第一話 夢うつつ
これが夢だと分かる、そんな夢もある。
それはたとえば、内容がひどく突飛であったり、はたまたズレていたり、そんな風に異なっているものが代表的だ。
全体が霞がかっていたりしたらなお、分かりやすいかもしれないか。
そして、今回のこの夢はあまりに俯瞰的すぎていた。自分のつむじを見ることなんて、機械の記録を通してか、はたまた夢想くらいにしかないものだ。
それも、今より幼いなりをしている自分を見下ろすことなんて、まずあり得ない。
だから僕は、どうしようもないこととして、冷静に彼彼女らを見下ろせるのだった。
僕を睨むように見つめているのは、数多の本の墓の奥、絶対的な無音の中、突然の来訪者に鼓動を高める銀の少女。
作務衣のような、患者衣のような、そんな似合わない地味を纏ったまま、彼女は呟くように言った。
『なに、あなた……』
『オレは……』
彼は答え、そして、僕はここでここでこの少年は僕に似た誰かだとようやく気づく。
だって、僕は絶対に自分のことをオレとは言わない。だから、眼下の彼は夢の中の空似。その筈だった。
『海山宗二』
しかし、彼は僕の名前を口にする。驚きを覚える夢中の僕を他所に、同じ名前の彼は続けた。
『ここは、寂しいところだね』
それは、奇しくも僕と同じ感想。思わず、少年の気持ちに心重ねる。
その表情は後ろから望めない。けれどもきっと、彼は悲しんでいるはずだ。
だって、ここは見渡す限り、あからさまに錆びて死蔵された図書の合間。造られた光線の下に、つまらなそうにしている少女が独りだけ。
そう、独りぼっちなのだ。それは寂しい。
果たして、こんなところに置いて、彼女の親御さんたちはどこに居るのだろう。
そんな考えが脳裏をよぎる中、僕のような少年は、彼女に手を差し伸べた。
『出よう』
『っ!』
僕の角張って大きくなったものと違い、彼の手のひらはどうにも小さく、頼りなくすら映る。
後ろから覗いているばかりの僕でもそうなのだ。きっと、目の前にした少女はもっと儚げに思えたのだろう。
それこそ、蜘蛛の糸を見るかのように目を凝らしながら、彼女は驚くのだった。肩まで伸びた銀糸をその所作で煌めきに換えながら、少女は問う。
『どうして?』
『そんなの入ったら、出るのは当たり前だろ?』
『……そう、なんだ』
『そう、なんだよ』
疑問に、応える少年。当たり前の応答のようだが、僕には少女の反応が少しばかり不思議だった。
それは、まるで今までこの人を拒絶する知識の庫から彼女は出たことがなかったような、そんなことを示唆しているみたいで。
あってはならないけれど、もしかしたら。
ひょっとして、様々な当たり前をこの少女は味わったことがないのでは、と、そんな勘ぐりを始める僕を他所に彼女は意を決する。
紅の頬の下の薄い桃色をきゅっと真っ直ぐに。糸を掴むことを心に決めた彼女は、少年の手を取った。
『わたし、行く!』
『ああ! それじゃあ……』
白磁の指先は、頼りない彼の手のひらを、確かに掴む。やがて、少年は少女を引っ張り出した。
二人手を取り、独りぼっちはもうお終いだ。
そして、あたたかな皆の元へと帰る。そんな当たり前は誰にだってふさわしい。
そう、多くの幸せこそが、僕にとって一番に望ましいことだ。
けれども。
それがすべてのヒトの望みではないことだって、知っている。
たとえば善があるなら、悪があって然り。
そして、輝かしい未来があるとするなら。
「――――そこの悪い子、だあれ?」
どこかに黒黒とした絶望があっても、仕方がないのだった。
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振り返り、少年少女たちは、絶対的な黒を見た。
そしてそれは僕も――――
「はぁ……なんだったんだ、今の夢」
目覚ましに設定していた携帯電話のアラーム音に、額に汗をびっしりとかいた僕は、なかなか反応できない。
心許なさを慰めるために、こうして布団を抱きしめるのは、どれほどぶりだろう。
大人というにはまだ早くとも独りにも慣れた筈の僕が、一人であることに震えるなんて。
それくらい、最後に垣間見た黒は、どうしようもなく恐ろしかった。
「悪夢、だったな」
そう、正しくアレは悪夢。
アレは夢である。夢で良かった。
そうでなければ、きっと。
「はは。あんなの本当に居たら、世界滅んじゃうぞ……」
僕は笑い、しかし怖さの全てが拭い飛ばせなかった。
何しろ、僕が口にしたのは本気の予想だったから。
変に怖い夢を見た。確かに、それは良くないことだ。
だが、それだけで日常を送ることを止められはしない。
ベッドで存分に震え終えた僕は、寝間着のまま一人暮らしの家を一旦空けて、勝手知ったる隣家にお邪魔する。
そして、僕は今日もトミさん――ご家族に時々面倒を見てくれと頼まれているお隣のお婆ちゃん――のところから、少し足の不自由な彼女が出したゴミをゴミ捨て場に出しに向かおうとする。
合鍵を使ってどこかハッカのような匂いのするトミさんの家の中に入ると、小さな彼女は杖をつきながらお出迎えしてくれた。
おはようの挨拶とともに、ちゃんと玄関近くにゴミを袋に纏めてあることを確認してから、僕は声をかけた。
「トミさん、今日は燃すゴミこれだけ? うん、たしかに持ってくよー」
「おお、宗二坊っちゃん、何時もありがとうなぁ。ほら、飴ちゃんあげるよー」
「別にいいんだけれど……うん。貰わないって言ったらトミさん意固地になるからなあ。うん、どうもありがとう」
「ふふ、宗二坊っちゃんはホント、いい子だねえ」
飴を受け取るために差し出した手を優しく握り、にこにこと僕に深いシワを惜しげもなく向けてくるトミさんに、僕は気恥ずかしくなり、頬を掻く。
いい子、それは僕なんかには過ぎた称号だ。
そりゃあ、一人暮らしのお婆ちゃんを一人暮らしの青年が面倒見るのは美談かもしれないけれど、実際のところご飯をご馳走になっちゃったり、そもそもトミさんには前から大きな恩があるわで、持ちつ持たれつだ。
そもそも関係ある人間を見捨てられないなんて、そんなの当たり前。僕は、苦笑しながら首を振る。
「トミさんはそう言ってくれるけどさ、実際僕なんて普通だよ?」
「そんなことないよぉ? 謙遜なんて、宗二坊っちゃんは出来た子だねぇ……」
「あはは……」
しかし、僕の否定をトミさんは否定する。そしてどこまでも肯定してくれる。
全く、つい助けたくなってしまうくらいに、この人は優しいのだ。僕とトミさん、どっちが人がいいかなんて、比べるまでもなく決まってる。
まるで我が家より実家であるかのような安心感を、この人の隣で僕は覚えてしまう。
しかし、このまま褒め殺しにあって、万が一でも僕が自身をいい子だなんて勘違いしてしまっては良くない。怖かった夢のことなんて忘れて、自ずから笑顔で、僕はトミさんに向けて手をふる。
「もう行っちゃうのかい? それじゃあ、またねぇ」
「また後で来るよ、トミさん。じゃあね!」
そのまませかせかとゴミを手に取って、ガラガラと扉を締める。
一度振り返り、一歩二歩。そして僕はおもむろに、貰った飴を確かめずに、カランと口に入れた。
「ん。今日は、りんご味か……」
下に感じる、爽やかさ。それは何時ものいちご牛乳味とはまた違う。
僕は何となく、今日は一味違う日になりそうだな、とそう感じた。
と、変化の予感があったとしても、実際そう違いが出ることなんて稀だ。
学生として当然のように励む勉学の内容に大きな違いが出たらむしろ大事だし、別段本日体育において僕が特に目立てたようなこともない。
帰りショートホームルームの終わりに伸びをして、僕はあくびをしながらまあこんなものかと振り返る。
そんな一日を締めるためにも、部活動へと向かうために席から僕が立ち上がると、帰り支度が済んだ様子の友と目が合う。
彼、道上大地は強面気味な整った面をにこやかに変えて、僕のもとへとやって来た。
そして隣の空いた椅子にためらいなくどっかりと座って、大地は単刀直入に、言う。
「ソージ、俺ん家寄ってかね?」
「いや、今日はいいよ。美化部の仕事あるし」
「えー」
断られるとは思っていなかったのか、嫌気に表情歪ませる大地。地顔がやんちゃなだけあって、怒っているようにも見えるが、しかしこれは拗ねているだけ。
実際、長身の彼は少し背中を曲げ、僕に視線を合わせてから口を尖らせ、零した。
「お前さー。そこはボッチ部の名ばかり活動より、友の誘いを受けるべきじゃないか? たまにはさー、共闘しようぜ?」
「ゲームなら時々通信で一緒にやってるからいいだろ?」
「えー、そこは人のぬくもりというか、ぶっちゃけ駄弁れなくてつまんないっていうかさー」
大地は見た目に反してそこそこ、ゲーム好きだ。そしてまた一緒にゲーム配信しようぜ、と誘ってくるくらいにはながらで喋るのも好きな男だったりする。
それを考えると、こうも僕をゲーム――きっと得意な野球ゲームだろう――に誘ってくるのも不思議ではないか。
「ん?」
だがそこで僕はふと、思い立った。いや、大地は僕よりもっと一緒に居るべき人が居るじゃないかと。
彼に負けない長身の女性とのツーショットを何枚も見せつけられた覚えから、僕はいやまさかと思いながらも、どうしてだと口走る。
「いや、大地……お前ついこの前出来たとか言ってた彼女はどうしたんだよ……」
「振られたんだよ……俺のこの辛さが分かってくれるなら、今日はトゥギャザーしようぜ?」
「いや、僕彼女なんて居たこと無いから分からないよ」
「そんなー……」
大げさにもがくりと項垂れる大地。やがて、少しの間彼はうぬぬと考え出した。
僕が振られておかしくなったのか、いやこのくらい大地の平常運転だったな、と思っていると、がばりと顔を上げた彼は通りがかりの女の子の肩を掴んで、言い張った。
「よし、ソージに俺の気持ち分かってもらうためにも、ケー、お前ソージと付き合うんだ!」
「唐突にあたし!?」
そんな言に、当然驚きを覚える女の子こと、富士見恵さん。
小学から高校まで一緒の、地味に馴染みの少女ではあるのだが、しかしこんな僕と急に付き合うなんて酷だろう。
いやそもそも、混乱していてそれどころじゃないだろう大きな瞳をぱちぱちさせている恵さんに、大地はなおもたたみかける。
「何ー! ケー、ソージじゃ不足だってのか!」
「いや、そうじゃなくってさ! 通りがかりというか、唐突だというか、あたしなんかじゃ宗二くんと釣り合わないというか、むしろあたしとしては男女より男子男子が良いというか……」
「恵さん……慌てすぎて本音出ちゃってるよ」
「あかん。このケー腐ってたわ。誰だこいつ賞味期限切れまで取っといたの!」
「切れてない! まだぴっちぴちで新鮮だっての!」
「え? サイズぴっちぴちでストッキングが伝線?」
「去年の冬の惨劇を大声で言わないで! うわーん、宗二くん、大地がいじめるー!」
どこかふざけた会話。そうして、恵さんはふざけた様子のまま、僕に縋り付いてきた。
いや、ふざけていても、結構体重をかけているのか、失礼ながらすこしぐらりと倒れそうになる。そして、その原因だろう彼女の発達した足元もそっと見る。
悪いが、確かにこれは太い。なるほど確かに、時に大地が足の太さならあいつがナンバーワンだと、恵さんをからかうわけである。
そう実感いかせながらも、そんな感想をお首にも出さず、僕は恵さんをそれなりに力を入れて退かしながら、言う。
「はぁ、大地。好きな子をいじめる癖、直したほうが良いぞ」
「え、それってもしかして……」
「いや、俺ちょっとそんなとこあるけどさ。ケーに対しては、マジでライク。本当に好きなら普通に大事にするから」
「うー、弄ばれたー!」
叫ぶなり恵さんは、その健脚(?)ぶりを披露し、あっという間に消えていく。
元陸上部女子は凄いなあ、と思いながら僕はいじめっ子である大地の方を見た。
ケラケラと笑う彼は、涙まで出てきたのか目の端を擦りながら、椅子から立ち上がる。そして、背を向けながら言った。
「あー、おもろかったー。満足したから良いけど、マジで暇出来たら偶には家に来いよな、ソージ」
背中越しにじゃあな、と言う彼に同じ言葉を変えし、僕らは別れる。大きな背中は、そのまま扉の外へ消えていった。
あれはあれで、情が深い。きっと僕のことを心配してくれているのだろうな、と思う。
ふざけるために、人をからかうのが好きな大地。そんなあいつの性格はやりすぎなければ僕も嫌いではないが、しかしついこうも考える。
「悪いやつだなあ……」
けれどもアレが、笑って許される程度の悪さなのだろうなと、そう思いながら、僕は自分がずっと笑んでいたことに今更ながら気付くのだった。
部活動でゴミ拾い、それに草刈りを軽くして、整理整頓で二時間かからず。
それくらいでは、太陽もまだ空にあってくれる。だからこそ、まだまだ子供は帰ろうとチャイムが鳴ったところで元気している子だってそこかしこに居た。
何となくそれらを目で追いながら帰っていると、それで気がそぞろになってしまったのだろう。僕は急な幼気の襲撃を受けた。
「どーん!」
「うおっ」
「きゃははっ! 宗二お兄さん、びっくりしたー?」
「ああ、ゆきちゃん。僕は心臓が飛び出るかと思ったよ……」
「ふふー。お兄さんの心臓、飛び出たらわたし、持ってちゃうよ? えっと、はーときゃっちだー!」
きゃっきゃきゃっきゃ。夢で見た少女の大人しさがそれこそ遠くに感じられるほど、弾む幼気な少女。
このツインテールの少女、埼東ゆきちゃんとは既知の仲だ。具体的には、ゆきちゃんのお兄さんと僕は友人同士で、その縁で彼女の面倒を度々みていた。
みつぎお兄ちゃんが居なくなって――彼女の兄、埼東みつぎは先ごろ大学に進学して遠く一人暮らしを始めたのだ――寂しいという彼女によく構ったためか、こうして見つかるたびに、はしゃがれる。
まあ、僕は子供らしさが嫌いではない。なんだかくるくるし始めた彼女を面白がりながらも、どう触れたものかと思っていると、横から声がかかった。
「宗二ちゃんのハートキャッチ、かぁ……ねえ、ゆきちゃん、そのハート、私にくれない?」
「えー! ヤダ!」
「がーん」
「横から唐突に現れて、何崩折れてるんですか、真琴さん……」
ぼさぼさのくせ毛をなびかせ、白衣姿でふらりと現れ、幼子に拒否されて地面に崩折れた女性――井波真琴――に、僕は思わずそう突っ込んだ。
子供の言葉遊びを、横から本気に取ろうとしている当たり、この人はどうにも変わっている。
まあ、それも彼女が曰く紙一重な天才だから、なのだろうが。何事もなかったかのようにすっくと立ち上がった真琴さんは、僕を眼鏡のレンズ越しに注視しながら、こう言った。
「宗二ちゃん。私のことは、尊敬を込めて真琴博士と呼びなさい」
「いや、博士と言うのは別にいいですけど、今や色々放っちゃってニートしてるだけの真琴さんに尊敬をというのはちょっと……」
「がーん」
「だから道端で崩れ落ちないでくださいよ……」
「まことちゃん、どーん!」
「ゆきちゃんも、真琴さんに突進しちゃ……あ、完全に真琴さんが崩落した」
「わー」
「きゃー」
子供に乗っかられて、それにすら耐えきれずべちゃりとなった体力ゼロの真琴さん。広がった白衣が無駄に暗色の路面に映える。
細い彼女がふらふらと立ち上がるのを手を取り助けながら――ゆきちゃんの妨害に二回ほどあって危なかった――僕は今更ながら疑問をぶつけたくなった。
なんでこの人、家でずっと心血注いでやっていた研究放って、最近フラフラしてるのか、と。正直に、僕は聞いてみる。
「そういえば、真琴さんってどうして研究止めたんですか? 真琴さんのお父さん、町内会の会合でだいぶ愚痴ってましたよ?」
「おーう。パパのことを言っちゃ駄目よ。私の良心に来る」
「んー? まことちゃんに心なんてあったの?」
「がーん」
「おっと、もう崩折れないでくださいよ? それに今回はわざとですよね」
「誤魔化しきれなかったか……」
僕は、またふざけて疑問をなあなあにしようとした真琴さんのボケの邪魔をした。すると中途半端で中腰で停められた彼女が足をプルプルさせ始めたので、また手を貸すことになる。
懐かしい冷たい指先を感じながら、ため息を一つ。僕は本音を口にした。
「いや、でも僕も本当に心配ですよ。あんだけ研究楽しそう、ってやっていた真琴さんだったのに、どうして、って……」
「知りたい?」
「ん? ええ……」
彼女に見た目の変化はまるでない。しかし、雰囲気、というものがあるのならば、その変化を僕は覚えたのだろう。
真琴さんに違和感、というか真剣味を感じた僕は、ゆきちゃんを撫であやしている彼女のその視線の変化を逃さず認める。
どうしてか宙を睨んだ彼女は、言った。
「じゃあ、こちらからも質問。ねえ――――私は果たして、何の研究をしていた?」
「それは――――あれ?」
あれ。どうしてだろうか。答えが出てこない。
こんな、簡単な。それこそこの人は僕の幼い頃の初恋の人で、だからこそ構ってほしいとその研究の邪魔をして、よく資材やら書類やらをぶちまけてもいたのに。
好きだった人が、一番に目標にしていたもの。それが思い出せないなんてこと、あるのだろうか。
まるで、そこだけすっぽりと消えてしまったかのような心地。
不安と気持ち悪さばかりが、一様に襲ってくる。くらりと、当たり前が歪んだような、そんな感に足元覚束なくなったそんなとき。
ふわりと彼女はあの日の綺麗のままに、僕の前で微笑んだのだった。
「そして答えは、私も分からない。つまり、そういうこと」
分からない。そうして答え合わせすら許されない。
そんなことが、あるのだろうか。健忘、それも一人だけでなく。
不思議を超えた不愉快に僕が眉をひそめると、反するようにあまりに愉快げに、彼女はからりと言う。
「ふふん。私は私が懸けた全てを失ってしまっているのだよ」
だからニートでもなんでもいいのです、と真琴さんは胸を張るのだった。
「ふぅ」
今日は確かに何時もと違った一日だった。いや、そもそも今までどこかが違っていたことに気づいたというばかりだったろうか。
あの後は構ってとねだるゆきちゃんに真琴さんと一緒に遊びを強要されて有耶無耶になったが、帰り道に一人となった今、気味の悪さは募るばかり。
僕はなにか、忘れている。ひょっとしたら、朝のあの夢すらも。
考え出すと止まらない。長く伸びた影法師すら、もはや自分ではないみたいで。
このまま自分が自分でないような感覚が進んでいけば、夢みたいに自らのつむじを見ることができそうだと、そんな風にすら思ってしまう。
「家、か……」
そんな不安定な帰路で、事故に遭わなかったのは、偶然だろう。
わが家が見えてきたことにほっと一息し、ようやく僕は地に足を付けることが出来た気がする。
深呼吸をするように僕は息を吸い、吐き、そして。
「――おい」
「え?」
黒に、出会った。
心臓が、一拍、高く鳴る。いや、これは。
黒い。でもこれはただの髪の色。黒い、でもこれはただの上等なスーツの色。黒い。でもこれはただの革靴の色。黒い。でもこれはただの瞳の色で――
「ふむ」
―――――そこで、ようやく僕は彼女にひどく近くで見つめられていることに気付く。
彼女は隣に――きっと最初から――居たトミさんへと向き、聞いた。
「こいつか、ここらで一番のいい人は」
「ああ、そうだよぉ。宗二坊っちゃんは、とってもお利口さんでねぇ。いい子なんだぁ」
「ふむ、それほどまでに具合が(・・・)いいか。すまんな、御婆」
「いいよぉ。それじゃあ後は若い人たちで。宗二坊っちゃん、またねぇ」
「あ、うん……じゃあね、トミさん」
こつん、こつん。優しい人はゆっくりと去っていく。何時も、そうなんだ。
その背中を見つめながら、僕は近くに彼女が寄ってくるのを感じる。
ふと見ると、何やらごそごそとしながら、黒い女性は首を傾げていた。その人間味のある仕草に僕は少し、ほっとする。
「ふむ。去り際に飴ちゃんとやらを貰ったが……これはやはり毒入りか?」
「……そんなことはないよ。トミさん人にものあげるのが趣味なんだ」
「ふむ。それは変わった人間も居るものだな」
変わった人間。そうだろうか。優しいは普通だと思うのだけれども。
しかし、そんな僕のきっと表情にも出ていただろう疑問なんてどうでもいいのか、彼女は僕のまっすぐ前に立ち直し、問った。
「お前。名称は、何という?」
名前。そうだ、挨拶も名乗ることすら忘れて僕は何を。
慌てて、僕は親からもらった大切な名前を口にする。
「えっと、僕は海山宗二、っていうんだけど……」
「うみやまそうじ……海山宗二、なるほどいい名だ」
すると、予想に反して、きちんと受け取ってくれた彼女は頷きを見せる。
そして、悪く悪く笑んで、高らかに彼女はこの世界に名乗りを上げた。
「私は上水善子」
静寂は拍手と同じ。乾ききった天も滂沱の涙と等価。
そんな歪みきった価値観を元に全てを踏み躙って、曰く善子さんは僕との間の距離をすら潰して。
「お前には、私の外付けの良心となってもらう」
ゼロの接触に構わず、彼女は黒く黒く、そう宣言するのだった。