ここは僕の席です
うだるような暑さで身を焦がしながらも、何故こんな窮屈なものを着なければならないのかと、身に着けたスーツを馬鹿らしく思う。それでも自分はしがないサラリーマンで、これが日々の戦闘服という決まりがあるが為に、今日ぐらいはいいだろうと半袖半パンといった夏の少年のように思い切ったサマースタイルに切り替えるなんて事もできない。
結局着るもの一つ抗えない日常にため息をはきつけ、今日も朝の電車に乗り込む。
いつもの時間。乗り込む瞬間に自分の陣取る場所を確認する。
いる。
眼鏡をかけ、茶色のポロシャツにベージュのスラックス。いつも地味な服を着た初老の男性。この男の前に立てるかどうかで、三十分ほどの電車通勤の時間が大きく変わる。
もう四十前半だ。三十分も朝から立ちっぱなしはかなり辛い。それだけで一日に必要な体力がごっそり削られる。
そんな私にとって彼の登場はまさに救世主だった。
どうしても座りたいと思う私は電車内での動向を確認した。私のように一日のスケジュールが決まっている者も多い。毎日乗る電車、時間が決まっている者は、おのずと電車内での位置関係も固定化されてくる。
そこで見つけた。この男性は私より前の電車に乗り込んでくる。どこから乗ってきているかまではもちろん知らない。だが、私が乗り込んだ時点では既に座席シートにゆったりと腰掛けている事から、かなり早い電車に乗っているのだろう。
そして彼は私の乗った次の駅で下車する。このパターンを発見して以来、私は彼の前に陣取るようになった。そして彼が降りた瞬間に入れ替わるようにシートに身体を滑り込ませる。
もふっと背中から腰にかけて包み込む和らいだ感触に、心までもがほぐされていく。些細ながら座って穏やかに通勤出来る事は、幸福と安心をもたらしてくれた。
彼の存在に感謝すら覚えた。ありがとう。あなたのおかげで私の朝は穏やかで平和です。
――え?
しかし平和な日々は、その日を境に唐突にあっけなく壊されてしまった。
彼の前にびったりと、一人の男性が佇んでいた。
白いシャツに黒いズボン。細見の身体。片手には黒い鞄をぶら下げている。正面から顔は見えないが、斜め後ろから見える範囲での様は若いようにも見えるが、老獪じみた空気も纏っている。
――何だ、こいつは。
自分の定位置を邪魔された事への苛立ちと、そいつの異様な存在感に対する不気味さが入り混じる。
結局俺はいつもの位置に立つことが出来ず、近くのつり革をつかみ立ちすくんだ。
昨日まではいなかった。急にそいつは現れた。
ずっと狙っていたのだろうか。あいつもこの位置を。だとすると、こいつはこいつで俺の事を恨めしく思っていたのか。
いや違うか。俺より先にこいつは電車内にいたのだ。だったら俺より先にこの位置を狙う事はもっと早くから出来たはずだ。それとも今までは別車両にいたのか?
くそっ。無駄な事を考えてもどうにもならん。どうであれ俺はいつもの場所を奪われた。
初老の男性が降りた。そして当たり前のようにすっと、そいつが席に腰を下ろす。
一瞬、短く悲鳴が漏れかけた。
席に座り、こちらに身体が向く。そいつの顔を私は真正面からとらえた。
真っ白で、全てのパーツが小さく薄い、能面のような無表情。それが仮面であると言われても納得してしまえるほどに、血の通っていないような顔面。
人、なのか。気味が悪い。
私は思わずヤツから目を逸らした。
突然の略奪者によって座れなかった席。朝からとても気分が悪い。
「はぁ……」
――もうあの席には、座れないか。
*
仕事も定年を迎え、穏やかな日々が始まった。
と、思っていたが、仕事に慣れた身体は自分の意思に反して毎朝出勤していた時間に合わせて目が覚める。
ほとほと呆れる。あれだけ辛くしんどい思いをし、毎日通う事を憂鬱に思っていた仕事をやっと終えたというのに、すっかり身体は自分が辟易とした仕事に毒されきっていた。
しかし、それでも目覚めた先に仕事がない事への解放感、自由は目覚めの後悔の後に幸福をもたらしてくれた。
もうこの先の時間、何にも縛られる事はない。
ずっと独り身で生きてきた。結婚の機会もあるにはあったが、やはり自分には性に合っていないと感じ、相手に迷惑をかけるぐらいなら一人で生涯を閉じた方が良いと思い今の生活を選んだ。
後悔はない。確かに死ぬ間際に頼る人間がすぐそこにいない事への不安はあるが、そんな自分の死の為に誰かを傍に置いておく。それが為だけに妻を横に置くなんていうのは傲慢の極みに思えた。
死ぬ時は、ひっそりと静かに死ねばいい。自分の人生はそれでいいのだ。
朝日を浴びながら起床する。寝ていても身体は訛る。それなら、せめて今まで通り動いた方がましであろう。憂鬱な朝の電車も、仕事に行く為のものではないと思えば、案外快適な気持ちで乗れるかもしれない。電車に座って揺られる時間は嫌いではない。
目的も決めず、ただいつもの電車に揺られる。そして私はいつもの電車に乗る事を改めて始めた。
毎日電車に乗っていると、同じ時間帯に乗る者達の顔ぶれは自然と覚える。
サラリーマンや学生。以前までの自分と同じく決められたスケジュールの中で動く人間達。
そしていつも私の前に立つこの男性もその一人。四十代ほどだろうか。くたびれはしていないが、風格を感じさせる着こなしのスーツと空気は、管理職の人間だろう。
私の前に立つ理由は分かっている。次の駅で降りる私のこの席が欲しいのだ。
よく分かる。電車の中でずっと立っているだけで自分の体重で腰がごりごりと上から重圧で削られていくかのような鈍い痛みと苦しみに襲われる。年をとると気持ちは若いつもりでも身体はどうにもならない。悲しいかな、抗えない運命だ。
駅に着き、私が席を立つと待ってましたとばかりにすぐさま今まで座っていた席に彼は腰を落ち着けた。必死だなと少し笑いそうになるが、気持ちは分かるので微笑ましさを覚えた。
――さて、どこへ散歩しようか。
*
期待は薄いと思いながら、ヤツの存在があの日だけかと思い何日か様子を見たが、どうやら完全にヤツはそこを定位置にしたようだった。
見つけた安息の地を奪われた悔しさはあるが、悔やんだ所で仕方がない。この車両では他に希望も見出せそうにない。気は進まないが、明日以降で車両を変えてみるのも手か。
――それにしても。
少し気になっている事がある。
ヤツの存在ばかりに注視していたので、そこにしっかりと目を向けた事がなかった。
席に座っている初老の男性。彼は今でもいつもの駅で降りていく。しかし、席を立った瞬間に見た彼の表情を見て私は思わず訝しんだ。
――なんて顔してんだ、あの人。
席を立つ瞬間の彼の表情は、どこか切羽詰まったような絶望感を漂わせ、その絶望からなんとか今日も生き長らえたような必死さが見えた。
そしてその席に何食わぬ顔でヤツが座る。
ヤツが、ちらりとこちらを見た。
いけないと思ったが、目を逸らせなかった。
そして、ほんの僅か、気のせいかもしれないが。
ヤツは、口元をにやつかせた。
慌てて目を逸らした。
――やめよう。この車両。
本能的に感じ取った。
あれは、関わってはいけないタイプの生き物だ。
*
ガタガタ、ゴトゴト。
心地よい電車の揺れに身を任せて、ふと視線をあげると違和感が目を覆った。
そこに立っていたのはいつもの男性ではなく、別の男がそこにいた。
不気味だ。
失礼ながら第一印象でそう思った。白のシャツに黒のズボンという味気のない服装。そしてその服装以上に生気のない顔。
死人ではないのかと。そう感じるほどに、表情から命を感じられない。
男は、私の顔をじっと見つめてきた。
まずい。そう思ったが、視線を外せなくなってしまった。
細く薄い目だが、驚く程に白目がなく、まるで宇宙人のように瞼の中は黒一色だ。
恐怖だ。一瞬にして恐怖に絡み取られた。今ここで目を外しても何の解決にもならない。蛇に睨まれた蛙とはまさに今の私の状態だ。このまま飲み込まれるのを待つだけだ。
目の前の不気味な男が一体何を考え私を見ているのか全く分からない。ただただじっと私の事を見つめる。
早く、早く駅についてくれ。いつもは僅かな一駅のはずなのに、それが今日はひたすらに永く感じる。
しばしその状態が続いたが、ふいに男がぬるっとこちらに顔だけを近づけてきた。
「その席、ちゃんとこれからも座っておいてくださいね」
囁くような静かな声音だが、私には有無を言わせない恫喝にしか聞こえなかった。
「そこ、今日から僕の席なんで」
それだけ言うと、ぬるっと顔をまた元の位置に戻した。
気づけば駅に着いていた。私は慌てて電車を降りた。すっとドアが閉じた。自分が座っていた席に目を向ける。
席についた男の背中が見えた。そしてそのまま電車は走り去っていった。
――あれは、一体なんだ。
汗がじとり額から伝う。
穏やかな日々が続いていくと思っていた。だが、今この瞬間それはなくなったのだと思った。
私はこれから、あの席に座り続けなければならないのだ。
ヤツの目的は私の席だ。ヤツが現れる前、同じように私の席を求めていたあの男性。目的は同じだ。この席に座りたいという目的。
だが、ヤツのそれはただそれだけなのか。
考えなければいい。放っておけばいい。そう思う自分を、止めておけと強烈に反抗する自分が抑え込もうとする。
アレに逆らってはいけない。
もし、私が恐れをなしてあの席を離れたら。
その事によって、アレがあの席に座る事が出来なくなったら。
どうなる。私は、どうなる。何をされる。
約束されたと思った平穏は、その日あっけなく崩れ去った。
*
何度言っても、何度やってもどうしたっているんだ。
このまま車庫に入るっていうのに、知らないのか眠りこけって聞き逃して気付いてないのか、そのまま席に座り続けてしまうお客さんってのは。
ただ、遠くからその存在を確認した時に、自分は既に異常を少し感じ取っていた。感じながらも、職務を全うするために近づくしかなかったのだが。
「お客さん」
その男性は寝ていなかった。通常こういう場合はたいてい居眠りを続けているパターンが多い。起きていれば、自分以外の乗客がいない事に気付いて降りる人がほとんどだ。たまにそれにも気づかずそのまま座っている人もいるが、その場合はたいてい携帯や音楽に夢中になっているパターンだ。
だが、その男性はどちらでもなかった。
背筋をすっと伸ばし、すーっと前の方を見つめている。携帯も見ず、耳にイヤホンも差し込まれていない。
「お客さん、降りてください。このまま車庫入りますんで」
気味悪く思いながら、声をかけた。
男がゆっくりとこちらを振り向いた。
後悔。
瞬時に頭をよぎった感情。
ああ、馬鹿正直に仕事だなんて使命で動くんじゃなかった。
これは、関わってはいけない存在だ。
能面を張り付けたような無表情と、深淵のような黒目がこちらをじっと見つめた。
「ここは、僕の席です」
気づけば俺は身をひるがえし全力で逃げ出していた。
俺はその日初めて、職務を放棄した。