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明宵実記  作者: 冬来春子
5/8

生き方



 少年が物心ついた時から、既に彼の母という者はいなかった。

 だから、年の離れた姉が彼にとっては母でもあった。

 少年は逞しく慈愛溢れる父の背中に憧れた。

 穏やかで知性を湛えた兄の瞳について行こうと決めていた。

 温かく太陽のような姉の笑顔が大好きだった。

 そして、少年が姉に小言をくらう様に苦笑しながら「少し休憩にいたしましょう」と、いつもとびっきりのお茶を持ってきてくれる侍女。武術の鍛錬も遊びもいたずらも全力でつきあってくれる叔父や武官。執務室を覗き込む少年に手招きして政務のことを教えてくれる役人たち。同じ目線でぶつかり合って喧嘩して、そして仲直りを繰り返してきた幼馴染。町に下りれば親しげに声をかけてくれる人たち。

 そんな少年を取り巻く全ての人が彼にとっての家族で、この家族を守って、ずっと共にいられるのだと思っていた。

 ある日の夜、床につこうとしていた少年の部屋に姉が訪れた。

「久しぶりに一緒に寝ましょう。」

 そう言って自分の枕を抱えて、扉から顔を覗かせる姉に少年は、

「姉上、俺はもう十三ですよ。お互いにそんな年じゃないんですから。」

と、返した。

 しかし、姉はお構いなしに少年の部屋に入り寝台に腰かけた。

「いいじゃない、たまには。姉弟なんだから。」

 にっこりと笑う姉はこうなったら梃子でも動かない。そのことを少年はよく分かっていたので、「仕方ないなあ。」と言いながら、でも、心の中では少しうれしい気持ちもありながら、掛布をかぶった。

 姉弟はその日の出来事や懐かしい思い出を語らいながら眠りについた。

 そして、夜も更けた頃。

 少年は気配を感じて目を覚ました。

 同時に頭が一気に覚醒する。

 反射的に枕元にある太刀に手を伸ばした。

 暗闇から影が少年に襲い掛かる。

 ―間に合わない。

 刃が少年に迫ったその時。

 少年の視界を、横から飛び込んできた影が覆った。

 少年の頬に何か水のようなものが飛び散った。

 少年の視界を覆った影がぐらりと傾き、少年の上に被さった。

 闇に慣れた少年の目が映したのは―。

「あね…うえ…。」

 胸元から黒い染みがじわじわと広がる姉の姿。

 それからのことを少年は覚えていない。

 ただ、言えるのは、

 一瞬だった。

 一瞬の出来事だった。

 少年が次に思い出せるのは、扉を開けて飛び込んできた兄の姿。

 愕然とした兄の表情。

 続いて駆けつけた者たちも同じ表情をしていた。

 彼等がそこで見たのは、

 部屋中に飛び散った血。

 既にこと切れた幾人もの影。

 力なく瞼を開いたまま鮮血の中に沈む少年の姉。

 そして、その中で一人立つ少年とその手に握られた血に濡れた太刀。

 少年は一人で、襲い掛かる幾人もの暗殺者を屠った。

 太刀から滴る血がぽた、ぽた、と、それだけが音を立てた。

 いつだったか、叔父が難しい顔をして少年に言ったことがあった。

『お前は、刃を握りすぎない方が良いかもしれん。』と。

 その言葉が急に、ぼんやりとする少年の脳裏によみがえった。

 兄と共に駆け付けた叔父は、その時と同じ目を少年に向けていた。

 誰もが、微動だにできなかった。

 そんな中、兄だけが少年の元に歩み寄った。

 少年の手からそっと、固まった指を一本一本はがすように太刀を抜き取り、少年の頭を胸に引き寄せた。

「…俺の、所為です…。」

 少年がぽつりと呟いた。

「違うよ。」

 兄は目を瞑って、少年の頭に顔を埋めた。

 少年の頬を涙が伝った。

「俺の所為だ…。」

 その夜の襲撃で姉は還らぬ人に、父も重症を負い数日後、息を引き取った。


 少年は寝台に転がっていた。

 開いたままの窓から風が入って、柔らかな日の光も差している。

 どこかで鳥が鳴いた。

 ぱたりとまばたきをした少年は、ふと、ああ、自分は眠っていたのかと思った。

 もう何日も人を寄せ付けず、まともな食事も摂っていない。

 今がいつで、あの夜からどれだけの時間が経ったのか、もう少年には分からなかった。

 緩慢に体を起こすと、寝台横の小さな台に、いびつな形の握り飯と「お腹がすいたら食べなさい。」と一言書かれた手紙が置かれていた。

 お腹がすく、とはなんだったか?

 少年はぼうっと、ただうなだれたように座っていた。

 どれだけそうしていたか。少年の腹が小さく音を立てた。

 少年はゆっくりと目を見張り、己の腹に手を当てた。

 自分は今、“お腹がすいている”のか。

 そよりと、風が少年の黒鳶の髪を揺らした。

 やけに近くでちゅんっという鳴き声が聞こえた。

 その方を見ると、窓の桟に小鳥がとまっていた。

 小鳥は小首をかしげると、もう一度ちちっと鳴いて、飛んでいった。

 少年は、なぜだか無意識に、その小鳥に「あっ」と手を伸ばした。

 窓から爽やかな風がざあと吹き込んだ。

 その瞬間、少年の脳裏に、窓辺に座る姉の姿が鮮明に浮かんだ。

『風が心地いいわね。』

 姉はそう言って、少年を振り返って、笑った。

 少年の目から涙がこぼれた。

 自分は生きているのだ、と。

 目の前が、まるで太陽が消えたように真っ暗になっても、

 自分を責め苛んで、生きていられないと思っても、

 自分は呼吸をして、腹は減って、眠たくもなって、鳥の鳴き声が聞こえて。

 あの日の姉と同じように、そよぐ風を、心地いいと感じた。

 こぼれる涙は止まらなくて、拭っても拭っても溢れ出て、どうしようもなかった。

 

 少年はその日、もう亡い人との日々に、確かに、生かされた。


 あの夜から一月ほど経った。

 少年は一人、姉の部屋にいた。

 書棚にはずらりと膨大な書物が並んでいる。

 読書家だった姉。

 少年もよくここで、姉と一緒に書物を読んだ。

 少年は並んだ書物の背表紙をなぞった。

 足を止めて書棚を見上げる。

 姉の言葉が、頭に浮かんだ。

『書物には、本当に色んな世界が詰まっている。私たちの知っている世界なんて一冊の書の一葉にも満たない。そして書物も、全てを書き記しているわけじゃない。だからね、いつか、ちゃんとその目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、頭で考えて、あなた自身でこの世界を生きるのよ。』

 静かに扉が開いて、兄が入って来た。

「ここにいたのか。」

 そう微笑む兄の顔には、あの夜から落ち着くことのなかった日々の疲れが滲んでいた。

「兄上。」

 少年が書棚を見上げたまま口を開いた。

「俺は守られていたんですね。父上に、兄上に、姉上に、皆に。ここで。」

 兄は静かに聞いていた。

 あの夜に少年が斃した暗殺者の中にはあの侍女がいた。いつもとびっきりのお茶を入れて微笑みかけてくれた、少年が生まれるずっと前からここに仕えていた女性。

 彼女は二十四年前にこの国に敗れた小国の傍流の娘だったことが判明した。その争いの発端は、国の東にある川の権利をめぐる民同士の諍いだった。当初はその地区の役人に裁量を任されていたものの、諍いは日を追うにつれて乱闘に及び、小国の人間によって国の民が死傷されるに至ってしまった。地方の一役人では到底対処しようのない、外交問題にまで発展してしまったのだ。

 民の殺傷事件の責任問題が問われ、賠償として国境の地域の領有権が提示された。問題解決とかこつけて領地の拡大を図ったことは明白の条件を小国が飲むはずもなく、侍女の国は勝ちの見えない戦いを挑み敗れた。投降する者には危害を加えず当分の生活も保障するとまで公布されたが、小国は自国に火を放ち、大半の王族と民衆が業火の中に滅んだ。しかし出身地を隠し生き延びた者も少数おり、侍女はその一人だった。

 戦いのきっかけが小国の起こした事件だったとはいえ、それを利用し結局は小国全土を手に入れたこの国が、彼女にはどう見えていたのだろうか。

 そしてあの事件の日の夕方、姉は兄にそのことを報告していた。なぜ姉がその事実に気付いたのかは分からない。侍女との何気ない会話に手掛かりがあったのか、証拠となるような場面を目にしたのか。ただ、「あの子にはこのことは伏せておいて。」と、少年には言わずに対処することで、兄も、そしてその話を聞いた父親も、信頼する一部の者も頷いたのだった。

 少年は何も知らなかった。姉が突然一緒に眠ろうと言い出した真意を。そして侍女の背景を。その小国との争いの話は聞いたことがあった。だがそれは、小国が国の民を殺め攻め込んできたという、一方的で部分的な偏ったものだった。

 そうやって誰かの意図を通して取捨選択され、時には作り上げられたものの中でしか、少年は生きていなかった。

 それはきっと、今回だけの話では、ない。

 少年は姉の言葉を反芻する。

『ちゃんとその目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、頭で考えて、あなた自身でこの世界を生きるのよ。』

 それは、今だと思った。

「旅に出ます。もう、何も知らないままでいられない。守られたままではいられない。この目で、この世界を見てこなければいけないと、強く感じるのです。」

 少年は兄に向き直った。そして膝をつき、頭を垂れた。

「兄上をお傍でお支えするという約束、暫しの間叶えられぬこと、お許しください。」

 兄は少年をじっと見つめ、一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。

「顔を上げなさい。」

 少年が兄を見上げる。

 その強い瞳は、少年の姉にとてもよく似ていた。

「行ってきなさい。」

 そう言って、兄は手に持っていた少年の太刀を差し出した。

 あの夜から、少年の太刀は兄が預かっていた。

 もう返しても大丈夫、いや、返すべきだと思った。

 少年は立ち上がって、太刀を受け取った。

 兄は少年の頭にぽんと手を乗せた。

「いつの間にお前はこんなに大きくなったんだろうね。」

 兄は少し寂しそうに、そして嬉しそうに微笑んだ。

「行って帰っておいで、―――。」

 少年もあの夜以来、初めて微笑んだ。

「行ってきます。兄上。」



 雲が晴れ、薄青の空が広がっていた。気持ち良い程に晴れ渡った空の下では、きん、と凍りつく寸前のような空気さえも清々しいと感じる。

 ヒノオは里の南東にある櫓に上っていた。

 櫓の上は家の屋根より高い位置にあるため里が見渡せる。この日は風も緩やかで日の光も柔らかく差しており、ヒノオは腰を下ろして眼前に広がる里と山々を眺めていた。

「あなたの言う通りでした、姉上。」

 ヒノオがぽつりとひとりごちた。

 それに応えるように、風がそよりと、ヒノオの頬を撫でた。

「いい景色だろう。」

 俄にヒノオの背後から声がかけられた。梯子を上がって現れたのはショウゲンだった。

 振り返らずに「はい。」と答えるヒノオの横に、ショウゲンも腰を下ろした。胡坐をかいた、二回りほども違う背が二つ並んだ。

「今日はコウヤと一緒ではないのだな。」

 ショウゲンも景色を眺めながら、ヒノオの方を見ずに話しかけた。

「コウヤにはここにいると伝えてあります。一度この里をちゃんと見ておきたいと思って。」

 その答えに、ショウゲンは思わず、といったようにヒノオを見た。そして、何かを考えるようにヒノオの横顔を見つめると、眼を伏せてそのまま視線を前に戻した。

「晴れているとはいえ冷える。風邪を引くぞ。」

「はい。」

 小さく白い息がふわりと消えた。

 沈黙が流れる。

 さあと風が吹き、二人の髪をふわりと浮かせた。

「君は大切な人を失ったことはあるか。」

 脈絡のない突然に問いに、ヒノオは小さく目を見開いて、ショウゲンを見た。

 ショウゲンは依然として前を見たままで、ヒノオはその横顔を暫く窺った後、再び顔を前に向けた。そして、静かに口を開いた。

「俺の母は、俺を産んですぐに亡くなって、年の離れた姉が母親代わりでした。」

 ヒノオは懐かしさが滲むように口元を緩めた。

「父も兄も、俺がかなり間が開いての子どもだったので、余計に可愛がってくれましたが、二人は忙しくて、一緒に過ごせる時間があまり無くて。だから、その分も姉は傍にいてくれました。勿論、沢山叱られましたし、遊んで泥だらけになった日には小脇に抱えられて風呂場に連れて行かれましたよ。」

 ショウゲンがふっと噴き出した。

「そんな母親達の姿をよく見かけたよ。」

「まさにそれです。」

 一頻り二人でくすくすと笑って、ヒノオはふうと一つ息をついた。

「色んなことを教えてくれました。日々の何気ない瞬間にも、なんというか、一人の人として大事なことなんかを。そうやって、いつだって俺の手を引いて導いてくれた。そして、よく手を握って、よく、抱きしめてくれた。」

 ヒノオは言葉を切って、三つ呼吸を数えた。

 そして、普段通りを少し意識して、息を吸った。

「ある晩、俺を庇って死にました。」

 ショウゲンは目線だけをヒノオに向けた。

 先程から変わらぬ静かな表情で、しかし、ヒノオの顎の先が微かに震えているのに、ショウゲンは気付いた。

「よく、笑う人でした。」

 ぎこちなく口の端を上げるヒノオに、ショウゲンは「そうか。」とだけ言った。

 ヒノオは切り替えるように一つ大きく息を吐くと、「はい。」と答えた。そして一度目を瞑って開いた瞬間には、もう普段の彼に戻っていた。

 この話は終わり、ということだ。

 また、沈黙。

 だがお互い、不思議とその空気に居心地の悪さは感じなかった。

 屋根で小鳥が二、三度鳴いて、飛んで行った。

 ヒノオはそれを目で追った。

 小鳥は遠くに点となり、見えなくなった。

「あなたは歴戦の猛将だったと聞きました。」

 今度はヒノオが話しかけた。

「戦場に立てば一騎当千の勢いで、武人の憧れだったとか。」

 ショウゲンはふっと苦笑した。

「誰がそんなことを。」

 ヒノオがこの里で話をする相手などショウキかコウヤに限られている。ショウゲンもそれを分かって、特に意味なく返した。

「コウヤは特に嬉しそうに語っていましたよ。ショウゲンさんも、いつもは仏頂面だけど本当はツルミさんも、とても強くてとても愛情深くて、皆を大事に思ってくれる。だからお二人のことをとても尊敬している、と。」

 ショウゲンは慈しむような、柔らかい目で笑んだ。

「分かっておるよ、あの子の向けてくれるものは。あの子はとても真っ直ぐだからな。」

 そして一転、「それにしても」と、可笑しくて堪らないというように口元に指を当てた。

「仏頂面、か。ふふ、今頃ツルミの奴、どこぞでくしゃみなどしているだろうな。あれは昔からああだ。眉間の皺が消えなくなるぞと言っても直らん。」

「古くからのご友人ですか。」

「そうだな、後輩でもあり友人でもある、といったところか。ツルミは元々、私の下で副将を務めていてな。一兵として入軍した時からなんとも可愛げのない奴だった。かと思えば、ちょいとつつけば以外にも面白い反応をする。あやつとよく構い倒したものだ。」

「あやつ?」

「ああ、うん、そうだな。」

 ショウゲンは少し考えるように一旦言葉を止めた。

「うん、君は話してくれたからな。私の話も聞いてくれるか。」

 そう言うと、ショウゲンは一つ瞬いて、語り始めた。

「唯一背を預けられる友がいた。軍の参謀を担っていた男だ。一族の、頭のよく切れる男でな、幼い頃から何かと競い合った。武芸と学では競いようもないはずなのだがな。」

 ショウゲンの脳裏に懐かしい少年二人の姿が浮かぶ。その無邪気だった頃の自分たちに一瞬笑みを向けて、しかし次の瞬間にはその記憶の欠片は霧散し、ショウゲンは静かに続けた。

「我らは元々異能の家系ではあるが、力を持たずして生まれる者もいる。そういった者たちも、ある者は武芸を、ある者は学を、といったようにそれぞれに持ち合わせた能力を極めた。終わりの見えない、激化する戦いの中で、我らが生き残るために。」

 そう、自らの地位のためでも、富を有するためでも、名声を得るためでもない。自分たちが大切と想う者たちとこれからも生きていくために必死だっただけ。

「稀代の大巫女に偉才の参謀、将軍も揃って、私たちは奇跡の世代と呼ばれたよ。ただ、奇跡は重なる時代を間違えた。異能を司り、多方面においても人材を有する我ら一族は、力を持っていたが為に、利用された。もしくは、力を持ちすぎたがゆえに、あわよくば戦いの中で我ら一族の力を削ぐことができれば、という思いもあったであろう。国中も疑心暗鬼だったのだ。」

 苛酷な戦況。

 度重なる出軍命令。

 血と砂煙の舞う戦場。

 擦り切れていく心と、目の前で斃れていく命。

 盾となるはずの力が、刃となって自分たちの首にじわりじわりとくい込んでいく。

「ただ、守りたいものを守ろうとしただけだったのになあ。」

 ぽとりとこぼれ落ちたような呟き。

 そこには、ヒノオが初めて見るショウゲンの姿があった。

 今ヒノオの隣にいるのは、名を残した勇猛な将ではなく、大切と想う誰かと生きたいと望んだ、ただの一人の男だった。

「戦いの最中、多くの仲間が犠牲になった。友も、散った。もう誰も、耐えられなかった。失われる命に。その度にこの心に突き立てられる刃に。そして、明日は我が身かと思った時の恐怖と絶望に。」

 なぜ我らが死ななければならない。

 なぜ我らは死ななければならない。

 こんなに苦しいなら

 こんなに悲しいなら

 こんなに恐ろしいなら

 逃げてしまえ

 国も、死も、

 届かぬ我らだけの世界へ。

「…君はもう全て気付いているんだろう。」

 ショウゲンは一度深く息を吐いて、問うのではなく、事実を確認するように言った。

 ヒノオはすっと背を伸ばして眼下の里を見渡した。そして迷いなく明確に口を開く。

「ここから見ていて、ずっと感じていた違和感の正体に気付きました。普通、こういった里の周縁に置かれているはずのものがないんです。」

 ずっと何かが足りないような、何かに気付けていないような、そんな気がしていた。

 それは―。

「この里では、あなたたちの先人は、何処に眠るんでしょうか。」

 つまり、()()()()

 離隔する場合もあるが、ここは山々や岸壁に囲まれた険しい地形の中にある。わざわざ里から離れた所に埋葬地を設けるとは考えにくい。なおさら、里の端の一角にでもありそうなものだが、コウヤの手伝いで里中を巡ったにもかかわらず、それらしいものは全く見当たらなかった。

 ()()()()()()()、というのがおかしかったのだ。

「あと、以前大巫女とお話をしたときに、ツノサキという場所で海を見たとおっしゃっていました。でも、ツノサキは百数十年前に、ツノノヒメという方が王后になられたことから、その音を尊んで避けるために、ヒノウナハラと名を改めそれが浸透し、今はツノサキと呼ぶ人はいません。ツノサキに訪れたということは、ツノノ王后が立后される以前に訪れたということになります。そして、今のあなたの話。姉の部屋には数多くの書物がありましたが、あなたの話される戦いを、俺はその書物で読んだことがあります。そこには更にこう書いてありました。その戦いの最中、ある一族が消えた、と。」

 幼かったヒノオはその書物を取るのに、椅子に上がるか、姉に取ってもらっていた。なぜなら、その書物は編年順に並んだ、棚の上の方にあったから。

「それは、もう数百年も昔の話でした。」

 ヒノオはショウゲンを見て、確信を込めて言った。

()()()()()()()()()()()んですね。」

 ショウゲンは答えなかった。

 答えない、ということが答えだった。

「コウヤが『この里で子どもは私一人だ。』と言っていました。確かにこの里にはご高齢の方が多い。だが、若い方も子どももいないわけではない。現にフヨウさんは十歳くらいに見えました。でも、コウヤはフヨウさんを『姉さん』と呼んだ。誰に対しても、目上の人への呼び方をした。高齢の者が多く、子どもが少ない。全員がコウヤより年上。天命を超えて生きる人たち。定められた時間を超えた器は、どうなるのか。俺は、こう推測しました。本来の寿命を迎えると、体の変化が止まるのだ、と。」

 ショウゲンはゆっくりと両手を組み合わせると、そっと目を伏せた。

「この里を知ってしまった、なおかつ、里の秘密に気付いてしまった君に、自由を許すことはできん。しかしもし、君がこの里の理を受け入れるというのなら、私は君を受け入れる。里の者たちにも、大巫女とともに説得しよう。」

 ショウゲンが鋭い瞳でヒノオを見据えた。

 ヒノオはそれを受け、はっきりと、真っ直ぐな揺るぎのない眼を返した。 

「それはできません。」

 互いに視線を逸らさなかった。

 瞬きもしなかった。

 二呼吸待った。

 ショウゲンはゆっくりと一つ瞬いた。

 もう瞳の鋭さは消えていた。

「そうか。」

 そう呟いたショウゲンは、仄かに微笑んでいるようにも見えた。

 ヒノオは、急に押し寄せた寂しさのような感覚に、引き留めるように、ショウゲンの腕を掴んだ。

「始まりに戻って、やり直すことは、できませんか。」

 ショウゲンは驚き、自身の腕を掴む手を見つめた。そして、ヒノオの瞳を見た。

 ああ、この少年はコウヤと同じ眼をしているのかと、その時ショウゲンは思った。

 その真っ直ぐな眼と腕を掴む力の強さに目を細め、ショウゲンはそっと、ヒノオの手を剥がした。

「我々は、我々の守りたいものを守るために、我々に成し得る中で、間違った選択はしていない。そして、皆を率いた一人である私には、それを疑うことは許されない。これが私の生き方だ。」

 静かだが、その中にある確固とした意志に、ヒノオはゆるゆると手を下ろすしかなかった。

 ショウゲンは空を見上げた。

 薄い優しい青が広がっている。

 まだ少年の頃、書物に没頭する友の傍らで稽古を重ねた日々の空は、確かこんな空だったように思う。

「友の姿を浮かべたのはひどく久しい。とても穏やかに、懐かしく感じられる。」

 ショウゲンは大きく溜息をついた。それは長く背負った荷を下ろした時のようなものだった。

「もう、思い出になっていたのだなあ。」

 その囁きは、掠れて深い深い吐息の中に消えてしまいそうで。

 経た年月の、過ぎた日々の、果てしなさが滲んでいた。

「君とは、ずっと違う形で出会いたかった。」

 ショウゲンが少し寂しそうに笑った。

 ヒノオも空を見た。

「俺も、もっとあなたとお話がしたかったです。」

 遠くで鳥の鳴き声が高く木霊した。


「ヒノオ‼」

 突然、櫓の下から大声が発せられた。

 呼ばれたヒノオが驚いて下を見ると、走って来たのか、荒い息を継ぐコウヤがいた。

「コウヤ?どうしたんだ、そんなに慌てて。」

 不思議そうに尋ねるヒノオの隣にショウゲンの姿を確認して、コウヤは目に見えてはっと緊張した。

「ショウゲン大叔父上…。」

「何かあったか、コウヤ。」

 そう問いかけるショウゲンに、コウヤは上がる息を押さえて、努めて冷静に答えた。

「いえ、何も。…ヒノオ、庵に帰ろう。迎えに来たんだ。おばば様の所での用事はもう済んだから。」

「あ、うん。」

 ヒノオはコウヤの様子のおかしさを感じて、深くは聞かずに素直に返事をした。隣のショウゲンにぺこりと頭をさげる。

「では、失礼します。」

「ああ、気を付けて降りろよ。」

 ヒノオが梯子から降りる間も、コウヤはずっとショウゲンに険しさと悲しさの交ざったような視線を向けていた。そんなコウヤを、ショウゲンも櫓の上から見下ろしていた。

 ヒノオがコウヤの許まで行くと、コウヤはすっと顔を逸らしてヒノオの腕を掴み、庵の方に歩き出した。

 自身の腕を掴む手が微かに震えていることに気付き、ヒノオが「何かあった?」とそっと尋ねた。

 コウヤは「なんでもない。」と、ヒノオの目を見ずに答えて、逸るように足を動かした。

 庵に帰ってからもコウヤはほとんどしゃべらず、ずっと青い顔をしていた。


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