生田湊
空港を出発してから数時間が経っていた。
鬱蒼と生い茂った木々に囲まれた山道を抜けると、タクシーのフロントガラス越しに小さな集落が近づいてくるのが見えた。
生田湊は、幼い頃から患っていた心臓の手術が成功し、術後の療養のために、生まれて初めて東京を離れ四国の山村にやってきた。
療養のためとは自分を本家から追い出す為の体の良い言い訳だ。一家の厄介者を父親がずっと快く思っていなかったことには、物事ついた時から勘づいていた。
生まれつき心臓が弱かった湊は、学校を休みがちではあったが、勉強はとてもよく出来た。
父の母校に入学し、少しでも父に注目してもらいたい一心で、脆弱な体を酷使した血の滲むような努力をしたのだが、結局、それは無駄に終わった。中学受験の当日に湊は倒れ、そのまま入院、手術となったのだ。
「死ななかったのか。」手術を終え、麻酔から醒める瞬間の、夢と現実の意識の狭間で聞いた第一声は、父のそんな台詞だった。
その時から、湊はあらゆるものに期待することを止めた。
自分がいなくても、家にはまだ弟の寛貴がいる。幼いながらも打算的で、自分になつかない弟が、湊は苦手だった。彼は自身の利益にならないものには興味がないのだ。
しかし、父親が必要としているのは、そんな健康で従順な跡取り。そこに親子の愛情なんてものが存在するのかは、甚だ疑問だが、それでも必要とされているというだけで、
家族の中で弟は俺よりも勝っていた。
本当は────
──ああ‥まただ。考えるのを止めようと思えば思うほど、次々と東京での記憶が溢れ出す。
忘れようと、決めたのに‥。
「お客さん、もうすぐ学園に着きますよ。」
運転手の言葉に我に返った湊の目には、古ぼけた平屋の木造校舎と、広い校庭、そして、薄桃色の中に青々とした若葉が混じり始めた、大きな垂れ桜が飛び込んできた。
「遠くまで、どうもありがとうございました。」
運転手にお金を渡し、タクシーを降りる。
確か涼丞は、最初に職員室に来いと言っていたが、時計を見ると11時を半分ほど回った所だ。昼休みまでまだ時間がある。
授業が終わるまで、校庭の隅で時間を潰そうと、手近なベンチを見つけて腰を下ろす。少し暑さを含み始めた春の陽気に誘われて、湊はいつの間にか眠りに落ちていった。
─────
「そんな所で寝てたら風邪ひくよ?」
肩を揺さぶられ、湊は慌てて目を覚ました。
顔を上げると、そこには人懐こそうな笑みを浮かべる少女の顔があった。年は湊と同じくらいだろうか。
肩にかかる長さの少し茶色がかった髪が、陽の光に照らされてきらきらと輝いている。優しげな瞳とすらりとした体躯が印象的な少女は、学園の中等部一年生で遠野郁美と名乗った。
「もしかして、生田先生の言ってた転校生?」
屈託のない笑顔に、自然と湊の表情も和らぐ。
「ああ、俺は生田湊。よろしく、遠野さん。」
「郁でいいよ!貴重な同い年やもん。仲良くしてね。」
この学園──久世学園は、初等部、中等部合わせて、生徒数は30人程度しかおらず、ちなみに1年生は、湊を入れてたったの4人だ。
「ほとんどの子は町の学校に行ってしまうけん。」年々、村の学園に入学する子供の数は減っているらしい。そればかりか、一家で町に引っ越してしまう人たちも多く、典型的な過疎村だ。
「まあ、仕方ないんよね。ここは外との交流もほとんどないし、仕事だって限られとる。でも、村が寂れていくんは困るんよ…。」だから、自分は村に残るのだと郁美は言った。
「この村に思い入れがあるんだね。」
何か、執着できるものがあるということは羨ましい、と湊は思った。
「──ん〜。村というより、香夜さんに…かな。」
「かやさん──?」
問いかけようとした時、ちょうど昼休みを告げるチャイムが鳴った。
「行こっか?職員室まで案内してあげる。」
校舎に入ると、外観の古さ同様、所々朽ちてるんじゃないかという柱や廊下に、微かにカビ臭いにおいが鼻をつく。
地震なんかきたら、一発で倒壊してしまうんじゃないかな。いや、ちょっと大きな台風でも結構危ういんじゃ…。
「中もボロいやろう。びっくりした?やっぱり東京の学校は設備なんかも最先端できれいなんやろうね。」
湊の心の内を表情から読み取ったのか、郁美は湊の顔を覗き込みながら言った。
「これでも慣れると居心地いいんよ。」
「うん… ちょっと古さに驚いたけど、嫌いじゃないよ。木造校舎も新鮮だし。」
苦笑しつつ答えていると、前方からガヤガヤと 授業を終えた生徒達が群れを成してやって来た。
「中等部の子たちや。湊君、ちょっと覚悟しとった方がいいかもよ──」
郁美が言い終わらない内に、一番前を歩いていた女子生徒と目が合った。── 瞬間、耳をつんざくような歓声──むしろ悲鳴か──
と共に、体操服の軍団が湊たち目掛けて突進してきた。
「この人が転校生!?超かっこいいやん!」
「何で郁ちゃん一緒なん!?」
「はじめまして〜!」
「ちょっと、自分らばっか話し掛けんなや。」
十数人の男女に一気にまくし立てられて怯む湊に、郁美が助け船を出す。
「彼は生田湊君。私はさっき校庭で偶然会って、職員室まで案内しよる途中なんよ。」
「…はじめまして。これからよろしくね。」
郁ちゃんばっかりいいな〜‥と、文句を言う生徒達に向かって、湊がぎこちない笑顔で挨拶すると、目が合った女子は一瞬硬直した後、耳まで真っ赤になった顔を押さえて走り去ってしまった。集団も、きゃあきゃあと黄色い歓声を揚げながら後を追いかる。
湊が呆気にとられて見送っていると、郁美が言った。
「皆が騒ぐ気持ちもわかるよ〜。私も最初に湊君見つけた時、暫く寝顔に見とれとったもん。その辺の女の子よりきれいな顔しとるもんね。東京でもモテたやろ〜?」
「…転校生が珍しいだけじゃないの──それより、寝顔見られてたってのが、すごい恥ずかしいんだけど!」
今までいまいち反応が薄く、どこか上の空だった湊が、不意に感情の片鱗を見せたので、郁美はちょっと嬉しくなった。
「湊君の照れた顔も、かっこいいねー。」
「やめてよ。 遠野さん結構意地悪なんだねー。」
「あはは、ごめん ごめん。でも本気!‥てゆうか、『遠野さん』じゃなくて、郁!」
「ごめん、まだ慣れなくて。そのうちにね。」
確かに、湊は美しい顔をしていた。
茶色の大きな瞳を縁取る睫毛は豊かで、形のいい鼻梁は、先が尖っていて少し冷たい印象を与える。色素の薄い髪の毛は、少し癖があり、裾は長い所で顎の辺りまで伸びている。
父親には、男らしくないと不評だったが、線の細い身体と相まって、湊にはよく似合っていた。
──そんな容姿を持っていたから、東京では声をかけてくる人間は沢山いた。女は湊の容姿に興味を持ち、男は湊に群がる女たちを目当てに…。
どうして人間は、顔や身体の造形に惑わされるんだ…。外見なんて、単なる薄っぺらな肉でしかないのに。
でも、そんな薄皮一枚の下に隠された自分自身は、もっと薄っぺらなことを知っていたから
…敢えて自分から深く関わろうともしなかったしな。
お互い様か…。
「湊君、着いたよ!」
郁美の声で我に返る。
職員室は、校舎を入って左の渡り廊下を抜けた、突き当たりの部屋だった。
「今先生いるか確認してみる。」
そう言って郁美は勢いよくドアを引いた。
「生田先生いますか─?湊君連れてきました。」
「おお遠野!ありがとな。」
懐かしい声と共に、また懐かしい笑顔が顔を出した。
──生田涼丞。湊の父親の義母弟で、湊が小学校低学年の時以来の再開だ。父親とは年が一回り以上離れており、叔父というより、むしろ兄のように慕っていた涼丞が大学卒業と同時に、親戚のいる田舎の小さな村に数学教師として赴任してから、当時の湊は随分寂しい思いをしたのだった。
だから、両親からこの村での療養の話が出た時は、二つ返事で了承した。
昔を思いだし、少し感傷的な気分になりながらも、数年振りの再開に心は弾む。
「久しぶり。涼丞君。」
「湊!待ってたよ。お前、ちょっと見ないうちにかっこよくなったな。まあ、入れ。まず先生方に紹介するから。」
「先生─!私、これからお昼食べに教室行くね。湊君、また後で!」
そう言うと郁美はバイバイと手を振って走って行った。
「あっ遠野!お前、遅刻の理由聞いてない───」
どうやら涼丞の台詞は届いていないようだった。
「あいつはいい奴なんだが、遅刻が多いのが玉に傷でな…」
頭に手をやり渋い顔をする涼丞を見て、湊はくすくすと笑い言った。
「相変わらずだね。涼丞君は。詰めが甘いのが玉に傷…。」
「湊─。お前、言うようになったな。あと、ここでは一応、生田先生って呼べよ。」
「了解。生田先生。」
職員室に入り、ずらりと並んだ机に、疎らに腰掛けた教師たちの視線に晒されながら、まず奥にある学園長室と書かれた部屋に通された。
「──失礼します。転校生の生田湊を連れてきました。」
「入りなさい。」
扉を開けると、恰幅のいい、穏やかな笑みを湛えた女性の学園長が迎えてくれた。
「遥々よく来てくれましたね。歓迎しますよ。」
彼女は、学園長と村長を兼任する狗能八重子。
この村では狗能姓というのが、昔からの名家らしい。元々は、明治時代から続くこの辺一帯の土地の地主の姓だったとか‥その分家の一つが、涼丞の母親の生家らしい。涼丞からの前情報を反芻しながら、目の前の女性を観察する。
こんな田舎だから、もっと野暮ったいおばちゃんを想像していたけれど、着ているものは一見地味だが、湊が見ても上等なものだとわかるし、仕草や物腰から受ける印象は、きっと、都会で高度な教育を受けて育った人──。
どうしてこんな人が、こんなに寂れた山奥の村なんかの村長に納まってしまったのか‥‥。
「しばらくは勝手が違って何かと不便なこともあるかもしれませんが、この村の人間は皆気さくで面倒見がいいから、遠慮なく何でも相談して下さいね。もちろん、私にも。」
優しさと、厳しさを含んだ眼差しに、自分の邪推を見抜かれたような気がして、慌てて言葉を返した。
「ありがとうございます。宜しくお願いします。」
その後、昼食中の教師たちに自己紹介をして、職員室を後にした。
「じゃあ、あと保健室だけ案内しとくか。」
「そうだね。ありがとう。」
「…で、体の調子はどうなんだ。」
保健室へ向かう途中、涼丞が切り出した。
「うん。かなり良好だよ。もう手術から一年とちょっと経つし‥。月に一度の定期検診だけは、こっちでも欠かさずにって言われてるくらいかな。」
「そうか。でも無理はするなよ。お前らの年代は、これから体ができてくるんだから、焦らず今までの分、追い付いていけばいい。」
追い付く‥か。
湊は手術の後、一年近く入院生活を送ったため、今年、一年遅れての中学入学となったのだ。
それも、父親から見込み無しと見なされた一つの要因だろうと、湊は思っていた。
「でも、勉強面では逆にこっちに来て良かったんじゃないか?うちの中等部は、1、2年合同で授業することも多いから、やる気があれば半年で遅れを取り戻せるかもな。お前、もちろん大学進学まで考えてるんだろ?」
「あんまり先の事は考えてなかったけど、今の涼丞君の言葉でちょっとやる気出てきた。」
「湊〜。頼むよ。せっかくまた一人、教え甲斐のある生徒ができたって喜んでたんだぞ、俺は。」
「何?またって、他にもいるの?見込みのある生徒。」
「おっ。噂をすれば‥」
渡り廊下を抜けると、さっきいた校舎と同じ形の建物が、平行に並んでいる。職員室とちょうど同じ側に位置する部屋が、保健室だった。
その部屋の扉が引かれ、一人の男子生徒が出てきた。
「川上!どうしたんだ。お前が保健室なんて珍しいな。」
「あ?ちょっと体育で怪我しちまったんだよ。
それ誰‥‥?」
ぶっきらぼうな物言いだったが、涼丞を嫌ってはいない事は、雰囲気でわかった。
「生田湊。今日からお前と同じクラスだ。仲良くしてやってくれよ。湊、こっちは川上裕太だ。」
「はじめまして。よろしく‥。」
今日、何度目だろうか、同じような挨拶を交わして───
「ふーん。お前か‥。超イケメンの転校生が来た〜って女子たちが騒いどったけん、どんなもんかと思ったら、お前、女みたいな面やな。 くっくっくっ‥」
彼──川上裕太は、湊とは真逆のタイプだった。
中1の割りに、身長は170を優に越えており、身体は筋肉質だが、しなやかで俊敏そうだ。肘に巻かれた包帯は、先ほどの体育で怪我をした場所なのだろう。
短髪の黒髪がよく似合う、意志の強そうな目とは一見アンバランスな、軽薄そうな口元。
しかし、その陰と陽の絶妙な混合具合が、彼の魅力なのだろう。
湊をイケメン、と言ったが、一般的に見て、彼も十分その部類に入るといっていいだろう。
「おいおい、初対面から感じ悪いなお前。湊、気にするな。こいつは気に入った奴しかからかわないから、悪気はきっとない。」
「涼丞君‥。あんまりフォローになってないよね。で、このデリカシーのない野蛮そうな人が、さっき言ってた見込みのある生徒なの?」
「お前も言うね‥。ああ、そうだよ。川上、湊はきっと強力なライバルになるぞ〜。楽しみだろ?」
「まあ頑張れや、湊ちゃん!」
くくくっ、と笑いながら裕太は行ってしまった。
「‥あれが、俺のライバル‥?」
「まあまあ、あいつはああ見えて、かなり頭のきれる奴だ。一緒にいて、学ぶこともあると思うぞ。」
確かに、切れ者っぽい印象は受けたけれど、自分を女呼ばわりするような奴とは仲良くなれない‥気にしてるのに‥と思うのはやはり自分が卑屈すぎかな‥などと考えていると、
ガラッと扉がもう一度開いて、中から白衣を着た若い女性教師が表れた。「椙山先生、彼が生田湊です。」
「はじめまして〜。椙山文代です。あなたが〜。生田先生から話は伺ってます。よろしくね。」
長い髪を後ろで一つに縛った、化粧気のない先生だった。明るく、コロコロと表情を変える様は親しみやすく、保険医にぴったりだ。
椙山先生の実家が、お前がお世話になる診療所だからな、と涼丞が言った。