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明宵実記  作者: 冬来春子
2/8

ある少女


 少女の母は、気高い人であった。

 そして、慈愛深い人であった。

 いつも、なんでもない時も、少女を優しく抱きしめて、頬を寄せた。「愛しい吾子」と口癖のように呼びかけ、そよ風に揺れる春の野の花のように微笑んだ。

 時には少女を厳しく諭し、修行も容赦はなかった。だが、少女がその苦しさに、物陰に隠れて涙していると、それがどこでも、母は必ず少女を見つけて、白磁のような美しい指で涙を拭い、そして二 人、手を繋いで帰るのだった。

 少女は母が大好きだった。

 母も、少女を本当に、本当に愛していた。

 それが、いつからだろう。母は少女を見ると、その瞳に揺らぎを浮かべるようになった。

 無理に微笑むようになった。

「お話はまた今度。」といって、避けるようになった。

そして、少女と母が以前のように共に過ごすことは無くなった。

 なぜだろう。なぜ、こちらを向いてくれなくなったのだろう。

 もっと修行に励めば。

 もっといい子でいれば。

 少女はこれまで以上に、寝る間も惜しんで、勉学にも修行にも精を出した。

 それでも、母の黒曜のような瞳は少女を映すことはなかった。

 だから、少女はどれだけ遠くても、母を見かければ、その姿を目に焼き付けるように見つめた。

 いつか気付いてくれるのではないか。

 こちらを見て、また「吾子」と微笑んでくれるのではないか。

 そんな希望を込めながら。

 少女は、少女のまま、ずっと、願った。



「ヒノオ、これもお願い。」

 コウヤの手には衣服や掛布が入ったかごが抱きかかえられている。

「うん、そこに置いておいて。」

 背後から掛かった声に、ヒノオが振り返って言う。が、その手は盥の中に突っ込んで布を板にごしごしとこすり合わせている。

 ヒノオがこの里に来て四日目の朝、彼は村の一角の井戸の前で洗濯をしていた。それも、自分のものではなく、他人のものを。

 それというのも昨日の朝のこと、コウヤの一言から始まった。ヒノオは初日に頭を殴打されたことの大事をとって、翌日のまる一日はコウヤの監視付きで庵で大人しくしているように言い渡されていたため、コウヤも終日庵から離れることは無かった。それから一夜明けた昨日の朝、コウヤがこう言ったのだ。

『私はこれから里に出るけど、ヒノオ一緒に来る?』

 コウヤが里で何をするのか分からなかったが、ヒノオもコウヤがそう言うのならと、ついていくことにした。その道すがら、この里には高齢で世話や手伝いを必要とする者が多く、若い者たちが家々を回って互いに助け合っていると聞き、ヒノオは手伝いを申し出た。

 コウヤは、最初こそ「おばば様の客人だから」と遠慮していたが、ヒノオが世話になるお礼に何かさせてほしいと言うと、苦笑して受け入れた。

 昨日は気だるげに垂れ込めた灰色の雲からはらはらと雪が降っていた。元々、連日降っては止み、降っては止みを繰り返していたので積もった雪は背が高く、その上また降り出すものだからいくら雪かきをしてもきりがない。それでもやらなければ家が雪に埋まり、屋根や柱などをだめにしてしまうし、空気の流れる隙間もなくなってしまう。だからこんな日は一日中雪かきで終わってしまうのだと、それでも今日は降る量が少ないから楽な方だとコウヤは言った。そういうわけで必然、昨日の作業は雪かきだった。

 そして今日、空は久しぶりの水色を覗かせている。天から届いた淡い日の光が昨日までの雪にきらきらと反射している。空気も水もまさに凍りつくようで、特に指先などはしびれるようだが、それでもじっと日光が当たる場所でいればそれも少しばかり和らぐように感じる。この天気を利用しまいでかと言わんばかりに、今日は里中で洗濯祭だ。至る所で洗われた着物や掛布、手拭いなどが久方ぶりの風に揺れて、なんとも嬉しそうである。

 かくいうヒノオも、井戸のそばにしゃがみこんで洗濯に勤しむ姿など、その光景にすっかり溶け込んでいた。ヒノオは今洗っていたものを絞って、同じく洗って絞ったものを積んだ盥に移した。水を張っていた方の盥を持ち上げ水を捨てると、井戸から桶を引き上げ盥に汲んだ水を入れる。コウヤが置いて行ったかごを引き寄せて、中の布を水の入った盥に浸けた。入れ替えて新しくなった水は、その冷たさもまた新たになり凍みるようだ。

 コウヤは今、井戸のすぐ傍にある一軒の家の老夫婦の所にいる。そこのおじいさんは寝たきりでおばあさんも体のあちこちを痛めているらしく、生活の所々に手の届かないところがある。今日はおばあさんと一緒におじいさんの身を清めており、家からは時折親し気な話し声が聞こえてくる。

 この老夫婦の元に来た時、ヒノオが挨拶に顔を出すとやはりいい顔はされなかった。この里に来てから四日が経ったが、どこに行っても同じような反応をされるので、ヒノオ自身は慣れたものだ。そして、昨日今日とコウヤと共に里を回ったヒノオだが、高齢の者が多いというコウヤの言葉を予想以上に実感することになった。若者も見ないことは無いが、圧倒的に数が少ない。とは言え、ヒノオが見たのは里全体ではないし、一軒一軒見て回ったわけではないため、偶々会わなかっただけかもしれない。子どもが生まれない年が続いたということも考えられる。ただ、この里に来てから何かが引っ掛かっている。そのせいで神経が敏感になっていて、一つ一つのことがいちいち気になってしまうのだ。

 そう、昨日の少女も。


 昨日、雪かきをしていたコウヤとヒノオの元に一人の少女がやって来た。

 先に気付いたのはヒノオだった。ふと気配を感じてヒノオが振り返ると、そこには九つか十ほどの、胸の上で綺麗に切り揃えられた髪の少女が、元々気の強そうな眼をさらに釣り上げて仁王立ちになっていた。少女は何を言うでもなく、微動だにもせず、その鋭い視線を真っ直ぐにヒノオに突きつけている。規則正しく漏れる呼気が白い靄となって消えていく。あまりに少女からの動きがないのでヒノオが声を掛けようとすると、作業の手が止まったヒノオに気付いたコウヤが、やっと彼の向こうに少女の姿を認めた。

「フヨウ姉さん?」

 フヨウと呼ばれた少女はその瞬間駆け出してヒノオの横を抜けた。そのまま「コウヤ。」と呼びながら彼女の胸に飛び込む。その勢いにコウヤは手に持っていた道具を落とし、数歩たたらを踏んだ。

 ヒノオはフヨウの背を目で追いながら、コウヤの言葉を頭の中でもう一度唱えた。

『フヨウ()()()』?

 フヨウの見た目は明らかにコウヤより年下だ。五つほどは違うだろう。

 なのに、なぜコウヤはフヨウを「姉さん」と呼んだのか。

 フヨウはコウヤにしがみついて再びヒノオを睨み付けている。そんなフヨウの背をコウヤはぽんぽんと優しく叩いて、窺うようにその顔を覗き込んだ。

「姉さん?どうしたの、何かあった?」

「…ちょっと様子見に来ただけ。」

 フヨウは不機嫌そうにふいと視線を斜め下に逸らして答えた。

 コウヤにはそれだけで十分に意味が分かったのだろう。腰をかがめて、ぎゅっと口を真一文字に結んだフヨウに目を合わせる。

「大丈夫だよ。何にも心配することはないから。皆にもそう伝えて。」

 フヨウが上目遣いでコウヤをじっと見る。コウヤもそれに返す。しばらく見つめ合って、フヨウは「分かった。」と小さく答えた。そして、ヒノオの方をきっ、と振り返ると

「私たちのコウヤに何かしたら許さないから。」

と吐き捨てて走って行ってしまった。

 コウヤはその背が見えなくなるまで見送ると、苦笑しながらヒノオを振り返った。

「ごめんね、こんなことばっかりで。みんな悪気はないんだ。」

 そう言ってコウヤは落とした道具を拾い上げた。ヒノオも止まっていた手を再び動かしながら答える。

「うん、大丈夫。分かってるよ。」

 雪を掻き寄せて側溝に落とす。水が凍ることなく流れているため雪も溶かされて流れていく仕組みになっているのだ。

「君はとても大切に想われているんだね。」

 ヒノオはただ素直にそう思った。フヨウが言い残した言葉は、ヒノオへの嫌悪よりも、前提にコウヤを案ずるが故のものだと感じられたからだ。

 だが、ヒノオの言葉への返事には少し間があった。コウヤは何か言いかけたことを飲み込んで小さく「うん。」とだけ答えた。その声がなんだかひどく頼りなさげで、ヒノオはコウヤを振り返った。

 そのときヒノオにはコウヤの背中がとても弱々しく、小さく見えたのだった。


 ヒノオは意識を昨日の出来事から現在に引き戻した。考え事をしていても手は無意識に動いていたらしい。水を張った盥の中の洗濯物は大分減っていて、その分洗い終わって絞ったものの山に、幾つかさらに積まれていた。

 ヒノオは手を止めるとふうと一つ息を吐き、空を仰いだ。

 朗らかな笑い声が聞こえてくる。老夫婦の家からだ。コウヤとの話が盛り上がっているのだろう。どこへ行ってもそうだ。静かな、息苦しいような重さが漂うこの里で、活気のない目をした里人たちも、コウヤといる時は皆明るい顔になり、笑い声が響く。

 コウヤの傍は安心するのだ。彼女には包み込むような温かさと大らかさがある。

 だから、昨日見たコウヤの小さな背中がヒノオにはとても印象に残っていた。この里の誰もが知らないコウヤの姿を見たようで。

 本当の彼女を、本当はまだ誰も知らないのかもしれない。


「すまねえなぁ、コウヤ。いつもいつも…。」

 横になっていた男が身を起そうと肘をつきながら口を開く。申し訳ないという風に下がった眉は真っ白で長い。久方ぶりに湯に浸かり髪や体を洗うことが出来た男はすっきりとした様子だ。

「本当にねぇ。いつも助かるわぁ。」

 土間の壺を開けながら、背の丸くなった女が振り向きながら言う。

「長く、長く生きて、こんなになってもまだ生きて、なぁ…。」

 男が深く息を吐くように、くたびれたようにぽつりとこぼした。体を支える肘は力が入らないのだろう、小刻みに震えている。

 女もそれを聞いて、何かを堪えるように、途方に暮れたように微笑んで黙ってしまった。

 コウヤは男に手を貸してゆっくりと起こしてやり、肩に上着を掛けてやる。

「気にしないで。好きでやってるんだから。皆のところを回って、色んな話をして、それが楽しいんだよ。」

 そう言って、男の肩にそっと手を置いた。男はその手に自分のそれを重ねる。

「わしらもコウヤとこうして話すのが楽しみで仕方ねぇ。ありがとうなぁ。」

 コウヤは重ねられた手を柔らかく握り返して、「うん。」と嬉しそうに微笑んだ。

 女が土間から小さな包みを持って板間に上がり、コウヤの隣に腰を下ろす。

「さあ、コウヤ、これ持ってお帰り。いつものだよ。」

 そう言って女が差し出したのは土間から持って上がってきた小さな包みだ。

「わ、ありがとう。私おばあのお漬物好きなんだ。」

「ふふ、あんたがそう言ってくれるから、いっぱい作ってあるんだよ。」

「またおいで。」

 女は包みをコウヤに渡すと、その手をぎゅっと握った。それがこの女の癖だ。そして必ず、男が「またおいで。」と言う。

「うん、また来るね。」

 コウヤもいつものようにそう答えて、老夫婦の家を出た。


 コウヤが老夫婦の家の戸をくぐって外に出ると、井戸の傍でしゃがんで洗濯をするヒノオの後ろ姿があった。コウヤはその背に向かって歩き出し、その隣まで行くとヒノオと同じようにしゃがみこんだ。

「ヒノオ。」

「あ、コウヤ。」

 ヒノオが手を止めることなくコウヤの方を向く。昨日今日と一緒にいてコウヤは思うのだが、このヒノオという男はくるくるとよく動く。ある程度手順が分かってくると、こちらが何かを言う前に次に次に黙々と、できることを終わらせていくのだ。力仕事はもちろん、手先の細かい作業までこなす。しかも仕事は丁寧だ。コウヤとしては大変、非常に大助かりである。

「そっちは終わったの?」

「うん。ここのおばあにね、お漬物貰ったんだ。これ終わったらお昼にしよう。」

 そう言ってコウヤは貰った包みを軽く持ち上げる。ヒノオの顔がぱっと嬉しそうになった。

「あ、じゃあ早く終わらせてしまおう。」

「うん、これ先に干し始めちゃうね。」

「ありがとう。」

 コウヤは立ち上がると、洗い終わったものが積んである盥を持ち上げ、近くにある物干し竿の方に小走りで向かった。

 布を空気に叩きつける、ぱんっという音が心地よく響いた。



 老夫婦の家を出て、昼過ぎにヒノオとコウヤはショウキの館に来ていた。

 コウヤは「ヒノオはここで待ってて。」と言って出て行ってしまったため、部屋にはヒノオとショウキの二人だけだ。ヒノオがこの館に来たのは初日に男二人に連れてこられて以来だから、今回が二度目ということになる。ショウキと会うのも二度目だ。

 二人は初日から今日までの出来事を話していた。

「そうか、昨日と今日と、コウヤと一緒に里を回ってくれておったのか。ありがとうの。」

「いえ、俺もこの里に置いてもらえてとても助かっているので。正直、食料なんかの備品が少なくなってきていたし、予想以上に雪が深くて、一旦山を下りた方がいいのかなって思っていたんです。」

「そりゃ、そなた、この国きっての険山地帯に、しかもこの時期に入ろうなどと、無謀にも程があるぞ。」

「ですよねぇ。書物や人づてには知っていたんですが、実際どんなものかなと。人生実際に体験してみないと理解できないことばかりです。今回のことで学習しました。」

 そんなことを言ってのほほんと頭をかいているヒノオを見て、ショウキは「そなた、将来大物になりそうじゃの。」とぽそっと呟いた。

「それにしても、」

 ヒノオが部屋をぐるりと見渡す。

「たくさんの書物ですね。」

 北面の蔀戸以外、部屋の壁には棚が設けられており、大量の書物や道具がずらりと並んでいる。

「それも見たことないものばかりだ。」

 ヒノオの声色にうきうきとしたものが混ざる。瞳をきらきらさせて棚を凝視しているヒノオにショウキも目尻を下げた。

「読むか?」

「えっ、いいんですか?」

 ヒノオがくるっと勢いよくショウキを振り向く。ショウキはそのあまりの勢いに首が飛んでしまいそうだなと思い、素直な微笑ましい反応にふふと思わず笑みをこぼした。

「よいよい。好きなだけ読むと良い。他の部屋にもあるのでの、コウヤにまた案内してもらうと良い。」

「わぁ、ありがとうございます。」

 ヒノオがあまりに嬉しそうなので、ショウキはまた笑みを深くした。

「書物が好きなのだなぁ。」

「幼い頃からよく読んでいたんです。…姉が読書家だったので、その影響でしょうね。」

 そう言って微笑むヒノオの目に、一瞬切なさが浮かんだのをショウキは見た。初めて会った時も、今日も、穏やかな日なたのような印象を感じる少年だったから、その一瞬の雨空のような瞳が、ショウキには特別はっきりと映ったのだ。

 ショウキは胸の中で、そうか、と呟いた。

 ヒノオも十代半ばとは言え、これまでの彼の時の中で様々なことがあっただろう。そして、ショウキもこれまでの長い時の中で様々なものを見てきた。だから、ヒノオの一瞬の瞳の理由もなんとなく推測できた。

 ヒノオという少年は、笑顔と穏やかさで分かりにくいだけで、存外隠すのは上手くないらしい。年の頃に似合わず、落ち着いてどこか大人らしい彼の、年相応な面が初めてのぞいて見えた。

 ショウキは手を伸ばしてヒノオの頭にぽんと置き、その黒鳶の髪をわしゃわしゃと撫でまわした。

「そうか。コウヤものぉ、書物が好きなのじゃ。」

 ヒノオは驚いたように目をぱちぱちとさせながら、されるがままになっていたが、ショウキの手が離れると、髪を押さえて、眉を下げて笑った。

「それは、話が合いそうです。」

 ショウキは、うんと頷いた。

「書物は、知らないことを教えてくれる。知らない場所に連れて行ってくれる。知らない人に会わせてくれる。世界がどんどん広がります。」

 ヒノオが、書物の背をなぞるように棚の端から端へ首を廻らす。そして一番端にたどり着いたところで、「でも、」と続けた。

「ただ、それだけでは足りないことに気付いて。自分が限られた世界にいたことに気付いていなかったことに気付いて。書物にあることも、ないことも全部、自分の目で見なくてはと思って、旅を始めたんです。」

 ショウキから見えるヒノオの横顔は、過去の影がほのかに滲みながらも清々しく、ショウキにはとても眩しく思えた。

「そうか。それがお主の旅の理由か。」

 ヒノオはそれに黙することで応えた。

 ショウキは自分の膝の上に視線を落とした。その先にはしわの深いショウキ自身の手があり、彼女はその手をもう片方の手でさすった。

「コウヤは、あの子にはこの里だけじゃったから。書物があの子にとっての、精一杯の外の世界じゃった。」

 ショウキは手元から顔を上げて、ヒノオに微笑んだ。

「たくさん話をしてやっておくれ。そなたの見たもの、聞いたもの、触れたもの。コウヤも喜ぶ。」

 ヒノオは「はい」と頷いて、はた、と思い出した。

「そういえば、この前はコウヤに海の話をしました。」

「ほう、海の話をな?」

「はい。俺が南の方に行った時に海を見たんですけど、その時の話を。」

「海か…。妾も幼い頃見たことがあったなぁ。そこも南の方であった。ツノサキと言ったか。」

 ヒノオの眉がぴくりと動いた。

「…ツノサキ?」

 いぶかしむような、低い声色でヒノオがぽつりと呟いた。口元に手を添えて、何かを思い出すように、いや、記憶を確認するように、視線をさまよわせる。

 ―ツノサキは確か…。

「どうした。」

 ショウキがヒノオに問いかける。ヒノオが急に黙り込んだから、不思議そうに顔をのぞきこんでいる。

 ヒノオはしばらくショウキの顔をじっと見つめていたが、手を口元から離して、

「いえ、なんでも。」

 と、少し笑んで答えた。

 それとほぼ同時に、障子の外に、かた、と何かを置く音がして、すっと戸が開いた。

「何の話をしていたの?」

 昼食の準備をしていたコウヤが戻ってきた。その隣には人数分の椀といくつかの皿が載った盆が置かれている。コウヤは盆を室内に移し置いて、自身も室内に入ると、開けた時と同じように静かに障子を閉めた。

「なんとはない話じゃよ。」

「いい匂いだね。」

 コウヤが持って来た椀には、湯気を立てる汁物が入っていた。それをコウヤは、はい、とそれぞれの手に渡していく。

「簡単なものなんだけど。あとこれね、おばあからもらったお漬物。」

 そう言って、コウヤが瑞々しい漬物が載った皿を置くと、すぐにショウキがひょいと箸をのばして漬物を口に運んだ。ぱりぱりと歯切れの良い音がする。

「うん、良い具合じゃのぉ。あれはほんに漬けるのが上手い。」

 ショウキはそう言って椀をすする。

「ほら、ヒノオも。温かいうちに食べよう。」

「うん。いただきます。」

 ヒノオは手を合わせてから、汁を一口ふくんだ。具から出た出汁と塩だけの素朴な味付けだが、優しい、ほっとする香りが鼻から抜ける。手に持った椀から、胃の腑から、じんわりと熱が染みわたっていくのを感じて、ヒノオはほうと息をついた。

「おいしい。」

 コウヤとショウキが顔を見合わせて、ふふっと笑みを深くした。



 昼食を済ませたヒノオとコウヤは、二人でショウキの館の書物を見てまわった。書物が納めてある部屋は全部で十部屋ある。つまり、ショウキの館は、ヒノオが初日にショウキと会った“正殿”と、三人で昼食を食べたショウキの自室、その他水場や仕人の休憩部屋、収納などを除けば、ほぼ書物部屋で構成されていた。書物は分類によってそれぞれの部屋に分けられており、ショウキの館にあるだけでも膨大な数であるが、これが全てではなく、他の書物は里の東西の守りである“東の塞”と“西の塞” という館、そして “文葉院” 図書の保管のための蔵に納めてある。

 コウヤからその話を聞いたヒノオは書物の総数が想像できず、隣でなんてことない顔で説明を続けるコウヤを思わず真顔で見てしまい、コウヤに吹き出して笑われた。

 二人は二、三冊の本を持って、ショウキの館をあとにした。この後も里を回って、午前に干した洗濯物を入れたりと手伝いをしてからコウヤの庵に帰るのだろう。

 自室に一人になったショウキは、書物を抱えた嬉しそうな二人の顔を思い出して、くすりと笑った。じっくりと時間をかけて書物部屋をめぐり、書物を見ながらお互いの知識や興味を語り合ったようだ。コウヤは時間があれば、鍛錬をするか書物を開く子であるし、ヒノオもかなりの読書好きのようであるから、今晩は二人とも書物に夢中になって夜更かしするのだろうな、と想像できた。そんな二人を思い浮かべるだけでとても微笑ましかったし、同世代の子と楽しそうに話すコウヤの姿が年相応に見えて、それが何よりうれしかったのだ。

 ―ヒノオには感謝せねば。

 ショウキが心の中でそう独りごちた時、蔀戸の外の板張りの廊下を、こちらに向かって進んでくる足音が聞こえてきた。足音は部屋の前でぴたりと止まり、蔀戸越しにショウキに呼びかける。

「大巫女様、フヨウ様がお越しです。正殿にてお待ちでございます。」

 館の仕人である。ショウキは先程までの和やかな空気から一変して、ふっと表情を仕舞い、抑揚のない声で答えた。

「分かった。すぐに参る。」

 仕人は一礼して下がっていった。

 ショウキは、一つ深く息をつくと、静かに立ち上がった。


 ショウキが正殿に入ると、下段にフヨウが座っていた。その目線は膝の一寸先を見つめており、伏せた瞼の先の長いまつ毛が目元に影を落としている。ショウキが部屋に入ったことで空気が動いたのだろう。燭台の炎が揺らめいて、フヨウの目元の影も同じように揺れた。

 ショウキは座に座ると、眼下のフヨウに問いかけた。

「どうしたのじゃ、フヨウ。何かあったか?」

 フヨウは微動だにせず黙ったままだ。

 ショウキはフヨウの背後に視線を移し、部屋の扉の左右に控える仕人に命じた。

「下がりや。二人で話す。」

 仕人が一礼し扉の外に出て行く。扉が重い音を響かせて閉まった。

 ショウキは再度フヨウに尋ねた。

「さて、フヨウ。これでよいかの?此度は何用で参った?」

 フヨウはようやく目線を上げると、ショウキをじっと見つめ口を開いた。

「なぜあの男をコウヤのもとに置いたのですか?」

 瞬間、両者の間に小さく電光が走った。

 ショウキはゆっくりと、穏やかな口調で問うた。ただ、その声は低い。

「何ぞ、不満か?」

「はい。」

 フヨウの返答は間髪のないもので、抑揚はないがその内に抗議の色をはらんでいる。

「コウヤは次代の大巫女となる大切な身です。何かあったら」

「何も起こらん。」

 ショウキはフヨウの言葉を遮るように否定した。

「ヒノオがコウヤに危害を加えることはない。これは断言しよう。…ああ、それとも、そなたの言う何かとは、これとは別のことか?」

 フヨウがぴくりと眉を寄せた。ショウキはゆったりと薄く微笑んだままだ。

「話はこれでしまいかの?ならばもうよいな。」

 ショウキは立ち上がると衣を翻し、座の後ろにある扉に向かう。

 フヨウは剣呑な目でショウキの背に問うた。

「あなたは何を考えているのですか。」

 ショウキがぴたりと足を止めた。

 燭台の炎がじじっと音を立てる。

 一呼吸分、間があった。

「勿論、皆と里の安寧じゃよ。」

 ショウキは振り返らずに答えると、今度こそ、そのまま扉に向かって行った。

 部屋の外にいた仕人が扉を開け、ショウキが出て行く。扉が軋む音を立てながら閉まっていく中、フヨウがこの場で初めて、押し殺しきれない感情の見える声で言った。

「私には、もう長いこと、あなたの心が分かりません。」

 その言葉に対する応えはなく、扉が閉まった。

 薄暗く静まり返った、橙の炎が揺らめく部屋には、フヨウ一人が残された。

 フヨウはショウキが去った奥を睨み、両の拳をきつく握りしめた。



 東の空が藍色に染まり出した頃、ヒノオとコウヤは帰路についていた。ショウキの館を出たあと、午前に引き続き里を回って手伝いをして、一区切りついたため今日はこれで終わりにしようということになったのだ。二人の懐にはショウキの館で借りた書物が大事に抱えられている。

「暗くなってきたね。今日は晴れてたから、昨日よりは暖かく感じたけど、日が落ちるとね。」

 コウヤがふるりと体を震わせる。外套や手袋などを身に着けて防寒はしているが、標高が高く雪深いこの里の冬は厳しい。今日のような快晴自体が珍しいのだ。コウヤもヒノオも、鼻先と頬が寒さで赤らんでいる。

「今日はさ、俺がご飯作るよ。旅先で料理を教えてもらうことがあって、すごく温まる料理があるんだ。」

「本当?ありがとう。楽しみ。」

 コウヤが嬉しそうに笑って、「それにしても」と続けた。

「雪かき、薪割り、洗濯、繕い物、料理、ヒノオはなんでもできるね。苦手な事とかものはないの?」

「勿論あるよ。」

「例えば?」

「…笑わない?」

「ふふ、笑わない。」

 もう笑ってるじゃないか、と思いながら、ヒノオは鼻を掻きながらぼそりと答えた。

「…歌と辛い物。」

 コウヤは目をぱちりとさせて聞き返した。

「歌と辛い物?」

「そう。楽器は大丈夫なんだけど、歌だけはどうにも。しまいには、披露する場なんかそうないから問題ない、って励ましてるのかどうなのかよく分からない励まし方をされて。辛い物は、なんていうかな、こう、痛いからさ。」

 ヒノオは口をへの字にして真面目に話しているが、片や、コウヤは声なく肩を震わせている。ヒノオはそんなコウヤにじとっと据わった目を向けた。

「笑うならしっかり笑いなよ。」

「ふっ、ふふ、だって、もっとこう、ねえ。ふふ、意外だったから、歌と辛い物。辛い物が痛いって、最初頭に薬塗った時、痛いの我慢してたじゃない。」

「いや、あの痛いとはまた違うんだよ。」

「ふふ、そうなの?」

 コウヤはまだ笑っている。あまりに楽しそうに笑うから、ヒノオもつられて笑ってしまった。

「コウヤは何かないの?苦手なもの。」

 今度はヒノオが同じ質問を投げかけた。

 コウヤはそれを思い出したのか、むむっと嫌そうに眉を寄せて答えた。

「にょろにょろしたもの。蛇とか、守宮とか。本当は調薬で扱うのもちょっと。いや、ちゃんと調合はするんだけど。」

「え、こんなに山に囲まれたところにいるのに?」

 こちらもなんとも意外な返答で、ヒノオは思わずつっこんでしまった。

「嫌なものは嫌なんだ。」

 コウヤがむきになって言い張る。

 ヒノオは「そっか。」と言いながら笑っているが、これは明らかにさっきの仕返しだ。

 そうして二人で話しながら歩いていると、向かいから里の男が二人歩いて来た。

「あ、おじさん、お疲れ様。」

 コウヤが男たちに気付いて挨拶する。ヒノオも軽く会釈をした。

「おう、コウヤ。お疲れさん。気を付けて帰れよ。」

 男たちはコウヤに手を振って、すれ違いざまに、ちらりとヒノオに視線を投げた。

「あの男だろう。外から来た旅人っていうのは。」

「ああ。なんでも大巫女様がコウヤに世話を任せたとか。東でも西でも、塞に捕まえておいた方がいいと思うが。外からの者など。」

 男たちがひそひそと小さな声で話す。あからさまにヒノオへ嫌悪の目を向ける者は当初に比べて減ったが、それでも遠巻きにして、目を合わせたり近づこうとする者はいない。

「そうだな。何があるか分からん。…ただ、」

 男の片方が、後方に小さくなったコウヤとヒノオを振り返った。つられてもう一人の男も振り返る。

「…俺は、あんなに屈託なく楽しそうに笑うコウヤを見たのは、初めてかもしれない…。」

 男たちの耳には、コウヤとヒノオの楽しげな話し声が、まだ小さく聞こえていた。



 人も動物たちも、木々や植物さえも寝静まった夜。

 フヨウは寝台の上で一人、膝を抱えていた。

 フヨウの居所は西の塞の離れにある。西の塞の主は別の人物であるが、母屋から少し離れたこの一角はフヨウに与えられている。

 日が暮れ出す頃、ショウキの館から戻り人払いをしてあるため、離れにはフヨウ以外には誰もいない。

 もう何刻も、フヨウは同じ体勢のまま、じっと虚空を見つめていた。

 外で風が吹いて、部屋の扉がかたり、と小さく音を立てた。

 まるで誰かが訪ってきたように。

 すると、それまでぴくりとも動かなかったフヨウが、ゆっくりと扉の方を向いた。

 もちろん、そこには誰もいない。

 扉をじっと見つめていたフヨウが、ふと、小さく歌を紡いだ。

 白く上がった煙が風に飛ばされて消えてしまうような、それ程のささやかな歌声。

 この歌は子守歌だ。この里では歌われることはない。歌ってはいけないと暗黙のうちに定められた歌。

 フヨウも、この歌が嫌いである。嫌いにならなければならないのである。だって、恐ろしい歌なのだから。

 それなのに、ずっと耳に、頭の奥に、聞こえ続けるのだ。優しい優しい母の声で。

 だからフヨウは、誰もいないところで、こっそりとこの歌を口ずさむ。本当に、音になるかならないか程の小さな小さな歌声だったけれど、それだけが母とつながっていると思えるよすがだったから。今はもう、目を合わせることも、会うことすらも稀になってしまった母が、自分を愛してくれているのだと思える、唯一だったから。

 歌にのせて想うだけでいい。

 遠くから見ているだけでいい。

 いつまでも今という時に、共に在りたい。

 ただ、それだけでいい。

 フヨウは抱えた膝に顔をうずめた。

「…お母さま…。」

 くぐもった小さな呼び声は、行く先もなく、静かな暗闇に吸い込まれていった。




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