる攻撃をかわし、太刀で相手の武器を払うと、左手でその胸ぐらをつかみ足払いをかけ、投げ飛ばす。飛んできた仲間の巻き添えをくらい、数人の兵が団子のように倒れた。すぐに背後の一撃を受け止め、横面めがけて足を蹴り上げる。しかしこれは足首を掴んで止められ、そのまま体を投げ飛ばされる。地面に叩きつけられる瞬間に受け身を取って、二、三度転がった後、手をついて側転から体を起こす。同時に傍に落ちていた鞘を拾い踏み込んで、迫る一撃をその鞘で払い、太刀で脇腹に打ち込んだ。これがまともに入ったようで、相手は起き上がってはこなかった。
「器用だな。両利きか?」
突如、ヒノオの背後から声が掛けられる。ヒノオが振り返るとショウゲンが腕を組み立っていた。攻撃が一旦止む。ヒノオは拾った鞘を放って、息を整えながら汗を拭った。
「訓練したので。」
「君のそれは抜かないのか?」
ショウゲンが指しているのはヒノオの太刀だ。ヒノオもコウヤも、洞穴に入ってから一度も太刀を鞘から抜かずに戦っている。
ヒノオは握る太刀に視線を落とした。
「あなたたちに刃を向けるのは、コウヤが望みません。」
「甘いな。」
ショウゲンがふっと笑った。
「しかしコウヤらしい。」
「そうですね。」
ヒノオもほのかに口角を上げた。
「だが、」
ショウゲンが腰の太刀をすらりと抜いた。それは一般的なものより長さも太さも一回り大きい。体躯のあるショウゲンだからこそ扱えるのだ。
「こちらはそんな手加減は一切せん。」
磨き上げられた刀身にヒノオが映り、ぬらりと光った。
この人は桁違いだと、ヒノオは直感で感じた。闘気が陽炎のように揺らめいて肌を焼くようだ。兵たちに加えて、彼も相手にしなければならない。
やれるのか。
いや、やるのだ。
ヒノオは一度深く息を吐いて、ショウゲンの太刀に映る自分に笑ってやった。
「望むところです。」
その言葉に、ショウゲンは満足そうに笑んだ。
「参る。」
息が上がる。腕が、足が、重くなって思うように動かない。
ここにいる者たちの中で、自分が圧倒的に体力も持久力も劣っていることを、コウヤははっきりと自覚していた。
幾人かは、そうそう起き上がれない状態にしたが、それでも攻撃は止まない。前に進むことができない。もう、コウヤの視線は目指す鏡ではなく、迫る攻撃に翻弄されていた。正面からの攻撃を横に転がって避け、すぐに体を起こしたが、顔を上げた瞬間、目の前には兵の姿があった。
「しまっ…」
打撃がコウヤを襲う。衝撃に体を飛ばされ、転がり倒れたコウヤの腕を兵がねじ上げ、動きを封じた。コウヤの手から太刀が落ちる。
「残念だったな、コウヤ。」
それまで女神の祠の横で静観していたツルミが石段から降りて来た。こつ、こつ、とゆったりと足音を鳴らして、コウヤの前に進み出る。
痛みに顔をしかめながら、コウヤはツルミを見上げ、悔しげにうめいた。
「大兄上…っ。」
ツルミは腕を組んで、首を少し傾けた。真っ直ぐな、涅色の髪がさらりと揺れる。
「お前の健闘は認めよう。しかしここまでだ。あの男に何を吹き込まれたか知らないが、今やろうとしていることが間違いだったと、お前もいつか気付くだろう。」
「違う。これは私の意志です。私たちはいつまでも目を背けて立ち止まってはいられない。時は今なんです。」
コウヤは地に組み伏せられてもなお、屈せぬ瞳で訴える。ツルミは憂いを込めて眉を顰め、コウヤの頬から顎を指先でなぞった。
「悲しいな、コウヤ。お前と分かり合えないのは。だが全て終わればお前は大巫女の座にある。それまでにお前の考えが改まることを祈ろう。連れていけ。」
ツルミは兵に短く命じると、話は終わったと、コウヤに背を向けた。
「大兄上!」
コウヤの叫びも無視して、ツルミは再び女神の祠の傍らに戻っていく。兵が押さえつけていたコウヤの体をぐい、と起こした。勢いでコウヤの髪が肩からこぼれて、その表情を隠す。コウヤを立たせようと、兵がもう一度肩を引っ張ったが、しかし今度は、コウヤは重い石のように動かなかった。
「…なせ…」
コウヤが、聞き逃しそうなほどの声で何かを言った。びくとも動かないコウヤに、兵たちは戸惑い、互いに顔を見合わせる。
コウヤがもう一度、今度ははっきりとした低い声で言った。
「放せ。」
その声に何か感じたのか、ツルミが足を止めてコウヤを振り返った。
「…おい。」
その呼びかけはコウヤに向けられたものではない。
「離れろ。」
ツルミの表情が固まる。瞬き一つしない。
コウヤの髪が、風もないのにふわりと波打った。
兵たちも、はっとコウヤから手を離し、一斉に身を引いた。
「離れろ!」
ツルミが叫んだ。
その瞬間、コウヤの霊力が爆発した。コウヤの周りにいた兵たちが吹き飛ばされて、壁や地面に叩きつけられ、もんどりうって転がる。
膝をつき、腕で爆風をかばったツルミは、本能的に瞬間で腰の太刀を抜いた。
鞘と刃が固くぶつかる音が鳴った。
ツルミの目の前に、太刀を振り下ろしたコウヤがいた。爆風で周囲の囲みが無くなった一瞬に、太刀を拾ってツルミに迫ったのだ。
ぎりぎりと、鍔ぜり合う音が鳴る。
「同胞に霊力まで向けるとは。」
ツルミが押し返し、コウヤが後方に飛びすさる。着地してから、また二、三歩下がって、コウヤが口を開いた。
「私が大巫女になって、それでどうなるのです。」
「なに?」
「またずっと、この日々を続けるのですか。」
コウヤは泣きそうな顔で、ツルミを上目遣いに睨んだ。
「ただ呼吸を繰り返すだけ。一見変わり映えのない山々の景色でさえ、よく見れば一つ一つの命は日々巡っていくのに、私たちだけずっと変わらない。だって歩みを止めてしまったのだから。まるで、」
コウヤは一度言葉を切って、震える喉で息を吸い込んだ。
「まるで生きながら死んでるみたい。」
ツルミが刹那に間合いを詰める。打ち込まれた一閃をコウヤは太刀に手を添えて、両手で受けた。それでもその重さに腕全体が震える。
「言いたいことはそれだけか。」
ツルミが凄んで問うた。
コウヤは渾身の力でツルミを押しやり、その刃を払って打ち込んだ。
「大兄上だって本当は分かっているはずです!」
コウヤの太刀が下から払われる。横に薙いだツルミの太刀をコウヤは身をかがめて避けた。それから回転を加えて踏み出し、遠心力をのせてツルミの脇腹めがけて一文字に薙ぐ。これも、ツルミは太刀を垂直にして受け止める。衝撃が柄から伝わり、ツルミの手が痺れた。先程からコウヤの一撃が徐々に重くなってきている。
「死から逃れたとて、苦しみから解放されることはないと!」
「行く先に死しかない生に何の意味がある!」
「違う!」
双方が互いに打ち込んだ衝撃で後方にはじかれる。足が地面を滑り、四本の線が刻まれた。
「私たちは死に向かうために歩んでいるんじゃない!幾重も巡るこの命の、今ここに在る“私”という時を生き抜くために歩んでいるの!」
両者が大きく一歩を踏み込んだ。
振り下ろされたツルミの太刀を、下から振り上げたコウヤの太刀が払う。
ツルミの手から太刀が離れ、くるくると回転しながら大きく弧を描いた。
コウヤの、最初で、そして最後の、白星であった。
ヒノオは兵たちに加え、ショウゲンに応戦するのに精一杯の状態であった。
「どうした。少しは打ち込んで来い。」
ショウゲンが太刀を振り下ろす。ヒノオは眼前で受け止めるが、これが足が地面にめり込みそうな程重い。普通より大きな太刀自体の重さもあるが、それを軽々と扱うショウゲンの筋力が並でないのだ。しかも、隙あらば兵たちの攻撃が迫ってくるため、その度に寸でのところで避けながら、時に投げ飛ばし、時に急所を突き、などしているのだから防戦一方になるのも仕方ない。むしろ、この戦力差で立ち回っているのを評価してほしいくらいだ。幾人かは意識を飛ばして転がっていたり、痙攣のようにぴくついて動けなかったりと、大分攻撃の数は減らせたが、それでも技が入りきらなかったり、すぐに起き上がって来る者もいて、非常に厄介である。
そろそろ腕が痺れてきた。額からの汗が目に入って滲みる。所々に負った切り傷や擦り傷の痛みが、鬱陶しい湿気のようにじわじわとまとわりついて気が散る。
地面に押さえつけられているコウヤの姿が、ヒノオの視界の隅に映った。ヒノオは次々に繰り出されるショウゲンの攻撃に応じていて駆け付けることができない。そして周囲にも、じりじりと兵たちが間合いを詰めてくる。ヒノオはぎりっと奥歯を噛み締めた。
しかしその次の瞬間、ざわりとヒノオの肌が粟立ち、コウヤのいる方から爆風がヒノオたちを襲った。ショウゲンの太刀を受け止めていたヒノオの両腕から重みが消える。爆風に耐えるため、ショウゲンが太刀を地面に突き立てたのだ。
ヒノオも吹き飛ばされないように太刀を支えに足に力を込め、腕で爆風をかばいながらコウヤを振り返った。コウヤの霊力は並外れたものであるが、だからといって無尽蔵にあるものではない。体力と同じように、休息すれば溜まるし、使えば減っていく。ショウキの封印を解くには相当の力が必要だ。ここであまり力を費やしては後に響いてしまう。
「よそ見をするな。」
ヒノオの耳に、決して大きくはないショウゲンの声がするりと入って来た。
ヒノオは無意識の内に、振り向きざまに太刀を薙いだ。刃と鞘がぶつかり合う、鈍い音が響く。太刀を斜めに切り上げたショウゲンがヒノオの目の前に迫っていた。
ショウゲンは感心したように口角を上げた。
「なかなか良い動きをする。ツルミとの稽古の時とは大違いだ。」
「実力はやたらに見せるものではありません。」
「なるほど。」
「それに、今のあなたの刃には迷いがあります。」
その言葉に、ショウゲンの目がわずかに反応した。ヒノオは柄に左手も添えて両手で持ち直し、太刀を振り切った。
初めて、ショウゲンの太刀がヒノオに弾かれた。
ショウゲンが二、三歩たたらを踏む。ヒノオは太刀を下ろして、ショウゲンをまっすぐ見つめた。ショウゲンはその瞳のあまりに澄んだ様に、目を逸らすことも、動くこともできなかった。
己とは、正反対すぎて。
「あなたには迷いがある。この里の存続を望みながら、コウヤの思いにも気付いていて、それを全く否定することができない。でも堪え難い苦しみを知っているからこそ、肯定してやることもできない。」
ショウゲンの太刀を握る手に力がこもる。
なぜ、この少年はこんなにも自分の心を言い当てるのか。
先程までのように、余裕をたたえて笑みを浮かべることは、ショウゲンにはもうできなかった。
「でもね、ショウゲンさん。コウヤはちゃんと、全てこぼさず、その手に持っていますよ。あなた方がくれた愛情も、過ごした日々の記憶も、覚悟も。だから、」
ヒノオが、まるで青葉が芽吹くように柔らかく微笑んだ。
その表情に、はっと目を瞠ったショウゲンの脳裏に、同じように笑った友の姿が浮かんだ。
『ショウゲン、俺は戦って戦って、この命を生き抜いて、いつか終わりの日が来たら、お前との思い出も友情も、全部持って行こう。そうしたら、いつかまたお前と出会えると思うんだ。』
思い出した。なぜ忘れていたのだろう。晴れやかに笑った親愛なる友。遠い日の願い。
『次の世も、お前とこの空の下を、共に駆け抜けたいなあ。』
その強かな魂が、昔も今も導いてくれるから。
「だから、彼女の強さを信じてやって下さい。」
だから、歩き出さなければ。
ショウゲンが緩慢に目元を手で覆った。指先が微かに震えている。
その頬を、涙が一滴、流れた。
ぽたぽたと滴る己の血を見て、その鮮やかな赤にショウキは、とうに滅んでいるこの身もまだ人であれたのだと思った。それから、飛び込んできたフヨウを抱きとめた腕に力を込めた。
フヨウが構えた短刀はショウキの脇腹に深々と刺さっていた。
刃から柄へ、そしてフヨウの手へ血が伝っていく。その温かさにフヨウは正気に戻り、さっと青ざめた。崩れるようにフヨウの膝が折れる。そのフヨウを抱えたショウキも一緒に、二人はずるずると座り込んだ。
「あ……なん…で…」
ショウキは避けることも、霊力で刃を防ぐこともできたはずだ。なのに何故、その身で受け止めたのだ。
何故。何故。
なぜ…。
「フヨウ。」
ショウキが小刻みに震えるフヨウの背を優しく、優しくさすった。
子供をあやすように。何度もそうしてきたかのように、慣れた手つきで。
「時が止まってしまったそなたから、目を背けてしまった妾を許しておくれ。」
フヨウの震えがぴたりと止まる。こぼれ落ちんばかりに見開かれたその瞳が、風に吹かれた水面のようにふるりと揺れた。
ショウキがフヨウの頭を自分の肩口に引き寄せ、その柔らかい髪をくしゃりと撫でた。
「もし、許されるのなら、再びこの世界に、生まれ出づることができたならその時は、また、そなたをこの胸に抱きしめたい。のお、フヨウ。」
その声は遠き日に繰り返し聞いた子守歌のようで。
伏せられたショウキの瞳は、愛しさに満ちてどこまでも温かかった。
柄を握るフヨウの手から力が抜けてぱたりと落ちた。そしてその手がゆるゆるとショウキの背に伸ばされ、弱々しくその衣を掴む。
フヨウの瞳から大粒の涙が次々に溢れた。それは月光にきらめいて、ころころとフヨウの頬を滑り、ショウキの肩口へ吸い込まれていった。
堪え切れなくなったように顔をくしゃくしゃにして、フヨウは嗚咽を押さえ震える声で、小さく、小さく、答えた。
「はい、お母さま…。」
ツルミの手を離れた太刀が宙に踊る。一瞬のその様が、コウヤにもツルミにも、ひどくゆっくりと時間が流れたように感じた。
ざくりと太刀が地面に突き刺さる音で、時の流れが元に戻る。
コウヤがかっと目を見開き、右足でだんっと音がするほど地面を思い切り踏み鳴らした。
「地の神よ…!」
両の手を組んだコウヤがそう唱えると、地面から光を放つ蔦が伸び上がり、ツルミや兵たちに絡みついた。その隙にコウヤは太刀を手に、女神の祠に向かって駆け出す。
「ぐっ、コウヤ…!」
蔦に動きを封じられたツルミが呻く。蔦を掴み、力を込めて引っ張るが全く千切れない。それどころかますます拘束が強くなる。
コウヤは石段に上がり、祠の扉を開いた。一尺程の大きさの、銀の装飾に垂飾りの揺れる宝鏡が現れる。その鏡面には、目の前に立つコウヤではなく、鎖でがんじがらめにされ、眠るように目を閉じる黒髪の美しい女性が映されていた。
コウヤは一度深く呼吸して上がる息を整えると、膝をつき、宝鏡に手を伸ばす。そして、鏡立てからそっと、鏡を持ち上げた。
鏡の中の女神は、無垢な少女のようにも、高貴な淑女のようにも、はたまた老成した貴婦人のようにも見える。伏せた睫は長く濃く烏羽のよう。頬はほんのりとした桃色に、薄く開かれた唇は紅を差したように染まっている。ゆっくりと上下する胸元から、その息遣いが聞こえるようだ。
コウヤは鏡を掲げ持ち、女神の閉じられた瞼の奥の瞳を見つめるようにして、強く強く乞うた。
この声が届くように。
「夜の女神よ。我らが母なる御魂よ。目覚められよ。」
まるで、深い水の底にも届くように、冴えやかに。
複雑に絡み合う糸をほどいていくように。
積もり重なった厚く固い雪を溶かしていくように。
この祈りが届くように。
「その御心で、我らを導いて。」
コウヤの目の端に涙が滲む。
「私の声に応えて…!」
吐息に埋もれてしまいそうなほど細く、しかし切なるその声に応えるように、地の底がどくんと胎動した。
女神を捕らえる鎖に亀裂が走り、ぱらぱらと欠片が落ち出す。
女神のけぶるような睫がふわりと上がり、黒真珠のような瞳がのぞいた。
突如上がった悲鳴に、ヒノオとショウゲンは、はっと周囲に目をやった。兵たちが黄金色に光る蔦に絡めとられている。
地に縫い留められる者。
伸び上がる蔦に引き上げられ宙に浮く者。
しかし、その蔦はヒノオとショウゲンの許には伸びてこない。
「コウヤ…?」
ヒノオが、ばっと女神の祠を振り仰いだ。祠の前にコウヤの背がある。コウヤは、祠の扉を開き、鏡を取り出すと、祈りを捧げるようにそれを掲げた。
その姿はさながら、天上と語らう太古の媛のようで、万の神々の加護に守られているかのように光を纏っていた。
「…ショウキ様…。」
ショウゲンが、おそらく本人も気付かずに、ぽつりと呟いた。
コウヤの後ろ姿に、遠い日の大巫女ショウキの姿が重なる。人々を惹きつける、柔らかな月の光のような導きの存在。
かくあるべき、本来の大巫女の姿。
地面が重い音を立てて振動し、壁面から石の欠片が転がった。
突然の揺れに均衡を崩し、ヒノオとショウゲンが膝をつく。
その瞬間、ヒノオは息苦しい程の畏れを感じ、同時に、遠く見えるはずのない鏡面に、美しい女性が瞼を上げる様を見た。
夜の女神が、覚醒した―。
明け方、微かな揺れを感じてふと目覚めたサカキは、本当に久しく頭の中の霞みが晴れたような、とても明瞭な気分だった。
体を起こすと、掛布がぱさりと膝に落ちた。障子戸から透ける空の色が白んでいる。
もうじき日が昇る。そう思ったその時、サカキは外の騒がしさに気付いた。
気になって戸を開けようと立ち上がりかけると、サカキのいる離れに続く回廊を走ってくる足音が聞こえ、戸が勢いよく開き、数人の女たちが飛び込んできた。
「サカキ様、大変です!夜の女神が…!」
「女神の封印が解かれました!」
「お逃げ下さい!お早く!」
女たちは息を切らせ、焦燥と緊迫感に真っ青な顔を歪めていた。
サカキは一人の女の言葉を反芻した。
女神の封印が解かれた。
サカキは、ああそうか、と思った。
時が来たのだ。
「お逃げ下さい!」
女が再度叫び、サカキの腕を引く。
しかし、サカキは微動だにしなかった。
そして静かに問いかけた。
「逃げる?どこへ?」
「え…?」
女たちの視線がサカキに集まる。
彼女たちの表情には、長く会話もまともにならなかったサカキのさやかな声色への驚きと、問いの意味を一瞬理解できず呆然とした色が現れていた。
サカキは真っ直ぐな眼で、再び、穏やかに、はっきりと、言った。
「私たちはどこへも逃げられないのよ。」
その言葉の意味をじっくりと理解して、女たちは糸を切られた操り人形のように、かくりと座り込んだ。
ある女は顔を覆い、ある女は床に伏し、泣き崩れた。
「ああ…。」
サカキの腕を引いていた女は、サカキの膝に縋って肩を震わせた。
「大丈夫。大丈夫よ。」
サカキは女の背に手を添え、優しい声で言った。
そして、その背を撫でながら、愛する者たちに想いを馳せた。
とても愛情深く、それ故にとても苦しんだあの人は。
きっと今は無理でも、いつかあの懐かしい笑顔を見せてくれるだろうか。
その時は、その時こそは、その傍にまた寄り添っていたい。
そしてあの子は。今まさに飛び立とうとしているあの子は。
あの子が子どもであれた時間はひどく短い。
あの子にとって私はどれだけ母親らしく在れたのか。
だから、せめて、背を押そう。
愛しい我が子。私の光。あなたのこれからに、苦しみに圧し潰されてしまわないよう、素敵な出会いと幸せがありますように。
私はあなたを信じている。
「いきなさい、コウヤ。」
そう囁いたサカキは、そっと目を閉じ、嬉しそうに微笑んだ。
鏡の中の女神は、自由になった手を伸ばして鏡面に触れた。しかし、その手は鏡面からこちらには出てこない。
出られない。
―まだだ。
コウヤは鏡を地面に置くと、太刀を抜き、両手で柄を握り締め、鏡の真上に構えた。
「やめろ!」
蔦に縛られたツルミがそれでもなお、コウヤを止めようともがく。引き剥がそうと蔦を掴む手に血が滲む。その表情は、怒りに歪んでいるようであり、懇願して泣き出しそうでもある。
ツルミは必死に、這いずって、地面に突き刺さった自分の太刀に手を伸ばした。
太刀を握るコウヤの手が震える。息が浅く、速くなる。女神の、伸ばした手の指の間からこちらを見る瞳が、底の見えない程深い。
体が、動かない。
この鏡を壊したら、全てが―。
コウヤの頭に、里の人々の顔が浮かんだ。胸の内に襲い来る感情に、強く唇を噛み締め耐える。
その背後で、ツルミの手が太刀に届いた。
それが視界に入ったヒノオは、考えるよりも先に叫んだ。
「コウヤ!」
ツルミの手が柄を握り一気に引き抜くと、コウヤが持つ太刀をめがけて投じた。
ヒノオの叫び声にコウヤが振り返る。
がらん、と何かが落ちる音が響いた。
しかしそれは、コウヤの手から太刀が落ちた音ではなかった。
落ちたのは二振りの太刀。
片や、コウヤの眼前まで迫ったツルミの太刀。
そしてもう一方は。
「ショウゲン、貴様…」
ツルミが後方を振り返って、愕然と呟いた。
そこには、太刀を投げた体勢でいるショウゲンの姿があった。項垂れたその表情は分からない。
コウヤもヒノオも驚きを隠せず、目を丸くしている。
「大叔父上…。」
ショウゲンは姿勢を戻して、顔を上げた。その表情は、苦しげに目を細め、何かをこらえるようだった。
コウヤとショウゲンの瞳がぶつかった。
ショウゲンの口が声もなく、小さく、短く、動いた。
『行け。』
コウヤの震えは、もう止まっていた。
コウヤは鏡に向き直り、大きく太刀を振りかぶった。
「やめ…っ」
ツルミが制止の声を上げる。
女神が伸ばす手の平に、コウヤの太刀が吸い込まれるように迫る。
女神の瞳が、愛おしげに細められる。
刃が、鏡に突き立てられた。
蜘蛛の巣のようなひびが鏡面に一瞬で広がり、一拍のち、弾けた。
この洞穴ではない遠くで、玻璃の弾けるような音が響いたのが、なぜか聞こえた。
洞穴内をすさまじい風が吹きすさぶ。
壊された鏡から、黄色い光に包まれた女神の姿が浮かび上がった。天井に届くかという程のその姿は透き通っていて、受け止めるように、包み込むように、その両腕を広げた。
ツルミや兵に絡まる蔦はもう消えていた。しかし誰も、力が抜けてしまったかのように動けなかった。
「大兄上。」
コウヤがツルミに呼び掛けた。
緩慢に女神から視線を移したツルミの目は怯えているようで、しかしその奥深くに、ツルミ自身気付いていない小さな小さな安堵があることを、コウヤの瞳ははっきりと映していた。
「私たちは、この世界の理から外れることはできません。歩いて、歩きぬいて、一休みしてまた歩き出して、そうやって繋いで、廻るんです。大丈夫、皆ちゃんとそこにいるから。それに、」
コウヤは石段を降りて、ツルミの前に片膝を折った。
「大兄上は、母さんを見つけるのが上手いんでしょう?」
―そうだ。
ツルミの脳裏に遠い秋の日の記憶がよぎった。
金木犀が香った気がした。
『どうして、あなたは私のいるところが分かるのですか?』
『なぜだろう。…ただ、そうだな。俺はお前を見つけるのは上手いんだ。』
『じゃあ、これからも私のこと見つけて下さいね。』
『ああ。必ず、見つける。』
そう言って、小指と小指を結んで、力強く約束したんだ―。
「私たちは何も失ってない。ちゃんとこの手に持ってる。だから、大兄上もちゃんと持っていって下さい。思い出も、約束も、全部。」
風に煽られる髪の向こうにコウヤの瞳が輝く。それはまるで、雪解けの春の日ざしのように柔らかく、力強く。
ツルミがそれを求めるように手を伸ばした。
コウヤはその手を取った。
温かい、とツルミは思った。自分の指先に触れる手がこんなにも温かい。
血が巡る。
命が廻る。
廻るのか、自分も。
廻るのか、自分が愛した全ての命も。
共に廻るのか。
亡くしてしまった愛した人。壊れてしまった愛する人。
廻り生まれた君の心。
君の笑顔がまた見たい。
君と笑い合いたい。
青空の下、また君と廻り会いたい。
そして、また―。
「そしてまた、共に生きましょう。」
コウヤがツルミの肩を抱いて、そっと引き寄せた。
ツルミはコウヤの肩に額を預け、眠りにつくように、瞼を伏せた。
夜の女神が、赤子を抱くようにその腕を胸の前に合わせた。
コウヤの腕の中で、ヒノオの目の前で、ツルミが、ショウゲンが、兵たちが、さらさらと乾いた砂のように崩れていく。
崩れ去る間際、ショウゲンがヒノオを振り向いた。ショウゲンは、己に定めた責を投じた悔いとの間で揺れながら、それでも最期に、ぎこちなくわずかに微笑んだ。
風が止んだ。
最後の砂が、さあと地面に落ちた。
音もない。
女神の姿は消えていた。
洞穴の中には、コウヤとヒノオの二人。
そして、ツルミやショウゲンたちがいた場所には、ただ、無垢な真白い花が咲いていた。
ふらつくコウヤをヒノオが支えながら、二人は洞穴を出た。
吹き荒れた風に火を消された真っ暗な道を抜けて、その先に二人が目にしたのは、きらめく硝子細工のような欠片が、音もなく雨のようにゆっくりと降り落ちる光景だった。
ショウキの結界が崩れ、昇り始めた朝日を反射してきらきらと輝く。欠片は、地面に落ちる前に、ふっと消えていった。
コウヤがふらりと足を踏み出す。雪を踏み進む背をヒノオが見ていると、十歩ほどのところで立ち止まった。その足元には、血に濡れた短刀と、二輪の白い花が寄り添い合うように、在った。
コウヤの膝がかくりと折れ、その場に座り込む。
ヒノオはコウヤの隣まで行って、ただ昇る日を眺めた。
ぽた、ぽた、と滴の落ちる音がした。
コウヤが震える声で囁いた。
「ありがとう。やっと私たちは、生きていくことができる。」
堰を切ったようにコウヤの眼から溢れる涙を、ヒノオは拭ってやることはしなかった。
ただ、隣にいた。
降りしきる夜明けの光が、二人を包み込んでいた。
始まりの時は、もう目の前に。