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冥土の土産にメイドイン  作者: しゃあたん
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一式目 Maid goes to the city.

シキミ様、お早うございます。昨晩はよくお眠りになられましたか?」

 俺を起こすのは決まってその言葉だった。

 日差しを手で防ぎながら霞む目を無理やりに開かせると、そこには天使の如し女がいた。カーテンの隙間から降り注ぐ陽光、未だ鮮明ではない半覚醒の意識が彼女をそう見せるのだろう。実際彼女は白人ということもあってか、黒髪のおさげといういかにも日本的な髪型を除けば、西洋画がそのまま歩き出したような美人だった。

 キャサリン・ブランク――それが彼女の名で、俺は親しみを込めて、昔からケイトと呼んでいる。

「……疲れが残っているのかな、まだ少し眠い」

 開いた目をまた閉じて、もうあと五分寝かせてくれと、俺は言外に伝える。

 するとケイトは控えめに僕の体を揺すって起床を促した。寝ぼけた眼に映る彼女のメイド服のフリルはまるで天使の羽のようで、それがゆらゆらと揺れる。

「ですがシキミ様。今日はお父様とお会いになる大切な日にてございます。ご支度はお早めに済まされた方が……」

「それが余計に嫌なんだよ……。いっそこのまま布団の中で一日を過ごしたいほどだ」

 未だに目は閉じたままだったが、渋々俺は体を起こす。

 瞼の裏に、もう何年も会って話していない親父の顔がぼんやりと思い起こされた。記憶の中の親父の顔はすでに薄れつつあったが、しかし今でもあのときのことはしかと思い出せるのだ。

 ――今からちょうど十年前。俺が中学に上がる頃。俺は俺の家を追い出された。それまで住んでいた大きな屋敷とは打って変わった普通のマンションの一部屋と、月一度の生活費、そして――たった一人の女中だけをあてがわれ。

「それがなんだって急に……、相変わらず訳わからん奴だよホント」

 寝癖で立ち上がった髪をわしわしと掻く。深く息を吸うと、俺はそれでようやく完全に目が覚めた。

「朝食のご準備は整っておりますから、お顔を洗ってからどうぞお召しになってくださいませ」

「ああ」

 ベッドのシーツを直すケイトを尻目に俺は洗面所へ向かう。春先とはいえ、四月の初めのこの時期はまだ冷え込む。蛇口を捻り熱い湯を掬って、俺は思い切り自分の顔へと叩きつけた。頭を櫛で梳いて寝癖を直すが、襟足のくせ毛だけはどうにもならない。しかしわざわざワックスを付けて整えるのも面倒で、結局無造作のまま洗面所を出るのだった。

「あー……、だる……」

 昔から朝は苦手だった。たとえ眠気がとんだとしても、倦怠感が体に纏わりついて離れてくれない。自身の今日一日のすべきこと、学校もそうだったし今の仕事もそうだけど、その労力を思うと頗る憂鬱な気分になってくるのだ。

 そんな俺が少しでも気持ちの良い朝を迎えられるようにと、ケイトは僕よりもずっと早く起きてこうして朝の支度をしてくれているのだから、実にありがたい話だ。そんなことを、すでに配膳されている朝食を見てほぼ毎日のように思うのだった。

 俺が席に着くとほぼ同時に、ケイトが寝室から戻ってくる。彼女は僕の動きに合わせるが為少し急いでいるようだったが、慌ててはいなかった。ケイトのおさげはまるで揺れることはない。その落ち着いた様相は、黒猫の尻尾を思わせる。

 ケイトがグラスに牛乳を注いでくれたところで、本日の朝食は全て出揃った。白いご飯に蜆の味噌汁、甘い玉子焼きに梅干し。これが俺の、ケイトを迎えてからの十年間ずっと変わらぬ朝ご飯の基本形だ。彼女は俺が飽きないようにと色々手を変え品を変えしてくれることもままあるが、やはり俺にとってはこれがベストで、今日一日をスタートさせる重要な起爆剤だった。

「いただきます」

 合掌すると、まずは味噌汁を啜り、それから同じく卓状にあるリモコンをとってテレビを点けた。見慣れたニュース番組。画面の左上に表示されている時刻を確認すると、昨日こうしたときとまったく同じ午前七時三○分。いつもながら、この人の時間管理の正確さには驚かされると、正面に行儀よく座っているケイトを横目に思った。

 ニュースでは不審船舶やら密輸入やらの話題が取り上げられていたが、あまり耳には入ってこなかった。

 ――親父はいったい何のために今日俺を自分の会社へと呼び出したのか? それだけが気掛かりで仕方がない。あの時と同じように、またあいつは突拍子のないことを言いだすのではないかと不安で堪らないのだ。

 喰いながらコツコツと指で机を叩く俺の様子を見て、ケイトが言った。

「緊張なされているのですか?」

 少しドキリとした。

「緊張? ……そうかもしれないな。いくらクソ親父とはいっても、相手はうちらの業界でも頂点と言ってもいいほどのお偉いさんだからな」

「そういうことではないのですが……」

 ちょっと寂しそうに、ケイトは呆れ笑いをした。

「まぁお前に面倒をかけるようなことはしないから安心してくれ」

 今でこそ無くなったが、まだ俺が思春期の時分は親父のたまにしかよこさない連絡にいちいち苛立って、その度に反感して電話で怒鳴っていた。その間を取り繕って修繕するのはいつもケイトで、彼女には度々気苦労をさせていたのだ。

 そのことを思い出すと、いい加減今はいい大人になったのだから、せめてそういう下らない部分で迷惑をかけることなどないようにしたいと、少し身が引き締まる気がした。

 ふいに、箸がコツンと茶碗の底を突いた。元々早食いの気があるから、つらつらと考え事をしているとあっという間だ。

「ごちそうさん。今日もうまかったよ」

「恐縮ですわ」

 ケイトはペコリと一礼すると、すでに席を立とうとしている俺を呼び止めながら追うように自分も立ち上がった。

「お待ちくださいませ。本日は特別な日でございますから、お着替えは別にご用意いたしました」

 彼女の言う通り、俺は仕事着であるスーツに着替えるため居間に向かおうとするところだった。

「……そうだったのか。別に、変に気を回さなくてもいいんじゃないか? 意中の相手とのディナーってわけでもあるまいに、相手はただの父親だ」

 むしろ、いつものくたびれかけのスーツでも勿体ないぐらいだぜ。あてつけにこのまま寝間着のままで会ってやってもいい。ふざけた格好で親父の会社に出向いて、あいつのメンツを潰してやるのも一興だ。

「先ほどご自分でおっしゃったではありませんか。お父様はシキミ様の上司にあたるお方。それどころか、我々の業界のトップに立っておられます。粗相があれば、お父様だけでなくシキミ様のお立場にも直接響いてしまわれますわ」

「だからってわざわざ新調しなくともさ……。なんだか意識してんのが親父に悟られそうで癪だ」

 気乗りしない俺の様子に、ケイトはそっと付け足した。

「……それにこういうときでないと、シキミ様はなかなかお召し物に気を使われませんから」

 そう言われると確かにそうなのだが。俺はこと身だしなみに関しては無頓着もいいところで、ケイトにこうして窘められなければスーツはほぼ毎日同じものを着回すし、流行りのファッションとか全然分からんから普段着はケイトに買ってきてもらったものを適当に選んで着ているだけだ。

「これまでずっとわたくしをお頼りになられていたのです。平常通りわたくしの見立ての物をお召しいただくことの何が問題でしょう?」

 言いながらケイトはそそくさとどこかへ行くと、すぐにその彼女の見立てだという、黒光りするダブルブレストのスーツのかかったハンガーを持って現れた。俺は身長が結構高めだから、ジャケットとパンツの両方がケイトの腕にいっぱいいっぱいだ。

「わっーてるよ。ちょっと言ってみただけだって。……でも、ネクタイは普段通りだ」

「あっ……」

 ケイトが一緒に持ってきた青いストライプ柄のネクタイを奪い取ると、俺は居間のクローゼットにある普段の――スーツ同様、真っ黒のネクタイと交換しに行った。

「いつもの弔辞用のネクタイはあまりこういった席ではそぐわないかと……」

「いいんだよこれで。いかにも仕事だから会いにきたって感じがするだろ?」

 なんせ俺ら親子は二人とも、『葬儀屋』なんだからな。

黒木樒(くろきしきみ)』――そう刻まれた名札を、俺は真新しいスーツの胸ポケットにつけた。

 

一式目 Maid goes to the city.


 一


同日正午――俺たちは、俺の父である黒木(くろき)(さかき)が代表取締役社長を務める株式会社黒木葬祭の本社ビル前まで来ていた。東京のとある場所にそびえ立つその会社は辺りのビル群の中でもひと際目立ち、その存在感を誇示している。それもそのはずだ。黒木葬祭といえば、全国の数ある冠婚葬祭業の中でも全国シェア率一位を有するグループで、そこから派生している子会社も数多く存在する超大手企業だ。

 そしてかくいう俺も、つい先日まで小規模ながら黒木葬祭の運営する葬儀会館の支配人をやっていた。ちょうど二十歳のときに親父から任されたのだが、その頃の俺はまだこの業界に入って二年ほどしか経過しておらず、世間のことすら碌に分かっていない青二才だったというのに、無茶振りも甚だしい。親父から郵便で受け取った辞令の書類の文面を、ただただ唖然としながら読んでいた自分のことを今でも覚えている。

 親父からこの業界に入ることを強制された俺だったが、そんな俺でもこの本社にやって来るのは初めてのことで、思っていたよりも大きな緊張を覚えた。ケイトの言った通り、フォーマルな格好をしてきたよかったと今になって感じつつある。

「わたくしはいくらかこちらへ訪ねたことがあるのですが……、そう言えばシキミ様は初めてでいらしたのですね」

 そのケイトが、おそらく最上階にあるのであろう社長室を見上げながら、俺に語りかけた。ともするとビルを出入りする人々や辺りを走るうんざりするほど多い車に掻き消されてしまいそうになるが、その声は何とか俺に届いた。

 ただの偶然だろうけど、考えていたことが見透かされたみたいで、俺は少しギクリとする。

「……とにかく中に入ろう。いつまでもこんなところに突っ立てちゃ不審に思われる。ましてお前のその格好じゃな」

 俺に身なりのことをご高説してくれたケイトだが、その自分自身はいつものメイド服姿のままだ。それが数多くのビジネスマンが忙しく行き交うこの東京の雰囲気には全くそぐわないので、ここへの道中も今現在も人々の奇異の目を集めてしまって敵わないったらない。

「しかし先ほども申しました通り、わたくしは何度かこちらをお伺いしております故、素性は先方にもご理解いただけているかと存じますわ」

 まぁある程度の話は親父から職員らに通っているはずだから何も問題は起きないはずだけど。しかしケイトはそれでなくとも日本人離れした容姿で人の目を引いてしまうのだから、あまり目立つ格好はしてほしくない。その隣にいる俺まで変人だと思われてしまう。

「女中の君にとっちゃ確かにそれが正装なんだろうけどな」

 いくらか時代や場所が違っている気はするが。

 以前からの疑問を胸に抱え俺は、この会社の馬鹿でかい自動ドアを潜り抜けた。

 初めて訪れた本社ビルのロビーは、まるで何かのミュージアムだ。声がそこかしこから反響し、歩く度に大理石の床がコツコツと鳴る。あまりに広い所為で人々が黒い点のように見え、まるで働きアリが蠢いているようだ。

 吹き抜けを貫くようにそびえるロビー中央の長い、というより高いエスカレーターを目でなぞりながら歩く俺。我ながら田舎者クサいしぐさであったが、当然そのように不注意なことをしていると事故を起こしてしまうのが常というものだ。案の定、というべきか俺は道行く女性に肩をぶつけてしまった。

「あっ、失礼しました! お怪我は?」

 場所が場所だったということもあり多少オーバーなリアクションをとってしまったが、相手はさして気に留める様子もなく、「私は大丈夫よ。あなたは?」と聞き返された。 

 紅い眼鏡を掛け、女性でありながらツーブロックのショートヘアが印象的な女性だった。

「いえ私は……、どうもご迷惑を」

 そう言ったときにはすでに女性はその場から立ち去り、俺の言葉に背中を向けたまま手を振って返していた。

「よそ見をしていると危ないわよ」

 去りゆく彼女の姿はなんだかカッコよく、その言葉が何だか耳にこそばゆく残った。

 ――普通の人とは違う、変わったオーラを発する人だ。そう、タイプはまるで違うけれど……ケイトと同じ匂いをあの人からは感じる。

「……シキミ様? どうなさいましたか?」

 しばらくその場に突っ立って動かなかった俺を不思議に思ったのか、ケイトに声を掛けられた。見蕩れていた――とはもちろん言えなかったので、適当に「ああいや何でもないよ大丈夫だ」と早口ぎみに誤魔化して、そそくさと正面にある受付に向かった。

「失礼します。私、黒木樒という者ですが――」

「ご子息様ですね。お話は伺っております」

 俺が言い切るまでに、受付嬢は手慣れた様子で素早く応対した。こんな格好の女がいきなり目の前に現れたにも拘らずこの落ち着きようを見ると、ケイトの言うように彼女の顔は少なくとも受付には覚えられているらしい。

「ただいまお繋ぎ致しますので、どうぞあちらにかけてお待ちください」

 受付嬢はロビーの向かって左端にある待合スペースを平手で差すと、内線でどこかに連絡を入れた。今この受付嬢と通話している人物こそが、俺の父親である黒木榊その人なのだろうか。

「どうぞお掛けになって」

「……あ、申し訳ありません。どうもありがとうございます」

 親父のことを思い出していた所為か反応が鈍かった俺に、別の受付嬢が催促した。

 来客は俺らだけじゃないはずだから、いつまでも居座っていると迷惑だ。だから俺は慌ててその場からどこうとしたのだが、踵を返すとほぼ同時に通話をしていた方の受付嬢が俺たちを呼び止めた。

「お待たせ致しました。間もなく係りの者が参ります」

 ――それから程なくして、社長秘書だという見た目若い女性が俺たちの元にやって来た。    

 いよいよあの親父と対面するときがきたと思うとやっぱり少し緊張して、そんな俺自身に、それと同じほどの苛立ちを覚えるのだった。


「いやー……シキミ、よく来てくれた! ははは、実に十年ぶりか、実際に君とこうして顔を合わせるのは! ケイトもまぁ一段とキレイになったものだよ! シキミに仕えたばかりの頃は君もまだ少女だったというのに、今ではすっかり魅力的なレディだ! いやはや……、時が経つのは実に早いものだ! 光陰矢のごとしとはよく言ったな!」

 身丈の倍ほどもある机に体をぐいと乗り出して、親父は捲し立てた。きっと隣り合うような距離だったら俺の背中をバンバン叩いてはしゃいでいたに違いないが、あいにくこの社長室はこれまたバカみたいに広く俺たちはその中央に立っていたので、距離感からそうなることはなかった。というか、俺はそれを知ってるからわざとそうしたんだけど。

 昔から、というか、俺の知っている昔の親父は、人と話すときにはやたらとテンションが高いやつだった。堀の深い顔立ちも、厳ついオールバックの髪型も、見定められているような大きな目も、あの日から何も変わっていない。暑苦しいままだ。

 ――十年前、家を追い出されたあの日だってそうだ。親父は相も変わらずおどけた調子だったから、これから自分がどういう立場に立たされるかなどつゆほども想像できなかったのだ。

「……んで、親父。今日は何で俺を呼びつけたんだよ」

 俺は親父の大声に半ばうんざりしながら、さっさと本題を切り出した。

「なんだ、せっかくこうして久闊を叙したというのに、身も蓋も無いやつだな。しばしの間、感動の再会を親子で噛みしめあってもよいのではないか?」

 茶化すような親父の言葉に俺は少し頭に来てしまう。

「バカ言うなよ。一方的に家追い出したのはあんただろ。こっちは早いとこ切り上げたいんだ」

 殊更に語気を強め喰って掛かったつもりだったのだが、当の親父はそんなことを歯牙にも駆けず、それどころか「はっはっは!」と快活に笑う。

「別に追い出したわけじゃないさ。私は君の『自立心』の成長を願って、君を親元から離したのだ。君を、いいとこのぼんぼんという他人よりも恵まれた環境に置きたくはなかったからね。自らの特殊な環境に甘えることなく、己で考え己で行動を起こす人間になって欲しかったのだよ。そのために、私は早い時期から手を打ったのだ。光陰矢の如し――そして、少年老いやすく学成り難し、だ!」

 まるで演説しているかのように大袈裟なボディランゲージで親父は説くが、これまでも電話で近況報告するたびに聞かされている。わざわざそれを指摘するのも面倒なほど、だ。  

だからこそ俺は、ついに電話でのやりとりさえも億劫になって、ケイトにそれを任せるようにしたのだから。じれったさから、俺は目を伏してしまった。

 なんだろう……、俺はよしんば十年前の出来事が無かったとしても、親父のことが根本的に苦手なのかもしれない。俺とは対照的なガツガツした性格とか、いちいち掴みどころのない煙に巻くような話し方とか、無駄にデカい声とか、もうとにかく頭が痛くなってくる。うちの会社は冠婚葬祭、つまり葬儀だけでなく婚礼行事にも手を出しているのだが、親父の特性はどちらかといえばそちら向きな気がする。もっとも親父は葬祭でこの会社を大きくしたらしいので、葬式ばかり携わってきてのこの性格ということになるのだが。

 ため息を一つ吐いて、俺は親父に視線を戻す。すると親父は何やら満足げに笑みを湛えた。思わず俺は、舌打ちをする。

「旦那様、お戯れはそこまでに」

 見兼ねたケイトが親父を窘めた。

 さすがの彼女に言われておどけていられるほど、親父も図太くはない。コホンと咳払いをすると、親父の顔から薄ら笑いが消え去った。大きな瞳が、俺を見分するようにねめつける。

「……シキミ。今日君を呼んだのは他でもない、異動だ。現時点を以て支配人の任を解き、黒木樒、君にはある場所で一葬祭ディレクターとして働いてもらう」

「……は? それってつまり……左遷?」

 実の父親から――それも数年ぶり会うというのに――散々焦らされて告げられたのが、あにはからんや左遷だったとは。そんなこといったい誰が想像していただろうか。

 文句や罵倒をこれでもかというぐらいに浴びせてやろうかと思ったのだが、俺の口は意に反して金魚のようにパクパクと震えるだけだ。

 自分でも驚いたことに――葬儀屋は親父から強制された仕事だったのだが、それに思いのほか誇りのようなものを感じていたらしい。親父から家を追い出されてまで築いた自分の葬儀屋としての経験と地位が、その親父の方針通り若くして葬儀会館の支配人までやってのけた自分の努力が、こうもあっさりと否定されるだなんて想像するべくもあらず。

「ショックを隠せない、といったところか」

 俺の動揺をよそに、親父はいたって涼しげに微笑む。

「別に降格というわけではないよ。これはシキミの更なる成長を願ってのことで――君には、『(かみ)十島(としま)市』という場所で新地開拓をしてほしいんだ」

「……か、神十島?」

 降格ではないと聞かされほっと胸を撫で下ろしつつも、聞き慣れない町の名前にまた別のざわつきで胸やけ気味になる。新地開拓? 全国シェア一位を誇るこの会社が、今更どこに手を広げようというのか。

「神十島というのは東京湾の沿岸にある人工島でな。ここ十数年の間に急速に発展した、巨大な貿易港のある日本有数の港街だ。人口は約三十万、港には一日で百隻を超える数の船舶が出入りし、海寄りの地区には銀座と並ぶほどの歓楽街がありながら、内陸側には周囲の都心に比べて地価の安いベッドタウンがあり、羽田や成田が目と鼻の先で近くには高速道も走る――と、まあこれだけならばまさに文字通りの理想郷、日本の事業の中心地となりえるポテンシャルがある街だ」

 これだけならば――その言葉を無視できるほど、俺は事を楽観視する気にはなれなかった。

 親父の続く語を想像すればするほど、俺の動揺は解消され、悪い意味で頭が冷ややかになってくるのが自分でも分かる。

「これだけならばって……、じゃあいったい何が悪くてそうじゃないんだよ。それだけ条件の整った都市が、何で耳にするのも初めてなぐらい無名なんだ? そんなの、少なくとも中高の社会科か何かで一回は聞くはずだろ?」

 しかし俺は、神十島という都市の名を、寡聞にして知らなかったわけだ。自慢じゃないが俺は結構地理には詳しい方だし、支配人を務めていた身だからこの若さにしては経済のことには造詣が深いと、自分では思っている。ただの不勉強だといえばそれまでだが、しかしそこまで大きな街ならば、何らかの情報は自然と耳に入ってこなければ逆に不自然というものだろう。

「そう……それにこそ、この街が一筋縄でいかない理由があるのだよ!」

 親父は我が意を得たりとばかりに平手を打つ。そして後ろを振り向くと、一面ガラス張りの社長室からどこか遠くを望んだ。もしかして親父の見やる向こうに、その神十島とやらがあるのかもしれない。

「神十島市がなぜその名を知られていないのか? それは、それら全ての条件は負の方向に働いているからだ?」

 大きく両手を振りかざし、親父は一人で熱くなっていた。その素振りは、壇上で大衆に向けてスピーチを行う欧米の活動家みたいだ。

「負の方向って……、意味分かんねぇよ。貿易が盛んなのも娯楽施設が多いのも土地が安いのも交通の便が良いのも、全部プラスでしかないじゃん」

 それが至極当たり前といったふうに俺は平然と言い切るのだが、お隣からすぐに異議を申し立てられてしまった。

「何もそれらが良いことづくしとは限りませんわ。例えば――今朝がた報道されていた不審船舶の密輸入……。百隻以上の船舶の出入りが、もし無認可で公的なものでないとしたら……、それは紛れもない『負』でございましょう」

 ケイトがいたって冷静に、少し怖いくらいの声音で言った。

「そりゃあそんなことが取り上げられていたかもしれないけど……、それだって一隻二隻のはずだぜ? 百隻以上ってそんな膨大の数の船が不正に入港していたら、さすがにそんなのは国が黙っちゃいないだろ」

 いくら何でも度が過ぎる。世界で最も治安の良い国だと言われているここ日本で、そんなことがあっては国中がパニックに陥ってしまうだろう。それだけ日本人には悪意に対して耐性が無いから、逆に悪意は衆目の中で目立ちすぎる。

「しかしこと神十島においてはその全てが例外だ! あらゆる常識が通じない非常識の街なのだ! 港は日夜密輸入されたもので溢れ返り、歓楽街には娼家と消費者金融が明々と軒を連ねている。土地が安いのはその治安の悪さから住み着くものが少ないからだ。そしてここで仕入れられたものが、その交通の便の良さから全国に運ばれる――まさに掃き溜めだよ、この国の汚点を一か所に凝縮したかのようだ! 日本唯一のスラム街といっても過言ではない!」

 親父の口調からは、それが軽口でも誇張でもないことが伝わってくる。多くの条件が揃いながら、今までうちが大々的に事業展開できなかった理由もこれで納得がいった。

 でもだったら、今まで通りそんなやばそうな場所には手を出さなくたっていいんじゃないか? というか、親父の言うようなスラム街がそもそも葬儀屋なんて求めているのか甚だ疑問だ。根底からして需要が無さそうではある。

「言っただろう! 少年老い易く学成り難し、だ!」

 親父は俺へと向き直ると、バンと机を叩いてから手招きした。どうやら近くまで寄って来いということらしいが、いちいち動作が乱暴なので突然キレたのかとさえ思う。

 だけど親父は、目をキラキラと、いや――といよりは赫赫とこれまた暑苦しく輝かしていたので、どうやら純粋にこの状況を、あるいはこれからの先行きを、ただ純粋に楽しんでいるらしかった。

 今更わざわざ親父と近くで正面切って話すというのもなんだかなぁと思いつつ、いざ親父の目の前までやって来ると、なんといきなり肩をガシッと掴まれ軽く揺さぶられた。

「うわっ! なんだよ親父いきなり!」

 完全に無警戒だった俺は、驚いて少し跳び上がってしまう。

「この黒木葬祭の後継として相応しい人間は、そのような苦境でこそ力を発揮できる人間

だ! これはそれを君に見せてもらうための、言わば試練なのだよ!」

「し、しれん……? ってか跡継ぎって……」

 何の話だよ――と、状況が呑み込めない俺が聞き返すよりも先に、親父は熱弁した。

「分からないはずがないだろう! 私がいったい何のために君を葬儀屋にしたと思っているんだ? 高校を卒業してからすぐに、その道を歩ませたと思っているんだ? 全ては私の後を継がせるためで、今がその資格を試す時分なのだよ?」

 俺がこの会社の後継ぎ――そんなことは今まで考えたことも無かった……、と言えば嘘になる。

 親父の言ったようなことは納得こそできなかったものの想像はついていた。天下の大企業、黒木葬祭社長黒木榊のたった一人の息子なのだから、嫌でもそれは考えてしまうし、それに――親父が俺から居場所を奪ったように、俺も親父の席をいつか奪ってやると、あの日俺は自分に誓ったのだから。それは子供じみた反骨精神みたいなものだから、歳を重ねるごとに現実的になってその思いも段々と薄れつつはあったけれど、でもいざこうしてその機会が目前までやってくると、どうしていいか分からなくなってくる。

 ついに親父に目に物見せてやれるという復讐心と、素直に大企業のトップとなる愉悦と、たかだか二十二の若造にそんなものは手に余るのではないかという足踏みや怖気。当然、名前も知らなかったような街で、自分が上手くやっていけるかどうかの不安もある。そもそも、新地開拓以前にそんな刑務所より治安が悪そうなところで商売してたら自分の身が大変に危険だろう。

 逡巡していると、親父は顎に手をやって、俺の顔をわざとらしく不思議そうな顔で覗いてきた。

「何を迷うことがある? 成功者への切符が目の前に落ちているんだぞ? これでお前も日本有数の大企業の社長になれる上に、その座から恨めしい父親を蹴落とすことができるのだぞ? いったい何に怯える必要があるというのかね?」

 親父の表情から明らかな挑発の色が窺えた。俺が親父のことになるとすぐムキになるのを知って、殊更にそうしているんだろう。

 安い挑発だが――だからこそ、その挑発に乗らないわけにはいかない。ここですごすご逃げ帰ってしまっては、親父の期待外れということになる。それはそれで、親父の想定通りの反応を見せるよりも癪だ。

 悔しいが、こいつは俺のことをよく理解している。この場面で俺が断れるわけがないのを心得ているのだ。

 だからこそ俺は、努めて強気で、ある意味虚勢なのかもしれないが――

「……その喧嘩、買ったよ親父」

 ――と、親父に胸の名札を投げ渡した。

「……いいのかい? この名札には、君の名と共に君の役職……ホール支配人とも刻まれている。それを私に返還したということは、それすなわち今の自分の役職を捨てるということだが……、どうなのかね?」

 親父はいやらしい薄ら笑いを浮かべて確認するが、考えてみれば何でもない。上の命令に従うだけなのだ。取締役社長様の言う事に、一従業員が逆らえるはずがない。当然だ。

「……来週まで時間くれ。今持ってる仕事の引き継ぎと、身辺の整理まで済ませるから」

 ぼそっとそれだけ言って、俺は親父に背を向けた。

「シキミ様! もうよろしいのですか? せっかくお父様とお会いになられたというのに……」

 ケイトは俺を引き留めようとしたが、それを親父は「構わんよ」と遮った。

「帰ったら、郵便受けに神十島市の資料が届いているはずだ。明日まで目を通して、準備に取り掛かってくれ。あちらはすでに君を受け入れる体制が整っているらしいから、あとは君の都合だけだ。それから必要であれば、引っ越し業者もこちらで用意しよう」

 ……どこまでも用意周到な親父だった。

 まさか俺がイエスと返事をするよりも先に手配を済ませているとはな。先見の明とはよく言うが、ここまで行くともはや不気味だ。

 親父は俺の性格を理解しているらしいが、俺には親父のことが何一つ見えない。

「あ、そうだシキミ! こいつを持っていきなさい」

 もうほとんど部屋を出かかっていた俺を親父は呼び止め、何やら光る物を投げ渡してきた。俺はてっきりそれをさっき返却した名札かと思ったのだが、しかしそうではない。


「……っと。なんだこれ、クリップか? いや……違うな、ネクタイピンか」

 何かの植物の葉をモチーフにしたうちの社章、それが象られたネクタイピンだった。高級な物なのだろうか? 社章の部分が青い宝石のようなもの(ただのガラス玉かも)であしらわれている。

「あの町でやっていくにはまず身なりからだ。貧相な人間は三歩と歩かぬ内に喰い物にされるからな。……私からのアドバイスだよシキミ。スーツでも時計でも、何でも良い物を身に付けろ」

 ……身なり、身だしなみ。

 いきなりの苦手分野に、半ばうんざりする俺だった。

 

 二


 本土と神十島を渡す巨大な橋――弥子(やこ)(まい)大橋というそうだが、そこから車で二十分ほど真っすぐ行くと、撫子(なでしこ)(まち)中央通りという神十島の中心地に行きついた。

 そこは見渡す限り派手な電飾で彩られた、昼間でも目に眩しいくらいのネオン街。以前、付き合いで新宿歌舞伎町に訪れた際にこれとよく似た風景を見たのを覚えている。

 片側四車線の道路の両脇には怪しげな看板の目立つビルが立ち並び、少し裏通りを行けば五分ごとに似非日本語を喋る外国人にどこかへと連れて行かれそうになる始末。

 非常に情けない話だが、一人でこんなところを歩くハメにならずに本当に良かったと、俺の二歩ほど後ろを楚々と付いて来るケイトを見てしみじみ思う。彼女のメイド服姿はこの町の住人にさえ異様らしく、人を寄せ付けない。そういった客引きは、俺と彼女が連れだと見るにそそくさと逃げてしまう。

 ケイトの魔除けの甲斐あってか、俺たちが何とか目的の場所へとたどり着くことができた。

 裏通りを抜けて少し行った撫子町中央通り三丁目にあるその建物は、周囲の建造物に比べていくらか見慣れた様相だ。葬儀会館リコリス――と、表には出ている。手元の資料の外装写真と見比べて明らかに合致していたので、ほっと一息、俺は胸を撫で下ろした。

 事前情報によるとどうやらここは神十島にいくつかある黒木葬祭系列の式場らしく、そして中でも唯一事務所が存在する式場らしい。だから神十島地域のスタッフは、ここを拠点にして活動しているというわけだ。

 ――つまるところ、俺は今日からここの所属となる。

「……ここが話に聞いてた葬儀会館か。ま、こんなとこじゃあ滅多に人も寄り付かないだろうな。新規開拓が必要なわけだよ」

 入り口の自動ドアはロックされており、扉越しに覗くロビーは灯りが消されて真っ暗だ。通常、いつ葬儀の依頼や事前相談で来客があってもいいようにしているのが葬儀会館なのだが、この様子を見ると今この会館は人が出払っていてそのために戸締りをしているのかもしれない。

「何にせよ、ここまで来ておいそれと引き返すわけには参りません。念の為、お声掛けはしておきましょう」

「……ま、そうだよな」

 ケイトに言われて辺りを見回す。すると、風除室の隣の外壁にインターホンを見つけた。

 これは事務所に直接繋がっているはずだから、もし中に誰かいるのであれば応答があるはずだ。訳も無く若干躊躇しながらも、俺はボタンを押した。

『………………はい、こちら事務所ですが』

 数秒空けて、ザザッというノイズと共に若い女性の声が響いた。俺の予想に反して、中に人はいたらしい。俺は虚を突かれて少し慌ててしまったが、何とかすぐに調子を取り戻して名を名乗った。

「あの、私、今日からこちらでお世話になる黒木樒と申しますが――」

 ――代表者の方はいらっしゃいますか? とそこまで尋ねる前に、スピーカーからブツッと音がして、それきり反応が無くなってしまった。

「……切られちゃったよ」

「きっと表まで出迎えていただけるのでしょう。もうしばしお待ち致しましょう」

 ケイトの言葉通り、すぐに階段をパタパタと下りてくる音が聞こえてきた。

 間もなく、自動ドアの真横の階段から俺と同世代ぐらいの女性が現れた。そのグレーのスカートスーツはうちの会館職員の制服なので、おそらくはここの事務員さんだろう。

 その女性は、何やら左をくいくいと指差して、

『すいません! 裏の入り口からお願いします!』

 ――と、窓越しに声を掛けてきた。

 ただそこの自動ドアのカギを開錠してくれればいいのではと思ったが、それは口に出さず俺たちは黙ってその指示に従った。

 駐車場の脇を通り建物の裏側へ行くと、staff onlyと書かれた職員専用の出入り口のようなものがあった。試しにドアノブを捻ってみると、確かに鍵は開いている。

 おそるおそる開いてみると、そこには先ほどの女性が先回りしていた。

「……はぁっ……はぁっ……、はぁー……ふぅ。ようこそ、葬儀会館リコリスへ! お話はお聞きしております! どうぞ上がってください!」

 おそらく急いでこちらまで走ってきたのだろう、彼女は息を荒げている。深呼吸を繰り返して肩を上下させるたび、その印象的な栗毛のサイドテールがぴょこぴょこと跳ねていた。

「じゃあすいません。失礼します」

 ペコリと頭を下げてから、俺は彼女の案内に従って中へとお邪魔させてもらった。ケイトも、俺に倣う。

 ――そこは、俺がもといた会館と何ら変わりの無い事務所。四人掛けのデスク、パソコン、電話、資料の入った戸棚が二つ、コピー機、ホワイトボード、おそらく表の式場に繋がっているであろう扉と、当たり前だが見慣れた物ばかりなのであまり新鮮さはない。

 やはりこればかりは、どこの会館も似たようなものらしい。機能性が重視されたインテリアだ。それが逆に、居心地の悪さを感じさせなかった。

「どうぞこちらにおかけください。あ、ちょっと待ってくださいね。今、お茶を淹れますから」

 促され、俺たちは中央のデスクへと腰掛ける。それを見送ってから彼女は、その言葉通りに出入り口付近のミニキッチンでお茶を淹れ始めた。

「お二人はどちらから来られたんですか?」

 急須にポットのお湯を注ぎながら、彼女が尋ねた。

「関西の方から。元々家がそっちにあってそこで葬儀会館をしてたんですけど、こうして異動になりましてね……」

「あ、聞いてますよ! 黒木社長のご子息なんですよね? 何でも武者修行だとか! 遠路はるばるご苦労さまです」

 労いの言葉をかけながら彼女は俺たちにお茶を出した。ちょうど喉が渇いていた俺は、一言礼を言ってから茶を啜る。

「まぁそう言うと聞こえは良いんですけどね、実際は……」

 ――臥薪嘗胆、親父への復讐の為に躍起になっているだけで自棄(やけ)になっているだけだ。

「まぁ、なんにせよこれからよろしくお願いします。えーっと……」

 俺が名札を見ようとしたのを察したのだろうか、彼女は「あ、すいません! 申し遅れました……」と胸ポケットから名刺入れを取り出す。慌てて俺も、名刺を持っていた鞄から取り出した。

「私、打敷(うちしき)由里(ゆり)です。こちらこそよろしくお願いします」

「俺も改めて、黒木樒です。それとこっちが……ええっと、何と言えばいいのか……」

 我が家のメイドですと有体に言ってしまえば何だかバカみたいだし嫌味っぽく聞こえるよな……。かと言って、ここまで彼女がついてきた理由を話さないわけにはいかないし……。何せこの格好だから、あらぬ誤解を生んでしまう可能性がある

 俺の視線を感じたのだろうか、ケイトが不思議そうな顔をした。

「キャサリンさんですよね? それも聞いてます! 何でも黒木さんのお姉さんみたいな方だとか……」

 姉、か。確かに初めて出会ったときケイトはまだ普通なら高校生ぐらいの年頃だったから、年齢的にもその関係が一番違和感のないような気はするし、実際彼女は実の姉のように俺と接してくれた。ただそうなると、俺が姉にメイドの格好をさせるヘンタイになってしまってどの道だから、一応打敷さんにはやんわりと説明することにした。

「まぁ、だいたいそんな感じですが、姉弟ではないんです。彼女は、俺がまだガキの時分から、両親の代わりに面倒を見てくれてるお手伝いさんです」

 俺が言うと、ケイトはわざわざ立ち上がって挨拶をする。

「キャサリン・ブランクと申します。至らぬ点は多々あるかと存じますが、シキミ様共々よろしくお願い致します」

 スカートの裾をつまみ持ち上げて、片足を引き膝を曲げることで跪くようにする――これはカーテシーという挨拶だそうだ。

 映画やマンガでよく目にするこれだが、実際に見だのは初めてなのだろう。打敷さんは「わぁー……」と小さく手を打って感嘆の声を上げる。そしてぎこちない動作でマネをしてみるのだった。うーん、大変に可愛らしい。タイトスカートでそれをしようとして上手く出来ていないところとか、小さな子供みたいな愛らしさだ。

「……っと、そう言えば忘れてました。こちらの支配人さんは今どちらに?」

 打敷さんのふわふわしたオーラにあてられてすっかり頭から抜けていた。ここの責任者の人にこそ、一番初めに挨拶をしなければならない人だ。

 もちろん、事務員さんとはこれから深い付き合いをしていくのだからこのまま会話を続けて打ち解けあうのが本意なのだが、しかしこれからここでやっていく為の算段もある。具体的な業務とか体制とか決まりとか、その辺の話を詰める為にはやはりこの地域の責任者をあたるのは必要不可欠だろう。

 俺が尋ねると、打敷さんは「あっ!」とうっかり顔をした。

「ごめんなさい私ったら、ついつい話込んでしまって。黒木さんがみえたら支配人のところまで通す手はずだったのに……、すいません! 支配人はこちらにいらっしゃいます」

 打敷さんは俺たちが入ってきた出入り口の近くまで行くと、その傍にある階段を平手で差した。なるほど。この事務所は二階建てになっており、二階は支配人室となっているのか。俺は残っていたお茶を飲み干して立ち上がる。

 日本でもっとも治安の悪い街、神十島――そこに構える唯一の葬儀会館の支配人とは、いったいどのような人物なのだろうか。俺は寒気に似た緊張を感じて、居住まいを正した。

 

 打敷さんに案内され、俺たちは事務所二階の支配人室の戸を叩いた。「はい、どうぞ」と女性の返事が聞こえ、失礼しますと一言断ってから中へとお邪魔する。

 支配人室は、下の事務所とは違って拘りが内装に拘りが見られた。クラッシクインテリアというのだろうか、カーテンや絨毯、棚やシャンデリアに至るまで、西洋的なアンティーク家具で揃えられている。

 そして奥には、いくらか時代錯誤的な感じがするクラシックなデスクが――更にそこに、どこかで見たような顔の女性が座っていたのだ。

「あら、あなたはこの前の……」

 打敷さんに紹介されたこの会館の支配人――

「そう、あなたが黒木榊氏の坊やだったの。変わった女性を連れ歩いていたからもしかしてとは思っていたけれど……、私の勘は正しかったみたいね。……ということは、あの日あなたも榊氏に呼ばれていたのかしら?」

 ――それは意外にも、ついこの間見かけたばかりの人だった。

「あっ、えーっと……。以前、本社ビルのロビーでお会いしたんでしたよね? あなたもってことは……、そちらも親父と話をしていたってことでしょうか?」

「ええそうよ。今回の異動の件について詳細をね。そしたらその本人と偶然肩をぶつかっちゃったのだから、偶然ってあるものよね。……でも、あのときの坊やの慌て様ったら、ふふ、緊張していたのかしら? あたふたととても可愛らしかったわよ。童顔だから、余計にね」

 いたずらっぽく小さく笑う支配人。何だか出会って早々子供扱いされているような気がして、情けないったらなかった。

「ま、冗談はさておいて……、自己紹介といこうかしら。坊やも今日は色々と身支度で忙しいでしょうから、手短に済ませましょう」

 その坊やというのは、訂正してくれないところ見ると冗談ではないのだろうか。

「私の名は花立篝(はなたてかがり)。葬儀会館リコリスの支配人兼、神十島地域の営業所長を務めているわ」

 彼女は立ち上がると、赤いネイルの目立つその手を差し出した。仮にも葬儀屋なのにその装飾はどうなのと疑問に思いつつも、俺はそれに応じる。

「ところで、所長さんがいるってことは他にも営業の社員さんが何人かいるってことなんですか? 見たところ、あまりこの会館には人の気配を感じませんが……」

 表の式場は真っ暗だったし、事務所には打敷さん一人分の作業スペースしかなかった。いや、デスク自体はあるのだが、そこに筆記用具だとかその他私物などがいっさい見当たらなかったのだ。下の事務所は、打敷さん一人が仕事できればそれで良いようになっていた。

 神十島自体結構広いみたいだし、人口が多く規模もデカいから、たった二人ではやっていけないはずなのだけれど。

「常時この会館にいるのは私たち二人だけよ。それ以外にもあともう一人営業がいるけれど、その子は普段別の仕事をしているから。非常勤みたいなものね。そしてあと一人、式場スタッフとセッティングの役割の子がいたけれど、その子は訳あって辞めてしまったわ。だから今は、正直人手が全く足りてないの。式の段取りのほとんどを私が受け持って、それでもどうにもならないときは、事務員である打敷さんにも手伝ってもらっている状況よ」

 俺がそのようなことを聞くのはある程度予想がついていたのか、支配人は言葉とは裏腹にさして気にする様子も無くすらりと答えた。

「だから俺が助っ人として呼ばれたと」

「そ、理解が早くて助かるわ」

 支配人は深く頷くと、デスクの上に置いてあった紙を手に取る。そしてそれを「どうぞ」と、俺に渡してきた。

「さっそくだけれど、一つ仕事が入っているの。……何、心配しなくても肩慣らしにはちょうどいい案件よ。棺に入れて燃やすだけの、所謂、火葬式だから」

 言われて手元の用紙に目をやる俺。そこには、故人名、迎え先、故人の住所と電話番号などの個人情報、搬送先が書かれており、備考欄には『※火葬のみ』と確かに注意書きされていた。

 通常人が亡くなった場合、まずもって通夜を執り行い、翌日に告別式をしてから後に火葬。そしてお骨になってからは四十九日間の法要といった具合で、決められたいくつかの順序がある。

 しかしごくまれに、その内の通夜と告別式を取っ払って火葬のみ行うといった場合がある。主に個人と深い関わりの無かった方や、まとまったお金の無い方など特別な事情を持った人など、時間や費用を削減したい特別な事情を持った人たちがこの形式を選ぶのだ。

 葬儀と銘打って本来必要な手順を省略するのがこの火葬式だから、やはり月に数件も無い珍しい式で、正直に言って本来の葬儀屋の仕事とはあまり言えない。肩慣らしというよりも、デビュー戦にしては拍子抜けといった感の方が強い仕事ではある。

 そんな俺の表情を見て察したのだろうか。支配人は俺を嗜める。

「あら、あまり舐めちゃいけないわよ? ここは神十島、あなたが今まで相手してきた顧客とはまったく違う人種が蔓延る街なの。あまり気を抜いていると、今度は私があなたの世話をするハメになるわ」

「はぁ……、いまいちよく分かんないですけど……」

 その言葉の意味を図りかねる俺に、支配人はこうも続ける。

「それに……、坊やにはそこのメイドさんの指導もあるのだから、自分自身のことばかり考えていられないわよ?」

「指導? 俺がケイトに? ……ってまさか、ケイトにも葬儀屋として働いてもらうってことですか?」

「あら、聞いてなかったのかしら? この子には、あなたと一緒にここのホールスタッフとして働いてもらうのよ」

「聞いてなかったって……、親父はそんなこと一言も……。だいたい、ケイトの意思はどうなるんです? ただのメイドの彼女にまで、こんなただの親子の意地の張り合いみたいなのに付き合わせることはないでしょう。ただでさえ――」

 ――ただでさえ、ずっと昔から俺ら親子の板挟みにあってくだらない小競り合いに巻き込まれている彼女に、そこまでの面倒を見させることはできない。ましてこの街の治安が最悪でケイトが危険な目に遭う可能性があるというのなら尚更だ。

 そう俺は彼女を庇ったつもりだったのだが、しかし当の本人は俺の言葉を遮って、

「――わたくしが自ら申し出たのです」

 と、申し訳なさそうに言うのだった。

「差し出がましいとは存じましたが、こちらは今人手が不足していると事前に耳にしておりましたので……。それではシキミ様のご負担が大きくなってしまいますから、せめてわたくしがお手伝いさせていただければと進言したのです」

「進言したって……、親父にか?」

「はい。お父様には二つ返事で許可をいただきました。お父様がそれをシキミ様に黙っておられたのは……、それを知っていればシキミ様がきっとこちらへの異動を拒んだからだと……。申し訳ありません、お父様にくれぐれもと口止めされておりましたので……」

 深々と頭を下げるケイト。別に怒っているわけじゃあないので、俺は慌てて「やめてくれ」と彼女を制する。

 親父の指示でケイトが動くというのであれば業腹だが、彼女自身が気遣いでそう言ってくれたというのであれば、俺だって強く言うことはできない。

 しかしだからといって、彼女を鉄火場に出させるようなことはそう易々と認められないが。

 ケイトにどう言って諦めさせるか逡巡していると、支配人が彼女の口添えをした。

「ま、別に構わないんじゃない? だってそもそも、何も問題が起きないように葬儀を進行させるのが私たちの仕事でしょう? 彼女に危険を負わせるような事態が発生している時点で、それはプロとして二流とも言えるんじゃないかしら?」

 挑発的な目で、俺を試すかのように支配人は言う。

 しかしそんなのは詭弁だ。俺が今までやってきた場所とは全く違う特性を持つこの土地で、完璧に業務を遂行できるかといえばおそらくそうじゃないだろう。イレギュラーはいくらだってある。その火の粉がケイトの身に降りかかることになっては、いくら悔やんでも悔やみきれない。

 頑として認められず渋面を作る俺。そんな俺に支配人は、困ったように小さなため息を吐いた。

「……まぁいいわ。本当は猫の手も借りたいこの状況だから人手が欲しかったのだけれど……、あなたがそこまで言うのなら仕方ないわね」

 もう諦めたと、支配人は小さくお手上げのポーズをした。

 そして俺に聞こえないくらいの声で、こう言う。

「ただ、すぐにあなたは彼女の手を借りることになるだろうけど」

「……?」

 はっきりとは聞き取れず、俺はケイトに視線を送って支配人が何と言ったのか言外に尋ねた。しかし彼女は苦笑いするだけで、答えてはくれない。その意味を自分から説明するのは憚られると、そんな様子だった。

「まぁひとまず、この話はここまでにしておきましょう。メイドさんの手を借りるか否かは後からでも決められること。とりあえず今は、目の前にある仕事を片付けましょう」

 支配人は、俺が握っていた搬送依頼の用紙を指差した。

「今日の深夜に依頼人から電話が掛かってくるはずだから、それまでは待機しておいてくれても結構よ。引っ越してきた荷物の整理でもしておいたら?」

 言われて思い出す。

 こちらでの俺たちの生活の拠点として、親父は神十島の団地にあるマンションの一部屋を新たに用意した。以前住んでいたマンションでは、神十島から遠すぎて通勤が現実的ではなかったからだ。

 ただその部屋というのも俺とケイトが二人暮らしていくのに十分な程度の大きさだから、荷物を詰め込んだ段ボールで溢れているのであろう今の状態では横になることすら窮屈なはずだ。支配人の言ってくれた通り、おっつけその荷物の整理に掛からなければならない。

「それじゃあそうさせてもらうことにして、ひとまずこの場は失礼させてもらおうか?」

 ケイトに声を掛けると、彼女は一言「はい」とだけ返事をして、それから支配人に頭を下げた。支配人も、それに平手を上げて答える。

「それじゃあ、依頼人から電話があったら私からあなたの携帯に連絡するから。ま、一つよろしくね」

「ええ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」

 俺はこれからの挨拶の意味も込めてそう返事をして、退室しようとする。

 すると後ろから、「メイドさんの件、また考えておいてね」と、ねだるような変に甘い声色でダメ押しされたのだが、俺は聞こえないフリをしてその場を逃げるように後にした。

 

 三


 それからすぐに引っ越し先のマンションに向かった俺らは、到着するなり部屋に届いていた荷物の整理に取り掛かった。こういうことは初めてだったし元々整理整頓が苦手な俺は多少てこずったが、ケイトが奮闘してくれた甲斐あって、何とかその日の晩には全ての段ボールを片し部屋のレイアウトを完成させることができた。

 一日中動いてこともあってどっと疲れていた俺は、今日だけは珍しく早めに床へと就いた。しかし、俺は疲れの所為で昼間支配人から聞いたことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 夢も見ないほどぐっすりと眠りこけていた俺は、そのけたたましい電子音で無理やりに起こされる。俺が携帯のアラームで起きるのは決まって『仕事』のときだけ、深夜呼び出されたときにまでケイトの力を借りられないからだ。

「……あぁ……うっ……、何……、……電話?」

 眠気もそこそこに視界がぼやけたまま、暗闇の中慌ただしく光っているスマホのディスプレイに目をやる。すると、そこには見慣れない数字列が表示されている。見慣れなかったが、しかしこの時間帯に掛かってくるということは仕事の電話の他に無い。葬儀屋には、昼も夜も関係ないのだ。なぜなら、昼も夜も関係なく人は死ぬから。

 仕方なく、俺は横になったまま目一杯に手を伸ばし、スマホを充電器のケーブルからもぎ取った。

「………………お疲れ様です……黒木です」

 目を瞑ったまま起き上がり、そのまま電話をとる俺。頭が眠気でぼやけているので、もしかしてこれは夢なんじゃないかとも思いかけたが、しかし電話の相手は夢よりかずっと明瞭な受け答えをした。

「こんばんは。お休みのところごめんなさいね」

 その声は、昼間どこかで聞いたような気がした。

「……花立よ、仕事の電話。依頼人から今連絡があったわ」

 ……支配人か。寝起きで、しかも電話越しだったからすぐに気づけなかった。

「……搬送ですか。分かりました。すぐにそっちに向かいます」

 電話を切って、のそのそと身支度を始める俺。着替えながら時計に目をやると、短針はすでに深夜一時を過ぎていた。

 ネクタイを締めながら、暗い廊下をひたひたと歩く。物音を立ててケイトを起こしてしまわないようにと、俺は一挙手一投足に気を使う。視界が悪い上に慣れない新居とあっては、尚更だ。家具に体をぶつけてしまわないように、手を壁伝いに一歩一歩慎重に進んだ。

 あと少しで玄関というところで、手に不思議な感触を感じた。それは柔らかく、弾力がある。表面はシルクのようなザラザラした生地の手触り。その感触を指でたどっていくと、指先にほのかな熱を感じた。

「……お仕事ですか?」

「うわっ?」

 触れていたものがいきなりぬっと動きだし、目の前に黒い塊が現れる。驚いて一歩退いてしまったが、暗闇に目が慣れてきたことでようやくその正体を掴めた。

 というか、この家には初めから俺とケイトしかいないのだから、彼女以外の何者でもないはずなのだけれど。

「この時間帯は冷え込みます。上着をどうぞ」

「ああ……、ありがとう」

 ケイトが腕に掛けていたコートを受け取ると、俺は素知らぬ顔で外に出て行こうとする。

 しかし彼女は、スッと俺の目の前に回り込んでその行く手を遮るのだった。

「深夜の呼び出しはいつものこととはいえ、今日ばかりはシキミ様もお疲れが残っておいででしょう。今日ばかりはわたくしがお手伝い申し上げますわ」

「疲れがあるのは君も同じだろう。ケイトはゆっくり休んでおいてくれ」

 そう言ってケイトの横を通り過ぎる。彼女は彼女で結構頑固なところがあるから、案外あっさりと通してくれて拍子抜けだった。

 ――が、しかしそこはやはりケイト。俺が外に出てコートを羽織っているうちに、彼女は家の戸締りまで済ませて俺の隣に立っていた。

「この家の鍵は、今のところわたくししか持っておりませんわ。……それがどういう意味かは、お分かりですわね?」

「………………君の許可が無けりゃうちに入いれないってことだろうな」

 にっこり微笑むケイトに、俺は苦笑するほかなかった。

 ま、深夜一人で仕事するほど気の滅入ることはなかなかない。ケイトがいてくれれば、それもいくらかマシになるかもしれないな。

 仕方が無い、今日に限って彼女の同伴を許可しよう。


 一度会館によって必要な荷物を社用車に積んでから、俺たちは指定の住所へと向かった。

 スマホのナビによるとそう離れた場所でもないらしいが、慣れない場所、そして夜道ということもあり何度か道を間違えそうになって、予定していたよりもずっと時間が掛かってやっとのことで目的の場所にたどりついた。

 ――はずだったのだが、しかし本当にここが迎え先の住所で合っているのかといまいち自信が持てなかった。

 下卑たネオンの光に混じって、その薄汚れた外壁が浮かび上がる。二階建ての小さなビルの表には、『瑞垣(みずがき)組』と大きな仰々しい文字で刻まれていた。

 見るからにといった感じの、薄汚れた空気の中で一等荒廃した空気感の、道行く者誰もが見て見ぬフリをする――それはどこからどう見ても、ヤクザの事務所そのものだった。

 長いことこの仕事をやって来て初めて遭遇したこの事態に唖然としてしばらく言葉も出なかったが、依頼があったからには無視をする訳にもいかない。腹をくくって、仕事に取り掛かることにした。

「……君は車で待ってろ。俺一人で行ってくる」

「しかしシキミ様の身に何かあっては……」

「大丈夫だよ。相手は身内を一人亡くしてんだ。乱暴できるような心境じゃないって」

 そう言って半ば強引にケイトを振り切り、俺は単身事務所に乗り込む。

 くすんだガラス窓の玄関口の前に立って、古ぼけたインターホンを鳴らす。ジッーと掠れた音が止んでしばらく経ってから、中から山吹色の派手なスーツ姿をした茶髪の男が現れた。

「……何スか?」

 くっちゃくっちゃと何かを咀嚼しながら、男はその長髪をかき上げ俺にガン垂れる。手前が呼んだんだろとは口が裂けても言えなかった。

「私、葬儀会館リコリスの者ですが。そちらからご依頼がありましたお伺いしたのですが……、もしやお間違いでし――」

「あー……、葬儀屋さんね。こっち」

 何かの間違いだったらどれほど良かっただろうか。俺の一抹の願いは天に届かず、男は中へと気怠げに手招きする。俺は内心でため息を吐いて、搬送用の荷物を抱え男に続いた。

「失礼しゃーす。連れてきたっス」

 空気が抜けるような挨拶と共に、俺は事務所内のある一室へと通された。

 パーテーションで区切られた応接スペースのような場所の向こうに、机に脚を掛けて座っている初老のえらく図体のデカい男がいた。坊主頭に入れ墨のようなラインを入れたその厳めしい男は、煙草をふかしながら俺をねめつける。おそらく彼が、ここの長なのだろう。そして彼の周りには、彼の取り巻きのような人物が八人ほどいた。

 茶髪は相変わらず気怠そうに、その彼の前に俺を連れてこさせた。

「このねむてぇ顔したヤツが例の葬儀屋らしいス」

 茶髪は何が気に入らないのか、俺に訝しむような視線を送って眉根を釣り上げる。

 そして、こうも続けた。

「……何か思ってたより意外と普通ッスね。まだ寝ぼけてんじゃねぇスかこいつ。こんなのに仕事が務まんのかねぇー……」

 確かに寝起きではあるが、しかし眠たそうな顔つきは元からだ。俺みたいな二重瞼で無表情なヤツってのはそう見られがちなんだよ。真面目に仕事しているのにも拘わらず、「寝不足ですか?」とか聞かれてしまう始末だ。

 聞き飽きた文句に半ばうんざりしながらも事を起こさぬようやんわりと否定するすんでのところで、坊主頭が口を挟んできた。

「よさねぇか真島(まじま)! お前程度がしゃしゃるんじゃねぇよ、引っ込んでろ!」 

 初めて身を以て体験するその道の人の怒号に、俺は雷に打たれたように竦み上ってしまった。

 物々しい空気感だった室内に更なる緊張が走り、坊主頭の取り巻きと思われる彼の周りの部下たちの背筋が、ギターの線のように一気に伸ばされたように感じた。当然、真島と呼ばれた茶髪の男もその中の一人だ。彼は「すんません……」と蚊の鳴くような小さな声で詫び、俺に隠れるようにして後ろに下がってしまう。

「っち……。てめぇの所為だぞクソッ……。ほらいけっ」

 真島は愚痴を言いながら俺の背中を突き押す。ふいのことに俺はバランスを崩して、小躍りするようなステップを踏んで坊主頭の男のほぼ正面にやって来てしまった。

「俺の部下がすまねぇな。何しろまだ青二才だから礼儀ってもんが分かってねぇんだ……」

 短くなった煙草を灰皿に擦りつけながら、坊主頭の男は俺に詫びる。

 そしてすぐに新たな煙草を箱からトントンと取り出すと、俺に差し出すようにしてお前も吸うかと言外に勧めてくるが、元より俺は煙草を吸わない人間なのでご遠慮させていただいた(たぶん喫煙者でも恐れ多くて断っていただろうが)。

「俺ぁ、ここの組長やってる瑞垣(みずがき)吉峰(よしみね)ってもんだ。アンタとこに後始末頼んだのも俺だ」

 俺が断った煙草を咥えながら瑞垣は、自分の斜め正面を顎で差した。

 示された場所に視線をやって、俺は思わず跳び上がる。

 なんと、俺とほとんど隣り合うような位置に遺体が転がっていたのだ。

 無残にも、絨毯の上に雑多に引かれたバスタオルの上に、乱雑に放り投げられたように横たわっている中年男性の亡骸。全身の蒼白化と乾燥が進み、口元に流血の痕が見られた。万歳するように投げ出された腕は、死後硬直によって固まって元に戻らないから、手を組ませてやることすらできない。

 そのあまりに哀れな状態に、俺は図らずとも手を合わせてしまう。

 そのままにして話をするには心苦しかったので、とりあえず俺は作業を進めることにした。

 用意してきた布団を遺体の下に潜り込ませるように敷きながら、俺は遺体をそこに寝かせる。そして包装された二十センチほどのドライアイスを四つ遺体の下腹部に当て、掛布団を被せて処置を終えた。

 ひとまず遺体を安置させた俺は、瑞垣にどういった算段でいるかを尋ねる。

「えーっと……、火葬だけのお式をご要望とのことでしたよね……?」

「ああ。金掛けて大層な葬式してやる義理もねぇからな。早いうちに済ませてぇんだ。……構わねぇだろ?」

「私はご依頼通りのお仕事をさせていただくだけですが……。いや、しかし……」

 依頼者とほとんど関係のない人間が、ヤクザの事務所にほとんど遺棄されているような状態で死んでいて、依頼者はそれの早急な処理を求めている――何をどう考えたって、犯罪絡みの案件だ。故人は病や事故によって亡くなったのではなく、第三者の手によって、つまり他殺によって亡くなった――そうなれば、俺の出る幕ではない。後の始末は警察にお願いしなければならない。でないと、俺までこの事件に加担してしまうことになる。

 額から冷たい汗が浮かんでくるのが、自分でも分かる。全く冗談じゃない……。今まで長いことこの仕事をやってきたけど、こんなヤバい状況初めてだ。いや、業界でもこんな経験をしたのは俺ぐらいなんじゃないか? 

「おい、どうした兄さん。話の途中だろうが、何ぼっーとしてやがる」

 俺の手が止まっているのに気付いた瑞垣は、そう言って俺に声を掛けてきた。

 ……でもだからと言って、ここで引き受けられませんと尻尾を巻いて帰るわけにもいくまい。俺がいるのは悪意の巣の中だ。そんなことをしてしまえばどうお通し前をつけさせられるか分かったものじゃあない。逃げ道などない。

「いいか、兄さん。あんたに頼みてぇことがあんだ。よぉく聞いてもらいてぇ」

 ――となれば、この場は黙って相手の言う事を聞いておいてやり過ごすのが吉だろう。 

 一旦事務所から出るために、この場だけ話を合わせておけばいい。それであとのことは支配人に任せてしまえばいい。当然彼女は俺よりもこの街のやり方を心得ているはずだろうから、こんなトラブルが起きたときの対処にも長けているはずだ。

「今この場でな、こいつを棺に納めてやってほしいんだ」

「……えっ、あ、はい。ご納棺ですか、事前に窺っております」

 この場をどうやって凌ぐか考え倦んでいた俺は、危うく瑞垣の言葉を聞き漏らすところだった。しかし、その旨は支配人から事前に聞かされて事前に知り得ていたので、何とか答えに詰まらずに済む。

「棺はすでに外の車に積んで用意してますから、その点はご安心ください。準備は整っています」

「そうかい、そいつはよかった。何しろこの状態だからな。ずっと野晒しじゃあさすがに気味がわりぃ」

 遺体に一瞥くれる瑞垣。その目はまるでゴミを見るように冷ややかだ。

 彼が言う気味悪さとはきっと幽霊や呪いだとか霊的なものではなくて、ただ単に衛生的に気持ちが悪いということなのだろう。少なくとも、そこに死者への尊厳は感じられない。

 瑞垣は不遜にふんと鼻息を漏すと、遺体から俺へと視線を移した。

「それじゃあ兄さん、早いとこ仕事に取りかかってくれ」

「ええ、ですがその前に……、死亡診断書……今回は検死が掛かっているはずですので死亡検案書ですが、それを見せてはいただけませんか?」

「……検案書? なんで今更?」

 怪訝そうな表情を見せる瑞垣に、俺は慌てて説明する。

「いや別に深い意味は無いんです。ただ遺体の状態を知っておいた方が納棺をする際に色々と都合がよろしいので」

 はぁんと興味なさげに返事をする瑞垣。そして、よく分からないことを言う。

「……作成はお前さんとこに頼んだはずだ。兄さんの方が状態をよく把握できているはずだが……、まぁいい。おい」

 瑞垣は部下の一人を指差して、部屋中央の別のデスクからそれを取ってこさせる。

 クリアファイルに挟まれていた検案書は、死亡届の欄が無記入になっていた。

「作成と言いますと……、役所に提出させてもらいます死亡届のことでしょうか? 確かに提出はこちらで代行させてはいただけますが、ご記入は届出人様ご自身で行っていただきますので……」

「そうじゃねぇよ。この用紙自体用意したのがってことだ。……まぁ別にこっちの要望通りに作られてんなら俺はそれで構わねぇんだがな……」

 未だによく理解できなかったが、勝手に落としどころを見つけてくれたので俺はこれ以上掘り返さないことにした。

 瑞垣から「ほらよ」とぶっきら棒に渡された検案書を見て、俺は首を傾げる。

 死因が急性心筋梗塞となっている。しかし、遺体にはその形跡が見つからない。普通なら心筋梗塞で亡くなった人間には顔面の鬱血が死後変化として現れる。しかしこの遺体にはそれがない。確かに痩せている人間には現れにくい変化だが、この男性は太っている。

 そして極め付けには――吐血。手袋をはめて遺体の頭に触れてみると、口元から少量の吐血を起こした。口内に頭部の血液が溜まっているのだろうか? しかしそれはくも膜下や脳震盪など外的要因によって頭部に内出血を起こした場合に見られる変化。心筋梗塞では通常起こり得ない。

 あまり余計なことをしたくはなかったが検案書に不備があってはいけないと思い、意を決して尋ねてみる。

「あの、この方って……、亡くなられたときはどんな状態だったんですか……?」

 ピクリと、瑞垣の眉根が震えた。

「……詮索はナシだぜ兄さん。じゃねぇと何だってお前さんのとこに仕事を頼んだのか分かんねぇ」

 瑞垣のその言葉で、部屋にいる彼の取り巻きらは揃って俺に一歩詰め寄ってきた。

 今にも跳びかかろうという雰囲気だったのだが、それを瑞垣は平手を上げて制す。中腰で遺体の状態を観察していた俺は、彼らの気迫に押されて尻もちをついてしまった。

 それを見た真島はしめたと思ったらしい、俺をビビらせてやるつもりなのかここぞとばかりに啖呵を切ってきた。

「なぁアンタ。名前なんてぇの?」

 しゃがんで俺に顔を近づけて威圧する真島。薄ら笑いする口元からヤニで黄色くなった歯がチラついて気味悪い。

「……黒木と申します」

「へぇ……クロキくん、ね。なぁクロキくん。アンタに一つ言っとくわ」

 ガッ――と、俺はいきなり胸ぐらを掴まれた。不意を喰らって俺の心臓はビクリと大きく跳ね上がる。

 そして真島は、俺を無理やり持ち上げるように引っ張って乱暴に立たせた。

「あんたは頼まれた仕事だけこなしゃそんでいいじゃないスか? 何か腑に落ちねぇみてぇな歯切れの悪りぃツラしてっけど、それも織り込み済みで俺らの依頼受けてんだろ? だったら面倒なことはよしとこうって。その方がつまんねぇこと聞いて俺らキレさせるよりよっぽどいいっしょ。ええと、あれだ、フカンショーっての? それでいこうや、な?」

 真島はぎりぎりと歯ぎしりしながら俺にガンを飛ばす。正直言って今まで他人にこれほどまでにひた向きな敵意をぶつけられたことが無かったので、俺はもう何だか訳が分からずフリーズしてしまった。

 また瑞垣が彼を咎めてくれるかと思って彼をチラリと見やるが、瑞垣はチッ……と小さく舌打ちをするだけでその様子は無い。真島の突発的な行動に苛立ちこそすれ、彼の言ったことは瑞垣の意に沿っていたらしい。

「悪りぃが兄さん、そのガキの言う通りだ。ぶっちゃけちまうと、俺らには知られちゃ都合が悪いことってのがある。だからこそこうして秘密裡に死体の始末を頼んでんだ。だがそれを兄さんが掘り返しちまうようじゃ元も子も無ぇだろ?」

 そこまで言い切ったところで瑞垣は深いため息を吐いた。そしてのっそり立ち上がると、俺の傍までツカツカとやって来る。そして、俺と真島の間に割って入るようにして俺たちを引き離すと、俺の肩に左手を回して耳元で小さく囁いた。

「あんまり余計なこと知りすぎっと……、寿命減らすぜ?」

 そう言って、瑞垣はもう片方の手をスーツの内ポケットに忍ばせた。カチャリと金属音が鳴る。

「なぁ兄さん。あんたが俺らの敵対組織ってことも限らねぇんだぜ? 恨み買ってる奴は多いからな。慎重になんねぇといけねぇ。分かるよな?」

 冗談じゃない! ただの葬儀屋がどうしてヤクザに探りを入れなくちゃならないんだ。あんたらが何したかなんて微塵も興味が無い。俺はただ自分が犯罪に巻き込まれなきゃそれでいいんだ!

 そんな俺の思いなど伝わるはずもなく、俺を捕まえる瑞垣の力は更に強くなった。ほとんどヘッドロックみたいな状態で、俺は苦しくて声も出せない。助けも呼べないし、自分に敵意が無いことも説明できない。

 瑞垣がスーツに突っ込んだ右手を引き抜こうとして、

 ――バン? と、大きな音が炸裂した。

 ……南無三、万事休すか。俺は全身から力が抜けて立っていられなくなった。それと同時に瑞垣の拘束から解放され、床に崩れ落ちてしまう。

「………………あれ?」

 いつまで経っても意識が遠のいていかない。体を弄ってみたが、痛みも無い。おそるおそる目を開けてみると、俺の体は全くの無傷だった。

 そして俺は気が付いた。室内のヤクザら全員の視線が、ある一点に集中していたことに。

「……ご無礼を。シキミ様のお戻りが遅かったもので」

 部屋の扉の先には――ケイトがいた。納棺に必要な棺を壁に立て掛けて、彼女がこの部屋の扉を開いていた。

 室内の俺を含めた全員が、視線の先のメイド姿の女に唖然として固まっている。時が止まったような静寂が、室内を包んでいた。

「……なんだてめぇ?」

 その沈黙を一番に破ったのは真島だった。

「葬儀会館リコリスのスッタフ、キャサリン・ブランクでございます。以後、お見知りおきを」

「はっ、お前んとこの葬儀屋はメイド喫茶か何かか? こんなのまで雇ってるたぁ、驚きだぜ! こいつぁ傑作だ、はははは!」

 真島はケタケタと大口を開けて抱腹する。

 しかしケイトはそんな彼には目もくれず、棺をよいしょと抱えて遺体の傍らまで持ってきた。

「そろそろ必要になる頃かと存じましたので、勝手を承知で運んで参りました」

「……あっ、ああ。ありがとう」

 って、そうじゃない。素っ頓狂にお礼をしている場合じゃないだろう。俺が本当に伝えないといけないのは、すぐにこの場から離れろということだ。ケイトがいっさい表情を変えず平然と言うので、間が抜けてしまった。

 しかし俺がそう伝えようとしたときには、すでに遅かった。

「……おい、何シカト決めてんだネェちゃん。こっち見ろや」

 ケイトのスルーに苛立った真島が、彼女の肩を掴んだ。俺が彼女に注意を促す前に、ここの連中に絡まれてしまったのだ。

「ここがどういう場所か分かってんの? 俺らがどういう商売してるか知ってる? 女だって売ってんだぜ? あんたみてぇのは物好きなヤツらがイッぺェいっからな。すぐに買い手がつく。なんなら、ネェちゃんキレイだし俺が相手してやってもいいんだぜ? なぁ?」

 真島はそう言ってケイトを脅そうとするが、しかし彼女はそれを歯牙にもかけず、まるで蝋人形のように全く表情を動かすことは無い。

 ただじっと瞬きもすることなく自分の目を見つめるケイトに、ついには喰って掛かった真島の方が面食らう始末だ。彼はまた「……おい。どうなんだよ……」と彼女に凄むが、その声はさっきよりもずっと小さい。

 それと共に肩を掴む力も弱まったのか、ケイトは真島の手をそっと振り解いた。

 そして、言う。

「……それがどのような場所であっても、主人の行くところ最後まで付き従うのがメイドでございます故」

「しゅ、主人……?」

「ですから例えこの身売ることになろうとも、我が主人の御身には傷一つ付けさせませんわ」

 ぽかんと立ち尽くす真島。彼女の言葉の意味が理解できなかったのだろうか。

 そんな彼に構うことなくケイトは踵を返すと、相変わらずヘッドロックされたままの俺の傍までやって来る。

「シキミ様を離していただけますか?」

 俺を拘束している瑞垣に、ケイトは真正面から相対した。それも、まるでヤンキーがメンチを切り合うときのような、ほとんど体が触れ合うようなそんな間合いでだ。

「……でなければ、わたくし、慇懃をお約束できませんわ」

 ヤクザの組長を相手にしているにも拘わらず、ケイトの声音にはまるで抑揚がない。恐怖など微塵も感じさせないその面構えは、いつもの〝無表情〟とはまた違う〝無機質〟なものだった。

 しばしの間、双方に沈黙が生まれる。

「………………いいぜ。お前さんのおかげで興が醒めちまった」

 瑞垣はハッと小さく笑うと、乱暴に放り投げるかの如く俺を解放する。

 やっとこさまともに軌道が確保された俺は、その場でゴホゴホと咽かえってしまった。

「姉さんみてぇな肝が据わった(すけ)がいるんじゃあ、おたくらも侮れねぇなあ。いや全く済まなかった」

 やれやれとばかりに一息ついて、真島はのそのそと自分の席に戻る。

「元々少し脅してやるだけのつもりだったんだが……、少々熱が入りすぎちまったな」

 どすんと身を預けるように、真島は大きな椅子に腰かけた。

 やっとこさ矛を収めてくれたようで一安心した俺は、風船の気が抜けるような息を吐き、そっと胸を撫で下ろす。

 ……しかし、脅すだけのつもりだったと真島は言ったが、それがもし本当なのだとしたら彼は見かけによらず相当な演技派だぜこのおっさん。この一瞬で一生分の覚悟と諦めをしつくしてしまった気分だ。

 彼が懐から出そうとしていた『物』、それを考えるだけでも身震いしてしまう。あの金属音は俺の人生で初めて耳にする音に違いないはずなのだが、それは脳裏にべったりと焼き付くようなリアリティがあり、その音の正体が何なのか想像に難くはなかった。

「茶々入れちまって悪かった。さっさとあんたらの仕事に取り掛かってくれ」

 もう気にするな、あるいはもう構うな、と言わんばかりにひらひらと平手を払う瑞垣。

 その仕草は作業を急かされているようにも感じたので、俺は慌てて納棺の支度をする。

 こっちもこんな場所に長居するつもりは毛頭ない。早く終わらせて帰ってくれというなら願ったり叶ったりだ。

 故人を蔑ろにするようで偲びなかったが、丁寧さは二の次に巻きで作業を進める俺だった。


 四


 翌日――

 記念すべき初仕事を終え、気力も体力も尽き果てた俺は翌日の真昼まで眠りこけてしまった。本来であれば深夜搬送で呼び出された場合でも午前十時頃を目安に出勤するのがうちの会社の規定だったが、そんなものに構ってられるほどの余裕は今の俺には無かった。

気を使ってか、ケイトも多少声を掛けこそすれ俺を無理に起こすことはしなかった。

 しかしそれでも仕事を休まず出勤したのは、当然支配人に言いたいことがあったからなのだ。

 出勤して早々、打敷さんへの挨拶もそこそこに俺は、俺を引き留めようとするケイトを無理やり連れて行って支配人室へと直行した。

「支配人? あれはいったい何の冗談ですか?」

 いきなり俺に詰め寄られ、きょとんと目を丸くする支配人。俺が激昂している訳に思い当たるのに、やや時間を要する。

「ああ、昨日の搬送のことかしら? 瑞垣組からの依頼の。何か問題でもあった?」

 問題でもって……、昨日俺は殺されかけたんだぞ? それが問題じゃあなかったらいったい何なんだ?

 支配人はさして気にする風でもなく、あげく先ほどまで読んでいた文庫に目を戻そうとしたので、俺は更に喰って掛かった。

「大ありですよ! 何ですか? 瑞垣『組』って! 完全にその筋の奴らじゃないですか! 俺、ひんしゅくかって大変だったんですよ! 怪我がじゃ済まないところまで行きかけたんです!」

 俺が怒りで興奮しているのとは対照的に、支配人は「何だそのこと」とすまし顔で一言。

 その口ぶりから、どうやら昨日俺が搬送先でどういう目にあったかはすでに周知しているらしかった。支配人は、素知らぬ顔でページをめくり続ける。こちらを見ようともしなかった。

「ああいった訳ありの人間を相手にするのがあなたの仕事って……、お父様から聞かされなかったのかしら?」

「そりゃあ聞きましたよ! でもそんな……、まさか直接ヤクザが絡んでくるとは思わないじゃないですか? もっと何か……、抗争に巻き込まれるとか! 事件現場に遭遇するとか、もっと間接的なことだと思うでしょう! 俺、遺体の後始末を頼まれたんですよ?」

「あら、後始末だなんていつものことじゃない」

「いやだからそういう後始末じゃなくて……、つまり……殺した人間の処理ことですよ……。あの遺体、確実に心筋梗塞なんかでは亡くなっていない。きっと鈍器か何かで殴られて、くも膜下を起こしたんだ……」

 ――パタンと、支配人は文庫本を閉じた。ふぅとため息を吐いて、椅子をキィと鳴らしながらこちらへ向き直る。

「……黒木さん」

 初めて名前を呼ばれ、俺は少しドキリとしてしまう。しかしそれは嬉し恥ずかしみたいなむず痒い感情ではなくて、背筋が凍るような寒気だった。

「それはあなたの考えが甘かったに過ぎないわ。同情の余地は無いわね、残念だけど」

 くいっとメガネを直して、支配人はそう一蹴する。一切の駄々を許さぬ迫力が、そこにはあった。

「私たちは元々、瑞垣氏の求めるような泥臭い仕事を生業としているの。もちろん表向きは葬儀屋として看板を出しているし葬儀屋本来の仕事だって引き受けるけれども、彼らのような特殊な人間から依頼されるのは主に殺害された死体の事後処理……つまり掃除屋よ」

 掃除屋――やはり俺は、あのヤクザ達に殺されてしまった人の後始末をさせられていたのか。

 誰の目にも触れられぬよう様々な情報を偽装され、自分を失い、家族に見送られることも無く、ただひっそりとこの世からいなくなる。まるで最初から存在していなかったかの如く、だ。亡くなった人間を扱うという部分が共通しているだけで、葬儀屋の本質とは全く対照的で有り得ない仕事だ。俺たち葬儀屋は本来、故人の人生を讃え、その最後を彩り、安らかな休息を願うものだというのに。

 ――支配人を初めとするここのスタッフらは、普段からそのような人道に悖る所業を行っている。その事実に、俺は戦慄した。

「あら、怯えているの? 可愛いわね。なんならここで尻尾を巻いて逃げ帰ってもいいのよ。さすがの私もたった今まで安穏と過ごしてきた人間に、いきなりこんな裏仕事をさせようだなんて酷だと思うわ。正直、黒木氏がこの話を持って来たときは正気を疑ったわね。どこの世界に、自分の息子を屑の掃き溜めに送る親がいるっていうのかしら」

 にやにやと卑しい微笑みを湛えながら、支配人は言う。俺を挑発するかのようなその口ぶりと表情は、親父が俺を試そうとするときの姿と幾らか重なって見えた。

「尻尾を巻くとか……、これはそういう話じゃあないでしょう。下手すりゃ命に関わることなんですから」

「それが、考えが甘かったと言うの。氏はこの街がどんな場所か、あなたに話さなかったわけではないのでしょう?」

 支配人の言葉に反論しようと俺は口を開きかけるが……、しかし言葉は出なかった。ぐうの音もない。考えが甘かった、確かにそうなのだろう。事実俺は、瑞垣に取り押さえられて初めて自分の死を覚悟した。普段から人の死に慣れているはずの俺が、それからはあの瑞垣組の事務室にあった遺体の見え方が変わってしまった。そのとき初めて、俺はこの街に恐怖した。

 俺の知っている〝死〟とは違うものが、ここにはある――

「考えが甘かったと言えばそうでしょう。親父の件で頭に血が上って事の本質を見極められなかったし、周りが見えていなかった。それは否定できません。……だから今回は、悔しいけれど、親父の期待には沿えません。俺自身、自分の命が惜しいのはもちろんだけど、ケイトのことだってある。……そりゃ今回は彼女に助けられたかもしれませんが、毎度それが通用するとは思えません。寧ろ今回は運が良かっただけだ。次に俺がしくじったときだって、きっとケイトは俺のこと助けに入ろうとしてくれるのでしょうが、そのときは命の保証がない」

 だから俺は、ここでは働けない。俺の所為でケイトを危険に晒してしまうから。

 俺の隣でケイトが視線を落とす。歯痒そうに拳を握っていた。

「あら、そう。でも……」

 飄々としている支配人にはらしくもない、逡巡するような、言葉を選ぶような、そんな間を空けてから――彼女は諦めるように嘆息して、俺に告げた。

「あなたのご両親はやってのけたわよ」

 ――え? 

 声に出したつもりはなかったが、内心が漏れ出たかのように、ほとんど呼気のようなか細い声音で俺は反射的にそう聞き返していた。 

「支配人は俺の父親と……、いや、母親と面識があるんですか?」

 親父はこの会社の社長だ。その親父が、特殊な環境である神十島エリアを一手に受け持っている支配人と面識があったところで、何もおかしくはない。業務上の指示を直接出すことだってあるかもしれないし、俺の異動の件で何度かやりとりだってしているはずだ。

 しかし俺の母親となると……、幾らか話は別なのだ。

 支配人は「もう何年も昔のことだけどね……」と、一言断る。その口ぶりから察するに、俺の両親とはずっと以前からの付き合いなのだろうか。

「氏は、この神十島から葬儀会社を立ち上げたのよ」

「神十島から? 葬儀屋にとって不毛の土地みたいなこの場所で?」

 そりゃあ死人が絶えることは無いけれども、それが葬儀に実を結ぶことはもっと無いだろう。ここの連中は、少なくとも昨日のあの悪漢たちは、死を悼むことなど無いはずだから。

 俺が異論を唱えようとすると、支配人はかぶりを振ってそれを制した。

「何も不都合ばかりではないのよ。……あなたは、氏がたった一世代でここまで事業を大きく出来たのは何故だと思う? ……正攻法だけに頼らなかったからよ」

「……正攻法? って、親父はまさか、何か非合法なことに手を出していたってことですか?」

 その可能性を考えてしまい俺は、思わず眉をひそめてしまう。俺にあれだけ教訓めいた物言いをしておきながら、親父の出世の秘密が悪事に手を染めていたからだったとは、そん冗談があるだろうか? 笑えない。

「そうじゃないわよ。……ただ、氏は裏稼業に従事する者たちのコネクション、ネットわークに目を付けたの」

「ネットワーク?」

「そう。例えばあなたが昨日相対した瑞垣組のような輩でも、一度親密な関係を築き上げれてしまえば、その息のかかっている団体全てと契約を結ぶことだって可能なの。何せ任侠っていうぐらいだから、彼らは義に厚い。ま、あくまで対等以上の立場でないとその理屈は通じないでしょうけど。格下は搾取されるだけだから」

 懐かしいわね――そう言って支配人は、ほとんど仰向けにギィと椅子に深くもたれる。

 そうか。今、分かった。この人も、親父と一緒にこの会社を立ち上げた一人なんだ。

「ま、そういう賭けに出たのよ、あの人は。裏社会なんてまるで馴染みの無いにも拘らず、あなたのお母様を引きつれて、一緒にね。その結果どう? 会社はここまで成長したわ。あなたのご両親は、見事目論み通りやり遂げたわけ」

 回想するかのように瞑目していた支配人は、不遜な笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらへその視線を戻した。

 あなたのご両親は、あなたと違って。そういうことだろう。

「……だけどその母は、もう何年も前に事件に巻き込まれて亡くなりました。親父はその時のことを頑なに話そうとしませんが、でも俺は微かに覚えています。まだ五つにもならない俺を抱きながら、母は背中から真っ赤な血を流して倒れているんです。……今だから分かる、母はたぶん俺を庇ったんだ」

 飛行機の中、覆面の男達、火花を散らす銃、泣き叫ぶ乗客、人質の――俺。

「もしまたあのときと同じようなことがあれば俺は……、今度こそダメになる。俺の所為とは分かっていても、そのきっかけを作った親父をどうしようもなく憎むはずだ」

 あのときは確か、海外出張していた親父の元に向かう道中だった。

「ケイトは……、今ではたった一人の俺の家族だ。むざむざと危険に晒すようなマネはできない」

「シキミ様……」

 ケイトは何かを言おうとして、止めた。悲しげな瞳は俺に何かを訴えかけるようだったが、彼女は出かけた言葉を苦しげに呑みこみ、遂には視線まで外してしまう。

「……あなたが諦めると言うのなら、別に止めはしないわ」

 まるでその代りとでもうように、支配人が言葉の先を継ぐ。

「でもね、やりかけた仕事を残していくのは少し無責任で不義理ではないかしら? あなたもこの仕事のプロだと自負するのであれば、せめて瑞垣組の案件だけでも片付けていったら?」

 それを言われると、一言も無い。俺は引き受けた仕事を放棄しようとしているわけだから、支配人の言う通り責任も何もあったものではないだろう。それは葬儀屋としてというよりも、社会人として許される行いではない。

 もっとも、アウトローの吹き溜まりみたいなこの街に、そんな常識が通じるとは思えないが。

「お客様は一度お怒りになられたとはいえ、その火は一度ピークを過ぎて燻っているのでしょう? だったらあとはよっぽどの不始末を起こさない限り、大きな炎にはならないはずよ。違うかしら?」

 ……確かに、俺は瑞垣の怒りに触れてしまったが、怒りのボルテージが振り切ったその後は実にドライなものだった。出会い頭のときのように余計な会話をすることもなく、俺は淡々と作業を進めることができた。後から思えば、瑞垣は俺の作業を無言で急かしていたのかもしれない。

「瑞垣としては、俺が仕事さえやり遂げれば事も無しってことですか」

「そ。逆に言えば、中途半端に関わりあったままこの案件を放置すれば余計に危ないかもしれないわね。……自分たちの隠し事を持ち逃げされたと彼らは考えるかも」

 俺が瑞垣組にとって不利益な情報を持ったまま依頼である遺体の処理を行わずに消えたとなれば、それは今度こそ彼らにとって看過できないものになる。

「まして、あなたの面は割れているわけだし……、そうなれば迂闊に外も歩けなくなるわね」

 パァンと言って、支配人は指でピストルを作って俺を撃ってみせた。彼女は悪戯っぽくくすくす笑うが、何の冗談にもなっていない。

 面が割れているのは、俺だけではないからだ。

「……立つ鳥跡を濁さず、ですか。分かりました。なるべく波風立てないように最後までやってみます」

「そうなさいな。……何、心配せずとも本当に危険なときはこちらから助けに入るから。自分の尻拭いは自分でしろだなんてドライなことは言わないわ。もちろん、この件の担当はあなたなのだからその責任もあなたにあるけれど……、仕事は仲間で助け合ってやるものよ」

「……仲間、ですか。随分と短い間でしたが」

 吐き捨てるようにそう言うと、俺はそのまま踵を返して退室しようとする。

 しかし支配人は別段それを止めようともせずに、「健闘を祈るわ」とヒラヒラと手を振って俺を見送るだけだった。俺はそれに返事もせずに黙って、部屋を出て行く。

 慌てて俺を追って後から付いて来たケイトが、ぼそっと小声で呟いた。

「わたくしのことなど……、お気になさらずともよいのに……」

 いくらケイトの頼みでも、それだけは聞けなかった。


 同日正午――火葬の予約時間の一時間ほど前。

 しばらくの間ずっと古ぼけたインターホンとにらめっこしていた俺は、ついに決心して、深呼吸をしてからそのボタンを押した。力みすぎた所為か、チャイムが必要以上に長く鳴った気がする。

 ジジッとくぐもったノイズが走ってから、中から応答があった。

『……はい』

「失礼致します。葬儀会館リコリスです」

 その声が強張っていたのが、自分でも分かった。やっていること自体は今までと何ら変わりがないはずなのに、この仕事に就いて初めてお客の家に訪れたときよりもずっと俺は緊張していた。

 数秒間を空けてから、相手から返事があった。

『入んな』

 その一言だけで通話はブツッと途切れてしまう。どうやら今度は迎えすらも寄越さぬらしい。

 組員らしきゴロツキどもの奇異の視線の中、昨夜訪れたばかりの事務室まで俺は歩を進める。正直言ってかなり心細いのだが、それも仕方ない。だからと言ってケイトを連れてくるわけにも今度ばかりはいかないからな。

 彼女には、今日この時間にここを訪れることは教えていない。火葬予約も予定の決定も全て彼女には伝えずに、一人で話を進め今に至る。更に言うと、この仕事を最後まで引き受ける条件として、支配人にはケイトの見張り役を頼んでいる。今度こそ、彼女がこの鉄火場に現れることは無いはずだ。昨夜のように、俺を庇うなんてことも無い。

 そうこう考えている内に、事務室の扉の前までやってきてしまった。入室するのを躊躇って足踏みしてしまう前に、俺はその扉を「失礼します!」と意気込んで勢い良く開ける。

「おう兄さん、無駄に気合い入ってんな」

 入ってそうそう瑞垣の強面が目に入り萎縮しそうになってしまうが、しかしここまで来ては引き返すことなどもうできない。何も考えず、ただ機械的に、早々と業務を遂行して、さっさとこの場を立ち去ろう。何、あとは遺体を市外の火葬場まで搬送するだけだ。問題ない。

「間もなくご出棺のお時間です。ご準備をお願い致します」

「……おうそうかい。お前ら、車ぁ出せ」

 瑞垣の指示で部下の若者一人が外に出る。おそらく彼も瑞垣の付き人の一人で、運転手のようなことをしているのだろう。

「寝台車に乗っていただくこともできますがよろしいですか?」

「ああ、俺らは俺らの車で行かしてもらう。兄さんは前を走ってくれ」

「承知しました。それでは、お車のご準備が整い次第ご出発させて頂きます」

 車を出しに行った彼を待っている間、俺は予め用意していた花束を棺に入れる。

 実を言うと、そういった余計な儀式はいらないと瑞垣には見積もりの段階でこれを断られていた。故人に対して特別な思い入れが無いのだから、それもある意味当然だろう。

 しかしどの道セット内容についてあるものだから使用してもしなくとも金は掛からない。それならば、おそらく不本意な死に様であったであろう故人のこと思って、せめてもの供養として花ぐらいは手向けてやった方がいいだろうと、俺が勝手に用意したのだ。

「……どうか安らかに」

 合掌してから、俺は棺の蓋を少しだけ開いて花束を入れようとした。

 ――ふと、そこで気がつく。

 棺の中から冷気を感じない。本来であれば遺体にはドライアイスを当てているから、棺がクーラーボックスの役割を果たしその冷気を閉じ込めているはずなのだ。しかしどういったわけか、昨晩は寧ろ寒いぐらいの気温だったはずなのに、冷気が全て逃げてしまっている。

 気になって装飾で隠しているドライアイスを一つ取り出してみると――重い。やはり溶けてはいない。しかし、何故か全く冷たくないし、表面の感触が氷のそれではない。堅く無く、指先が少し埋まる。まるで中に詰め物がパンパンに入っているみたいだ。

 不思議に思い、ドライアイスを包装している袋の口を少し開いてみた。

「………………え? 何だこれ?」

 そこには――粉。白い粉。病院で出される処方箋のような小さな袋入りの粉。

 それがドライアイスを入れていた袋の中に所狭しと詰められている。一瞬、意味が分からなかった。

「おいアンタ! 何してんだ!」

 他のドライアイスを探ってみても同じだった。どの袋にもそれがパンパンに詰められており、果てには棺の底に敷いてある布団の下にまで〝隠されて〟あった。

「テメェら! そいつをブツから引き離せ!」

 隠されてある――その事実に、俺はその粉の正体が何なのか、ようやく頭で理解する。

「余計なことしやがってクソが!」

 ――これは麻薬だ。


 気がつくと、俺は地面に伏せていた。頬がひりひりと痛い。鼻に焼け付くような違和感を覚える。手で拭ってみると、そこにベッタリと血がついた。どうやら、顔面を殴られた拍子に転倒して頭を打ち、気絶してしまったらしい。

「……やっと起きたか。おい、立たせてやれ」

「うっす」

 命令され、真島が俺の腕を乱暴に引っ張り上げる。足に力が入らずふらついてしまったが、俺は壁に寄りかかって何とか自立した。

 霞む目で周りを見渡す。この状況はどう考えてもマズい。何とかこの場から逃げ出さねばと脱出口を探してみるが、しかし俺は完全に囲まれていた。瑞垣を正面に十人ほどの部下が、壁際に追い込まれた俺を取り囲んでいる。その上俺は真島に、後から首根っこを掴まれてホールドされていた。まさに袋の鼠。逃げ場所などどこにもありゃしない。

「おい兄さん、確認だけどな」

 瑞垣が煙草に火を点けながら、俺の傍まで寄って来る。

「俺らが棺の中に隠してた……あれ、何なのか分かるよな?」

 とにかく慎重に、だ。先日のこいつらとのやり取りから俺が学んだ事は、こういった手合いを相手に話すときは言葉に注意を払うことだ。何が着火剤になってしまうか分からない。かと言って、下手に出過ぎると足元を見られる。

 冷静を装っている、そんな感じが相手に伝わるように。そうすれば相手の機嫌を損なうことは無いし、無理に力で話を押し通されるようなこともないはずだ。

 そうやって、この場を繋いで凌ぐしか他に手立てがない。

「分からないって……、俺が答えたらどうするつもりなんですか?」

「何も変わらねぇよ。やってもらうことは同じだ」

 瑞垣はそう言って煙を吐いた。その煙が俺の顔に掛かってしまうほど、彼は俺との距離を詰めていた。

「……そう、同じだ。棺の中身に気付いた所で兄さんがやることは同じなんだよ。あいつを街の外まで運んでくれりゃ文句は無ぇ。そうしてくれりゃあ下手に面倒を増やすことも、別の業者にまた〝掃除〟を依頼する必要も無ぇんだ。分かるか?」

 あいつを街の外に出す――つまり、俺に運び屋になれということか。

「………………一度、上司にその旨確認させてください。その上で許可が下りれば――」

「助けを呼ぼうたって無駄だぜ。外には見張りをつけてある。蟻んこ一匹、ここには通さねぇよ」

 言葉の先をバッサリ切り捨てるかのように、瑞垣は俺の提案を一蹴した。

 おかげで、支配人に俺の危機的状況を伝える目論みが潰える。

「それが許されるならこんな回りくどい事しちゃいねぇよ」

 瑞垣のその反応は、しかし案の定ではあった。

 わざわざ物をあんなふうに隠して、その上この手厚い待遇だ。

 遺体の処理というのは言わば俺らに対する囮、擬態で――瑞垣組の真の目的は麻薬の密輸送にあり、それは俺たち業者にすら知られてはならなかった。そういうことだろう。

 瑞垣は煙草をペッと床に吐き捨てると、足で踏みにじって火を消した。

「この街でクスリのやり取りが許されている人間ってのは限られてんだ。いくら無法地帯の神十島でもな、必要以上に出回ってしまうとお国に目を付けられるからだそうだ。だから、扱いきれる量を扱いきれる人間が捌く、そういうことらしいが……。そんな取決めは余所様が勝手に作ったもんだ。俺たちにゃあ関係ねぇ」

 神十島にそんなルールが、いや条約と言った方がいいのか、そんなものがあったのか。

 あるいはそれが、アウトローたちにはアウトローたちの掟があってこそ、この街の非均衡が守られているのかもしれない。皮肉な話だが。

「……ただ、俺らは兄さんと同じでこの街じゃあ新参だからな。掟破りがバレるとマズいんだ。メンツとか義理とかな。色々アブねぇとこに立たされる。そこで、あんたらを利用させてもらった」

 俺がこの街の人間じゃないこと、バレてたんだな……。

 それも当然と言えば当然だが。こんなオドオドした人間が血の気盛んなヤクザたちの中に混じっていたら悪目立ちもいいとこだろう。まして裏稼業の人間にだなんて到底見えなかったはずだ。

「神十島と本土を結ぶ弥子舞大橋――あそこは関所の代わりにもなっていてな。神十島を往来する人間や車の積み荷の管理をしているんだ」

 ……なるほど、確かに俺がここへ来た時もあの橋で車が何台か止められていた。あれは不審車両とみなされた車が中の様子を探られていたのか。

「だが、そこで検問を行う人間のそのほとんどに、ここらの極道の息が掛かってる。間抜けにもトラックでブツを運び出そうものなら橋を渡りきるまでに海の藻屑になっちまう。積み荷も、運転手もな。だがそれが棺の中に入っていたとしたら? 正気の人間なら、霊柩車を止めようとも棺の中を漁ろうともまず考えられないはずだ」

「……その理屈でいうと、あなたたちが一番正気じゃないってことになる」

 俺が言うと、瑞垣が「かもしんねぇな」と鼻で笑った。

「兄さんの言う通り、俺たち含めこの街の連中は皆頭のネジが外れた奴ばかりだ。この方法で上手くいくとは言い切れねぇ。現にこうして素人の兄さんにまでバレちまったわけだからな。……だが、兄さんさえ首を縦に振ってくれれば十分勝算のある賭けだと思うがね?」

「冗談じゃありません。下手すりゃ俺の身まで危ないってのに……、そんなことに協力できるはずが――」

 カチャリ――と、突然、金属の冷たい感触が眉間を刺激した。身の毛もよだつ不気味な感触に、度肝を抜かれてしまう俺。

 何事かと思い、瞬間的に伏せてしまった顔を再び瑞垣の方に向けると、その手には――拳銃が握られていた。何度か映画で見たことある、俺のような素人でも分かるような銃――トカレフだ。

「勘違いされちゃあ困るな。俺は別にお願いをしているわけじゃあねぇ。命令だ。大人しく俺の言う事きいてりゃ兄さんは額にドでかい穴を空けられなくて済むって話だよ」

 分かっていたことだが、実際に銃口を突きつけられてしまうと体が竦み上がってしまう。

 その黒く冷たい光の前では、俺のなけなしの冷静さなんて掻き消されてしまう。

 しかし、だからと言って、瑞垣の脅しに屈する訳にはいかない理由が俺にはある。

 葬儀会館リコリス、あそこは親父の系列店であり親父が業界に進出するきっかけとなった第一号店だ。俺が瑞垣の命令を実行することは、すなわちそのリコリスを裏切ることも同然であり、親父の俺に対する失望は計り知れないものとなるだろう。

 神十島から逃げ帰ってきたというだけなら期待外れで済む話だが、親父の足を引っ張ったとなるとそうはいかない。それが俺にとってどうでもいいヤツなら俺は素直に自分の身を優先させていたかもしれないが、しかし相手は俺がこの世で一番憎い親父だ。俺の尻拭いをさせるだなんて考えられない。あれだけの大口を叩いておいて、命惜しさに意地を捨てることなどできない。

 安いプライドかもしれないが、それだけは死んでも曲げられないのだ。親父に反抗することが、親父を憎むことが俺の生きる原動力だったのだから、そこを曲げてしまっては死んだも同然だ。

 だから、俺は言ってやった。

「残念ですけど、そのご希望には添いかねます」

「………………何?」

 ……大丈夫だ。支配人は危なくなったら手助けすると言っていた。きっとどこかで突入の機会を窺っていて、いよいよ土壇場ってときまで姿を隠しているだけだ。

 だから、何も臆することはない。

「あんたがそうやって恐喝するより、親父に叱られることの方が万倍怖いね」

「……そうかい。中々どうして、兄さんも肝が据わってやがるな。見直したぜ」

 くっくっくと不敵に笑う瑞垣。徐々にその笑い声は大きくなってゆき、瑞垣は抱腹した。 開かれた大口から、鈍色の金歯が卑しく覗く。

「だが、それもう遅い。兄さんとはここでお別れだ。……最後に何か言い残すことは?」

 思えば、命が掛かっているこの状況で反抗的な態度を取ってしまったのは、母さんの影響もあるのかもしれない。

 俺があのとき、銃を突きつけられた母さんを前に、何もできなかったから。思い起こせばあの頃から、ずっと俺は天邪鬼なやつだった。誰かに選択を迫られる度に、それが例え自分にとって不利益であっても、意地になって相手の意思に逆らおうとしてしまう。

 俺が反抗的なのは、親父に対してだけでは無かった。

「…………………この仕事に就いてから、一つだけ納得いかなかったことがある」

「あ?」

「どれだけ多くの人が葬式に参列したとしても、死んでしまった人間にはそれが分からない。だったらどれだけ大きな式をしたって意味なんかありゃしないんじゃなかってな」

「……何が言いてぇ」

「でも安心してくれ。あんたが死んだらそのときは、俺があの世でも葬式してやるよ。死んだあんたにも分かるようにな」

「……お前といいあの嬢ちゃんといい、殺すにゃ惜しい奴ばかりだな、この街は」

 瑞垣が銃のセーフィティを外し、スライドを引く。弾丸が薬室に装填され、あとは引き金に少し力が加えられるだけで俺の眉間に穴が空く。

「ま、歯ァ喰いしばれや」

 引き金が引かれる間際、自分の最期を悟り堅く目を閉じる俺、そして事務室に響いたのは――銃声ではなく、扉をコンコンコンとノックする音だった。

 

 五


 一瞬にして、この場に静寂が訪れた。まさかこのタイミングでの来訪者に虚を突かれたのか、ここにいる全ての人間が、扉の方を振り向いたまますぐには動けなかった。

 ドンドンドン――俺たちの沈黙とは対照的に、事務室の扉を叩く音は、こちらの応答を催促するかの如く次第に大きくなっていく。それはもはやノックというよりも、閉ざされた扉の錠を無理やり突き破ろうとしているようだった。

「………………真島、テメェが出ろ」

「え……、いやでも――」

「いいから出やがれ!」

 瑞垣に怒鳴られ、慌てて駆け出す真島。摘まみを捻るだけの開錠にガチャガチャとやたら手間取って、焦りからか彼は乱暴にドアノブを引っ張った。

「誰だぁ! 今取り込み中なんだよ! 用事なら後に……」

「失礼、急を要しましたもので」

 ――つい先日も、このような場面に出くわした。

「……続けてご無礼を。どうかご容赦ください」

 白いフリルがひらひら踊り、黒い布地が淡く輝く、いつだって新品同然のようにキレイなメイド服を身に纏っている――キャサリン・ブランクが、今日だけはそのメイド服を少し汚して、開け放たれた扉の向こうに立っていたのだ。

「ンだよ、またネェちゃんか……。こりねぇなあんたも……。クロキクン、お前が呼んだの?」

 真島はうんざりするような表情を浮かべながら、俺へと尋ねる。

「支配人が言ってたのって……。君のことだったのか……ケイト」

「左様でございます。……遅くなりまして、大変申し訳ございません」

「バカ野郎、お前に何ができんだ! さっさとここから離れろ! お前に死なれたら俺はっ……!」

「わたくしのことは、どうかお構いなく」

 俺は反射的に叫んでしまうが、ケイトは全く動じない。いつもの涼しげな顔をして、彼女は俺に小さく笑う。

「……何言ってんか分かんねぇけど、とりあえずあっち行って話そっか。悪りぃけど今取り込み中なんだわ」

 真島が彼女を別室に連れて行こうとその手を伸ばす――が、ケイトは入り口の前で立ちふさがる彼の胸を、手でトンと軽く押しのけた。

「お……、とっ……」

 バランスを崩してよろめく真島。その少しの隙にケイトは彼の脇をスッと潜り抜け、素知らぬ顔で室内へと入る。

 しかし、ケイトに軽くいなされてしまった真島は、彼女のその落ち着き払った態度に舐められていると感じたのだろう、それで完全に業を煮やしてしまったようだ。

「……おい。ちょっと待てよ」

 頭に血が上りきってしまった真島だが、しかしこれまでのようにただ喚き散らすだけではなかった。静かに胸元から銃を引き抜き、その銃口をケイトに向ける。

「止まれよネェちゃん。脳みそで息したかねぇだろ?」

 だが、それでもケイトはその場に立ち止まるだけで、後ろには目もくれない。

「……その澄ましたカンジ、気に入らねぇな」

 つかつかとケイトの背後に歩み寄る真島。彼がケイトの肩に掴みかかろうとした瞬間、いや、それよりも少し先に、彼女がぼそりと呟くのが微かだが確かに僕の元まで聞こえきてた。

「先刻、申し上げておくべきでした――」

 ケイトはゆっくりと後ろを向く――そして、真島の手首を逆に掴み返した。真島の目を正面きって()めつけながら。

「次は、無いと」

 その声は、まるで獣のように低く唸り――その目は、まるで猛禽のように鋭く冴える――こんな彼女は、俺は今までただの一度も見たことが無い。

「……な、なんだテメェ。こ、こいつが恐く無ぇのかよ……!」

 ケイトの額に銃口を突きつける真島。しかし彼女の気迫に圧されてか、その手はカタカタと震えている。

「毛ほどにも」

 ニッと不敵に笑い、ケイトは拳を握った。

「真島ァ! その(アマ)から離れやがれぇ!」

「もう、遅い――」

 不穏な気配を瑞垣は直観的に感じ取ったらしい、反射的に真島へと叫ぶ。しかし、その頃にはすでに彼の体は宙へと浮かび上がっていたのだ。

 鼻血を撒き散らし、歯を二、三本落としながら真島はデスクに頭から突っ込む。気絶してしまったのだろうか、ひっくり返ったままそれきり動かなくなってしまった。

 ……そして仰天すべきは、これを全てあのケイトがやったということだ。暴力の本筋であるヤクザの真島を、ただのメイド――それもかように華奢な女の子が、顔面に鉄拳を喰らわし一撃でのしてしまった。

「この部屋には見張りを置いてたはずだ! それ以外の組員にも、部外者はこのビルに入れるなと伝えてある! どうやってここにっ……!」

 焦りと憤りで表情を赫赫と染める瑞垣を余所に、ケイトは至って冷ややかにクククと笑う。だがそれはさっき僕に見せた涼しげな微笑みとは訳が違う、身も凍るほどの寒気を放つ冷笑だった。

「ミスター、やっとお気づきになられましたか。そう……、彼らにはお眠り頂いてますわ。お早く起こして差し上げませんと……、墓穴の底までまっしぐら、ですわよ」

「……ッ? テメェら何ボケッとしてやがる? さっさとこのクソ野郎をぶち殺せ?」

 その掛け声で取り巻きの連中が銃を構えるよりも先に、ケイトのエプロンの下で火花が三度弾けた。

「ぐぅわあああ!「がああぁぁああぁあ!「ぎゃああぁあ!」

「奴は服の下に銃を隠し持ってる、ぬかるな!」

「kill them oll. ……皆殺しですわ」

 その銃声を合図に、事務所内は一転して鉄火場へと変貌する。

 ヤクザらから集中砲火を浴びるケイトだったが、事務所内のデスクや戸棚へ俊敏に身を移しそれを盾にして、一人――また一人と――肩や手を撃ち抜いて戦闘不能へ追いやる。

「目の覚めるプレゼント、差し上げますわ」

 倒れたロッカーに身を隠したケイトが、ピンという音と共に何かをこちらへ放り投げた。

「――手榴弾ッ? や、これは……煙幕弾(スモーク)か!」

 投擲された缶のような物体が火花を散らし、灰色の煙を轟々と吐き出し始めた。締め切った事務室は煙で覆い尽くされてしまい、視界が完全に遮断される。

「がっ、げほっ……! ごほっ……! クソッ、怯むな! 撃て!」

 煙の中で誰かが、咳き込みながら叫んだ。それと同時に視界が何度か閃き、銃声と共に悲鳴が轟く。

「バカ野郎、闇雲に撃つんじゃねぇ! 相手は一人、こっちは何人いると思ってんだ! 下手に手を出すな!」

 瑞垣らしき人物が一喝する。

 今の悲鳴は男のものでケイトではなかった。察するに。どうやら同士討ちをしてしまったらしい。それに気付かされた部下らは、銃撃を中止した。

「窓を開けろ! 煙を外へ逃がせ! 早くしねぇかぁ!」

 瑞垣の指示で、俺を取り囲んでいた部下の何人かがバタバタと動き出す気配が、その騒音と振動で分かった。

 しめた――そうか、これをケイトは狙っていたのか。

 四つん這いで頭をできるだけ低くしてしゃかしゃかと歩き出す俺。煙が焚かれていなければ相当情けない姿だろうが、そうも言ってられない。

 周囲が見えないのは俺も同じだから、出口がどっちにあるかは分からない。さりとて、このままこいつらの近くにいるよりはこの場から離れた方が断然マシだ。

 そう思って動き出した俺だったが、歩き出して早々、何かに躓いた。

 地を這う俺の手に、ぬるりと嫌な感触。それはどこか、鉄臭い。

「――ひっ……?」

 傍まで寄って初めて分かった、背中の穴から血を流して倒れる男の姿。その呼気は途絶えかけ、空気が漏れるように息をしている。

 驚いて、思わず仰け反ってしまう俺。背中からバタリと倒れ込んだ先に、また別の感触があった。

「小僧? どこにも逃がさねぇぞ?」

 瑞垣だ。瑞垣が俺を捕らえようと手を伸ばした。

 俺は慌てて跳ねるようにそこから逃げ出す。瑞垣の手が空を切った。

「クソッ! 前が見えねぇんだよ、さっさと窓開けやがれ!」

「はい、只今!」

 瑞垣が怒鳴り散らしてすぐに、事務所の窓全てが順に開け放たれていく。充満した煙がそこから狼煙のように排出された。

「このアマァ! これで終いだあああぁぁ!」

 視界が晴れつつあるといった状態で、ケイトはそれでもまだ身を隠していた。

 相手が顔を出さないこの隙に一気に距離を詰めようと、部下の一人が弾丸のように飛び出す。

「急いてはいけませんわ」

 ケイトは盾にしていたデスクを豪快に蹴り飛ばした。

 それが突進する男の下半身に直撃し、バランスを崩した男は頭から倒れ込む。

 その隙にケイトは、容赦なく彼の肩口に弾丸を喰らわした。

「がああぁぁぁあああ!」

 轟く男の悲鳴。彼は血の噴き出す傷口を必死に手で押さえながら、痛みに身悶えている。

 しかし、ケイトはそんな彼を冷ややかに見下ろしながらゆっくりと歩み寄り、拳銃を握る彼の手をヒールで踏みつけるのだった。

「さて……、次にお相手して頂けますのはどなたでしょうか?」

 目をギラつかせ口角を釣り上げて厭らしく嘲け笑うケイトの姿は……、まるで悪魔のようだった。

 彼女の足元に転がる男たち、十人ほどいた取り巻きたちはそのほとんどが全て床に伏し、残っているのは真島を含めた三人だけだ。

 ケイトがこの事務室に入ってものの数秒で、暴力の専門家である極道たちがいとも簡単に制圧されてしまった。

「ケイト……君はいったい――」

「そこまでだ!」

 ガッ――と、俺の襟元がいきなり掴まれ吊り上げられる。こめかみに覚えのある冷たさを感じ目線を上げると、そこには真島の姿があった。

「テメェが何者かは知らねぇが……、例え相当な手練れであったとしてもこうなっては手出しが出来えねぇはずだ。爪の先を僅かに動かしたその瞬間に、こいつの脳天が吹っ飛ぶと思え!」

「人質……、ですか。仮にも任侠と呼ばれる者がとる行為ではありませんわね」

「何とでも言え。……テメェが現れたその時から、ここはトるかトられるかの戦場だ。そんな甘っちょろい言い草は犬にでも食わせておきな」

「……戦場ですって? ここが? ククク……、面白いことをおっしゃるお方」

 ふふふ――はははは――あはははは! と、ケイトは顔を押さえて高笑いした。

 地獄の淵から沸き立つようなその呻きに、この場にいる全員が戦慄する。

 彼女に制止を強制した真島でさえも、愕然として凍ったように動かない。

「ここが戦場ですか。確かにこれほど甘っちょろい(スィート)なご冗談は中々ございませんわね。あなた方のようなチンピラが戦争屋(ウォーモンガ―)気取りとは……ククク、愚かを通り過ぎて哀れみさえ感じるわね」

 ケタケタと変わらずの薄ら笑いを湛えるケイト。まるでそんなことなど取るに足らないとばかりに、彼女は怯まない。

「……銃を捨て、両手を頭の後ろで組め」

 瑞垣は至って冷静だった。いや、冷静さを装っていた。

 先ほどまでの俺と同じだ。内心では恐怖、憤怒といった感情が渦巻いているが、それを表に出してしまえば最後、ケイトの狂気に呑まれてしまうと悟っているのだろう。

「……どうした? 早くしねぇとあんたのその真っ白なおべべがこいつの返り血で染まっちまうぜ?」

 ハッと吐き捨てるように鼻を鳴らして、ケイトは頭を皮肉気に下げる。

「仰せのままに、ミスター」

 ケイトは銃を地面に落とし、手をゆっくりと後頭部にやった。

「よし、次はその銃をこっちに蹴るんだ。……ああ、それでいい。おい、こいつを拾って俺に渡せ」

「はい」

 蹴り寄越されたケイトの銃を、部下が拾って瑞垣に手渡した。瑞垣は俺を捕らつつ、もう一方の手でそれを奪うように受け取る。

「見たことねぇ銃だ。名は何というんだ?」

「FN57。一九九八年に開発されたベルギー製のセミオートピストル。5,7ミリ弾を使用する――貫通力、携帯性、そして弾持ちの良さに優れた拳銃……」

「……なるほど、なるほど。ここいらじゃあまず出回らねぇ銃だ。……こいつをどこで手に入れた?」

「そんなことを聞いてどうすると言うのですか?」

「テメェは腕が立つが神十島の人間じゃねぇ。おそらくこいつも外のルートで仕入れられた物だろう。……テメェはいったい、何者なんだ?」

 ケイトから奪った銃を彼女に突き付け、瑞垣は問うた。

「わたくしは、ただのメイドにございます。旦那様の命を受け、降りかかる火の粉からシキミ様をお守りするべく仕える――そう、ただのメイドなのです」

 このドンパチで室内の家具はズタズタに吹き飛び、彼我の間に障害物は一切存在しない。           おまけに煙が晴れ、視界が鮮明になったことで、ケイトの背後の窓には彼女の背中がはっきりと映っているのが見える。

 ケイトは、後頭部で組んだ手を解こうとしていた。

「我が主に仇成す者は、例え天の使者でも地獄に落とす。……それが仮に、悪魔の手を取ることになろうとも――」

 プルルルルル――と、突然事務室に機械音が響き渡る――電話だ。瑞垣の背後の机にある固定電話が鳴っている!

 ケイトの只ならぬ迫力に気を張り詰めていた瑞垣らの、緊張がそこで途切れてしまったのが分かった。瑞垣本人を含めた残りの三人とも、不意を取られ、電話機の方を向いてケイトから視線を外したのだ。

 ――今だ!

「どおぉぉりゃああああ!」

 俺は瑞垣の足のつま先を目掛け、力いっぱいに踵を落とした。

「があっ……! このっ、ガキ……!」

 瑞垣が怯んだ一瞬の隙に、俺は前方に跳びこむように前転して、彼の拘束から逃れる。

 瑞垣ら三人の目線が、未だ鳴り止まぬ電話から今度は俺へと集中した――

「今だケイト!」

「………………!」

 俺の合図を受け取り、ケイトは返事をすること無く素早く動き出した。

 ミサイルのような前傾姿勢で飛び出したケイト。手下の一人が落とした銃を流れるような動きで拾い上げ、しゃがんだ姿勢から立ち上がると同時に発砲した。

「があああっ!」

「ぎゃっ……!」

 発射された二発の弾丸は部下ら二人の右手を貫通し、彼らの握っていた銃を弾き飛ばした。

 そして三射目――しかし、引き金は空を切り、弾丸は排出されない。

「弾切れ……! しまった!」

 どうやら先の戦闘による乱射で、マガジン内に残されていた弾丸はたったの二発のみだったようだ。咄嗟に拾った敵の銃だから、ケイトにはそれが把握できなかったのだろう。

「……っ? 運が悪ィなぁ嬢ちゃん?」

 ケイトから奪ったFN57を彼女に向ける瑞垣。ケイトの戦闘力を理解したのか、先ほどまでのように勿体ぶるようなことはせずすぐさまその引き金に指を掛ける。

 が――引き金が固定されビクともしない。セーフティが解除されていなかったのだ。

 俺が人質に取られたそのときケイトは――自身の武装が奪われることを予期してロックを掛けていた。瑞垣が発砲の瞬間、不意を取られたその一瞬を狙って反撃できるように――

「お手隙ですわね」

 瑞垣がもう一方の手に握ったトカレフを構えようとしたときにはもう遅い。ケイトはすでに、跳躍していた。

「ぜえええぇぇぇえええい!」

 膝頭を大きく抱え込んで縮小させた大腿筋を、瑞垣の胸元目掛けて一気に放出する。

 全体重と突進の勢いが乗った蹴込みを、瑞垣は受け身を取る間もなくもろに喰らった。

「ごはあああぁぁぁっ……!」

 瑞垣は、肺にある空気を全て吐き出しながら、てこのように背中からデスクに倒れ込んだ。

 そして机に乗りかかったままだらんとなって、遂には動かなくなる。気絶はしていないようだが、今ので確実に肋骨が何本か折れたはずだ。あの姿勢から体を起こすのは無理かろう。

「さて、これでお掃除は無事終了ですわね」

蹴られた衝撃で放り投げられてしまった自分の銃を拾い上げながら、ケイトはやれやれとばかりに汚れたメイド服をぱんぱんと払った。

「シキミ様、お怪我はありませんか?」

「えっ、いや俺は大丈夫だけど……その……」

 場を見渡すと――死屍累々。壁や床には銃痕、机や棚は破壊され、男たちが体中を赤黒く染めて山になっている。この世に地獄があるのならそれは間違いなくここだった。

「一言だけ断らせて頂きますが、わたくしは彼らを戦闘不能にしただけで急所は外しておりますわ。それ以外で倒れているのはほぼほぼ同士討ちです」

 言われてみると、確かにそうだった。俺の見た限りでは、ケイトは迫り来る部下たちの肩や手を撃っていた。彼らが銃を撃てないように迎撃しただけで、何も殺したわけではない。……だからと言って、この惨状はそれでほっと一安心できるような光景ではないが。

「……はっ、はは。たった女一人に俺の組が……、総崩れとはな。……わ、悪い夢だぜこりゃ……。だが……、このままじゃあ終われねぇ……」

 そう呟く瑞垣は息絶え絶えで、足掻いてはいるが手首から先しか動いていないような状態だった。それでも尚、彼は辛うじて握っているトカレフをケイトに向けようとする。

 しかしケイトは、そんな彼に止めを刺した。

「見上げた根性ですわね」

 デスクを足刀で蹴り上げ、ぶら下がった瑞垣を地面に叩き落とすケイト。

 落下の衝撃で、瑞垣は必死に吸い込んだ空気を「がはっ……!」と再び吐き出した。

 そして、それと共に電話の呼び出し音が止まる。今ので受話器が外れたのだ。

「この事務所に掛かってきたということは、ミスター、あなた宛ての電話でありませんこと? どうぞ、お取りになったら?」

 半開きの目を恨めしくケイトに向けたまま、瑞垣は指先をぴくぴく動かす。

 それを見てケイトは、ハッと鼻で笑って電話のスピーカーのボタンを押した。

『もしもし……。もしもし? あら、聞こえているのかしら?』

 スピーカーから聞こえてくるくぐもった女の声は、どこかで聞いた覚えがあるものだ。

「お待たせ致しました。予定よりも少し長引かせてしまいました、申し訳ありません」

『……その声はケイトね。構わないわ。むしろ聞いていた以上の腕前で驚いているくらいよ。よくやってくれたわ』

 電話先の相手に「恐縮です」と返すケイト。その口ぶりから察するに、相手はケイトの知る人物らしかった。

『……瑞垣さん? そこにいらっしゃるのでしょう? あなたにお話しがあります。と言っても、あなたはきっとまともに話せるような状態では無いでしょうから、一方的な通達ということになりますが』

「………………」

 瑞垣は短い呼吸を繰り返すだけで返事をしない。視線を電話の方に向けているので辛うじて意識はあるらしいが、まともな判断力があるのかは疑問だ。

 そんなことを知ってか知らずか、はたまたそんなことはどうでも良いのか、電話先の相手は滔々と続ける。

『……さて、私は葬儀会館リコリス支配人の花立です。先日はどうもご依頼ありがとうございました』

「支配人? 支配人だったんですか?」

 驚いて、思わず声に出してしまう俺。それは電話越しにも通じていてらしく、支配人が反応した。

『あら、坊や。加減はどう? 怪我はなかったかしら?』

「や、俺は大丈夫ですけど……、なんで支配人が……」

『後片付けよ。彼らの言葉を使うなら、〝ケジメ〟といったところかしらね。……ま、心配しなくともあとはこっちで何とかするから、あなたたちは引き上げなさい。いつ騒ぎを聞きつけて仲間がやって来るか分からないから。ま、組の本拠地を叩いたわけだからそれも杞憂でしょうけれど、面倒は避けたいでしょう?』

 そう言って退却を促す支配人。しかし俺にはまだ聞きたいことがある。そう簡単に割り切れるほど、今起きたことの整理が出来ているわけではなかった。

 何から問い質したものかと考え倦んでいると、ケイトがそっと俺の手を引く。

「参りましょう。わたくしたちにできるのはここまでですわ」

「あっ、おい。ケイト! ちょっと待ってくれ!」

『それでいいわ。説明は後でするから。この場は一旦引きなさい』

 スピーカーから聞こえる支配人のその言葉を耳にして、俺はケイトに連れて行かれた。

 廊下は、先ほどケイト自身がそう言っていたように、床に伏せて血を流す組員で埋め尽くされていた。


        ×        ×        ×

 

 事務室に斑々と押捺された赤い二つの足跡。その先は開け放たれたドアを越えて廊下のずっと向こうまで続いている。

 さきほどまでと打って変わって、拳銃の轟く音、怒号や悲鳴はもう聞こえない。ときおり低く唸るような呼吸音と、悄然とした空気を割る機械的な反響音交じりの女の声だけだった。

『……二人きりになったところで本題に移りましょうか、瑞垣さん。いえご心配なさらずとも、至極簡単な話ですよ――我々が今後どういった関係性をとるかといった、ね。……今回あなた方は、我々に無断で物資の輸送を行おうとした。事前の依頼書には死亡診断書の偽造を含めた遺体の後始末のみだったにも拘わらず、棺の中に大量の麻薬を隠し私の部下にそれを運ばせようとした。……いえね、我々としては麻薬の輸送、これは問題ありませんの。正規の依頼として私の耳を通して頂ければお受けすることは可能です。この街のお歴々にも私の顔は多少利きますから。しかし、あなた方はそうはしなかった。この街に来て日の浅いあなたは、我々を所詮はただの葬儀屋と嘗めてかかり、あまつさえこの私を騙し道具として利用したのだ。……これは我々に対する背反行為に他なりません。まして、私の部下に銃を向けたあなただ。捨て置くつもりは毛頭ない。』

「っ……! や、野郎っ、俺たちをどうしようってんだ……!」

『ケイトは坊やの目があったから殺しを躊躇ったみたいだけど……、そんな感情は私の知るところでは無いわ。この街のケジメの付け方を、この街の流儀で、あなたの身を以て教えてあげる』

「………………な、何?」

 朦朧とする意識の中で、真島は気配を感じ取った。

 表に車の音、次にバックドアの開閉音、そして誰かがインターホンを鳴らす。

 真島は痛みに悶えながらも何とか床を這いずって、窓の傍まで近づく。壁に寄りかかりながら立ち上がって表を覗いてみると……、そこには配達業者のロゴの入った自動車が停められていた。

「……なるほど、後片づけか。違げぇねぇ」

 廊下から徐々に近づいてくる足跡がこつこつと聞こえてくる。ヒールの音、女だ。

 配達員がヒールを履くことは有り得ない。かと言って、あのメイド女が戻って来たわけではないということも、真島には分かっている。彼女は先ほど、自らこの場を離れることを提案していた。

 では誰か? このタイミングで、わざわざ配達業者を装ってまで瑞垣組を訪れる人物――

「あら、どうも。ご機嫌はいかがかしら?」

 女は抱えて持ってきた大きな〝荷物〟を部屋の真ん中に置くと、何も言わずに立ち去った。


        ×        ×        ×


「さっきのあれは……、いったいどういうことだったんですか? 何でケイトが……、あんなにも……」

 その筋の人間相手に千切っては投げの大立ち回りを見せたのか。ガンアクションさながらの銃撃戦を繰り広げていたのか、さっぱり俺には理解できていなかった。

 事務所に戻ってからの俺は放心気味で、たった今起きたばかりのことを考えようとすると、頭がフリーズして考えが追い付かなかった。だから俺は、そのときどこかへ出て事務所を開けていた支配人が戻るのを待って、その場ではケイトに説明を求めるようなことはしなかった。心と頭の整理をするクールタイムが欲しかったのだ。

「やっぱりあなた、何も聞かされていなかったのね。……あなた、デルタフォースって切ったことあるかしら?」

「で、デル……? いったいなんですか? それは」

 戻って来るなり詰め寄られ、やれやれやっぱりかとばかりに俺をあしらう支配人。彼女は俺の返答を待たずに、さっさと階段を上って支配人室に向かおうとする。俺はその後を、待ってくださいと慌てて追いかける。

「米陸軍の対テロ特殊部隊よ。彼女はそこの所属だった元軍人らしいわ」

「……ぐ、軍人? ケイトが軍人ですか?」

 思わず俺は、ずっとそばに不安そうに付いて来るケイトの顔をまじまじと見つめてしまった。

「だってそんな……、今までそんな素振りは全く無かったじゃないか……」

「……申し訳ありません。隠すつもりは無かったのですが……、その……」

 お伝えする機会を逃してしまいまして――と、ケイトはしゅんと眉を八の字にして続けた。

「まぁそれも無理からぬ話でしょうね。彼女と初めて出会った当初、あなたはまだ年端もいかぬ少年だったのでしょう? 加えて、家を出てすぐだったから精神的にもナイーブになっていたはずだわ。そんな相手に、自分がテロリスト相手に命の奪い合いをしていた人間だとあなたは言えるかしら?」

「俺はそんなこと……」

 そんなことは気にしない――とは言い切れないだろう。支配人が言った通り当時の俺はかなり気が立っていたというか、色々と多感な時期だった。軍人相手に気楽な関係を築けるかといえば、おそらくそうではなかっただろう。変にビビってしまってお互いの間に妙な隔たりが出来ていたかもしれない。

 しかし今の俺は――そうじゃない。あんな風に血眼になって戦うケイトを見た今でも、俺の中では俺にそっと微笑んでいる彼女のイメージの方が強い。そりゃ多少思う所はあるが、それで今までの俺たちの関係性が崩れることは無い。

 扉を開き、支配人室へと入っていく支配人。俺もそれに続こうとするのだが、しかしケイトだけは入り口の前立ち竦んだ。

「……どうした?」

「いえ、ただその……、わたくしはしばらく席を外した方がよろしいかと……。シキミ様のお気持ちの整理もございますので……」

「バカなこと言うなよ。お前は俺の命の恩人じゃないか」

「あっ……」

 ぐっと手を引きケイトを室内へと無理やり連れ込む俺。さっき戦っていたのときのケイトとは打って変わって、彼女は力なく引き入れられた。

 大きな椅子に深々と、支配人は「これでやっと一段落ね」と嘆息しながら座り込む。俺はケイトを連れてそんな彼女の前に立ち塞がった。

「……おっと、我ながら年寄り臭くなってきたわね。思わず息を()いちゃったわ」

 ふふふと笑いながら、支配人は机の電話に手を掛けた。このタイミングでどこに電話をするつもりだと思ったら……何のことはない、内線で下の事務所に掛けていた。

「もしもし、由里? コーヒーを入れてくれるかしら。……そうね、砂糖は多めに。ちょっと疲れちゃったから。……あなたたちは?」

 受話器を俺らに向ける支配人。コーヒーの砂糖やミルクの量って人によって結構違いがあるし、欲しけりゃ自分で言えということなのだろう。

「僕は別に」

「わたくしも……ご遠慮しますわ」

「……そう、聞いた由里? ここには一杯だけでいいわ。悪いけどお願いね」

 それだけ言って、支配人は電話を切った。

「お言葉ですけど、コーヒーぐらい自分で入れたらどうですか? ここでも作れるでしょうに。それで手を止める事務員さんが気の毒です」

「あら、本当にお言葉ね。確かにそう言われると痛いけど。……ま、何のことは無いわ。昔から由里の入れるコーヒーが好きで、それが習慣になっているだけよ」

 ……ん? 昔から? ちょっと待て、事務員の打敷さんって……、俺らとそう歳は変わらないと思っていたけれど、実はそうじゃないのか?

「……見た感じ若く、というか童顔で幼く見えたから気になりませんでしたけど、打敷さんと支配人ってもう古い付き合いなんですか? そうだとしたらあれで結構――」

「おっと、女性に年齢のことを聞くのはナンセンスよ」

 支配人が人差し指を唇にあてがって、俺の言葉を制した。

「それに、年齢のことで意外性があるのは彼女だけではないわ。そこのメイドさんとかね」

「ケイトがですか?」

 こくりと頷くと、支配人は机の引き出しから何かの資料を取り出した。

「だって彼女、あなたに仕える以前に軍へ所属していたわけでしょう? だとしたら、現役バリバリで活躍していたころは今よりもずっと若かったはずだわ」

「確かに……」

 俺がケイトと出会った頃は確か、彼女は高校生か大学生ぐらいの歳だったように思う。だから少なくとも、そのデル何とかには未成年で所属していたということだ。

「未成年で、しかも女性。彼女の入隊は異例中の異例だったでしょうね。それと同時に、彼女がどれだけ特別な存在だったかも窺える――メイドさんはエリート軍人の中でも更に優秀だったというわけね」

「道理でヤクザの連中なんて相手にならないわけだ……」

 思わず感嘆の息を漏らしてしまう俺。一方ケイト本人はというと、気まずさからか伏し目がちになって俺から視線を逃がしている。

「でも何だってそんな優秀な軍人が、親父の下で女中なんかすることになったんですか?」

「さぁ? それは本人に聞いてみないことには、ね」

 支配人に言外に促され、ケイトは顔をゆっくりとあげる。言い辛そうに口をもごもご開いては閉じさせながら、やっとのことで彼女は話す。

「その……、隊にいた頃そこで面倒がありまして、それで脱隊を考えていた時期にちょうどお父様からお声を掛けていただいたのです。シキミ様のボディーガードにならないか、と」

「ボディーガード? メイドとして雇われたわけじゃなかったのか?」

「メイドはあくまで表向きの姿ですわ。シキミ様が家を出て独り立ちするとなると、やはり大企業のご子息というお立場ですから、そこに付け込んで良からぬ輩が寄って来るやもしれません」

 ケイトの告白に、支配人は「なるほど」と瞑目して頷く。

「加えて、榊氏は元々神十島で事業を確立させた人物。裏の社会と関わりがあるから、どこかの誰かの恨みを知らず知らずの内に買っている可能性も低くはない。氏への報復であなたが狙われるなんてことは、十分に考えられる話だわ」

「左様でございます。そういった不足の事態に備え、わたくしがシキミ様の警護をお勤めさせていただいていたのです」

 警護――か。今まで俺は自分の人生を自分の手によって切り開いてきたと思っていたが、実はそうじゃなかった。ケイトが俺の身に及ぶ危険を人知れず取り除いていたからこそ、成り立っていたものだったのだ。……しかもそれは、俺がずっと邪険にしてきた親父が指示したものだった。

「そうとも知らずに俺は……、随分な口を叩いたな。君の為だ何だと言って神十島からはなれようとしたけれど……、これまでだってずっと君には危険なことをさせていた……」

 俺が言ったことを、ケイトはあえて否定しなかった。そしてまるでその代わりとでも言うように、彼女はそっと深呼吸してから、改まって口を開く。

「……シキミ様。わたくしから一つお願いがございます」

 今度ははっきりと俺の顔を見て、ケイトは言った。

「どうか、本土へお戻りになられるという話、考え直してはいただけませんでしょうか? 危険があれば……、いえ、シキミ様を危険な目になど合わせません。そうなる前にわたくしが対処致しますし、もちろんわたくしの心配などいりませんわ。誰に気づかうことも無く、今まで通りの仕事、立ち振る舞いをしていただければそれで結構です。……お父様はシキミ様に大変ご期待なさっておいでです。何しろシキミ様の神十島への異動は、ずっと以前からご計画されていたものですから……。安寧の日々を送っていては決して得られないような経験や知識を、ご自身と同様、貴方様にも感じ取っていただきたいのです」

「ケイト……」

 珍しく多弁な彼女に、俺は考えさせられてしまった。ケイトが俺に何かを進言するだなんて、ましてや『お願い』をすることなど、今までに無かったことだ。

「……しかしなぁ、実際に銃を握ることになるのはケイトじゃないか。今回は上手くいったかもしれないけれど、それがこれからも続くとは限らない」

「あら、戦闘のプロがそんな迂闊なミスを犯すかしら?」

 俺の言ったことが可笑しかったのか、支配人は呆れるように笑った。

「それとも坊や、そんなにメイドさんが信じられないの?」

「いや、そんなことは……」

「だったら考えることないじゃない。メイドさんは神十島でも十分に通じるほど腕が立つし、坊やだってなかなか頭が切れる。二人揃えばこの街での覇権争いを制することも不可能ではないわ」

「ケイトはともかく……、俺の頭が……切れる、ですか?」

 意外なことで評価され思わず言葉も歯切れが悪くなる俺。そりゃ確かに、ケイトほどでは無いにしろ俺だって歳の割には難しい職業で責任のある役職に就いていたから、頭は多少良いとは自分でも思う。

 しかし、事今回に至っては――

「俺、何かしましたっけ? 正直、脅されてビビッて騒いでいただけだと思うんですけけど……」

 俺が言うと、支配人は「そうかしら?」とわざとらしく小首を傾げてみせる。

「でもあなた、あの棺の中身を看破したじゃない。あの土壇場で、しかも慣れない環境、切羽詰った状況下で良くやったと思うわ。あなたはあなたで存外肝が据わっていると思うけれど。……あの強面相手に啖呵を切るだなんて、中々できることじゃないわ」

「あれはイタチの最後っ屁というか……、単なる負け惜しみ似た何かですよ。昔から、追い詰められると相手に逆らってみたくなるタチなんです」

 きっとそれは親父の所為なのだろうが。今回の一件で、ほとほと思い知らされた。

「だったらお父さんにも一矢報いなければ、ね。向こう発つとき、大見得切って出てきたのでしょう?」

 なぜあなたがそれを知っているのかと聞き返してやりたかったが……、支配人の言ったことは正しい。昨日はケイトを危ない目には合わせられないと言って神十島から本土に戻ろうとした。しかし、ケイトは十分自衛の手段を備えているばかりか、逆に俺の身の安全まで確保できるほどの実力者だったわけだ。それが判明した今、俺がここを離れる理由は無くなったと言えるのかもしれない。

「……逆に、ここで俺がむざむざあっちに帰ってしまえば、ケイトほどのボディーガードがいるのにも拘わらず情けない――と、親父からすればこうなるのか。ケイトの経歴を知った上で俺にお供させたんだから、寧ろ破格な待遇ってわけで……」

「ま、そういうことになるのかしらね」

 支配人が、ふあぁと欠伸をしながら素っ気なく相槌を打った。

「どう? これでもまだ向こうに戻るつもりかしら? ……どうせ昨日はこの強い味方のことなんて度外視で結論を出したのでしょう? だったら、結論を急がないでここでもう一度考えてみるべきではないかしら」

「そりゃまぁ確かに……、それは至極真っ当な意見ですね」

 ご意見を頂き、もう一度深く考え直してみる俺。親父の前で一度、昨日支配人の前で一度、いったい俺は何回決意を鈍らせれば気が済むんだと自分自身情けなくなってくるが、しかしこれは俺の身の安全にも関わってくる重大な問題だ。親父に挑発されたときのように、軽はずみに物事を決めてしまうわけにはいかない。それで右往左往されるのは他ならぬケイトなのだ。俺の優柔不断に彼女を付き合わせてしまうわけにはいかない。

「……あの用意周到な親父のことだから、ひょっとしてケイトを雇ったそのときから俺をこの神十島で活動させる構想はあったのかもしれないな」

 だとしたら、ケイトが単なるメイドではなく俺が神十島で仕事をする上でのパートナーとして雇われたのであれば――ここで本土に戻るということは、来るべき日に備え俺の身の安全を守っていたケイトの数年間を棒に振ってしまうことだ。そして最悪の場合、その本来の目的を果たせなかったケイトを親父が今まで通り黒木家のメイドとして残しておくかどうかは極端な話だが分からない。最悪彼女が黒木家を去るということになってしまえば、俺はそれを引き留める手段を持っていない。どうすることもできぬままケイトを見送るしかないのだ。

「……ここは耐えるしかない、か」

「シキミ様……!」

 期待に満ちた表情で顔を上げるケイト。俺が考えていたようなことを、もしかするとケイトはもうずっと前から気にしていたのかもしれない。

「強い見方がいると分かった今、もう何も気にすることはない。俺は俺にできることをして……、俺の命は――ケイト、お前に預けるぞ」

「……御意に」

 跪いて、俺の命令にメイドとして最大限の敬意を以てケイトは応じる。

「この命に代えてでも、御身お守り致します」

「ああ、よろしく頼むよ。キャサリン・ブランク」

 俺はさながらイギリス紳士のようなしぐさで低頭し右手を差し出して、彼女の誠意に答えたのだった。

 

 ――後日

 俺たちが瑞垣組にある意味カチコミをした翌々日。その日の朝刊に、とある記事が三面記事に掲載されていた。

『瑞垣組事務所、謎の爆発! 極道間での抗争か?』

 瑞垣が自分たちはまだこの街でも新参だと言っていたが、しかし知名度はそれなりにあったようだ。記事に組の名前がそのまま載っている。

 そしてその内容はと言えば、一昨日の午後二時頃、撫子町中央通り五丁目にあるビルの一室で爆発が起きたということだった。直前の騒動に関しては記事では一切触れられていない。

 午後二時頃――俺たちがあそこを離れた時間とほぼ一致している。つまり、俺たちが去ったのを確認してから何者かがあそこを爆破したということに他ならない。当然それをやったのは、組員ではないだろう。それ以外の誰か、俺たちがしっちゃかめっちゃかに掻き乱したあの場を始末する必要があった何者か。

 ――そう言えば支配人は、〝後片づけをする〟と……確かそんなことを言っていたような気がする。〝後片付け〟とは、俺たちが起こした騒ぎを全て揉み消すための処理だということなのだろうか? だとすれば、この爆発の瞬間にはあのときケイトが止めを刺さなかった瑞垣を初めとする組員たちが、事務所内に残されていたということになる。

 ……あのとき事務所には何人いた? 十人……、いや廊下や別の部屋にいる組員を含めればもっと大勢あの場にいただろう。その全てが始末されてしまった――

 この事実に俺は――今俺が携わっていることの重大さというのを真の辺りにしたようで、それを直視できなかった俺は、支配人に真相を確かめることなど到底できやしなかった。

 ただ一つだけ確かなことは――瑞垣らの葬儀はうちでは行わないということだ。

 


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