跳毒蛇(リープスネーク)
空はすでに夜の気配を孕んでいた。
背後の西の空は夕焼けの鮮やかな朱色を投げかけ、眼下の森や谷間の影を縁取っていた。
西の塔の上空から離れること半刻近く。ネフィアは翼の魔物の腕の中で冷えはじめた風を受けていた。
意識が朦朧とするのは、西の塔から一気に急降下してからの飛行にまだ身体がついていかないからかもしれない。
「日が沈み切ったらダークドラゴンの独壇場だ。
その前に安全な場所にこもる」
言って翼の魔物は急加速急上昇、そして急降下。
「きゃーっっっっっっっっっ!!!」
せまる森やお腹のあたりがひやりとする感覚に思い切り悲鳴がでた。
パキパキと小枝が折れる音、枝のしなる音、翼のうなりが続き、やがて足が硬いものに触れた。
背中にあたっていた羽毛や、腹に回されていた腕の感触もなくなった。
凹凸のあるひんやりとした地面の感触が頰に触れた
周囲は鬱蒼として暗い。
「すごいな、女の悲鳴って。耳からどっかに突き抜けた。
ダークドラゴンに聞かれたらどうしよう」
ネフィアの頭の上から、文句がこぼれてくる。
空のほのかな明るみに浮かぶ顔は、さきほどの若い魔物のものだった。
ネフィアは落下の余韻で何かを返す余裕もない。
「ちょっとここで待ってろ。
この先に俺の巣の一つがあるんだ。
しばらく使っていなかったから様子を見てくる」
「え? わたしひとりで?」
声にならない声で問い返す。
「すぐ戻る」
若い魔物は言い残すと闇の中に溶け込んでしまった。
少し目が慣れてくると、大木の根元、大きな根が入り組んで籠編み椅子のようになった窪地に自分がいることがわかった。
かすかに落陽の残照を残す空に、遠雷が響いた。
先ほどの巨大なドラゴンの雄叫びかもしれない。
ネフィアは立ち上がって手の中の宝玉とナイフを握りしめた。
薄衣の婚礼装束の背を冷気が這い上がり、さらに不安を煽る。
ここはネフィアの知る世界とはまったく違った。
周囲の漆黒の木立の間から、かすかな、本当にかすかな気配がした。
小さな気配はどこか忙しげで、ネフィアの身じろぎで少し動揺をするが、すぐに何事もないように元に戻る。
野ネズミのようだ。
危険はなさそうなので木の根元に腰を下ろすと、頭上で何かがガサリと大きく揺れた。
見上げかけたとき、何かがネフィアの膝の上に降ってきた。
大きめのリンゴサイズの、石のような丸いものだった。
「きゃ〜〜〜〜〜〜っ!」
立ち上がって払いのけようとすると、膝の上のボールはほどけてネフィアにしがみついた。
頭から腹側がフサフサの毛で覆われ、背中が鎧状になった小動物だった。
「大丈夫か?」
ガルナがほのかな燈をさげて戻ってきて、ネフィアのドレスにぶらさがった獣を抱き上げる。
燈は油分の多いゴラの実を灯したものだった。
「なんだ、アーマードッグの仔か」
獣はつぶらな瞳をネフィアに向けて、ニーニー鳴く。
「これ、魔物?」
「生まれたてだよ。珍しいなぁ」
おそるおそる手を伸ばすと、仔魔はネフィアの指先に鼻を押し付けて甘えた。
「魔物も赤ちゃんの時があるのね。
魔物は最初から、魔物っぽい怖い姿だと思っていたわ」
ガルナが差し出す仔魔を、脇の下に手を入れて抱き取った。
ふかふか柔らかい魔物の仔は、子猫や子犬と何もかわりなくかわいかった。
「ふぅん。じゃあ、もしかして俺が怖い?」
わざとらしく顔を近づける若い魔物から少し身を引いて、ネフィアはガルナをあらためて観察する。
「最初は怖かったけど、今はそうでもないかも。
でもさっきは顔が違ったわ。どちらが本当の姿なの?」
「どちらもだよ。
興奮すると人間だって、顔が変わるだろう?」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
「さっき、俺に小刀を突きつけたネフィル・フィアの顔も、別人かってくらい今と違ったよ」
「え?! そんな!? え? いや!」
仔魔を抱いていない方の手を頰に当て、自分の顔を確かめるネフィア。
そんな仕草を、笑いをこらえながら見ているガルナ。
二人の様子を心配そうにうかがうアーマードッグ
「どっちの顔もかわいいって思うけど」
「かわっ、かわいいって……。もしかして、からかってるの?」
答えはなく、そのかわり押さえ込んだ笑いの痙攣が伝わってきた。
「ひどい。やっぱりからかっていたのね」
「違うよ。
でもネフィル・フィアの反応がおかしくて、つい」
ひとしきり痙攣する魔物の様子に、しばらくムクれていたネフィアだが、最後にくすりと笑いが漏れた。
「ネフィル・フィアは真名。ネフィアと呼んで」
「俺はガルナ」
空気が和んだので安心したのか、アーマードッグが甘えてネフィアの手にじゃれついてきた。
それをひっくり返しモフモフのお腹をなぜたら、魔物はそう怖いものじゃないのかも、と少し思えてきた。
「それよりこれからの話、巫姫の……」
ガルナが言いかけた時、ネフィアの膝の上のアーマードッグが、急に起き上がった。
何かを警戒するように小さな両耳が大きく伸びてうちわのようになり、鼻をせわしなく動かす。
「奴が追ってきたのかもな。隠れ家に移動しよう。
俺の心臓を落とすなよ」
ネフィアはまた抱きかかえられて、夜空に飛び上がる。
西の空にもう夕日の残照はない。
宵闇の底に先ほどの黒いドラゴンが追ってくるようで、ネフィアは身震いした。
「寒いか?」
羽毛の胸の中は寒くはない。暖かく、むしろ頰にあたる風が気持ちいいくらいだ。ほのかに甘やかな羽毛の、ガルナの匂いがする。
小さく首を振ると、
「もうすぐそこだ。呪法結界を張ってある安全な場所だ。
今夜はそこでゆっくり休もう」
そういえば、ここ数日あまり眠っていなかったっけ。
思い出した途端、強い眠気が襲う。
それに抗うように顔をあげるとガルナの青い瞳があった。
暖かさと不思議な安堵に包まれて、ネフィアは眠りに身を委ねた。
緑の天蓋が目に入った。
空が見えぬほど枝が折重なり、さまざまな緑の陰影が美しい模様を作り出す。
神殿大聖堂のステンドグラスの窓みたい。
ぼうとしたアタマにそんなことが思い浮かべ、それからネフィアは飛び起きた。
全面に木肌の凹凸があり、大木の大枝を籠状に編んだ鳥かごのような場所だった。
外が見える上の方に腰掛けていたガルナがネフィアに気づき、壁をつたい降りてきた。
「気がついたか? 」
傍に吊るした籠から珠蓮果をとり上体を起こして座り込むネフィアに渡す。
両手サイズの丸い実にほのかに甘い果汁がたっぷり入っていて、ヘタの部分を上手にとると、コップいらずで飲料水がわりになる保存の効く果実だ。
「ありがとう」
身動きしかけると、ドレスの裾が重かった。
見れば岩団子、ではなく丸まったアーマードッグの仔。
「ドレスの裾にしがみついていたよ。
ネフィアを親と思い込んでいるのかもな」
抱き上げると、アーマードッグも起きた。
「一緒にいるなら名前をつけなくちゃね。
マルはどう? 真名はマルス・ネフィアル。
わたしが名付け親だから」
「マルはいいいけど、真名なんてつけても、アーマードッグはしゃべれないからなぁ。あまり意味ないかも」
「魔物にもいろいろあるのね」
膝の上にマルをのせてフワフワのお腹をさすると、ルルルルと喉がなった。
「それはともかく、ガルナはなぜわたしことをマスターって呼ばないの?」
「は?」
「魔導師の魔物は、魔導師のことをマスターって呼んでたわ」
「あのな、一回きりの契約は、気が利いたばあちゃんが水魔とする水汲み案件と同じ。
それの何がマスターなんだ?
その魔導師が、魔物に尊敬されているから呼ばれていただけだろう」
鼻先で笑う。
「そうなの?
でも、魔導師でもない一般人が、魔物と取引できるわけないでしょう。
昔はそういうこともあったけれど、今は魔物がずる賢くなって、素人が契約しようとすると魂を食べられたりするから、取引きできるのは魔導師だけだって『魔物契約大全』に書いてあったもの」
「教科書にはそう書くかもな。
好き勝手に魔物と契約されたら公認魔導師の立場がなくなるし、チャンスがあれば魔力を私欲のために使おうとする人間は存在するから、できないことにしておいた方が、都合がいい。
ネフィアって、教えられたことを鵜呑みにするタイプ? 」
「ななな、なんですって?」
ネフィアの顔が屈辱で真っ赤になる。
「でも、でも、そうしたら契約中に不死になる以外、魔物のメリットなんてないじゃない?
水汲みにいちいち契約して不死になる必要なんて、ないしっ!」
「契約のたびに魔力があがるんだ。
上昇志向のある魔物はどんな小さな契約だって、積み重ねてものにするさ。
一方で契約者に心臓を預けなきゃいけないから、リスクもある
事前に作法通りに条件を確かめ合い、陣を描き、互いの信頼関係を確認した上で成り立つわけだ。
というわけで、契約は主従関係ではないってこともわかった?」
「……知識も経験も足りないことは認めるわ。
魔物も思っていたのと違うみたいだし」
と、そこに。
ポタポタポタ。
上から水が滴ってくる。
マルが降ってくる頭上を見上げて、ニーニー鳴きながら、慌てたように狭い室内を走り回った。
「!」
見る間に床にできていく水たまりに、ガルナの顔色が変わった。
「まずい! 逃げるぞっ!」
ガルナはネフィアを抱えると、木々の枝の重なる天井を突き破って、隠れ家から飛び出した。
羽毛に包まれた腕の中から眼下には、樹齢何千年クラスの大木が天幕のように広がった枝があったが、たった今飛び立った小部屋はちらとも見えないし、ガルナがあせる原因も見当たらない。
「あそこは安全って言ってなかった?」
風に乱れる髪を抑えながら、ガルナを見上げると、
「ダークドラゴンに対しては完璧な結界。それは自信がある。
だけどあいつには効かないんだ。
言うなれば、蚊帳のなかに虫は入ってこないけど、雨よけにはならないというような」
話しているうちに落ち着いたのか、ガルナは少し速度を落とした。
気がつけば、ガルナの足にしがみついていた仔アーマドッグが、器用に爪を使いながらネフィアの胸元まで上がってきた。
でもマルを抱きかかえようとすると、ガルナの『心臓』である宝玉を落としてしまうかもしれない。
「降りてもらえない? あなたの心臓を落としそう」
「わかった。
もう少し先の街道沿いなら魔物はあまり近づかないから、そこにしよう」
ガルナが降りたのはなだらかな丘のふもと、ところどころ道沿いに木々もある、手入れもされた街道の傍だった。
ネフィアはドレスの裾を引き裂き、宝玉を包んで結び目をつくり、持ち手をつくった。これで持ちやすくなる。
ついで、飾りについていたリボンのひとつで自分の髪を束ねた。
思いついて、リボンをもうひとつドレスから外しマルの首輪にする。
「誰から逃げたの? あいつって?」
「跳毒蛇のキリカっていうやつ。
力の大きな魔物を食えば魔力が上がるから、若手実力派の俺が狙われている。
他に心当たりがないし。
気にしなくていい。空を飛んでいれば手出しできないから」
「飛ぶといえば神殿まで、どれくらいかかる? 馬車で5日かかったけど」
「むーん。それくらい1日で、と言いたいところだけど、夜に動くとダークドラゴンにすぐ見つかりそうだから、昼間だけで2日かな。
今日、できるかぎり飛んで日が沈む前にどこかねぐらを探す」
話をしていると、マルがクンクン鼻を鳴らして、走り出した。
目指す先は街道を越えた反対側に見える一角。
岩の間から水が湧いていて、牛一頭が浸かれるサイズの泉になっていた。決して大きくはない。
往来の人馬が憩う場所なのだろう、周囲に砂よけの石積みがされていた。
泉に鼻先をつっこむマル。
「そういえば、うまれたばかりなのに、ろくに飲み物も食べ物もやってなかったよなぁ」
ガルナとネフィアも仔魔を追った。
「ヤギや牛の乳がいいのかしら」
「アグの実とか、蜂の巣なんかいいかもな。途中、探してやるか。
さ、飲んだら出発するぞ。水辺はろくなことがない」
マルを抱き上げ、くるりと踵を返したガルナの背後から激しい水音がした。
振り返ろうとする翼の背に水の滴るしなやかな腕が絡みついた。
翼ごと抱きすくめられる。
「ふふふふふふ。やっと、つかまえた」
水中から現れたのは、上半身が女の魔物だった。
太くぬめった薄紅の髪先が枝分かれし、それぞれが蠢き、ガルナの身体に絡みついていく。
青白い鱗に覆われた下半身は、小さな水溜りの中に消えて全体の大きさはわからない。
「キリカかっ!
ネフィア、受け取れ」
ガルナに投げられた仔魔が、ネフィアの胸元にしがみつく。
「な、何っ!?」
「さがってろっ!」
ガルナはうろたえる少女を制して咆哮した。
青白い光が衝撃音とともに炸裂して、薄紅の触手髪ごとリープスネークがはじけとぶ。
岩にたたきつけられた跳毒蛇の腹が露わになる。
乳房の下には3対の血が滴る鈎脚があった。
荒い息で、足を引きずりながら水辺から離れるガルナは、昨日の怪鳥の姿になり、たてがみもすべて逆立っていた。
その姿は、先ほどまでのガルナより、ひと回りもふた回りも大きく見える。
翼からは幾筋かの血。
「毒か」
「たっぷりと即死レベルを打ち込んだのに、この反撃とは。
伝説の稲妻鳥の孫だけある」
蛇体の女魔は舌なめずりをして身体を起こしかけたが、どこかを痛めたのか顔をしかめた。
「まぁいいわ。
この間まで触れもしなかった。
今日はこの手に抱いて毒を打ち込んだ。
その毒で身動きできなくなった頃に会いましょう」
キリカは唇の端に笑いを残して、小さな水溜りの中に吸い込まれるように消えていった。
獣頭の鳥魔が膝からくずれおちた。
「ガルナっ!」
顔が人のそれに戻り、体格も元に戻った。
だが。
肩で息をし、ただならぬ汗が額から流れ落ちる。
「大丈夫? あのひと毒って言っていたわ」
「契約中だ。死ぬことはない。
しばらく休んだら落ち着く」
「またそこから出てくるかも」
怯えるネフィアに、
「奴は跳毒蛇。もうそこにはいない。
身体が通り抜けられるサイズの水面があれば、どこにでも移動できる。
もうどこかへ跳んで行ったはずだ。
とは言うものの……」
ガルナは目を細めて周囲を見回した。
西の方向、丘の重なる景色に隠れた道の果てへ、目を細める。
「馬車が来る。あれにのせてもらって村に運んでもらおう。
この先のユグラの村になじみがいる」
ネフィアには何も見えなかったが、魔物の感覚はひとのそれと違うと聞いている。来るというのならそうなのだろう。
それより。
馬車のひとが魔物をのせてくれるの?
という疑問を口に出していいかどうかネフィアは迷う。
と。
見る間にガルナの姿が、シャツにズボンの村の若者姿に変わった。ツバつきの帽子まで被っている。
「えっ!?
翼はどこにいっちゃったの?
服はどうやって???」
「これは目くらまし」
どこをどう見ても普通の人間の姿のガルナであるが、具合の悪いのは隠せないらしく、息は荒い。
そんな連れの姿に、出会いからずっと慌ただしすぎて感じる暇のなかったものを感じた。
契約して、その命である心臓を手にしているとはいえ、ガルナは恐ろしい魔物なのだ。人外の魔力を持ち、ネフィアの知る世界とは違う理で存在するものなのだ。
やがてガルナのいう通り、木々の間から馬車が現れた。
正体どころか体調不良すら隠し、愛想のよい若者として手綱を持つ男に話をつけた翼の魔物が、荷台に飛び乗りネフィアに手を差し伸べる。
「ほら、乗れよ」
だがネフィアの足は動かない。
「どうした?」
まだためらうネフィアの腕の中で、マルが促すように鼻を鳴らした。
上から覗き込むガルナの顔には、よくみれば疲弊の跡が見て取れる。
ネフィアは腕に下げた布製のバッグに目を落とす。
そこにこの魔物の心臓がある。
少なくともこの心臓を持っている限り、この魔がどんな存在でも、ネフィアのパートナーであることは間違いない。
「今は乗るしかないわよね」
ネフィアは小さくマルに囁き、差し伸べられたガルナの手を取った。




