一夜 前編
陸
その日は、心地よい秋晴れの日だった。
冷たさを乗せた風が乾いた木の葉を鳴らす。柿、山葡萄、柘榴といった木の実が鮮やかにきらめいていた。
日の入りが早まるこの季節、空が橙色に染まりかけた頃、先日六つになったばかりの少女は、ちょっとした冒険に出ることにした。
老婆がいつも聞かせてくれる外の世界へ。
幸いのある世界へ。
幸いとは何だろう。
そこには何があるのだろう。
心の臓が音を立てる。歩を進めるごとに速く、高く。
少女の額に、汗が小さな粒となって浮かんだ。
背の高い草も、聳え立つ木も、垂れ下がる蔦も、全てが少女に道を開くようだった。
少女の心には明らかな期待があった。
少女は夢中に地を踏み進んだ。
真っ赤な太陽が沈もうとする、その方角に。
幸いとは―。
そして、少女がその傾斜を登り切った時。
―何かを越えた。
少女は直感でそう思った。そして反射的に立ち止まり、来た道を振り返った。
つい今しがた通った場所。
そこが一瞬、揺らめいたように見えた。
少女は気のせいということにして、先に進もうと前方に視線を戻し、はっとした。
真っ赤な夕焼けの下、木の根元に人が倒れている。
少女は急いで駆け寄った。
顔を横に向け、うつ伏せに倒れている男に、少女は声をかけ、その背を揺すった。
そして、ふと違和感を覚えた。
何か、違う。
その何かが男の背に触れた手から這い上がってくるようで、少女は手をそろそろと引いた。
心の臓が耳元にあるようにどくどくとうるさい。
山の斜面を登ってきたのとは別の、冷たい汗がこめかみを伝った。
人形のようにまつ毛の一本も動かない男。
その頬に少女はそっと指を伸ばした。まるで長く蔵にあった絡繰りのように、指の節がきしきしと軋んだ。
そして、触れたその瞬間、ばっと手を離した。
―これは何―。
少女は駆け出していた。
男に背を向け、来た道を、斜面を、転びそうになりながら下った。
背の低い枝が頬を掠めた。蔦が手足に絡まる。
来るときは道を開いた草も木も蔦も、今は全てが少女の行く道を邪魔した。
それでも少女は、指の先に感じた衝撃に突き動かされるように走った。
昏が橙に迫り、浸食していく世界で、全ての影が長く伸びて少女を追い立てた。
息を切らせて里に戻った少女は、少女の行方が分からないことに気付き方々を探し回っていた里人たちの、心配と安堵の表情に迎えられた。
若い女が少女に駆け寄り頬の血を拭う。壮年の男が親に伝えてやれと叫ぶ。年老いた女が安心のあまり腰を抜かしている。
その様を少女は半ば放心したように眺めていた。
壮年の男に指示されて走っていった青年が、少女の母を連れて戻ってくる。少女の母は少女に駆け寄り抱きついた。その勢いに少女は数歩たたらを踏んだ。
少女の肩口に顔をうずめ、少女の母は涙に震える声で心配したのよと言った。そして、少女の頬を両手で包むと、良かったと言って再び少女を抱きしめた。
里人もその様子を見て、ようやくほっと息をついた。
「大きな怪我はないようだ。」「どこに行っていたの。」「探したんだぞ。」「見つかってよかった。」「心配したんだよ。」と、里人たちが少女を囲み口々に語り掛ける。そんな和やかな雰囲気の中、一人の男が何も答えない少女の様子のおかしさを見て、問うた。
「どうした、何かあったのか。…何か、見たのか?」
その一言で里人たちの声が止んだ。
皆の注目が少女に集まる。
それは少女がこれまで感じたことのない程、温度のない視線だった。少女には周りの大人たちが、昏く、青白く見えた。
その時、報せを聞いた老婆が数人の男や女と共にやって来た。
老婆と少女の目が合った。
一瞬ののち、少女は「なにも。」と答えた。薬草を見ていたら時間を忘れてしまい、大きな猪に会って驚いて逃げてきたのだ、と。
その返答に里人たちの緊張が緩んだのが、少女には分かった。
「早く家で休ませてやろう。」「他の連中にも連絡は回したか。」「こんなに泥んこになって。」と、先程の静まりはなかったかのように、再び里人たちが話し始める。
少女は再び老婆を見た。
老婆も少女を見ていた。
老婆は何も言わなかった。
その次の日、少女は老婆の元を訪ねた。
昨日、少女がついた嘘を老婆だけは見抜いていた。
少女は言った。
「とてもつめたいひとにあいました。」
そして問うた。
「あれはなにですか。」
老婆は答えた。
「あれは死だ。」と。
そして続けた。
「皆、いつかああなる。」
そして、問うた。
「恐ろしいか。」
薄暗い部屋に、老婆の瞳が揺らめく燭台の炎を映してちろちろときらめいた。
山で倒れていた男の頬に触れた少女の指先に、その時の冷たさが甦った。
「わかりません。」
少女はただ、そう一言答えた。
橙の炎はずっと、揺れていた。
少女の指先に残った冷たさは、ずっと、ずっと、今も、残っている。
深更。日をまたいで少し経った頃。
雲が疎らに散る夜空に、幾望が静かに佇んでいる。
音もない。全てが息をひそめてじっとしている。
「ヒノオ。」
ほとんど吐息だけの囁く声で名を呼ばれて、ヒノオは目を開けた。体を起こすと、傍らに身支度を整えたコウヤが片膝をついていた。
「静かに、仕度をして。」
ヒノオの枕元には、既に衣服と荷物と、黒漆塗りの太刀がまとめて置かれていた。
ヒノオが仕度をしている間、コウヤは朱色に琥珀の装飾の美しい細身の太刀を握って、それをただ黙って見つめていた。そして、ヒノオの身支度が済んだのを見ると、太刀を腰に佩いて「来て。」と戸を開けて外に出た。
コウヤの後ろにヒノオが続き、山の傾斜に差し掛かったその時、黒い影が三つ、二人に襲い掛かった。ヒノオは眼前を横一文字に薙いだ刃を、体を引いて避け、相手の腕を掴み引き寄せる。それと同時に、背後から頭を狙った突きを、首を傾けて避け、肘鉄を背後の相手の脇腹に打ち込む。そして、腕を引き寄せた相手の首に手刀を叩き込んだ。コウヤは掴んできた腕を掴み返して捩り上げながら背後に回り、相手の首を圧迫して気絶させた。
「急いで。」
コウヤはヒノオを振り返って促すと、焦りを隠そうともせず傾斜を登っていく。
「コウヤ、どこに行くんだ。」
ヒノオはその後を追いながら、庵を出てやっとその問いを口にした。
コウヤが足を止めてヒノオを振り返った。荒く、白い息が上がる。そして、思い切ったように口を開いた。
「私、ヒノオに言っていないことが」
「うん、知ってるよ。」
ヒノオはコウヤが言い終わる前に、短く答えた。
コウヤは一瞬眼を見開いてから、顔を歪めて唇を噛んだ。そして、ヒノオの手を掴み、引っ張って再び歩き出した。
「この里は…」
この里は、夜の女神の末裔である一人の巫女によって創られた。
巫女の一族は、長く続いた大戦の時代において、命を賭して犠牲を払って戦った。
それでも戦いは激化するばかりで、さらなる戦場に駆り立てられては、目の前で多くの愛する命が喪われた。
そんな日々の連続で、巫女は、一族は、死を恐れ、その恐怖心は膨れ上がり、死を受け入れられなくなった。
だから逃げた。戦いからも、国からも。
そして死からも。
一族は、人の踏み入らない国境沿いの険山地帯であるこの地を定め、里を築いた。
巫女は世界を構成する全ての神々を勧請すると同時に、里と外界を隔絶する結界を張った。そして、外界と切り離された一つの空間を創り出し、勧請した神々の中で唯一、夜の女神だけを里の北の洞穴の奥に封じた。
最期の時が来ても、女神が器から魂を導いて行かないように。
こうして、この一族から「死」は消えた。
巫女の名はショウキ。彼女は女神を封じた洞穴を守るため、その入り口に館を建て、以降ずっと、 そこに鎮座し続けている。
そして、外界から囲い守られたこの地には、永く永く沈殿した恐れが満ちている。
「ヒノオ、逃げて。おばば様から聞いたの。里の皆はもう痺れを切らしていて、合議であなたがここを出られないことと自由が許されないことは確定した。さっきのような見張りも付けられた。おばば様は擁護してくれるけど、あなたが今後どんな処遇になるか、身の保証はないんだ。」
コウヤの声が、泣き出しそうに震えている。
「私、何も理解できていなかった。皆の恐怖心がこんなに大きいものだったなんて。ここまでするなんて思わなかったの。もっと早く、逃がしてあげればよかった。」
コウヤは幼い頃に一度だけ通ったことのある道を一心不乱に登った。深い雪が邪魔をして、足が上手く進まないのがもどかしい。あの時は逸る心と同じだけ歩も進んだのに。
「この先が、里と外界の境界になってる。そこにひずみを作るから、そこから行って。」
ヒノオがコウヤの腕を強く引いて足を止めた。コウヤもたたらを踏んで立ち止まり、ヒノオを振り返る。
ヒノオの瞳が、貫くようにコウヤの瞳をとらえた。
「君はどうするの?」
「…え…。」
風が雲を払い、注いだ月光が二人の陰影を深くする。
ヒノオが力を込めてもう一度言った。
「君は、どうするの?」
コウヤはヒノオから目を逸らし、引かれたのとは逆の手のひらを握りしめた。唇が震え出す。
「…わ、わた、し、は……」
コウヤが途絶え途絶えに言葉を紡ぎ出した、その時。
「そこで何をしている。」
突如、コウヤの言葉を遮るように、二人の側方から低い声が響いた。そちらを振り向くと、ツルミとフヨウが立っていた。コウヤがはっと周りを見渡す。ヒノオも視線だけで周囲を確認した。前方に三人、後方に四人、ツルミとフヨウの反対側に三人の兵が、二人を囲んでいる。
コウヤが外套の下で右の手のひらを下方にかざす。するとそのまわりに冷気が生じ、空気がぴしりと微かに音を立てた。
フヨウの瞼がぴくりと動き、ぴしゃりと言い放った。
「動かないで。動けばどうなるか、コウヤ、あなたならよく分かっているでしょ?」
フヨウの周りに風が起こり、胸の上で切り揃えられた彼女の髪と外套が舞い上がった。
フヨウが見つめる先は、ヒノオだ。
コウヤは表情は動かさないまま、静かに右手を握りしめた。冷気も霧散した。
ツルミはゆっくりと腕を組み、兵に命じた。
「連れていけ。」
兵が乱暴にヒノオの腕を縛る。コウヤも両側から腕を掴まれ動きを封じられる。それでも、コウヤは必死にヒノオに目線を送り続けた。逃げろと。
だがヒノオは、静かな面持ちで、大人しく兵たちに連れられて行った。
「このような夜更けに如何した、ツルミよ。」
館の正殿でショウキは座につき、下段で直立したまま感情のない目を向けてくるツルミと対峙していた。
「先程、ヒノオを捕縛し東の塞に投獄しました。コウヤも、西の塞で拘束しています。」
「そうか。」
ツルミが温度のない声で報告をする。それに対してショウキも淡々と答える。
「驚きもしないのですね。もっとも、この里のことであなたが把握していないことなどないですから。…それとも、こうなることを予測していたからですか?大巫女。」
ツルミの瞳に燃え上がる怒りが宿った。
「ヒノオが来てから里は狂い出した。あの男がこの里に来た最初から、野放しにすべきではなかったのに、あなたはヒノオに擁護的だった。コウヤを焚きつけたのもあなたでしょう。この里を、あなたの一族を守ることが、あなたの役目じゃないのか。」
「その通り。そなたらを守り、そして導くのが妾の役目じゃ。誤りに気付いたならば、あるべき道に正さねばならぬ。」
ショウキの瞳は深い湖のようにどこまでも静まっている。
睨み合う両者はまさに炎と水。相容れないものだ。
「お主とて、よもや気付いておらぬわけではあるまい。狂いだしたのはヒノオが来てからではなく、最初からじゃ。…大空の下、何にも縛られない笑顔がよく似合ったあの娘の魂を、もう放してやろう。」
ツルミの瞳から炎が消え去り、表情が凍りついた。
その時。
館の外で爆発するような音が響き、里人たちの騒ぐ声が広がり出した。
ツルミは何事かと後方を振り返り、思案して一拍のち、はっとショウキを見て言った。
「何をしたんですか。」
ショウキは微かに首を傾けて、含んだように微笑んだ。
「何を言うか。そなたに見張られておる妾に、何ができる?」
ツルミは舌打ちをして身を翻し、扉を勢いよく引き開けると、扉の外の兵にこのままショウキを見張るよう命じて出て行った。
ショウキはその背を見送った。扉が閉まり、正殿には彼女一人になる。外の喧騒とはかけ離れた静寂の中で、ショウキは微動だにせず静かに呼吸を繰り返した。そして一度瞑目して、ゆっくりと瞼を上げると、滑らかな所作で立ち上がった。
ショウキが向かったのは座の後方の扉。その前で、顔の前に両手を水を受けるような形にする。するとそこに白い煙のようなものが漂い出し、ショウキはそれに息を吹きかけた。白い煙は両扉の間の隙間をするりと通り抜け、扉の外に広がった。三拍ほどのちに、扉の外でどさり、どさりと、何かが倒れる音がした。その音が徐々に正殿から離れた所へも広がっていく。ショウキが扉を開けると、その両側には見張りの兵が倒れていた。
「良い夢を。」
ショウキは安らいだ表情で眠る兵たちに囁いて、正殿を後にした。
西の塞の牢。
蝋燭が一つだけ灯された、格子で区切られた部屋の奥に、コウヤは後ろ手に手枷をはめられ閉じ込められていた。その首には、コウヤが能力を使えないよう能力封じのまじない札が巻かれている。
「ヒノオはどこですか?」
コウヤは、格子の外で怒気を含んだ目で自分を見下ろすように立つフヨウに尋ねた。
「教えない。」
フヨウはにべもなく答える。
コウヤは身を乗り出して重ねて言った。手枷に繋がる鎖が音を立てる。
「ヒノオには手を出さないで。」
「それは分からない。だって逃げようとしたんだから。」
「それは私が…」
「そう、コウヤが悪いのよ。」
フヨウは格子に触れ、ぎりっと力を込めて掴んだ。
「あの男はこの里から出しちゃいけない。自由にしてもいけない。分かるでしょ?コウヤを守るためでもあるの。絶対にあなたをあの恐ろしい世界に放り出したりしない。絶対に、この今という時を終わらせたりしない。」
フヨウの瞳に闇が広がっていく。黒く、昏く、底の見えない程に。コウヤはぞっとした。胸の内を何か冷たいものに撫でられたようだった。
フヨウは一転して、格子を掴んでいた手をぱっと離し、にっこりと笑った。
「ねえ、あの男。二度と使えない手足にして地下牢に永遠に閉じ込めておくか、コウヤの手で女神のように穏やかに眠っていてもらうか、どっちがいいかしら。…よく、考えておいてね。」
格子に顔を近づけ、いやに甘い声でそう囁いてから、フヨウはコウヤに背を向けて出て行った。
たった一つの蝋燭など、牢全体を灯すには足りるはずもなく、ほとんど明かりの届かない場所で、一人残されたコウヤは力なく壁に背をもたれた。大きく溜息をついて、きつく目を閉じて頭を垂れる。
どうしてこんなことになったのだろう。
どこから歯車が狂ったのだろう。
何が間違っていたのだろう。
私は、どうすればいいのだろう。
「もう、分からない…。」
コウヤは掠れた声でぽつりと呟いた。
どれだけそうしていたか。
小さく、ぱたぱたと、何か羽ばたく音が聞こえてきた。
コウヤの肩がぴくりと反応して、のろのろと力なく顔を上げる。すると、格子の外側に白い小さな鳥が飛んできて降り立った。
「…おばば様の式?」
鳥は格子の間をとてとてと歩いてすり抜け、再びぱたぱたと飛び上がった。そして、コウヤの許まで飛んでくると、コウヤの腕の手枷に羽でそっと触れた。すると、手枷にぴしりとひびが広がり、ぼろぼろと崩れ落ちた。コウヤが呆然として手枷の外れた腕を見つめていると、きいと、乾いた音が鳴った。音のした方を見ると、牢の鍵が開いて扉がひらいている。その下で鳥が小首を傾げて、ちゅんと一度鳴いた。
コウヤは少しの間、逡巡するように扉を見ていたが、きゅっと唇を引き結ぶと、首に巻かれたまじない札を引きちぎって足に力を込めた。
その瞬間。
爆発するような大きな物音が響き地面が微かに揺れ、ぱらぱらと埃が舞い落ちた。
「…何?」
コウヤは咄嗟に膝と手をつき、様子を窺う。
建物の外で、何やらけたたましい声が広がっている。
「コウヤ!」
「やめろ!」
「落ち着けコウヤ!」
コウヤは聞こえてきた声に、ぱちりと瞬いた。
「…え、私…?」
突如響いた、空気を震わせる程の音と広がった慌て騒ぐ声に、西の塞の母屋にいたフヨウは首をめぐらせた。
「なに?」
「様子を見てきます。」
フヨウの傍にいた兵がそう言って走っていく。それと入れ違うように、別の兵が駆け込んできた。
「フヨウ様!」
「どうしたの。」
「コウヤが!」
フヨウがさっと顔色を変えて牢に走る。しかし、牢に着いたフヨウが目にしたのは、崩れ去った手枷と破り棄てられたまじない札の残骸だけであった。
フヨウはその残骸を掴み、ぎりっと唇を噛んで残骸を投げ捨てると、荒々しく牢を飛び出して行った。
東の塞の地下牢。
ひやりと冷えたむき出しの岩肌に、松明の火に合わせて影が生き物のように揺らめく。
ヒノオは手足に枷を嵌められ鎖に繋がれていた。荷物や太刀は勿論没収され、着る物も最低限、何も纏うことなく空気にさらされた手足は赤くかじかんでいる。
こつ、こつと、牢に降りる階段を下りる音が聞こえてきた。ヒノオは岩壁に背を預けてうなだれたまま動かない。明かりも持たず現れたのはショウゲンだった。
ショウゲンは格子の前まで来ると、傍らにあった背のない椅子を引いてきて座った。
「だから、言っただろう。妙な動きはするなと。」
ショウゲンが呆れたように、少し叱るように語り掛けると、ヒノオがやっと顔を上げた。ヒノオの瞳は、怒るでも、自棄になるでも、嘆くでもなく、光を失ってはいなかった。
ショウゲンは僅かに目を細め、静かに尋ねた。
「なぜ、抵抗しなかった。」
捕まった時、ヒノオは全く抵抗しなかった。コウヤが逃げるよう目で訴えても、逃げ道はもう目の前だったのに、素振りすら見せなかった。
ヒノオは里についてもう知っている。
そして、見張りが付けられたことにも気付いていた。
自分の身を守りたいと思うなら、あの時何を振り切っても逃げるべきだった。
なのに、なぜ、大人しく捕まったのか。
ショウゲンはヒノオの答えを待った。
ひどく長い時間が経ったように感じた。
ヒノオが口を開き、答えようとした、その時。
落雷のような音が轟いた。
ショウゲンが素早く立ち上がり、外の様子を窺うように耳を澄ます。
「…なんだ?」
ヒノオも背を岩壁から起こし様子を窺った。微かに、騒がしい声が届いた。
暫くすると、牢への階段を慌てたように駆け下りてくる音がして、一人の兵が飛び込んできた。
「ショウゲン様!」
「何事だ。」
「コウヤが逃げ出して、塞を襲撃しています!」
ショウゲンは小さく目を見張ると、外套を翻し足早に階段を上がっていった。
ヒノオはショウゲンの姿が見えなくなると、再び壁に背を預けて上を仰ぎ目を閉じた。ふうと、一つ息をつく。
それから、ショウゲンが出て行って少し経っても、騒ぎが治まった様子はなかった。
突然、ヒノオがぱちりと目を開き、視線を階段の方に向けた。足音を殺しながら、階段を下りてくる気配がする。その気配はゆっくり、そっと、様子を窺いながら段を進む。そして現れた人物に、ヒノオは目を丸くした。
「ヒノオ。」
そう呼び掛けて現われたのはコウヤだった。
「コウヤ?え、じゃあ、あっちで暴れてるのは…」
「あれはおばば様が放ってくれた式だ。あんなに派手に暴れて、私とんだじゃじゃ馬扱いだよ。」
コウヤが格子に駆け寄って来て、鍵に手をかざす。すると、かしゃんという音がして鍵が開いた。 コウヤは扉を開け牢の中に入って来ると、鍵と同じように、ヒノオの手足の枷に手をかざす。これには、ぴしりとひびが入りぼろぼろと壊れた。
「…ありがとう。」
ヒノオが自由になった手足と枷の残骸を交互に見ながら、驚きを隠せないまま礼を言った。
しかしコウヤはそれに返事を返さず、眉を寄せ俯いて、膝の上で手を握りしめた。
「なんであの時大人しく捕まったの。」
コウヤの声に憤りと口惜しさが滲む。
先程、ショウゲンも尋ねたその問い。
答えは何も大層なことではない。でも、ヒノオにとっては大事なこと。
ヒノオは腕と枷の残骸から視線を上げてコウヤを見ると、真剣な表情で答えた。
「まだ君の返事を聞いていないからだよ。」
コウヤが俯いたまま、さらりと肩からこぼれた髪の下で目を見張った。
ヒノオからコウヤの表情は窺えなかったが、ヒノオは続けた。
「君はどうしたい。俺はそれを、君の口から、君の言葉で聞きたいんだ。」
コウヤの唇がかすかに震え出す。一度唾を飲み込んで、コウヤは訥々と細い声で話し出した。
「…私、あなたが、この里に来たことを知らされた時、『ああ、時が来たのか』って思ったの。心のどこかであなたに、期待してた。気付いてほしい、一緒に行こうと言ってほしいって。なんて、ずるくて、卑怯な…。」
ヒノオが里に来た日、ショウキの館から庵に向かう際にわざわざ裏口から出て洞穴を見せた。
色々なところに連れ回して、この里の隅々を見せた。
その行動のどこまでが意図的で、どこからが意図しないものだったのか、コウヤ自身にも分からない。
ただ、何か、動き出せるきっかけが欲しかった。
それをヒノオに期待した。
今さらに、他力にすがった自分の浅ましさが許せない。
言葉が続かず、コウヤは一度口を閉ざし固く目を瞑った。膝の上で握りしめた手が力を込めすぎて真っ白になり震えている。そして、深く息を吸うと、揺れそうになる声で精一杯に、絞り出すように言った。
「…いきたい。この、外に出て、いきたい…。」
ヒノオはその言葉を聞いて、「うん。」と一つ頷いた。
「一緒に行こう。コウヤ。」
そう言って、ヒノオはコウヤに手を差し伸べた。
コウヤの目がいっぱいに見開かれる。顔を上げると、目の前には差し伸べられた手があった。
コウヤは信じられないといったふうに、自身に伸ばされた手を見つめ、恐る恐る震える手を重ねた。
ヒノオはその手をしっかりと握った。
コウヤは、堪え切れなくなったように顔をくしゃりと歪ませ、ヒノオの手を両手で強く、額に押し当てた。
ツルミはショウキの館を飛び出し、門を出て里を見渡した。
西の塞と東の塞の方角が騒がしい。どうやら騒ぎはこの両所で起きているようだ。
「ツルミ様!」
西の塞からの兵が駆け寄ってきた。
「コウヤが逃げ出し、塞の兵と乱闘になっています!」
「ツルミ様!」
今度は東の塞の兵が走ってきた。
「コウヤが東の塞に!」
その言葉に、西の塞の兵が声を上げる。
「なに?コウヤは今、西の塞で暴れている。東の塞にいるわけがない!」
「いや、だが確かに東にいたのもコウヤだ。」
「どういうことだ!」
兵たちが事態のおかしさに混乱し、動揺が広がっていく。
そこにツルミの一喝が飛んだ。
「違う!それはどちらもコウヤじゃない。大巫女の式だ!」
「ツルミ!」
ツルミが呼び声の方を振り返ると、走って来たのであろうフヨウが息を切らして立っていた。
「フヨウか。どうした。」
「コウヤが逃げた。牢にいない。」
ツルミはぎりっと歯噛みして、指示を叫んだ。
「くそっ。フヨウ、お前たちは式を潰したら大巫女の許へ行け。その他は俺と来い!ショウゲンを北の洞穴に呼べ!」
ヒノオとコウヤは、ショウキの館の門前に近い影に潜んでいた。
騒ぎのおかげで、兵や異能者は東西の塞に集中しているし、他の里人も警戒して家を閉め切って外に出てこないため、門前に人影はない。
中に見張りが残った可能性を警戒して、二人は門からではなく館を囲む壁をひっそりと越えて中に入った。しかし二人の警戒に反して中にも人の気配はなく、外の騒ぎと反対に静まり返っている。そのまま二人は、母屋の外を回って直接、洞穴の入口がある北面の庭に走った。
空には真ん丸な満月が昇っている。夜の女神はその名の通り、夜の眷属である。よって、夜が明けるまでの時間は女神の領域であり、特に満月の夜は女神の力が最も強まると言われている。
二人が庭に到着すると、そこには既に先客がいた。
「おばば様…。」
冴え冴えとした月光の下、振り返ったのはショウキだった。
「無事に出てこられたようじゃな。」
目の前まで来た二人にショウキはほっとしたように笑いかけた。
「おばば様の式のおかげです。…ちょっと、暴れすぎな気もするけど。」
「あれくらいかわいいものじゃ。」
コウヤが困ったように目を泳がせながら言うも、ショウキは磊落とした様子で答える。しかし、すぐに笑みをおさめて、真剣な眼差しをコウヤに向けた。
「コウヤ。」
「はい。」
「行くか。」
コウヤは真っ直ぐにショウキの目を見返し、毅然と答えた。
「はい。」
月の光が照らすその面差しに迷いはなく、どこまでも清々しくあった。
「そうか。」
ショウキはただ一つそう答えて、そっと目を伏せた。そして、大切なものを包み込むようにコウヤの手を取った。
「すまなんだの、コウヤ。」
ぽつりと零れたようなその言葉は、量り得ない気持ちを含んでいて、コウヤはこんなに悄然としたショウキの姿はこれまで見たことがないと思った。そう思って、思い返した。
いや、一度だけ。あれは幼き日の春、この洞穴の前で―。
「おばば様。」
コウヤはショウキの手をほどくと、今度は自分の手でショウキの手を包み、あの時とは違う、自分よりも小さくなってしまったショウキに、背をかがめて目を合わせた。
「私は、私の意志で行くんです。」
ショウキの目がゆっくりと見開かれた。自分の手を包むコウヤの手に、ああ、大きくなったと、小さな幼子であった少女の時の流れがしみじみと感じられて、自然に口元がほころんだ。
「ああ、そうじゃな。コウヤ。闇夜を照らす光の子よ。そなたはその光で、自らの選び行く道を照らすのじゃ。」
コウヤは力強く微笑んで、「はい。」と答えた。
「ヒノオ。」
ショウキが、まるで魂の奥までを見透すようにヒノオを見つめた。
「日の光の男の子。名はその者を表す。コウヤの光が、そなたの光を呼んだのじゃ。」
ヒノオが「光…。」と小さく呟く。
ショウキはヒノオとコウヤを見て目を細めた。
「眩しいのぉ。」
そして一度瞑目し、その眼を開いた。そこに輝く黒曜のような力強い瞳に、コウヤとヒノオは往年の大巫女ショウキの姿を見たような気がした。
「この先には、ショウゲンとツルミ、それと東西の兵が控えておる。正直、そなたらがどれほど太刀打ちできるか分からんぞ。」
ヒノオは腰の太刀に触れ、答えた。
「コウヤが封印を解く時間が稼げれば十分です。」
ショウキが一つ頷き続ける。
「コウヤ。女神は鏡の中に封じられておる。封印を解いたのち鏡を壊せ。鏡はただ叩こうが落そうが壊れん。そなたの太刀、それのみが鏡を断つことができる。祈れ。そして呼び掛けよ。必ず女神は応えて下さる。よいな。」
「はい。」
コウヤがしっかりと頷いたのを見て、ショウキは二人を促した。
「さあ、行け。ヒノオ、コウヤを頼んだぞ。」
「はい。」
二人が頷き、洞穴に足を踏み出す。
コウヤの手がショウキの手からするりと離れた。
ショウキの目の前をコウヤのしなやかな黒髪が流れる。
「コウヤ!」
ショウキの呼ぶ声にコウヤが振り返った。ショウキはその顔を、両手で優しく挟み込んだ。
「生きろよ。」
それはまるで、願いを込めるように。祈るように。
何度も歌ってくれた、優しい子守歌のように。
だからこそ、コウヤは実感した。これが別れなのだ、と。
コウヤは胸の奥からこみ上げてくるものをこらえて、一生懸命微笑んだ。
「はい、共に。」
そして今度こそ振り返ることなく、ヒノオとコウヤは洞穴に駆けて行った。
洞穴に消えた二人の背を見送ったショウキの背後に幾人もの姿が現れた。
「まさかあなたがこんな事態を引き起こそうとは、大巫女。」
さく、さくと雪を踏み、先頭に進み出てきたフヨウは、剣呑な目をショウキに向けた。
「里の創始者であり守護者であるあなたが、とんだ裏切りです。」
「裏切り?」
ショウキは体ごと振り返ると、フヨウの視線に屹然と受けて立った。
「これは妾の大巫女としての最後の責任である。」
「なにを。里が、我々がどうなるか分かっておいでか。」
「分かっておる。誰よりも、妾がそれを分かっておる。」
「ならばなぜ。」
フヨウの目が闇を帯びていく。信頼が怒りに、崇敬が憎悪に変わっていく。
それでも、ショウキは落ち着いた声で、諭すように語った。
「のう、フヨウ。流れを止めた水が澱んでしまうように、時を止めた我らは、いつしか惛き念に呑まれてゆくだろう。そしてその時はそう遠くない。だからその前に、進むべき道へ戻らねばならぬ。女神の腕に包まれて眠る。これは、一つの生を生き抜いた我々人間への、神が与えたもうた束の間の休息だったのじゃ。再び、歩き出して行けるように。」
フヨウがまさに射殺せそうな目でショウキを睨み付けた。逃しようのない憤りにその身は震え、握り込んだ拳には爪が食い込み血が滲んでいる。
「あなたは、もう私たちが仰ぐ大巫女ではない。あなたの目論見は、私たちが絶対に阻む。」
フヨウの背後に控える兵や異能者たちがそれぞれ体勢を構える。フヨウが片手で外套を払うと、彼女を取り巻くように、ぶわりと風が巻き起こった。
ショウキは哀しげに僅かに眉を寄せた。
「そなたらが妾を止めると?」
「いくらあなたと言えど、往年の力には遠く及ばない。」
瞬間、ショウキの目の色が変わった。
さくりと、ショウキが一歩踏み出す。それだけで、フヨウたちの全身が総毛立った。目に見えない重さが全身にのしかかったように体が動かない。
フヨウの背を、ひやりと冷たいものが撫でた。
「私を、嘗めるなよ。」
ショウキが氷のように、冷たく言い放った。