ずっと前から
肆
その男は、非常に無愛想な男だった。
入軍してから笑顔を見た者は無い。真面目といえば聞こえは良いが、冗談は通じず、融通も利かない。付き合いも悪い。腕は立つし、任務に忠実で優秀なことは確かであったが、他と一線を画す一匹狼のようであった。
そんな男が、ある一人の女と出会った。
女は男と同じ一族の者で、その手で触れた傷はたちまち治すことができる治癒の力があった。地方の紛争の鎮圧部隊に配された男は戦闘で怪我を負い、医療班として同行していた女の治療を受けた。男は、大した怪我ではないし、手当をすれば十分だと言ったのだが、それはそれは綺麗な笑顔で「そこに座って下さい」と女に促されたのである。すさまじい圧を感じて大人しく座った男にそっと触れてきた女の手は青白く細く、柔らかく光を放っていた。
女の手が離れると、男の怪我は何もなかったかのように元の通りに治っていた。
「ありがとう。」
そう言って男が立ち去ろうとすると、女は意外そうな顔で男を見て言った。
「誰とも関わろうとしないし、無愛想だって聞いていたから、何も言わずに立ち去るのかと思ってた。」
男は失礼な、と眉を寄せた。
「礼と謝罪は人として最低限の礼儀だ。」
女は一瞬、目を見張って驚いた顔をしたが、
「ええ、そうね。本当にその通り。私が失礼だったわ。ごめんなさい。」
と、肩をすくめて謝った。
男は服を整え天幕を出ようとしたが、女の青白く細い手を思い出して、足を止めた。
「その治癒の力、あまり使いすぎない方が良い。治した傷の分だけ反動が自分に返っているだろう。せめて、使ったらその分ちゃんと休め。…自分を大事にしろ。」
そう言って男が今度こそ出て行こうとすると、その背に向かって女が叫んだ。
「ありがとう!」
男が振り返ると、女は嬉しそうに笑っていて、その輝くような笑顔は、その日の限りなく広がる青空によく映えた。男にとってそれは、とても印象に残る光景だった。
それから二人は、顔を合わせれば言葉を交わすようになり、次第に、互いに想い合うようになった。
男の纏う空気は以前より柔らかくなって、少しだけ、笑うようになった。
だが彼らの日々は長くは続かなかった。
―女が死んだ。
度重なる従軍で力を使い、その反動で疲弊しぼろぼろになりながら、重傷兵の治療を行ない力尽きた。その時の治療で助かった兵も、次の戦場で死んだ。
なんのために、彼女はその身を賭したのか。
なんのために、自分は彼女を失ったのか。
なんのために―。
いつだって死は理不尽だ。
親兄弟も、仲間も、生きていてほしいと願う者ばかり連れて行く。
頼んでもいないのに。
やめてくれと叫んでいるのに。
そして今度は彼女を。
こんな想いを、またこれからも繰り返すのか。
何度も。
何度も。
何度も何度も、何度も。
何かが、ぷつりと切れる音がした。
男はまた笑わなくなった。”表情”というものが、男から消え去った。
それは、穏やかで何にも侵されることのない日常を得ても変わることはなかった。
しかし、もう幾度迎えたか数える事すらやめた秋の日、男は一人の少女と出会った。
男の胸に去来したのは、青空に映えたあの笑顔。
同じだ、と男は直感で確信した。
同じ瞳。
同じ魂。
廻ったのか。
廻って、還って来たのか。
俺は、君を見つけることができたのか。
男の瞳から涙があふれた。顔を覆った手のひらからもこぼれ落ちて、おさえ切れなかった。
少女は突然地面に座り込んで泣き出した男に驚き、おろおろとしていたが、やがて男の隣に腰を下ろし、白く細い手をそろりと伸ばし男の背にそっと触れて、ずっと優しくさすり続けた。
少女は、空を飛ぶ鳥のように軽やかで、純粋な娘だった。その無垢な笑みは男の心に陽春の風を吹き込んだ。
男は、少女が女と同じ魂だからというだけでなく、少女自身にも惹かれていった。
少女も、不器用ながら本当はとても情の深い、この男に惹かれていった。
互いが、互いを想うようになった。
気持ちが沈むと人がいない所に隠れる癖があった少女は、しばしばどこかへふらりと消えることがあった。誰も少女を見つけることができない中、男だけは必ず少女を見つけだした。
少女は気になって一度尋ねてみた。
「どうして、あなたは私のいるところが分かるのですか?」
男はしばし考えてから口を開いた。
「なぜだろう。…ただ、そうだな。俺はお前を見つけるのは上手いんだ。」
そう言って少女の頭をぽんと撫でた男は、妙に自信に満ちた顔をしていた。それがなんだかおかしくて、嬉しくて、少女は笑いながら、
「じゃあ、これからも私のこと見つけて下さいね。」
と、男の小指に自身の小指を小さく絡めた。
男はその小指を見つめて、しっかりと指と指を結び直すと、
「ああ。必ず、見つける。」
と、力強く言った。
それは男と少女が出会った日と同じ、金木犀香る秋の日の約束。
「昨晩も雪は降らなかったみたいだね。」
ヒノオは少しだけ障子を開けて外を見た。薄雲から透ける光で見える世界がほのかに眩しい。
「本当だね。珍しいよ、連日降らないなんて。雪かきがなくて楽だ。」
コウヤがヒノオ越しに隙間を覗き込み答えながら、火箸で囲炉裏に炭を足す。ことりと柔らかい音が鳴った。
暖気が逃げてしまうので戸を閉めて、ヒノオも囲炉裏端に座った。ちょうど湯が沸いたので、湯呑みに注いでコウヤに手渡す。コウヤは「ありがとう。」と受け取って、息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ口に含んだ。この数日で判明したことだが、コウヤは猫舌のようだ。
「今日は、東の塞に行こうと思うんだけど。」
コウヤがまだふうふうと湯を冷ましながら切り出した。ヒノオは湯呑みを口から離し、コウヤを見た。
「母に、会いに行こうと、思って。」
伏せた目で、赤々と燃える炭を見つめるコウヤの表情はいつもと変わらないが、その瞳の奥にある感情が、ヒノオには窺うことができなかった。
ショウゲンを主とする東の塞は、ツルミを主とする西の塞とはまた異なる雰囲気である。
西の塞は、飾り気のない素朴な印象だが、その中には実用性や使う人の事を考えた細やかな気配りがなされており、また、長く丁寧に使い込まれた調度品は落ち着いた雰囲気と味を滲ませている。
一方、東の塞は、ささやかな装飾がさり気無くあって、庭には植物や石が情趣よく置かれてある。それは華美であるのではなく、無駄のない、暮らしの中に心地よい風情として自然と感じられる、といった風である。家主の性格を表すということだろうか。
邸に上がると奥に初老の女性が見えた。コウヤが声をかけると、その女性はぱっと顔を明るくして「よく来たね。」とコウヤに駆け寄った。コウヤの背後にヒノオを見て一瞬眉を顰めたが、すぐ視線を逸らす。
「母さんに会いに来たんだけど…。」
そう言ったコウヤに、女性は眉尻を下げてなんとも言い難い複雑な思いをのせて微笑むと「そう。」と言ってコウヤの肩をさすった。そして、「いつもの所よ。」と告げて、二人を通してくれた。
今日、ショウゲンは不在のようだ。ショウゲンだけでなく、ここの兵もほとんど出払っているらしい。いつものコウヤのように里を回っているのだろうか。警備で残った者が数人と仕人がちらほらと見えるだけで、邸内は閑散としていた。
コウヤは廊下を進み庇に出た。ヒノオもそれに続く。そこは邸の北東に当たり、二人の目の前には邸の背面、東側に広がる庭の隅にぽつりと佇んだ離れに続く渡り廊下が真っ直ぐに伸びていた。
コウヤはその手前で一度立ち止まって、ゆっくりと歩き出した。
ヒノオはコウヤの後ろについて歩きながら、その背に彼女の様子を窺っていた。
今朝からというより、昨日の西の塞の一件の後からコウヤの様子はこれまでと少し違っていた。緊張しているような、気落ちしているような、なんとなく元気がないと感じるのだ。加えて、先程の女性の複雑そうな表情。
昨日ショウゲンが言っていたサカキという人物が、おそらくこれから会いに行くコウヤの母だろう。
そのサカキに何かあるのだろうか。
渡り廊下を渡り切り、二人は離れの戸の前に立った。コウヤが戸に手を掛け、横に引き開ける。障子から透ける外の光が薄い色の畳に反射して、部屋の中は眩しい程だった。
咄嗟の明るさに目を細めたヒノオは、その隙間から一人の影を見た。目が徐々に慣れてくるとその顔立ちがはっきりと見えてくる。
二十代半ば程の女性。確かにコウヤと顔立ちが非常に似ている。まるで姉妹のようだ。しかし似てはいるが、痩せた肢体に青白い頬、ぼんやりとした目には光がなくどこか遠くを見つめている。母子と知っているからこそ似ているとは思ったが、こうも印象が違うものか、とヒノオは思った。
コウヤがサカキの目の前まで行き、片膝を折って、焦点の合わないサカキの目と自身の目を合わせる。
「母さん。」
サカキが目の前にいる少女を認識し、焦点が定まる。
「だあれ?」
色の悪い唇から、舌足らずな言葉が洩れた。年端もない幼子のような口調だった。
「母さん。」
コウヤがもう一度呼び掛ける。
「母さん?」
サカキが人形のようにことん、と首を傾げた。
コウヤはサカキの手を取って、幼子に言い聞かせるように優しい声で更に言う。
「そうだよ。あなたは私の母さんで、私はあなたの子ども。私だよ、コウヤだよ、母さん。」
「コウヤ…。」
それからサカキはぱちりと瞬いた。
コウヤは何も言わず待った。
ぱちりぱちり、と何度目かのその時。
「…コウヤ…、コウヤ…?ああ。」
切れてしまっていた糸を手繰り寄せて、それがやっと繋ぎ合ったように、サカキの目の曇りがさあと晴れていく。
「コウヤ、コウヤ。よく来たわね、私の愛しい子。会いたかったわ。」
サカキは一変して、はっきりとした口調に喜びを滲ませた。そしてコウヤに手を伸ばすとそのまま抱き寄せて、その感触を確かめるように何度も髪を梳いた。
「久しぶり、母さん。」
コウヤもサカキにつられるようにふわりと笑った。それはほっとしたような、滅多にないコウヤの子どもの顔だった。
いつも誰かのために動き回って、頼ったり甘えたりすることなくしっかりしている印象ばかりがあったから、今のコウヤを見てヒノオはなんだか安心した。
コウヤとサカキは暫くの間語り合っていた。ショウキに教わったこと、稽古のこと、里人と話したこと、軒先にできた氷柱がきらめいていたこと、白い雪に映える南天の赤が見事だったこと、そんな日々のなんでもないことを。
ヒノオはずっと戸の脇でその様子を眺めていた。
サカキの視界にはヒノオも映っているはずだが、何もいないかのように一向に気付く様子はなかった。サカキの目にはただコウヤだけが映っていて、それ以外は世界に存在していないかのようである。
その時、風が吹いた。開いている戸口から、ひやりとした空気とどこからか飛んできた風花が舞い込む。風花はそのまま流れてサカキの手元に落ちて一瞬で溶けた。ふと、それに気付いたサカキは風花が飛んできた方を振り向いて、ようやく初めて戸の側に立つヒノオの存在をその瞳に映した。
「あら…?」
目が合ったヒノオは微笑んで軽く会釈した。しかしサカキの表情は固まったまま動かない。
「初めて、会う子ね。コウヤ、私の記憶が不確かなのかもしれないけれど、あなたと同じ年の頃に生まれた子がいたかしら?」
コウヤがサカキに顔を寄せてそっと囁いた。
「いないよ。この里で子どもは私一人だ。」
「じゃあ…」
「彼はヒノオ。外から来たんだよ。」
その言葉にサカキの瞳が凍りついた。懸命に笑みを作ろうとしたサカキだが、上手くいかずにその表情をひきつらせた。震える手で額を押さえ、浅く早い呼吸を繰り返す。
「…ごめんなさい、ごめんなさい、なんで、こんな…、怖くて、苦しい。なんでか、もう、分からない…。」
そうして頭を抱えてうずくまってしまったサカキの背を、コウヤはそっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ、母さん。今日は沢山話して、疲れたね。少し休んで、目が覚めたら、また話そう。」
サカキがわずかに顔を上げる。零れ落ちた髪の間から揺れる瞳がのぞいて、ヒノオの瞳とぶつかった。
コウヤがサカキの背をとんとん、と一定の間隔でそっと叩く。
「母さん、いつもの歌を歌おうか。」
そう言って、コウヤは優しく撫でるような声で歌い出した。
「冥き女神のかひなにて、黎きはざまゆらゆらと…」
それはヒノオもよく知る、この国で子守歌として古くから歌われている歌だった。
この国の二大神のうちの一柱、夜の女神は最期の時が来た魂を迎えに行き、廻りの輪へと導く役目を担っている。夜の女神を我らが母と仰ぐこの国の民は、この歌を聞いて育つのだ。
コウヤの声が透き通るように響き、それにつられるようにサカキの瞼がとろとろと落ちていく。
「…ああ、私、この歌が恐ろしくて……、とても、好きなの…。」
サカキはそう呟いて、吸い込まれるように眠りについた。
部屋にはコウヤの歌声の余韻がいつまでも残っていた。
「今日は調子がよかったな。」
東の塞から庵に帰る途次、コウヤがおもむろに口を開いた。先程の母子のやりとりを見てから、なんとなく声をかけ難くいたヒノオは、コウヤが誰のことを指して言ったのか一瞬分からなかった。その様子を察したのだろう、「母さんがね。」とコウヤが付け足した。
「いくら呼び掛けても反応がなかったり、泣いて暴れてたり、かといえば昏々と眠り続けたり。今日みたいに話せるのはあまりなくて…。」
そう話すコウヤは努めてなんでもないようにしているが、その目許には隠し切れない疲労感があった。
「…お母さんはいつから…?」
立ち入ったことかと思いはしたがヒノオが問う。しかしコウヤは特に気にした風もなくぽつぽつと語り始めた。
「いつから…、いつからだろう。私が五、六歳のときに、その頃はまだ私も東の塞に住んでいたんだけど、おばば様と薬草を摘みに行って帰ってきたらあんな風になってて。部屋の中が夕日で真っ赤に染まっていて、そのなかで、糸が切れたみたいになって、ほんとに、突然…。いつもと変わらずに『行ってらっしゃい。』って見送ってくれて、何も変わった様子なんて…」
そこで言葉を切って、コウヤが足を止めた。つられてヒノオも立ち止まる。
「…突然なんかじゃなかったんだと思う。もうずっと前から、ちょっとずつちょっとずつ何かがおかしくなっていってたのかもしれない…。」
そう言い終えて、コウヤは再び歩き出した。落ちる日が、その足元に長い影を作る。
コウヤはずっと、打ち明けたかったのかもしれない。突然に母が変わってしまった不安、寂しさ、憤り。そして、何も気づかなかったことへの後悔。ずっと素直に表せずに押さえ込んでいたそれらの感情を、事情を知らなかったヒノオにだからこそ細々とこぼしたのかもしれない。
夕暮れの色がいやに濃く染まる坂道で、ヒノオは立ち止まったままコウヤの背中を見つめていた。
その夜、サカキの離れに一人の影が現れた。
静かに、音を立てないように、そっと戸を引き開けたのはツルミだった。
月を背に立つツルミは、暫くそのまま部屋の中で眠るサカキを眺めていた。そして、やはり音を立てないように部屋に足を踏み入れ、戸を閉めると、サカキの傍らに腰を下ろした。
ツルミは立てた片膝に顔を乗せ、幼子のように丸くなって眠るサカキの頬に手を伸ばした。白く透き通るそれにするりと指の背を滑らせ、こぼれそうな細い髪を梳いて耳に掛けてやる。
普段は鋭い光をはらんでいるツルミの瞳が今は、昼過ぎの微睡みそうになる日光のような柔らかさとほんの少しの寂しさを宿していた。
ざあと、風が木々の葉を揺らす音がする。流れた雲が月を隠した。障子越しに部屋に注いでいた月光が遮られ、サカキの顔に影を作る。
暫くの間、光は雲に邪魔をされたままで、室内は徐々に闇に浸食されていくようだった。
影に覆われたサカキに、ツルミは何故か突然不安を感じ、サカキの口元に手を近づけた。
規則正しい温かさを感じた。
息を、している。
ツルミは両手で片膝を抱えるようにして、深く息をついた。
雲が晴れる。
月光が再び室内に注ぎ、サカキの安らかな寝顔を柔らかく照らした。
「お前は、変わらないな。無垢で清らかな、あの頃のままだ。」
ツルミがかすれて消えてしまいそうなほどの声で呟いた。
敷布の上に広がるサカキの髪を一房取ると、ツルミは祈るようにそれを自身の額に押し当てた。目を閉じると、懐かしい笑い声が聞こえた。眩しい笑顔が浮かんだ。
サカキと、そしてもう一人の女。
遠い過去に、亡くしてしまった君。
再び巡り会えた今、壊れてしまった君。
「どうしたら、お前はまた笑ってくれるんだろうな…。」
この問いに応える声は、ない。
ツルミの囁きは、夜の静寂に吸い込まれるように消えていった。