終わりの風
冥き女神のかひなにて 黎きはざまゆらゆらと
つむぐはありし日夕暮れの 母の歌いし子守歌
星降るようなささやきは 愛し子眠りに誘いて
廻りの輪をくぐり行く
白む空には明けの星 一つ流れ落ちたれば
掌には無垢の靈 白百合のごとき指すべり
橙の海に飛び込みて 日出ずる光に導かれ
我今一度生まれ出ず
(『總傳類聚記』歌謡篇より「夜の女神の子守歌」)
壱
「おばばさま、このむこうはどんなところなの?」
柔らかな草葉に日の光が当たってきらきらと眩しい。白や黄の小さな花なども蕾をいっぱいに膨らませ、今にもぽっと開かんとしている。
そそり立つ山にぽっかりとあいた深く黒い穴を前にして、一人の老婆と一人の幼子は立っていた。しわの深い乾いた手と丸々として少し湿った手を繋いで。
さやさやと緑を鳴らした風が幼子の細い髪をふわりと浮かせた。
「そうじゃのう…。」
老婆が深く息を吐くようにゆっくりと、幼子の問いに答えた。
「この、向こうには、大きな悲しみや苦しみが、ある。何人も逃れられぬものじゃ。」
幼子がよくわからないというように首を傾ける。そして、「大きな悲しみや苦しみ」という言葉に、少しばかりの不安を瞳にたたえ隣の老婆を見上げた。すると、いつも穏やかな笑みを浮かべている老婆がこの時は、何かをこらえるような顔をして目の前に穿たれた暗い洞穴を見つめていた。
初めて見るその様子に、幼子は恐らく無意識に、老婆と繋ぐ手にきゅっと力を込めた。
老婆はその手を優しく握り返すと、見上げてくる瞳を真っ直ぐに見据えた。
「じゃがのう、それは逃れてはならぬものなのじゃ。」
「なんで?」
悲しくて苦しいのなら、なぜ逃れてはならないのだろう。当然の疑問だ。幼子の素直な問いに、老婆は真剣な表情を崩さないまま答えた。
「理じゃよ。」
「ことわり?」
老婆がこくり、と一つ頷き続けた。
「その理の下で、この先にある世界で、そなたはそなたの幸いを見つけていくのじゃ。」
「さいわい…。」
老婆の話は抽象的で、なんとも分かりにくい。幼子の頭には先程から疑問符がいくつも浮かんでいて、老婆の言葉を鸚鵡のように繰り返してばかりだ。その様子に老婆は、ようやくいつものようにふふっと笑いをこぼし、幼子の丸い頭をくしゃりと撫でた。
「じゃから、恐れることはない。歩みを止めてはならぬ。進んでゆくのじゃ。この向こうの遠く遠くを目指して、一歩を踏み出して行け。」
それはまるで、願いを込めるように。
空一面を覆った薄灰色の雲から絶え間なく雪が降っている。
風はない。音も、時折、積もった雪の重みに耐えかねた木の枝がそれを落とすのに、どしゃり、とさり、というだけ。
長く降り続いた雪で、木の根元や春には鮮やかに色づくであろう草花は、厚い布団の下で眠りについている。
そんな、時が止まってしまったかのような世界で一つ、影が動いた。
旅装束に薄汚れた外套を目深に被っている。歩を進めるたびにその合わせ目から、黒漆塗りの太刀が一振りのぞく。目元は隠れているが、薄い唇と黒鳶色の短髪が見えた。
この旅の男、ヒノオという。
彼は一人、枝を押し退け雪を踏み分け、道なき道を進んでいた。一歩一歩を踏むごとに、その足の裏にぎゅっぎゅっという感触が響く。
軽く顎を上げ、ヒノオは少し緩くなった傾斜の先を見やった。延々続いた枯れ木と雪の地面が或る一線で途絶え、その向こうに重い空と白く霞んだ遠山が広がっている。その手前で足を止め、手近な木に手をつくと、彼は一つ大きく息をついた。空気中で凍り付いた水蒸気が白い靄となって広がり消えていく。
彼が立つのは切り立った崖の上。眼下には周囲を険しい山々に囲まれた集落が一つ。
自然の檻に閉じ込められたようなその場所には、しんしんと降り積もる静寂と憂いをふくんだ狂気。
吹き上がる風がヒノオの頬を撫でた。
終わりの匂いが、した。
何か聞こえる。人の話し声だろうか。
なぜ目の前が真っ暗なのか。ああ、自分は目を閉じているのか。
ふっと瞼を持ち上げると、霞む視界にちろちろと橙色が揺れている。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音がする。暖かい。さっきとは大違いだ。
―さっき…?
一際大きく火が爆ぜた。
「…っ。」
瞬間に、ヒノオの頭にこれまでの記憶が駆け巡った。
雪の中を進んできた。
頬を刺すような痛み、指がじくじくと脈を打つ、空気の冷たさ。
眼下には静かに佇む一つの里。
風が耳元でひゅっと鳴った。
体に緊張が走る。
後頭部を襲った衝撃。
「痛っ。」
突如、思い出したかのように頭を襲った、がんがんとした痛みにヒノオが呻く。おかげと言って良いのか、彼の意識は一気に覚醒した。
殴られて気絶していたのか。ご丁寧に後ろ手で縛られており、自由が利かない。
ヒノオは周囲に視線を走らせる。薄暗い木造の部屋だ。窓はあるが閉まっており、隙間風すら入ってこない。
ここはどこだ。
その時、火の届かない、部屋の隅で何かが動いた。
「起きたか。」
暗い影から、低く太い声と共に大柄な男が出てきた。後ろに続いてもう一人。
そういえば朧気に人の話し声が聞こえていた。あれはこの二人のものだったのか。
床をぎしぎしと鳴らしながら、二人はヒノオの目の前に立った。
「来い。」
大柄な男が、抑揚のない声で一言そう言った。
先程の部屋と同様、薄暗い廊下をヒノオと二人は進む。長く続く壁には等間隔に蝋燭が置かれ、灯された火はゆらりともせず、ただじっとそこに控えている。外の光が一筋たりとも入ってこないため、時間の感覚が不明瞭だ。
ヒノオは、ちらりと前を歩く男に目をやった。先程の部屋で声をかけてきた、大柄な方の男だ。足元まで覆う被りの付いた外套をまとっている。背丈は六尺程だろうか。肩幅は広く、ずっしりと厚い、重厚感のある体躯をしている。
そして、ヒノオの斜め後ろにぴたりとついて歩くもう一人。こちらも前の男と同じような格好をしている。一度も声を発していないが、筋張った手や骨格の目立つ輪郭から、恐らく男だろう。背丈は五尺と六寸あたり。ヒノオより少し高いぐらいだ。筋肉質ではなく、どちらかといえば、すらりとした、という印象を受ける。若い青年だろうか。外套の合わせ目から突き出た太刀の柄には手がそえられている。ヒノオが妙な動きをすればすぐ動けるように、また、そのような動きをしないように、言外の脅しだ。
だが、ヒノオとて馬鹿ではないし、そのような無謀なことをするほど冷静さを欠いてもいない。どこに誰がいて、どこがどうなっているのか、自分の現在地さえも分からない場所で、尚且つ縛られた状態で、武器を持った、それも足運びからして日頃から鍛錬しているだろうと分かる男二人から逃げられるなど出来るはずもないし、よっぽどの事態にならない限りしようとも思わない。
そんなに気を張らずとも、そういえば自分の荷物は、などとヒノオがその場に似合わずつらつら考えていると、前の男が一際大きな扉の前で立ち止まった。
「巫女よ。件の男を連れて参ったぞ。」
男が扉の向こうに声を掛ける。すると中から年を重ねた穏やかな、それでいて一本筋がぴんと張ったような声が返ってきた。
「お入り。」
男たちがそれぞれ左右の扉を押し開く。重くゆっくりと開いたその先は、不規則に並んだ燭台に灯る橙色が室内をぼんやりと明かしている。一段上がった所に白い布で覆われた天蓋があり、その下の座に声の主はいた。
丸くなった背にしわの刻まれた目尻。手を膝の上にゆったりとそろえ、ちょこんと座っている。豊かな白銀の髪は艶を失わず、首の後ろ辺りで緩く一つに結ばれており、一筋の乱れもない。何より印象的なのがその瞳である。垂れた瞼に隠されつつあるが、その奥には鋭い光を宿しており、小さな体に不釣り合いな存在感がある。
ヒノオは男たちに促されるまま、老女の前まで歩を進め、腰を下ろした。
「ご苦労じゃったの。その子の縄をほどいてやって、お下がり。」
老女がそう言うと、ヒノオの腕からするすると拘束が無くなり、男たちの気配が遠ざかる。扉が重々しい音を立てて閉まると、部屋には老女とヒノオだけになった。
ヒノオが自由になった手を軽く動かしてみると、長い時間同じ姿勢で固定されていたせいか、筋が少し強張っている。手首には、かなりきつめに縛られていたのか痕がついていた。
「さて。」
おもむろに老女が口を開いた。ヒノオが視線を上げると、あの瞳がひたりと見据えてくる。
無意識にヒノオの体に力が入った。うなじの辺りがちりちりとざわめき、背筋を冷たいものが伝っていく。鋭い視線が肌に刺さるようだ。
この老女は、あの男たちと何かが違う。
そんなヒノオの様子に老女は口元をふっと緩ませた。
「ふふ。そのように警戒せずとも良い。まるで拾ってきた野良猫のようじゃ。」
老女は口元に手を添えてくすくすと笑っている。その場の空気が少し柔らかくなったような気がして、ヒノオの体から少しずつ力が抜けていった。
ひとしきり笑った老女はふうと一息ついて姿勢を正すと、ヒノオに尋ねた。
「まだ名を聞いておらなんだの、旅の若人よ。そなた名をなんと申す?」
「あ、はい、ヒノオです。」
何を聞かれるのかと思えば名前。
予想していなかった問いにヒノオは一瞬詰まってしまった。
「ヒノオ、か。うん、温かみにあるよい名じゃの。」
そう言いながら老女はふむふむと頷いている。その動作がつい先程の雰囲気とは全く違って、まるで小動物のようだな、とヒノオは思った。
「では妾も名乗らねばならぬの。我が名はショウキ。この里の巫女を務めておる。まあ、里長のような者じゃ。さて、ヒノオ。今度はうちの者がすまなんだの。そのように怪我まで。」
「怪我?」
怪我、とは。
ヒノオは手首を見た。確かに痕にはなったが、別にそれ程酷いものでもない。怪訝そうにあちらこちら見たり触ったりしていると、ショウキが「違う違う。」と袖に隠れた手を左右に振る。
「頭じゃよ、頭。」
「頭…。」
そこでヒノオは合点がいった。そういえば殴られていたのだった。
ヒノオが自身の後頭部に手を当ててみると、髪がぺたりと固まっている。ほぐそうと触っていると、ぱらぱらと何かが落ちる。何だろうと手を前に持ってくると、赤黒い細かい破片が付いていた。どうやら出血していたらしい。
確かに衝撃はすごかったし痛んでもいたが、まさか自分の頭がこんな惨状になっていたとは。
「その、あの者らは少々手荒でな…。」
「少々…。」
いきなり背後から血が出る程殴って少々なのか。まあ、人によって程度の表し方は違うものだから、この里や目の前に座るショウキという女性にとっては少々なのだろう。
そんなことをヒノオが思っていると、ヒノオの呟きを聞いたショウキはすいっと目を逸らしながら、
「いや、かなりじゃな。」
と、言い直した。
その様子がなんだか可笑しくて、ヒノオは笑ってしまった。
「ふ、はは。いえ、気にしないで下さい。旅をしていれば怪我の一つや二つよくあることです。」
ヒノオはすっと背筋を伸ばして姿勢を正すと、頭を下げた。
「里に見知らぬ男が現れれば不審に思うのも当然のこと。こちらこそ、里に不安を与えてしまったこと、お許し頂きたい。」
ショウキはまさか謝罪を受けるとは思っていなかったのだろう。目を丸くした後、それを柔く細めた。
「なんと懐の深く、実直な男子よ。その傷はきちんと手当をする故、安心せよ。しばし里に滞在し、旅の疲れも癒すが良い。」
そう言うと、ショウキは後方を振り向いて呼び掛けた。
「コウヤ。」
ヒノオもつられて視線をそちらに向けると、天蓋の後方の柱の背後から、一人の少女が姿を見せた。年の頃は十五、六でヒノオと同じくらい。真っすぐで黒く長い髪が白く透き通った面を縁取っている。
最初からそこにいたのだろうが、全く気配がしなかった。ヒノオは今まで気が付かなかったことに驚きながら、その少女から目を離せなかった。
コウヤ、と呼ばれた少女が、静かに天蓋の横、上段の際まで進み足を止める。
「そなた、ヒノオの手当をしておあげ。それからそなたの庵で面倒を見ておやり。この者は、妾の客人として、里への滞在を許された者である。」
ショウキが里の長として、厳かに告げる。
「はい、おばば様。」
コウヤはヒノオを見つめたまま、そう一言だけ答えた。
ヒノオの瞳には、燭台の火に反射してきらきらと輝く、彼女の夜空のような美しい瞳だけが映っていた。
ショウキと別れ、ヒノオはコウヤと呼ばれていた少女の後ろについて部屋を出た。
コウヤは迷路のような館の中を迷いのない足取りですたすたと進んで行く。何度も右へ左へと角を曲がり、場所の感覚が掴めていないヒノオは頭の中が混乱しそうになっていた。
これは一つ角を間違えるだけで出られなくなりそうだ、とヒノオは思った。
「迷ってる?」
唐突に、前を歩くコウヤがヒノオに声をかけた。
「慣れてしまえば大丈夫なんだけどね。今は館の裏口に向かってるよ。」
「裏口?」
「正面口よりそっちの方が近いんだ。あなたの荷物もそこで渡すから安心して。」
そう言っている内に前方に戸が見えた。その脇にはコウヤの言った通り、ヒノオの外套や太刀などの荷物が置いてあった。
「これで全てだと思うけど、不備はない?」
コウヤが自らの外套を羽織りながら問う。
ヒノオは荷物を確認して、手早く身支度を整えながら答えた。
「大丈夫。」
コウヤは一つ頷くと、戸をがらりと開けた。
風はないが、入り込んだ冷気がぶわりと広がり、ヒノオの鼻をつん、と衝いた。
一歩外に出ると、やはり変わらぬ真っ白な世界ではあったが、空から落ちてくる雪は、ヒノオが捕まった時より少し落ち着いていた。
館の裏はほぼ垂直な山の斜面に面しており、そこに一つ、大きな洞穴があった。
ヒノオはそれを横目に見ながら、戸を閉めて歩き出したコウヤの後に続いた。
館の正面にまわり、門をくぐって敷地から出る。
門を出るとすぐ、南に向かって真っ直ぐにのびる路が一本通っていて、この路が里を東と西に等分している。それを挟んで両側に家が点々と建っている。路や家の周辺は雪がどけられていた。井戸に水を汲みに出ている人や、荷を背負い足早に行く人、雪かきをしている人などがちらほらと見える。
里の様子から半歩前のコウヤに目を移し、ヒノオが口を開く。
「君のことはどう呼んだら?」
コウヤは首だけ少し振り返って答える。
「コウヤでいいよ。私もヒノオと呼ぶけれど…」
「分かった。じゃあ、コウヤ。これから何処に?」
「私の庵。」
二人は南北の大路を歩いている。ずっと雪の中を進んできたヒノオにとって、雪が除けられた道は非常に歩きやすいものだった。
「おばば様の館は里の最北にあるけど、私の庵は里の最南にある。大丈夫、そんなに遠くないから。」
そう言ってコウヤは口角を少し上げてみせた。そして、再び視線を前に戻す。
確かに、その里はぐるりと囲む山の中にあって、その範囲はそれ程広くない。里の周縁が、中心を通るこの路から目視できるのだ。
もしかすると、一族単位の里なのかもしれない。
そんなことを思いながら、何気なく周囲に視線を這わせたヒノオは、自分たちに向けられた、里の 人たちの視線に気付いた。
そして、さらに気付いた。
いや、違う。自分たちにではない。これは自分に向けられたものだ、と。
「気にしないで。」
コウヤが前を向いたままおもむろに言った。
ヒノオからその表情は見えないが、寄せられる視線など無いもののように淡々とした口調だ。
「この里に外から人が来ることなどないから、みんな少し珍しいだけ。」
少し珍しいだけ。
これがそんな程度のものとは、ヒノオには感じられなかった。
嫌悪、不安、恐怖。
さながら、何かにおびえるような目。
ヒノオは外套の下でそっと、ざわつく胸に手を当てた。
「はい、これでおしまい。」
ヒノオの頭に巻かれた包帯が後ろできゅっと結ばれ、程よい圧迫感が額をしめた。
コウヤの庵に到着してから、ヒノオは頭の怪我の手当をしてもらっていた。この庵は、小さな土間と、そこから上がった囲炉裏のある一室のみのこじんまりとしたものだが、障子戸から外の光が入って、ショウキの館とは対照的に、明るい雰囲気である。
「痛くない?」
かちゃかちゃと薬箱を片付けながらコウヤが尋ねる。
ヒノオは額の包帯をさすりながら答えた。
「うん、大丈夫。」
すると、間髪入れずにコウヤが「うそ。」と返した。
「その塗り薬とても滲みるんだ。」
そう言って薬箱をぱたんと閉じると、悪戯っぽい笑みをヒノオに向けた。
ヒノオは、ふっと苦笑を漏らすと素直に答えた。
「うん、実はさ、すごく痛い。これ何が入ってるの?」
固まった血を綺麗に拭って、何やら緑色の薬を塗ってくれたわけだが、これが結構滲みる。良薬は何とやらというが、本当にそれはそれはよく効きそうな薬だ。しかし、手当をしてもらった手前、痛いなどと文句を言うわけにはいかない。
そう思い、ヒノオはぐっと堪えていたのだ。
「調合は秘密なんだ。おばば様秘伝なんだよ。」
コウヤは面白そうにくすくすと笑っている。
二人が会ったのはもちろん、ショウキの館での、ついさっきのことだが、年が同じくらいだからか、なんとなく親しみを感じて、お互いすぐに打ち解けた。
「おばば様は薬に詳しいんだね。」
「そう。だから私、色々教わってるんだ。」
薬箱を棚に戻したコウヤが囲炉裏端にいるヒノオの隣に腰を下ろす。そして、囲炉裏に冷えた手を伸ばした。
炭がことん、と崩れて火の粉が少し舞い上がった。
静かだ。一つ一つの音が余計に大きく聞こえる。
ヒノオは炉火を見つめた。その視線が赤い炎にじっと吸い込まれていく。まるで意識がここから切り離されていくように。
「ヒノオ。」
名前を呼ばれ、ヒノオがぴくりと反射した。
暖かい所に落ち着くことができて、少しぼうっとしていたようだ。
ヒノオはコウヤの方に顔を向けた。
「何?」
「あなた、東の際で捕まったんだよね。この雪の中、どこから来たの?」
ヒノオが殴られ気絶したのは里の東端ということだ。ヒノオはこの庵に来るまでも含めて、少ない情報ではあるが頭の中に地図を描きながら、コウヤの質問に答えた。
「この里の外のずっとずっと遠くだよ。色んなところを歩いて、旅してきたんだ。」
「外…。」
コウヤが何か思うところがあるかのように、ぽつりと呟いた。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない。」
コウヤは微かに笑んで首を横に振ると、何もなかったかのように続けた。
「これまでどんな所に行ったの?」
「そうだなあ、それこそこの国の至る所を歩きまわったけど、そういえば南のほうに行って海も見たなあ。」
「海?」
コウヤの顔に好奇心が広がっていく。まるで無邪気な子どものように瞳を輝かせている。以前見た海の水面のきらめきがヒノオの脳裏に甦った。
「見たことない?」
ヒノオが微笑ましく問う。
コウヤは囲炉裏にかけて煮だしていた薬草茶が沸いたので、湯呑みに注ぎながら答えた。
「うん、私この里から出られないから。」
「出られない?」
思わず聞き返したヒノオの心の隅に、何か棘のようなものがちりっと触れた。それは気付くか気づかないか程の微かなもので、しかし、ヒノオの中に確かな違和感として残った。
出たことがない、ではない。
出られない。
「そう。だからね、ヒノオが見たもの、聞いたもの、私に聞かせてくれないかな。」
コウヤは湯呑みをヒノオの手元に置きながら言った。
ヒノオはしばらく置かれた湯呑みを見つめていたが、一つ瞬くとそれを手に取った。
「うん、もちろん。俺の話でよければ。」
そう口を開いたヒノオは、「そうだなあ。じゃあ、何から話そうか。」と、これまで訪れた様々な場所の風景を思い浮かべた。
ヒノオとコウヤが去り一人になった部屋で、ショウキはじっと座ったままだった。
燭台の火がじじっと音を立てる。
ショウキの顔にかかる影が揺らめいた。
「とうとう、時が来たのやもしれませんのう、女神よ…。」
遠くを見るような目で、ぽつりと呟いた。
終わりの時は、もうすぐそこに。