第三話 異世界
「ふわぁ」
寝て、起きた。僕の口から出たこの情けない声色は、その証。
寝ている合間に、夢は見なかった。ただ、極度の緊張に認識すら揺らぐほどの震えは治まったようである。
いつの間にか、体はふかふかした布団に安堵されていた。ぼやと、何時も見上げる古びた天板、そこに年輪の流れる線に僕は安らぎを覚える。
「ふむ。起きたか」
しかし、そんなちょっとした安心なんて、この人の前ではただの隙。
何故か僕の部屋に当たり前のように存在している、上水善子――髪先からスーツまでなんとも青くなった――は僕を覗き込んで笑んだ。
「うぉっ!」
それに、驚くのは自然のことだろう。だって、憎たらしく思えるくらいの綺麗な人が、異様な程に気安く眼前いっぱいに広がったのだから。
僕の驚愕の表情をブルーの瞳に映し、途端に口の端に釣り上がる、歪み。
ああ、やっぱりこの人は、悪い。
「はは。私に、驚いたか。どうだ、ワーニングなモーニングだったか?」
「いや、それはもう。朝起きて魔王に出会うなんて、普通はないからさ。朝からレッドアラートが凄いよ」
朝から額に銃口。いや、拳銃――悪くしても僕が死ぬ程度――以上の代物が横でうるさくしているというのは、笑えない。
だってこの青は、目覚めた今だって分かるくらいに――無線とはいえ繋がっているためかもしれないが――規模が違う。心すら、きっと未だ遠い。
果たして、蟻が象の隣で慌てずにいられるだろうか。こんなのと隣り合うのは、本来ならば拷問だ。だから、思わず少し悪くなった舌が下らない強がりを囀ってしまうのだった。
「ふむ」
でも、善子さんは明らかに魔王程度ではないよな、と思っていたところ。彼女は僕の相変わらず間違っている言葉を笑わず受け止めていた。
少し考えてから、またニヤリと僕に向かって笑む。布団から半身起こした体が、また怖気に震えた。
「……魔王、か。クスの系統がそれに近いな。だが、私はそれとは少しジャンルが異なるぞ?」
テキトウに言ったのだけれど魔王って本当にいるのか。まあ、こんなのが存在するくらいだから、あってもおかしくはないよな。そんな文言が胸中で一度に流れる。
けれどもしかし、分かったこと以上に謎は深まるばかり。そんなファンタジーを知っている、概念のようにすらなっているこの人は何なのだろうか。
端的に、僕は口走る。
「キミは、一体何なんだ?」
短い疑問。程度の低い問いに、しかし今度は笑うこともなく、また高らかに素性を明かす。
「なに。ただの元、悪の首魁だよ」
空の青より遠く、水の青よりわざとらしく、彼女が負う長髪は手ぐしに棚引く。僕に向けられたその瞳はダイヤより透明で、霞よりも無価値。
しかし、嘘のような言葉に反してどう見たところで少女は真剣で。
僕は、ごくりとツバを飲み込み、口走る。
「善子さんに仲間とか、居たんだ……」
そういうこと、らしかった。
「はぁ……困ったな」
その後、静かに善子さんに怒られた――どうやら、彼女は自分がぼっちに見えるということを気にしているようだ――僕は、家から追い出された。
いや、追い出されたは語弊があるだろうか。実際は、いい子ならとっとと学生は学校に行けと、強く背中を押されたという方が正しいだろうか。
そう、家の中に彼女――曰く悪の首魁――を置いて。
「居座られた……」
僕は、思わず天を仰いだ。そうして思う。やはりお空は綺麗すぎずに、素晴らしい。それに比べて、あの青の理不尽さといったらどうだ。
たしか、あの人は僕を送り出し際に、こう言っていた。
「私だって、好きであばら家に住むわけじゃないんだって……」
無線とはいえ、繋がっているならば離れすぎないほうが望ましい。僕が登校準備に勤しむ間――トミさんは今日は僕が遅かったからだろう既に外に出ていて、元気そうだった――そんなことをほざき、彼女は床の間で寛ぎながらニュースを眺めていた。
まあそれだって別段、我が家の占拠を宣言されたわけでもないけれども、プライベートスペースが失われるというのは僕にとって痛い。そもそも幾ら見目が整っていようとあんなのと一緒にいるのなんて、嫌だし。
それに、生活費とかどうすればいいのだろう。果たして、あの存在はご飯とか食べるのだろうか。まあ、テレビを見て人が死んだニュースでニコニコしてたから、電気代は増しそうではある。
「困ったなぁ……」
思わず、僕はそう言った。自分だけでは解決できずに、ただ零した弱音。小さく、そんな言葉は風に消えるはずだった。
「んー? 宗二お兄さん困ってるの?」
「あ、ゆきちゃん」
けれども、そんな言葉を精一杯背を伸ばして拾ってくれたのは、幼さを楽しそうにほころばせる、そんな少女。
それこそ善子さんと対照的に善であるゆきちゃんは――僕をびっくりさせようとしていたのか、近くの背の低い土塀の角から顔を出し――てとてと寄ってきた。
そして頼りない子供の両手を広げて、少女は言う。
「それって、なあにー? わたし、何とかしちゃうよー!」
くりっくりの鳶色の瞳から向けられるのは真っ直ぐな、好意。先までひねくれた悪意でしかない人に振り回されていたばかりだったので、正直に僕は癒やしを覚えた。
そして、だからこそこう気持ちに力を貰ったのならば、情けないのは終わりだと、虚勢をはる。僕は拙い笑顔で、少女に言った。
「……ありがとう。いや、大したことじゃなくってさ。大丈夫だよ」
そう。よく考えれば大したことなんてない。何しろ、悪くしたところで、僕がダメになるだけ。それくらいなら、許容範囲内だった。
大丈夫。本心でそればかりは言えた。
「そうなのー……うーん……でも……そっか!」
しかし、せっかく発奮した意気がぶつかるところを失い、迷ったのだろう。ゆきちゃんは逆に困ってしまったようで、手をぱたぱたと様々に動かし考える。
そして、僕がそういえばどうしてこの子朝のこんな時間にこんなところに居るのだろうと、思っていると。
「おなやみ分かったよ! ずばり、お兄ちゃんほしゅーなんでしょ!」
「え?」
予想を外した突飛な発言が飛んできた。
ほしゅー、いや補修。ゆきちゃんに、僕は勉学に悩んでいるように見えたのか。
そんなに僕、バカっぽいかな。点数的にはまずまず褒められる方なのだけれども。
「補修って、別にそんなことないけれど……ゆきちゃんはどうしてそう思ったんだい?」
「えー、だってー……」
ツインの尾っぽを互い違いに上下。なんでそんなことすら分からないだろうと、お利口さんな少女はきっと思っているのだろう。
さて、僕は何を間違えているのだ。そんなに、馬鹿なことを僕はやっているのだろうか。
「土曜日なのに、制服着てる宗二お兄ちゃんってはじめてみたから!」
びっくりしたよー。そうニコニコゆきちゃんは言う。
「ああ。そりゃ、馬鹿に見えるよなぁ……」
つい、再び天を仰いだ僕。今度は空の青すらどこか、憎たらしいくらいに見えた。
「……かわいい」
私立なら、そして進学校も補修として行っているだろうが我が鶴三高校には、土曜授業はない。
それなのに、僕は鞄を持って慌てて何時もの登校をしていた。そんなボケた僕を見てあえて何も言わなかった、トミさんの優しさが痛い。
「なんだなんだ、学校は止めか? 宗二、お前本当にいい子なのか?」
恥ずかしさから、脱兎と呼んでもいいくらいに家に帰った僕。
そこにのんきに響く青い音色――声ですら色別出来るのはやはりおかしいな――に苛立たしくすらなりながら、僕は制服を玄関先に脱ぎ捨てる。
そして、靴ばかりはちゃんと置いてから、足音を立てながら居間にてサスペンスドラマを見て笑っている善子さんの元へと向かった。
振り返る、氷塊のような儚さに向けて僕は、言う。
「善子さん! 学校だって言って追い出すからそのまま登校しましたけど、今日土曜日ですよ!」
「んー?」
衝撃にすっかり日付を忘れていた僕が文句をいうことではない。けれども、それが無駄でも人を騙して喜ぶ性根の悪さは糾弾すべきだと思う。
しかし、上水善子は意外を面に出す。
そうして、座敷に膝を立てて座っていた彼女は、首をゆるりと回し、カレンダーを認めて。
今度は首を傾げた。そして。
「前のセカイだと今日は木曜日だったはずなのになあ」
おかしいな、と笑う。
セカイ、世界。
その言葉の意味を考えようとする僕に、善子さんは微笑んで。
「――――私はこの世界のモノではないからな。まあ――――これくらいは、許せ」
なあ、異世界のいい人。と泡のように小さく零すのだった。