修行
無拍子、動き出しの動きをなくす。
リゼルは老人の言葉を思い返し、木剣を構える。
…でも、動き出さずに動くってどういうことだ?
さっぱりわからない。しかし実際に老人はリゼルが反応も理解も出来ない動きをやって見せた。
「…よしっ。」
リゼルは木剣を掲げて上段に構える。
安直だが、少なくともこれで振りかぶる動きは省略できる。後は動き出さずに振り下ろすだけだ。
「せい!」
掛け声と共に木剣がぶんと振るわれた。
「…違う……」
今のは振るときにグッと力が入ってしまった。なるほどこれが動き出す動きの力というやつだろうか?
「…なら。」
リゼルは今度は始めからグッと力を入れて上段に構える。
常時力を入れっぱなしなので当然疲れるのが目に見える。だが戦場では気が抜けずとても疲れるという。それはこういうことだからではないだろうか?
「ふん!」
再び木剣を振るう。
「……もっと違う。」
明らかに動きが固い。無駄な力が入りすぎており、それが邪魔して力のわりに剣筋は死んでいる。
最適な力加減があるのだろうか?
なら、少し力を抜いて…
「ふん。」
だが、やはり違う。
その後何度か力加減を変えて試してみたがどうもうまくいかない。というか根本的に初動にかかる力の方が剣を振る力より大きいからどうにもならない。
うーん… ならいっそ完全に力を抜いてみるか?
上段に構えている以上、力を抜けば勝手に落ちる。
案の定、当たり前だが木剣は自然に振れた。
「おおっ!」
なるほどこういうことか。力で振ろうとするのではなく、自然と振ってやればいい。
リゼルは何度か試してみる。
「…いや、ダメだ違う。」
これではただ落ちているだけ、打てはすれど斬れはしない。
なら落下に合わせて力を乗せ、インパクトの瞬間に、
「引くっ!!」
ヒュンと風を切る音をたてて木剣が振れた。
よし、この感じだ。落下の流れに乗って引き斬る感じ。
だがまだ完璧と呼ぶには程遠い。
理想の剣筋を求めて、リゼルは1人木剣を振るうのだった。
それからまたしばらくの時が流れた。
リゼルは変わらず裏山で1人、剣の稽古に励んでいた。
タンッと地を踏み、リゼルは木剣を突く。
「…うーん……」
納得がいかず、リゼルはうなる。
振り下ろしはかなり理想に近づいてきた。だが次の段階として前に踏み込み振ろうと試してみたら問題が発生した。
溜めなく振れる剣に溜めて地を蹴り進む体がついてこなかったのだ。おかげで下半身が遅れて残り、へっぴり腰となったそれはそれは無様な振りになってしまった。
なのでリゼルは突きの練習をすることにした。
せっかく理想に近づいてきた振りを崩したくもない。それに武器の重さが乗らず体重を利用しなければならない突きの動きはピッタリの練習だと思ったからだ。
しかし地を蹴るワンテンポをなくすにはどうしたらいいのかがわからない。
「ふぉっふぉっふぉっ、悩んでおるようじゃの。」
「あっ、老師様。」
声に振り返ると鹿の背に座った老人がまたいた。
「老師はやめい、ワシはただの爺じゃ。」
「いいえ、そのような失礼なことはできません。」
「…はぁ…… まあ、よいか好きにせい。
それより、ずいぶんと悩んでおったようじゃが?」
「あっ、はい。実は……」
「…なるほどな。」
リゼルの悩みを聞いた老人は鹿から降りた。
「振り下ろしと同じじゃよ。流れに乗り横に落ちるだけじゃ。」
老人は踏み込みをして見せた。
「こんな感じじゃよ。」
それはあまりに自然な動きで老人はさも普通に言う。リゼルも自身が悩んでいなければ何がすごいのかわからなかっただろう。
老人はただ踏み込んだだけだ。逆に言えば予備動作など一切余計な動きをせずに踏み込むという動きだけをしたのだ。
ただそれだけと思うかもしれない。
だがそれだけの動きが出来るようになるまで、リゼルは1年以上かかったのだった。
ヒュン、ヒュン。と木剣が空を斬る。
ようやくそれなりの形にはなってきた気がする。
リゼルは地の上を滑るように木剣を振るう。
地に根を張るようにどっしり構えるのではなく、波間を揺蕩う小舟のように浮きを意識して軽やかに構える。そこから体を落とす勢いを利用して打ち込む。だが沈んではいけない。倒れ込むイメージで斜め下に向かう力に対して体をスライドさせ、横向きの力だけを活かしてやる。そしてインパクトの瞬間だけ地に連結させ力が逃げないようにする。
リゼルは自分なりに掴めたコツのようなものを反芻しながら繰り返し木剣を振った。
「ふぅ。」
まだまだだ。まだ体がわずかに沈みわずかに浮く。
軽く息を吐き、体と心を整える。
構えで大切なのは力を抜くことだ。だが完全に脱力するというではない。それではべたりと足が地に張り付いてしまう。適度に緊張した自然体、リラックスした状態で構える。
「のぅ、ヌシよ。」
「はい?」
老人が声をかけてくる。
時折老人はリゼルの様子を見に来てくれていた。
「構えの先にヌシは何を見ておるのじゃ?」
「何を、とはいったいどういったことでしょうか?」
「ワシは俗世を離れて剣の道に生きておる。故にワシは構えの先に己が理想の剣筋を見つめて己が剣筋がどうかを見ておる。
じゃがヌシは違うじゃろ? 最強を目指すのであればきちんと構えの先に相手を見ておるのか?」
「…いえ……」
「そうか。」
老人は特に責めるといった口調でもなくただそうとだけ言った。
だが確かにそうだ。
リゼルは構えて自身の知りうる限り最強の剣士、つまり老人を対面にイメージする。
「っ……」
ダメだ。老師には打ち込む隙が見つけられずこれでは鍛練にならない。
なので今度は騎士甲冑を纏った大男をイメージする。
実家にいた頃の衛兵隊長だった男だ。ヴァイシュタイン家では12歳から本格的に剣の稽古に打ち込むためにそれまでに読み書きや算術、歴史や礼節といった貴族の必要知識を詰め込む。あまりできのいい方ではなかったリゼルはよく部屋の窓から男たちの訓練の様子を眺めていたものだ。
なのでリゼルはこの男の動きをよく知っていた。
よしっ。
ヒュンと木剣を唐竹に振り、リゼルは打ち込む。
「あっ!」
相手はあくまでイメージ。木剣は綺麗に空を斬ったが、今のではダメだ。
成長し少し背が伸びたとはいえリゼルはまだ子供。唐竹では剣に十分な勢いがつく前に打点である兜に到着してしまったのだ。
じゃあ、どう攻める…?
小手を狙い攻撃を封じるか、脚を狙い動きを封じるか…
だが小手はかわされやすく、脚は相手の間合いに入らなければならない。既に無拍子の動きを見せたとなれば相手も警戒するだろう。
「あてっ。」
そんなこと考えていたら老人に頭を小突かれた。
「攻め所のみを見すぎじゃ。」
「…はい。」
「攻め所のみを見るな切っ先も見よ。切っ先のみを見るな目も見よ。目のみを見るな全身も見よ。全身のみを見るな全体も見よ。全体を捉えて一を見よ。一を捉えて全体を見よ。目のみに囚われるな耳でも捉えよ。耳のみに囚われるな肌でも捉えよ。五感のみに囚われるな思考せよ。
と、昔誰かが言っておったの。」
「はい。」
一見すると無理難題な老人の言葉だが実際はそれ自体なら難しいことではない。行き先を見つめつつ左右から突然誰かが飛び出したりしないか気を付けながら歩くように、それ自体なら普段何気なくやっていることだ。ただそれを剣を斬り結びながら、いわば常に事故りそうな状況でやるのはとても難しい。
リゼルの対面に立つ相手はあくまでリゼルのイメージでしかない。全体を捉えようとすれば簡単にぼやけてしまう。
だがそれがリゼルを成長させた。ぼやけたイメージ、つまり隙となった部分から幻想の敵は嫌らしくリゼルを攻めた。
八方目、あるいは八方眼と呼ばれるその技術が身に付いた頃、約束の3年の月日が経とうとしていた。