黄昏ウェディング
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
ふーむ、あんたのワイシャツを改めて見させてもらったけど……ぶっちゃけ汚いね。
そりゃあワイシャツも消耗品だから、シミや汚れがついていくのは分かるよ。でも襟とか袖口とかに偏っていて、他の部分があまり問題ないと、私はとっても気になるの。
あんた、たいてい洗濯機にぶち込んで、そのまま回して乾燥させて、干して乾かし大満足って人じゃない? それだとさっき言ったような箇所、十分に洗えないことがあるのよ。
洗面器とかにお湯を溜めて、昔ながらのせっけんを使った手洗いをおすすめするわ。何かと不精なあんたのことだから、すぐうっちゃってそれっきりでしょうけど、一応ね。
今でこそ、ボタンを押してポンとできる洗濯。けれどこの電動式洗濯機が日本で本格的に広まったのは、20世紀半ばのこと。
それより前はタライに洗濯板のスタイルが主流だったことを考えると、大家族の母親とかの苦労は、推して知るべし。考えるだけで敬意を払っちゃうわ、私。
かくいう私の実家も、小さい頃はおばあちゃんがたらいおけで、熱心に服を洗って干していたわね。
その時、私も不思議なことを体験したの。ちょっと聞いてみない?
小さい頃の私は、男の子と混じって泥んこ遊びをするのが常だったわ。
あの時期って男女の別とか、お互いに全然考えないもんよねえ。泥玉丸めて、全力全開。泥合戦をして、顔も服もひどい有様になることしばしば。
私が家に帰る時分には、両親はたいてい仕事から帰ってきていない。もっぱらおばあちゃんが面倒を見てくれていたの。
ウチには洗濯機があったけど、おばあちゃんは昔ながらの、年季が入った洗濯桶を使って、手動で服を洗っていた。私も、泥だらけの服を、いきなり洗濯機に入れるのはやめなさいと言われたし、「将来、できるようになっておくに越したことないから」と半ば強制的に、自分のものを洗わされたのを覚えている。
おばあちゃんは洗濯板をあまり使わず、水とせっけんの活用で汚れを落とすやり方。水が汚れれば、その都度、ひんぱんに水を入れ替えるものだから、子供の身にはなかなかの重労働。
汚せば汚すほど仕事が増えるから、「次こそは服を汚さないようにする!」とその時は誓うんだけど、すぐに破っちゃうのが子供の在り方よね。
その日も、私は身に着けていたブラウスを大いに汚して、洗濯桶に張ったぬるま湯と一緒に、こびりついた汚れと一戦交えようとしていたわ。
冷たい水よりもぬるま湯の方が、汚れが落ちやすいとは、おばあちゃんの談。私は律儀にその教えを守っていたの。
まだ高く昇っている太陽の影を水面に浮かばせながら、私はすでに慣れてきた、手洗いでの洗濯に取り掛かる。
けれども、今日はなかなか汚れが落ちない。
今までの経験上、繊維の表面についている泥は、手ではいだり、服の繊維をこすり合わせたりすれば、大半が取れる。まれに深くしみ込んだものは、せっけんが相手になり、何度か湯を取り替えるうちに、服はほぼ元通りの色を取り戻すもの。
ところが、今回はぬるま湯の中で懸命にこすっても、泥や汚れが落ちようとしない。普段はあっけなく離れていく泥と服が、今日はがっしりと手を組んで、これまでにない仲の良さをアピール。
こすり合わせれば、こすり合わせるほど、服の上に垂らした油性の絵の具のように、泥が引き延ばされて、広がる版図と共に、生地へのしがみつきを露わにする。
これは桶内のぬるま湯の中だけで起こった。
いざ、桶の外に出してみてから、改めてこすり合わせると、ウソのようにどんどん剥がれていく。せっけんも使って泡立てれば、もはや全滅に近い大損害。
けれども、その残骸を湯の上へ垂らしてみても、表面でぷかぷかと浮かぶだけ。
ついでに自分の手も洗おうと、お湯の中へ手を突っ込んでみたけれど、これもまた私の手に張り付いた泡は、一向に離れようとしない。こすってみても同じ。
以前に、強力な接着剤を手に付けてしまった時のことを、私は思い出したわ。あれも手にべったりと異物がくっついている違和感があるのに、なかなか剥がれようとしてくれない。
でも、今回の相手はせっけん。剥離こそ存在価値であるはずの彼らが、あろうことかぬるま湯という好条件が揃った仕事場で、揃いも揃ってボイコット。サボる連中には、ムチ打ちたくもなるでしょう?
気でも触れたかのように、神経質に桶のお湯の中で、手を洗い続ける私。あまりにも音を響かせ続けたせいか、とうとうおばあちゃんが、家の中からお出まし。その状態を見ると、「これはいけないね」と、驚きの声をあげたわ。
おばあちゃんからの指示で、ひとまず私は桶の中から手を出し、近くの水道の蛇口をひねって水を出す。泡はあっけなく流れ落ちた。
お湯を捨てた後、持ってきたふきんで、きゅっきゅと音を立てつつ、磨いていくおばあちゃん。そのうち、西へ傾きかけた太陽に桶をかざすと、私に近くへ来るように手招きしたの。
近寄っていった私は、おばあちゃんが何を言わんとしているのかが、すぐに分かったわ。
桶全体を取り巻くようにして、かげろうが立っている。
桶の底の部分を太陽にかざしているおばあちゃん。その掴んでいる箇所をのぞいた、輪郭の周りが、頼りなさげに揺らめいている。
「どうやら洗濯桶が、太陽に恋しちまっているらしい。文字通りの『お熱』というわけさ」
おばあちゃんはそうつぶやくと、私に持っているリボンがあれば、何本か持ってくるように言いつけ。外へ出られるような格好をするように、とも。
おばあちゃん自身も桶を持ったまま、室内の自分の部屋へと引っ込んでいく。
着替えた私とおばあちゃんは、桶と何本ものリボンを抱えながら、赤みが差し始めた夕方の景色の中を急いでいた。
陽が沈む西の方角。それでいて、できる限りまっすぐで、人も車もあまり通らない道路が望ましいとか。
近所で条件に合致しそうなのは、車止めがされた河川敷の土手の上。私たちはそこを目指している。
道すがら、おばあちゃんが話をしてくれる。
太陽というのは、万物を照らして多くの命を支える膨大なエネルギーを持ちながら、直に触れることがかなわない存在。それは森羅万象にとって、あたかも、テレビの向こうのアイドルがごときものなのだとか。
そして「ウブ」なものの中には、ふとした拍子に熱を上げてしまうことがあり得る。汚れを落とさなかったのも、それによって身体を汚したくないという、気持ちの表れ。
そのような時には、一緒の時間を過ごせるように、計らってあげることが大切なのだとか。
私たちが土手に着いた時、そこには私たちと、私たちに背中を向けて遠ざかっていく、マウンテンバイクに乗った人以外はいなかったわ。
陽がもうじき、地平線に没する。その身体が接している時こそ、地上にいるものが最も太陽に近づける時間帯なのだと、おばあちゃんは話してくれたの。
私とおばあちゃんは、持ってきたリボンを単体で、どんどんリボン結びにしていく。
土手の道幅の半分。端の草むらから土手の中央までをラインに、二人してリボンの位置を調整しながら揃えつつ、等間隔に置いていく。
できあがったのは、数十メートルに及ぶリボンの花道。
私が桶の片側を持ち、もう片側をおばあちゃんが持つ。ふちと底を、私たちの両手で丁重に支えられる洗濯桶は、まるでこれから新郎のもとへ向かう新婦のよう。
その感想に、おばあちゃんもうなずく。
「そうだね。あたしたちはこれから洗濯桶を、太陽の元まで連れていく、付き添いとなるんだ。
私たちが作ったのは、入り口から新郎のいる祭壇へと続いていく、ウェディングアイル。いや、最近はバージンロードといった方がいいかねえ」
私たちはそのままの状態で、今しばらく待機。地平線教会への、新郎の入場を待つ。
到達。その足元を地平線へつけた陽の光は、より低く、より長く地面をなめ始める。その伸びた光が、私たちの作ったバージンロードの間にも滑り込んできた。
「絨毯だ」と私は思う。新郎からのお誘いがかかったんだ、と。
「行くよ。ゆっくりね。新郎へたどり着いたら、すぐに分かる。私が合図をしたら、そっと桶を地面に置きな」
おばあちゃんの指示通り、私は桶を支え、連れ立ちながら黄昏のバージンロードを歩む。
一歩ごとに、日差しが強くなってくるような気がする。桶もまた、その縁から、肌からますますかげろうをくゆらせ、立ち昇らせている。
緊張しているのかな、と思いつつ、エスコートする私たち二人が、作った道の半ばまでたどり着いた時。
一番太陽に近い桶の縁が、いきなり燃え出したの。
思わず手放しそうになった私を「しっ!」と声を出して、とどめるおばあちゃん。指先に熱を感じながらも、おばあちゃんの誘導のままに、私はゆっくりと桶をバージンロードの中央へと、降ろしていく。
私たちが手を離して距離をとると、ほどなく桶は火だるまになってしまったけど、煙は出ていない。
「こりゃ、なかなかの重症だったようだねえ。しばらくは存分に浴びさせてやろう。
やがては新郎も去らねばならない。さすれば熱も下がる。ひとつところに、居続けられない身の上だからねえ」
おばあちゃんの指摘の通り、太陽が半分以上没する頃。
火の手は現れた時と同じように、いっぺんにぱっと消え去った。
現れ出た桶には、どこにも焦げの類がついていない。それどころか、今までは気持ちくたびれていた身体に、つやが浮かんでいるような気さえしたの。
恐る恐る触ってみたけど、もう熱は残っていない。私とおばあちゃんは桶とリボンを回収して家路についたわ。
その時の桶は今でも、健在なおばあちゃんの手によって、我が家で使われ続けているのよ。




