1章 魔女の家
やっぱり辞めれば良かった。
降りしきる刺すような雨に打たれ、ハンスは途方に暮れていた。
すぐに止むだろうと思った雨は段々と激しさを増している気がする。
山の天気が変わりやすいのは山村に暮らす者として十分に分かっているつもりだったが、どうしても今日中に薬草を取りに行かねばならなかったため、妹の反対を押し切り山へ出かけたのだ。
参ったな。帰ろうにも雨のせいで視界は悪いし、日が暮れてきたせいで身体も大分冷えてきた。
何処か雨宿りできるところを探すしかなさそうだな。
背中の薬草の詰まった籠を担ぎ必死で走るが、中々雨風を凌げそうな場所は見当たらない。
雨のせいで足は重くなり、手足の指先は寒さで既に感覚が無くなっていた。
まずい、これ以上体温が無くなるのは危険だ。
どうにかして、休めるところを探さないと…
焦る気持ちを嘲笑うかのように、雨がさらに強くなる。
視界は更に悪くなり、身体は次第に限界を迎えてきた。
本格的に遭難を覚悟した時、鬱蒼と茂る木々が無くなり、急に視界が開けた場所に出た。
目を凝らすと、少し先に灯りが見える。
助かった。家だ。
雨宿りさせて貰えるよう頼み込んでみよう。
何とか、一晩泊めて貰えるかもしれない。
雨のせいでぼやけている灯りを頼りに最後の力を振り絞って走っていく。
既に全身ずぶ濡れで感覚も大分無くなってきていた。
どうにか、家の前まで辿り着き外壁を見上げる。
2階建てと思われる小振りな洋館は、2階に灯りがともっているが、ひっそりとしていて人がいる気配は全く感じられなかった。
灯りはあるけど、火を消し忘れたのか?
家主が居なかったら、玄関先を貸してもらって、どうにか雨を凌ぐしかないよな。
しかし、この寒さじゃ絶対に風邪を引くな。
幸い解熱剤の薬草は摘んだが、明日村に帰れるかどうか…
意を決して、ドアをノックし、声をかけるが、反応が全くない。
やはり、留守だったか、と項垂れていると、ふと視線を感じた気がした。
急いで灯りのある部屋を確認するが、やはり誰も見当たらない。
寒さで幻覚まで見出したかな、と苦笑していると、目の前の扉がゆっくりと開いた。
慌てて目を向けると無愛想な中性的な容姿のスーツを着た人物が扉を開け、ハンスを見つめていた。
先程ノックをされたのは貴方ですか。
問いかけられ、ハンスは慌てて居住まいを正した。
はい。あの、突然申し訳ありません。
実は、雨が強くて村に帰る道が分からなくなってしまいまして、大変厚かましいのですが、雨風を凌がせて頂けないでしょうか。
大したお礼は出来ませんが、薬草でしたら手持ちがありますので…
お願いを口にしながら段々と情けなくなってきて俯く。
先程は必死で頭が回らなかったが、こんな全身びしょ濡れの怪しい男を中に入れてくれるとは思えない。
しかも、服装を見る限り、村長のような綺麗なスーツを着ているため、ただでさえ自分との差を感じ、居心地が悪くなる。
せめて雨風が凌げる場所を教えてもらえないか聞いてみよう。
未だに無機質な眼で見てくる目の前の人物に意を決して問いかけようとした時、相手がチラッと家の中を見て再度口を開いた。
主が一晩泊まっていけば良いとのことです。
中にお入り下さい。
そう言って扉を大きく開いた。
ポカンと口を開けていると、扉を開けたまま眉をしかめられる。
早く中に入って頂けますか、雨が振り込むので。
それとも、貴方は玄関の外で一晩過ごされたいのですか。
つっけんどんに言われ、慌てて礼を言い、中に入る。
身を包む、暖かい空気に気が緩んだ。
恐らく使用人であろう先程の人物が廊下に灯りをともしていく。
小振りだと思っていた屋敷の中は存外広く、廊下の一番奥にはリビングがあり、そこに暖炉があった。
どうやら暖炉は付けっぱなしのため、家が暖かかったようだ。
その服で動き回られるとカーペットが濡れるので、先に浴室に行って暖をとって着替えて来てください。
着替えは私が持って参りますので、浴室の籠に今着ている服は入れておいて下さい。
すみません。
浴室まで貸して頂いて、何とお礼を申し上げて良いか。
お気になさらず。
風邪を引かれて主人に移されでもしたら事ですから。
こちらを振り向きもせず案内する使用人に苦笑してしまう。
こうもはっきりものを言われると、笑うしかないなと思いながら、素直に付いていく。
リビングの手前で右に曲がった奥の部屋にバスルームがあり、そこの扉を開けて使用人が振り返った。
着替えが終わったらリビングにお越し下さい。
決して、他の部屋には近づかぬよう。
あ、はい。分かりました。
暖炉の部屋がリビングですよね。
ええ。
私は着替えを持って参りますので、先にシャワー浴びて下さい。
言い終わるやいなや、直ぐに来た道を帰る背中に礼を言って、服を脱ぐ、雨の中走ったせいで泥まみれになっており、籠に入れるのも申し訳ないくらいだった。
言われた通り、シャワーを浴びて出て来ると、いつの間にか、脱衣所の籠が無くなっており、代わりの洋服が置いてあった。
ありがたく拝借して、リビングまで戻ると灯りの点いた部屋で良い匂いがする。
必死で走ったせいかお腹の虫がなり、誰も聞いていないと分かっていても恥ずかしくなってしまう。
思わずお腹をさすると後ろから無機質な声が聞こえた。
主人から料理を出すよう申し使っております。
宜しければどうぞ。
驚いて後ろを見ると先程の使用人が相変わらずの無機質な眼でこちらを見ていた。
まだドキドキと煩い心臓に手を当ててお礼を言うハンスを尻目に後ろの扉を開け、テーブルへ案内する。
4人掛けのテーブルに暖かそうなシチューとパンが置いてあった。
ありがたくご馳走になり、腹が膨れたところで、また使用人から声をかけられる。
食事は終わりましたね。
それでは、お部屋にご案内するので、着いてきて下さい。
言うやいなや、背中を見せる使用人に慌てて付いていく。
二階の廊下は既に灯りがついており、4つある内の一番手前の部屋を案内された。
中は小綺麗にされており、ベッドと小さな机があるだけのシンプルな客間だった。
こちらで本日はおやすみ下さい。
それでは、私はこれで。
相変わらず、淡々としている使用人に慌てて声をかけた。
あ、あの、色々とありがとうございました。
出来れば、ご主人にお礼を直接申し上げたいのですが、お目通し頂けますか?
扉を開け出て行こうとしていた使用人はハンスの言葉に振り返った。
主人は既にお休みになっておられます。
本日はこのままお休み下さい。
余計な詮索はなさいませんよう、くれぐれもお願い致します。
そう言い放ち、そのまま扉を閉めて行ってしまった。
暫く呆然としていたが、疲れていたのもあり、ベッドに潜ると目蓋が重くなって来る。
本格的に眠りにつきそうな時にふと友人に聞いた噂話を思い出す。
北の森には魔女が住んでいる。
ーまさかな。
噂は噂だ。
何故こんな事を思い出したのだろうと、考えながら微睡に身を任せた。
そのままハンスは眠りについたのだった。




