書きかけの十五話
どうも、銀華あんずです。
初の短編投稿となります。よろしければぜひ、ご一読ください。
感想、ブックマークの方、していただけると作者の原動力となります。ぜひよろしくお願いします。
誤字脱字等あれば、気軽にご指摘ください、よろしくお願い致します。
それでは、拙作「書きかけの十五話」、よろしくお願いいたします。
殺したかった。
もしくは死にたかった。
殺すなら、自分を見捨てた母親を真っ先に殺したい。
死ぬなら、ヘリウムガスを大量に吸い込んで、楽に死にたい。
当時の自分は、そんなことを考えながら生きていた。
*
父は自分が立って歩くようになった頃にはもう、この世にはいなくなっていた。
母は自分が小学校に上がると、新しい男を見つけ、堕落していった。
母の帰りは必ず夜遅く。帰ってこない日もあった。男の自分は、母親が帰ってくるまで辛抱強く耐えていた。それが育児放棄なのを理解したのは、小学校へ上がって数年してからだった。
同時に自分は小学校の頃、今にして思えばかなり過激な虐めに遭っていた。
恐らく、陰気臭い性格に見えるだの、目が死んでいるだのといった、そういう理由でだろう。
度重なる、悪意ある運命の悪戯によって、自分は小学六年生にして自殺願望と殺人願望で頭が捻じ切れそうになっていた。
中学校に上がると、父親の祖父母の家に引き取られた。
住み慣れていた都会を離れ、田園風景が珍しくない隣県の片田舎に移された。
中学校では虐めには遭わなかったが、代わりに一人として友人は出来なかった。
携帯電話は解約され、パソコンも無い祖父母の家では、最初はかなり手持ち無沙汰になっていた。
しばらく経つと祖父からお下がりの原付を貰った。
走る鉄の塊に乗る、ましてや改造して弄くり倒すという祖父の趣味になど全く興味なかったが、やってみるとそれなりに暇潰しにはなった。
飽きれば部屋に戻って祖母の書斎からいくつか本を取り出し、自室で読み耽った。
祖父の趣味より読書のほうが性に合っていたのだろう。時を忘れて活字の世界に身を沈めていった。
そのおかげか中学校の成績はいつも上の中辺りを修めていた。
今思えばこの趣味が自分を彼女へ導いてくれたのかもしれない。
*
中学二年の夏、自分は町立図書館へ足を運ぶようになっていた。祖母の蔵書では自らの読書欲を落ち着かせることができなくなっていたからだ。
裏手の駐輪場に荒々しく原付を駐め、射るように降り注ぐ日の光に苛立ちつつ、自動ドアの前に立つ。
即座にセンサーが反応し、ようやく自身の身体を灼熱の外気から脱出させることができた。
館内全域にクーラーが行き届いてくれていて本当に助かる。
冷気を肺にたっぷりと吸い込み、身体を内から冷やす。
館内に設置されてある自動販売機から冷えたブラックコーヒーを買い、すぐに飲み干した。冷やされた液体が身体中を駆け巡り、少しばかりの幸福感を得た。
缶を捨て、借りていた本を二冊、返却用の棚へ置く。
館内は日曜日にも関わらず、閑散としていた。
古典文学が並ぶ棚、科学、天文学関連の棚、実用書、図鑑、そして絵本の棚。
館内を少し徘徊してみたが、やはり人はまばらだった。
いや、きっと日曜日だからこそ、こんな寂れた図書館になど足を向けないのであろう。
このひっそりとした静寂感が好きなのだが。
有名作家の棚へ行き、二冊本を手に取る。
冒頭を少し読み、足が棒になりかける前にいつも利用している席へ向かった。
自分の脳内では既に『いつもの席で座って正午まで読書し、昼食を求めて祖父母の家へ戻る』という予定が立っていたのだが、それは一瞬で瓦解することになった。
いつもの席には先客がいたのだ。
しかし先客といっても人が居たわけではない。何かを書いている途中であろう原稿用紙と、シャーペン、真っ黒な消しゴム、そして何かの青いキャップが置いてあったのだ。
なぜかは分からない。なぜかは分からないがその光景を見た自分はどうしても『その原稿用紙の中身』が無性に知りたくなった。
別に何を書いてあろうと構わない。何かの反省文であっても、親族に送る手紙の下書きであっても、極端に言えば何も書いてなくてもよかった。
ただ単に『その原稿用紙の中身』を知りたくなったのだ。
*
気が付くと自分は原稿用紙を手に取っていた。
書かれていたのは、プロ作家に勝るとも劣らない文章力と語彙力、そして構成で織り成す小説だった。
自分は驚愕した。
これほどの文章を書ける人間が、こんな寂れた図書館にいるなんて、と。
自分はその原稿用紙が他人のものであることを忘れ、立ったまま読み耽った。
*
読み終わったとき自分が抱いた感想は、はっきりとした『絶望』だった。
主人公は中学時代、あるあやまちから他学校同学年の女生徒を集団で暴行してしまう。それを人生の最大の汚点として生きてきた主人公は高校へ進学し、心に大きな傷を負った女生徒と巡り合う。その女生徒は主人公が暴行したあの女生徒で――――。
物語はそこで途切れていた。まだ執筆の途中なのだろう。十話までしか書かれていないようだった。
もちろんこのあとの話がどう展開するか分からない。しかしどう転んでもやはり『絶望』という感想を持ちそうだった。
この話に薄暗いイメージを持っていた自分だが、同時にこの物語、そして作者に惹かれているのは確かだった。
ただ、字がところどころ乱れているのが気になった。
*
「............どうですか?」
その一声で、自分は現実世界へと引き戻された。
心臓が弾む。
恐る恐る振り返ると、そこには色白の美少女が立っていた。
髪は染め上がりのように鮮やかな漆黒。背はすらりと高く、男の自分とほとんど変わりない。声はぴんと張り詰めていて、さながら丁寧に調律された弦楽器のような上品さだった。この世のものとは思えない、まるで作り物のように整った顔。
文句の『も』の字も出ない、そんな美人の少女だった。
物語に関する感想、勝手に読んでしまった罪悪感、絶世の美女と相対してしまったという緊張から、声が出なくなってしまう。
何か、何か言わなければならない。
「あ、あのっ」
声が若干上ずってしまうが、気にせず声を発した。
「......勝手に読んで、すいませんでした」
今度はしっかり声を出し、謝罪を述べることに成功した。
何か言われると思っていたが、それは杞憂だった。
「構いませんよ。このままにしておいたのは私ですし」
この子が発する独特の雰囲気から、良い家に生まれたことが分かった。
彼女が再びその綺麗な唇を動かした。
「......そうですね......その代わり、感想を聞かせてください。その......私が書いた物語の」
ほんの少しだけ恥ずかしそうに俯きながら、彼女はそう言った。
*
自分は余すことなく、その物語の美点を彼女に伝えた。その類まれなる文章力、緻密な構成、あっと驚かされる展開......一文字一文字、全てを慈しむように伝えた。
話を聞いている彼女は微笑を絶やさなかった。
そして最後に、自分が抱いたあの『絶望』もしっかり伝えた。
彼女は笑顔を崩さなかった。
自分が最後に見た彼女の笑みは、『儚げ』だと感じた。
「......非常に興味深いお話でした」
彼女は本当に感心したように言った。
良い事ばかり言ったわけではなかったのだが、彼女は満足そうに頷いた。
「失礼ですが、おいくつでしょうか?」
「十四......です。中学二年です」
まだ少し緊張して、そっけない言い方になってしまったかもしれない。
そんなことは少しも気にする様子もなく、彼女は続けた。
「あら? じゃあ同い年ですね!」
彼女の長い黒髪の毛先がせわしなく動く。
彼女はにっこりと『明るく』笑った。
その笑みだけで分かる。この人はきっと、人生を楽しんでる、と。
そして正直、それだけで十分だった。
自分を惹きつけるには。
「......明日もここに......いらっしゃいますか?」
そう言った直後、彼女はあっ、と声を上げた。
「すいません、明日は月曜日でしたね......」
また彼女は、『儚げに』笑った。
*
あの後すぐに彼女は帰った。
次の日、自分の頭の中にはどす黒い負の感情などではなく、彼女の二つの笑顔で支配されていた。
ベッドから降り、顔を洗い、いつもより念入りに身支度を整えた。
祖母と祖父はもう既に畑へ出ていた。
原付に乗り、図書館へ向かう。
今日も彼女が居る確信はなかった。実際昨日、彼女は自分で「明日は月曜日」と言っていたし、それに彼女は自分と同じ中学二年だ。あの良くできた彼女が学校に行かず、図書館へやってくるなんて想像が付かなかった。
午前十時。
いつも駐めている駐輪場に原付を駐める。
彼女が居なくても、いつもの席で読書し、昼になったら原付でどこかへ走りに出たらいい。それで日が落ちかけたら帰ろう。そう思った。
館内へ向かう。いつものように冷気が自分の身体を包み込む。
蔵書の壁の間を縫い、いつもの席へ向かった。
案の定、そこは無人だった。
予想はしていた。あの子が学校をおろそかにするなんて考えられなかった。
しかしどこか、落胆している自分が居たことは確かだった。
有名作家の棚へ行き、二冊手に取って元の席へ戻る。
一日ぐらいなら学校へ行かなくてもいいだろう。自分に言い聞かせ、自らを文字の世界へ沈めていった。
*
時計の針が十一と六を指した頃だろうか。自分が彼女の気配で現実へ戻ってきたのは。
顔を上げると、向かいに原稿用紙を広げたまま自分を見ている彼女が座っていた。
彼女は自分と目が合うと、にっこりと『明るい』笑みを表した。
自分は気恥ずかしくなり、慌てて話し出した。
「えっと......うっす」
「はい。うっす、です」
また彼女は笑ってくれた。
「また、来てくれました......その、今日は学校......ですよね?」
彼女は少し困ったように自分を見た。
自分は努めて気にしてないように言った。
「いや......ああ、サボった」
下手な言い訳はしないことにした。
彼女の前では嘘は言いたくなかったし、それに自分は嘘が下手だった。
「......なんというか、その、だめですよ? ちゃんと学校行かないと」
「......そういうあんたはどうなんだ」
軽い説教に腹が立ったわけではない。ただ単純に気になって聞いただけだった。
すると彼女はとても、とても悲しそうな、今にも泣き出して壊れてしまいそうな表情をした。
すぐに自分は、しまった、と思った。
「......私は......私は学校には行ってません。小学校を卒業したっきりです」
何か、決して入ってはいけない彼女の領域に、足を踏み入れてしまった気がした。
何で、と聞きたかったが、彼女の『儚げな』笑みがそれを邪魔した。
自分は彼女が次の言葉を発する前に、謝った。
「いや、その......ごめん」
彼女は驚いたようにこちらを見たが、すぐさま元の微笑に戻った。
「いえ、あなたが気にすることではないですよ。こちらこそ、変な話をしてすいませんでした」
明るい話題に切り替えるように、彼女は言った。
「そうだ、お名前。お名前を聞いてなかったですよね?」
彼女は『明るい』笑顔をして言った。
「私、秋越 蛍です。あなたは?」
「......俺は......夏野 利来」
「じゃありくくん。改めて、ですね」
彼女は躊躇いもなく自分の下の名前を呼んだ。
ここで妥協してはいけない、と自分を奮い立たせ、勇気を出して彼女の名前を呼んだ。
「あきっ......ほ、ほたる......さん............よろしく」
静かに顔を赤くして視線を背けてしまったのは、言うまでもない。
*
それから自分は読書、彼女は時折「うーん」と可愛らしく唸りながら、原稿用紙と向かい合っていた。
その日の自分は全く読書に集中できなかった。
その後は目立った会話はなく、日の光が橙黄色になるまで二人での時間を過ごした。
午後五時。
彼女は、五時きっかりに図書館を出て行った。
彼女を見送った後、原付に乗り、家へ戻った。
祖父は自分が学校に行かなかったことに気づいていたようだが、何も言ってこなかった。
その日の夕飯は、ほんの少しだけ、いつもと違う味がした。
今日初めて、自分は学校をすっぽかした。
*
それからというもの、よく学校を休んでは図書館へ行くようになった。
学校には祖父がうまく言ってくれているようだった。
図書館へ行っても、自分は読書をし、彼女は原稿用紙にペンを走らせるだけで、特別何もしなかったが、その時の自分にはそれが生きがいに感じられた。
初めて出来た友達。自分にとってはそれ以上の存在だったが、それだけでもからっぽだった自分を満たすには十分だったのだ。
*
「......りくくんは、お酒とかって、飲んだりするんですか?」
回答次第で嫌悪されるかもしれない、ということはあまり考えなかった。
彼女には素の自分を見てもらいたかったからだ。
自分は正直に、自分を語った。
「飲むよ。たまに」
「たばことかは?」
「中一の秋ぐらいに一回吸って、すぐやめた」
「バイクに乗ってここまで来てますよね? 免許は?」
「取ってないよ。見つかったら大変だね」
「そうなんですか......不良さん、ですね」
*
読書の合間、執筆の合間に自分たちは会話した。
お互いの世界を邪魔しないように、気をつけていたのだ。
蛍さんに関する詳しい話は、自分からはあまり聞かないようにしていた。
「りくくんは、どんな方の小説を読むんですか?」
「井上靖とか......萩原朔太郎とか......太宰治とか......親の本棚の本読んでたから結構偏ってる」
「そうですか? 私は良いと思いますが......確かに現代の中学生が読むにはちょっと渋いかもしませんね」
「蛍さんは好きな作家、いる?」
「私ですか? そうですねぇ......特別好きな作家はいませんね。でも好きな本ならありますよ。志賀直哉さんの、『暗夜行路』です」
*
蛍さんはよく夏野利来という人間について知りたがった。
あまり珍しくも、面白くもない人間だが、それでも彼女は自分についてさまざまな事を尋ねてきた。
執筆している小説のネタにでもなるのだろうか。なんにせよ彼女が自分に興味を持っていてくれることは、素直に嬉しかった。
「りくくんは、誕生日はいつなんですか?」
「もう過ぎたよ。四月三十日」
「あら......過ぎちゃってましたか......」
「蛍さんはいつ?」
「私ですか? 私は............七月二十日です」
「二十日......それって、明後日じゃん」
「......はい、そうですね」
「...........お祝い、しないと」
「......え?」
*
自分は、いや、自分たちは、一つ一つ確実に『二人の時間』を積み重ねていった。
彼女の『笑顔』に一目惚れしてから、自分は大きく変わっていっていた。
どす黒い殺人衝動と、はっきりとした自殺願望は、薄れかけていた。
彼女と過ごした、この二週間のおかげで。
*
七月十九日。自分はやっぱり、いつも通り読書をし、蛍さんは原稿用紙に文字を連ねていた。
今日は館内には自分たち以外の客は来ていなかった。
彼女は誕生日プレゼントとして僕に途中まで出来上がった小説の感想を求めた。
自分としては何か形に残るプレゼントをしたいと考えていたのだが、まあ蛍さんが満足するのならそれでいいだろう、と思った。
今日は十一時を回っても図書館内には誰も入ってこなかった。
司書が遠く離れたカウンターでパソコンのキーボードを打つ音が微かに聞こえてくる。自分は棚から取ってきた文庫本を読み終わり、なんとなく手持ち無沙汰になっていた。
自分の中では、一つの本を読み終わると続けて次の本に移りたくない、という考えがあった。
いわゆる、その本の余韻を楽しみたいのだ。
自分はなんとなく向かいに座る蛍さんを見た。
夏の日光を白く反射するきめ細やかな肌。ほんのりと桃色がかった頬。やさしく結わえられた張りのある唇。どの顔のパーツも完璧で、そしてすべて完璧なパーツから完成する顔全体のバランスもまた、完璧だった。
文字通りモデル顔負けの姿だな、と自分は原稿用紙に流麗に文章を書いている蛍さんを見て、改めてそう思った。
そういえば、蛍さんはあんなに暗晦な文章を書くのに、なぜいつも口角を少し上げて機嫌良く文章を書くのだろう。
ふと、そんな疑問が頭の中に浮かんだ。
蛍さんのことはあまり自分から聞かずに、話してくれるのを待つことにしていたのだが、まあこれぐらいのことはいいだろう。
そう思って声をかけようとした矢先、原稿用紙から顔を上げた蛍さんと目が合ってしまった。
「あ、えっと......」
自分は照れ隠しに何か言おうとしたが、先に顔を赤く染めて俯いてしまったのは蛍さんだった。
「......あの、ご、ごめんなさい......その、り、りくくんはもう本を読み終わっちゃったんですか?」
若干声が上ずっていたが、ここは大人ぶって気づかないふりをした。
心の中で一呼吸置いて気持ちを整え、言った。
「ああ、さっき読み終わった。まだ読み終わった本の余韻があって次に手をつけられないんだ」
「ああ、分かります。しばらくその本について考えていたいですよね」
少し蛍さんが落ち着いてきたようなので、先程の疑問をぶつけてみる。
「ねえ、蛍さん。ちょっと気になったんだけど、なんで暗い......ええと、悲劇的なお話書いてるのに、いつもにこにこしてるの?」
蛍さんは思ってもみなかった事のようで、少し動揺していた。
「......ええっと......楽しそうに見えましたか?」
「うん」
自分ははっきり答えた。
すると蛍さんは恥ずかしそうに俯きながら話し始めた。
「そうですか......自分でも気づいてなかったです......ええ、書いてるときはすごく楽しいんです。現実のことを忘れられて、登場人物になりきって生きていく......そんな風にさえ思ってます」
自分はさっきの蛍さんの言い方に少し引っかかりを覚えた。『現実のことを忘れられて』という部分だ。
しかしやはり、自分から聞く気にはならなかった。
「悲しい話書いてるのに?」
「ええ......そうですね。悲しいお話です。でも......でもそれは、今だけなんです。つらいことを乗り越えたらきっと......きっといいことがあるんです。そうじゃないとなんだか......フェアじゃないじゃないですか」
話す彼女の声が少し震えていた気がする。
一呼吸置いて彼女は言った。
「私は、この悲しいお話を、救ってあげるんです。つらいことを乗り越えた主人公に、ハッピーエンドを繋げてあげるんです............だから私、笑ってたんだと思います」
そう言った彼女は、『明るく』笑った。
自分はそれ以上、聞かないことにした。それ以上聞くと、なんだか彼女が......遠くに行ってしまいそうで。
彼女が、壊れてしまいそうで。
なぜか、なんとなくそう思った。
それと同時に自分は確信した。彼女は自分に話していないことがある、と。
*
「............ふうっ、できました。できましたよ、りくくん............あれ、りくくーん?」
起きてください起きてください、という耳元の囁きと肩を揺すられる刺激で、目を覚ます。いつの間にか机に伏せって熟睡しまったようだ。
「ご、ごめん蛍さん。寝てた」
「もう......まあいいです、それより......途中までですけど、できました!」
嬉々として原稿用紙をこちらに掲げる蛍さん。笑顔がすごく可憐だと感じた。
ちらりと壁掛け時計を見ると、時間は二時過ぎ。この時間になっても館内には自分たちだけだった。
「今日見ていいの? 誕生日、明日だよね」
「いいんです。早く見て欲しいですから」
「......そっか」
そう言われると自分は蛍さんから原稿用紙を貰い、読み始めた。
「私、ちょっとトイレに行ってきますね......」
そう言って彼女は鞄ごとトイレに引っ込んでいった。なぜ鞄ごとなのか、と少し心配したが、五分ほどで戻ってきたのでそれは杞憂だった。
安堵するとすぐに脳内に文字が刷り込まれていった。
*
手渡された原稿用紙の半分ほどを読み終え、一息つこうとした時、唐突に蛍さんが話し出した。
「............りくくん、私今から、ひとりごとを言います。ひとりごとだから、無視して原稿を読んでくださって結構です......別に何も、反応しなくて結構ですから、しっかり私の書いたお話、読んでてください」
自分は当然、読むのを中断した。
だが蛍さんは何も反応しなくていい、と言った。自分はそれに従うことにしたので、原稿用紙に目を落としながら、蛍さんの話に耳を傾けた。
「............十二歳の誕生日、高校の国語教師の母からプレゼントを貰いました......志賀直哉の、『暗夜行路』です。私は小学生を卒業したっきり学校には行ってなかったので、初めはその本の内容が全く理解できませんでした。仕方ないのでまずは漢字と、文章の書き方から勉強をし始めました。思えば、そこが始まりだったと思います。
その頃私は......訳あって入院していたので、時間が有り余っていました。ほかにやることがないというのもあって、十三歳になるまでの一年間、私は猛勉強しました。常用漢字から普段見慣れない漢字、文章の構成やルール。もちろん読書もしました。
十三歳の誕生日を病室で迎えて数日後、私はようやく退院しました。その頃からですね、ここへ来てこのお話を書くようになったのは。その頃好きだった『文字を書く』というのが昇華して、『お話を書く』というのになったんだと思います............特別この話が書きたい、というのはありませんでした。ただなんとなく原稿用紙に頭に湧いて出るお話を書き連ねていくうちに、今のお話になったんです」
蛍さんは言葉を切る。
「......おそらく私は、焦っていたんだと思います。『生きているうちに、この世に何か残さなければ』って。遠からずやってくる『未来』に恐怖していたから......こんな物語を書き始めたんだと思います」
自分はそこでようやく、読んでもいなかった原稿用紙から顔を上げた。
話す声が震え始めていたからだ。
彼女を見る。
自然と、目が合う。
彼女は、『儚げな』笑顔をしていた。
自分をしっかり見たまま、震える声で彼女は言った。
「......私、病気に......罹っているんです」
自分は狼狽した。
ある程度のことは話の流れや蛍さんの態度から予想はしていたが、やはり直接真実を告げられると、動揺してしまう。
蛍さんは俯きながら、今にも泣き出してしまいそうな声で話し始めた。
「こんな......注射を定期的に打たないと、生きていけないんです。私」
そう言って蛍さんは、鞄から青いキャップの付いた注射器を取り出した。
自分はそれを見て、初めて会った時に原稿用紙の隣に置いてあった『青いキャップ』を思い出した。
鳥肌が、立った。
「この病気は、体の内部がダメになる病気で.........私、身体の内部の......いたるところが、生まれつき弱いんです..................だから」
自分は持っていた原稿用紙を置いた。
「普通の人と同じぐらいには、生きられないって......言われました」
「......そんな」
反応しないで、なんて言われていたが、そんなもの在って無いようなものだった。
もう彼女は、蛍さんは、泣きかけていた。
目に涙を溜めている彼女は、一呼吸置いて、言った。
「..................夏の蛍は、秋は越せないんです............嫌な、名前ですよね」
その一言で、自分の中での『何か』がかちり、と切り替わった気がした。
無意識に自分は席を立ち、泣きかけている蛍さんの横まで行き、
そっと、彼女を抱きしめた。
まるで、精巧に作られた脆い硝子細工を扱うように。
また、長く連れ添って居てくれたお気に入りの人形を慈しむように。
彼女をやさしく、抱きしめた。
「............どうしたんですか、りくくん?」
半ば泣き声で、彼女は言葉を発した。
その声で、今自分が何をしているのか、理解した。
ごめんっ、と言って離れようとしたが、先に彼女が自分の背中に腕を回した。
「......ありがとう......ございます......りくくん............ありがとう......」
彼女は、自分の胸に顔を埋め、頬ずりをした。
「............ごめんなさい、ずっと言えなくて......りくくんに言うのが、怖かったんです............一回言ってしまうと......この関係が、壊れてしまうと思ったんです......りくくんが離れていってしまうと、思ったんです......」
「......俺は、離れないよ。蛍さんから。だって......」
ここまでやってしまったからには、言うしかない。そう決心して、彼女に想いを伝えた。
「自分の一番好きな人が、こんなに泣きそうなんだから」
蛍さんの肩が、びく、と動いた。
「............ありがとうございます、りくくん」
自分の腕の中で顔を上げた蛍さんは、『明るい』笑顔をして、自分を見てくれた。
「......りくくんって、いいにおいがするんですね。落ち着く......」
「やめてよ、恥ずかしい」
「ふふ、ほんとです。りくくんの心臓の音が、私の頭にまで響いてきます」
顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。
「......私、身体の中でも......特に心臓が弱いんです。この病気でだめになるのならおそらく、心臓が一番早いかもしれない......らしいです」
彼女は自分の胸に耳を当てたまま、言った。
そしてついに、涙を流し始めた。
「......ごめんなっ......さい、こんなこと、いっちゃ......だめなの、わかってるん、ですが......それでも......ゆる......ゆるしてください、りくくん」
「............うん」
背中に回されていた腕に、力が入っているのが分かった。
彼女は泣きながら、最後の自分の思いを吐露した。
「......わたっ......わたしも............こんなしんぞう......ほしかったなぁ......」
外で鳴いている蝉の声が、中までけたたましく聞こえてきた。
彼女が泣き止むまで、自分は彼女を抱きしめ続けた。
*
七月二十日。十時半。
自分は今日も、図書館に来ていた。
昨日はあの後、蛍さんが泣き止むとすぐ、短い別れを交わして図書館を出た。
まだ蛍さんが書いた、言わば『書きかけの十五話』は、まだ最後の段落が少しだけ読めていなかった。
蛍さんから借りて家で読もうと思ったのだが、蛍さんは貸すのを嫌がった。蛍さん曰く『りくくんが私のお話を読んでるのを見るのが好き』だからだそうだ。
涼しい館内で蛍さんを待つ。
「......遅くないか......?」
いつもならもう二人向かい合って、いつもの時間を楽しんでいる頃だ。しかし、蛍さんは一向に姿を見せない。
あんな会話を昨日してしまったからか、強烈な不安感が襲ってくる。
「まさか......蛍さん......」
そう考えざるを得なかった。
*
十七時。日が暮れ始め、視界が山吹色がかる。
そんなはずはない、そんなはずはないと自分に言い聞かせながら図書館で待っていたが、とうとういつもの蛍さんとの解散の時刻になった。
蛍さんは、まだ来ない。
左足の貧乏ゆすりが忙しなく続く。
居ても立っても居られなくなった自分は、一ページも読めなかった文庫本を元の棚に戻し、館外へ出た。
日の光がまぶしい。
金色の陽光を辺り一面に落としている太陽が、寂しげに一日の終わりを告げようとしていた。
そういえば自分は、蛍さんがどこに住んでいるのか、どこから来ているのか全く知らないでいた。
「............このまま会えないなんて......」
嫌だ。
はっきりそう言える自分が居た。
少し前の自分とは大違いだ。きっと、蛍さんのおかげだろう。
自分はどうしようもない空虚な感じを抱えたまま、館内へ戻った。
元居た席へ戻ろうとすると、そこには四人組の女子高校生が占領していた。
思い思いに、本も読まずに携帯を片手に雑談をしている。
別に自分と蛍さんの専用席ではないのだが、それでも憤りを覚えずにはいられなかった。
半ば諦めて図書館を出て、ギリギリまで外で蛍さんを待つことにした。
*
「ほんと、りくくんはどれだけ私のことが好きなんですか」
呆れた、しかし喜びを隠し切れていない言葉。蛍さんの言葉を聞いた自分は心から安堵した。
十八時。もうすでに日は落ち、辺りは暗くなっていた。図書館も閉館となった。
もう会えないのかな、なんて考えながら帰ろうとしたそのとき、ようやく蛍さんは現れた。
「......朝からずっと待ってるぐらいには、好きだよ」
恥ずかしくて顔を逸らしながら言った。暗くて顔なんかよく見えないのだが。
「......ごめんなさい、りくくん。今日はちょっと............用事があったんです」
何か含みのある言い方をしたような気がした。
「いいよ別に。ちゃんと会えたし..................もう、会えないかと思った」
あんな話をした後だから、という言葉は、蛍さんが察してくれた。
「すいません、ほんと、タイミングが悪いですよね」
蛍さんが歩み寄ってくる。
「......ねえ、りくくん。りくくんがよければなんですが......今からどこかへ連れて行ってくれませんか?」
蛍さんらしくない、突飛な発案に驚く。
「......今から?」
「はい。今からです......だめですか?」
少し上目遣いになりながら、頼んでくる。
そういうのは反則だ。
「......いいけど。どこ行きたいの?」
「ええと、行きたい......というか、私......その......」
歯切れ悪く話す蛍さん。
意を決したように自分の目を見据え、言った。
「原付に、乗ってみたいんです。りくくんと、二人で」
*
目的もなく、原付を走らせる。
二人乗りはしたことなかったが、慣れればそう難しいことではなかった。
「どう、気持ちいい?」
後ろで自分の背中にしがみついている蛍さんに聞こえるよう、大きな声で話す。
負けじと蛍さんもいつもより大きな声で返答する。
「すごい、すごく気持ちいいです! 楽しいです!」
蛍さんはいつになく興奮した様子でそう言った。
無免許、二人乗り、ヘルメット無着用という違反だらけだが、自分も蛍さんも全く気にしていなかった。
「蛍さん、そろそろ休憩する? 疲れたでしょ」
「はいー! そろそろ手が疲れてきましたー」
「じゃ、その辺の川原に止めるよ」
「はいー!」
自分は河川敷に駐車し、原付を降りた。
二人並んで夜の川原に座る。
夏特有の夜の心地よさと夜風が実に気持ちいい。
近くで川のせせらぎ、魚が跳ねた水音が聞こえた。
「......蛍さんがそんなにはしゃいでるとこ、初めてみた」
「もう、からかわないでください」
「ははは、照れてる。可愛い」
「や、やめてくださいってば!」
手をぱたぱたと振り回す蛍さん。
だめだ、このまま抱きしめて押し倒してしまいたい。そんな衝動に駆られる。
「......りくくん?」
蛍さんの声で、我に返る。
今のはちょっと危なかった。
「え!? いや違うよ蛍さん!」
「な、なにが違うんですか?」
焦ってちぐはぐなことを言ってしまった。
なんとか取り繕うと話題を変える。
「い、いやなんでもなくて......あ、そうだ蛍さん、ここ、蛍が見られるんだよ」
唐突な話題変更で怪しまれると思ったが、すぐに蛍さんの気は逸れた。
「えっ、ほんとうですか? 見てみたいです!」
「毎年結構な数、見られるから。期待していいと思うよ」
「ほんとうですか? ............あっ!」
そうこう話しているうちに、黄緑色の光の欠片が、きらきらと、ふわふわと漂い始めた。
「すごい......綺麗......」
蛍さんは満足そうに、でもどこか悲しそうに、飛び交う蛍を見つめていた。
「ねえ、蛍さん」
さらに数が増えた蛍をじっと見つめていた蛍さんが、こちらを向く。
「はい? なんですかりくくん」
「蛍の光って、『儚い』のかな。それとも『明るい』のかな」
何気なく言った言葉なのだが、蛍さんは黙ってしまった。
なんとなく気まずいので、無理やり話を続ける。
「......俺は『明るい』と思う。たとえ短命でもあんなにきらきら光って......一日一日を大事に、そして活発に生きてる......そんな気がする」
蛍さんは目を飛び回る光に戻したまま、何も言わない。
「大げさなんだけど......輝いてる『蛍』を見てると、生きる元気をもらえるんだ。俺はちょっと前まで、死にたい......って、思ってたから余計に」
なんだか自分でも喋っているいる内容が分からなくなってきた。
しかし蛍さんは静かに聞いているので、自分が思っていることを続ける。
「俺はさ、父親が死んで、母親に見捨てられて、小学校で虐められて、中学校では友達が出来なくて............毎日毎日意味無く過ごしてきた。俺の生きる人生なんて意味無いと思ってた」
「でも、初めて......その、『蛍』を見て、思ったんだ。『人生、すごく楽しそうだな』って。だから俺は、『蛍』に憧れたんだ」
「激しく輝く『蛍』が羨ましいと思った。俺もその『明るい』光に触れてみたい、って思った」
「......だから俺は『蛍さん』が、好きになったんだ」
蛍さんがもう一度自分の方を見る。
「............ごめん、もう自分でなに言ってるかわかんなくなってきた」
「ふふ、ほんとですね......でも、その......嬉しい、です......」
ああ、やっぱり可愛い。
今の蛍さんは、どの蛍にも負けないぐらい、輝いて見えた。
「......りくくん」
妙に湿っぽい声で、蛍さんが近づいてくる。
「......どうしたの......うわっ」
蛍さんは自分との間合いを詰めると、一気に自分を押し倒した。
「ご、ごめんなさい......こういうときどうしたらいいかわからなくて......どうやって自分の気持ちを言葉で伝えたらいいかわからないんです......だから......」
蛍さんはまっすぐ自分を見下ろす。
「目を......瞑ってください。りくくん」
言われたとおりにする。
「......蛍さん?」
「りくくん......ごめんなさいっ......」
よくわからない何かに対する謝罪が聞こえたかと思うと、一気に自分の唇に、蛍さんの唇が重ねられた。
*
一体いつまでそうしていただろう。
五秒、いや十秒ほどだろうか。体感的には一分にも二分にも感じられたのだが。
蛍さんが勢いあまり過ぎて歯と歯がかちり、とぶつかってしまった。最中の息の仕方だとか手の置き場所だとかがわからない。
全部ひっくるめて『下手なキス』だったが、それでもいっぱいになるような幸福感が体を包み込んだ。
おそらく蛍さんも、同じだろう。
見つめ合う。
『下手なキス』を互いに自覚し、
「ふふっ」
「ははは」
互いに吹き出してしまった。
何物にも変えがたい幸福感。高揚感。
蛍さんの気持ちが、唇を通して直に伝わってきた。
ああ、蛍さんといるだけで、こんなに幸せになれるなんて。
「......これだけで、今日まで生きてきた価値があるよ」
「......大げさすぎですよ。もう」
照れたように言った蛍さんがまた、凶暴なまでに可愛かった。
「......りくくん......あの、その......またりくくんの......心臓の音、聞かせてもらっても......いいですか?」
自分はためらい無く答えた。
「俺のでよければ、いくらでも」
「......ありがとうございます」
蛍さんは自分の左胸に耳を当て、そのまま頭を自分に預けた。
「......私今、すっごく幸せです」
そう言った蛍さんは『明るく』笑っていた。
*
「そこの、ポストに寄ってください」
蛍さんの注文で、近くのポストへ駐車する。
蛍さんはポケットから封筒を出し、投函した。
「蛍さん、それ何?」
「これですか? これは......『おへんじ』です」
「『おへんじ』?」
「はい。とっても大切な人への」
よくわからないが、大事なものなんだろう。中身が気になったが、見せてくれとは言えないので、諦めることにする。
「............そんな顔しなくても、すぐにわかりますよ」
蛍さんが小声で何か呟いた気がしたのだが、気のせいだっただろうか。
「え? 何か言った? 蛍さん」
「いえ、なんでもないですよ。さ、時間もあまり無いので、早く帰りましょう」
*
「ここで大丈夫です。ありがとうございました」
跨っていた原付から降りた蛍さんは、ん~っと伸びをした。体のラインがすらりとしていて美しい。
「......蛍さん、疲れたでしょ」
「はい、結構......けど、すごく楽しかったです............りくくんと一緒だったから」
別れ間際になってまで、なんて嬉しいことを言ってくれるんだろう。
また抱きしめたくなるのをぐっと堪え、照れながらも言った。
「......俺も、蛍さんと一緒にドライブできて、楽しかった」
時間はちょうど二十時。
そろそろ帰らないと心配されてしまうだろう。
けど、それでも。
「......蛍さん」
愛しい人の名前を呼ぶ。やり残した、リベンジだ。
「......なんですか、りくくん」
振り向いてくれた蛍さんの手を取る。
「......りくくん?」
「蛍さん......」
蛍さんをまっすぐ見据える。
察してくれた蛍さんが、目を閉じてくれた。
先程のような突発的なキスではなく、落ち着いた、言うなれば、大人なキス。
それが、やり残したリベンジだ。
自分も目を閉じ、ゆっくり唇を近づける。
「......んっ」
そうして、蛍さんの唇を、自分の唇で塞いだ。
自分の小さな、しかし重要なリベンジは達成されたのだった。
*
約八秒間、キスした姿勢を維持していた。
どちらからともなく、離れる。
「......りくくん」
名前を呼ばれる。
「......蛍さん」
呼び返す。
「りくくん」
また、名前を呼ばれる。
「蛍さん」
また、呼び返す。
「りくくん」
「蛍さん」
「りくくん」
「蛍さん」
「......りく......く......ん」
「......蛍さん?」
自分の腕の中で突然、蛍さんは泣き始めてしまった。
「......どうしたの」
「......嬉しい......嬉しいんです......こんなに私のことを見てくれて......こんなに愛してくれて......」
「......蛍さん」
「......りくくん」
名前を、呼び合う。
「りくくん......」
「蛍さん......」
何度も。
「りくくん」
「蛍さん」
何度も。
「......きりないよ」
「......ふふ、そうですね」
何度か呼び合ったころには、蛍さんは泣き止んでいた。
もう、心がいっぱいになるのを感じた。
「りくくん」
最後にもう一度、呼び合う。
「蛍さん」
一番愛しい人の、名前を。
「......またね、りくくん」
「......また。蛍さん」
ようやく蛍さんは自分の腕から離れ、背を向けて帰り道を歩き始めた。
自分の体には、まだ確かに彼女の体温が残っていた。
夏休みに入る、一日前の事だった。
蛍さんの、明るい『いのちのひかり』を見ることができたのは、これが最後だった。
*
二日、三日経っても、蛍さんは図書館に姿を現すことはなかった。
風邪でも引いたのだろうか、そう気楽に思っていたが、四日目でついに自分はいてもたってもいられなくなり、原付を出して辺りを走り回った。
蛍さんの住所や電話番号を一切知らない自分は、どこかに蛍さんが居ないか、と走り回ることしかできなかった。
なぜだか心のどこかで、偶然蛍さんと会えるのではないか、と思っていた。「......ここに居たんだ」「......はい、こんにちはです、りくくん」そんな風に。
しかし陽が落ちるまで走り回っても、蛍さんを見つけることはできなかった。
*
その日の夕飯、ニュースを見た。三日前、十五歳の女子が夜遅くになっても家に戻らず、そのまま行方不明になっている、というものだった。
いつもならそんなニュースなど他人事だ、と言って気にも留めないが、今日のはやけに目に付いた。
しかしまさかこれが蛍さんのことではあるまい、と思い、夕飯を素早く胃へ流し込み、風呂へ入ったあと、すぐに布団へ入った。
明日も朝から図書館へ行って蛍さんを待とう、そう決めると同時に瞼が落ちてきた。
*
そう、その姿はまるで蛍さんが成長した姿みたいだと、図書館の自分たちのいつもの席に先に腰掛けていた女性を見て、思った。
次の日の十時ごろ、自分はまた、図書館へ来ていた。
「............あなたが、夏野くん?」
少し気迫に欠けるその女性は、いつもの席に来た自分を見て、そう言った。
この時点で自分はもう、気づいてしまったのだ。
「......俺......僕が、夏野です......」
「......よかった、蛍の言うとおりね」
蛍、その女性から蛍さんの名前が出るということは、予想通り蛍さんの母親だ。
「私は、ここへ通っていた......秋越 蛍の母親です。あなたが、夏野......夏野利来くん、ね?」」
「......はい」
「うちの子、蛍が『夏野利来くんがここへ来るから、ちゃんとお話してあげて』って言ったの............少し、お話しても、いいかしら?」
「......はい」
もう、ここまでくれば、何も言わなくてもわかる。
蛍さんの母親は、少しやつれ気味に見えたが、それでも張りのある声で自分に話を聞かせてくれた。
ただ、自分の中には何一つ内容が入ってこなかった。
聞きたくなかったわけではない。聞く気が無かったわけでもない。
自分の目の前に横たわる恐怖と絶望の塊が、彼女の言葉を遮ったのだ。
ゆっくりと流れていく時間。
自分は床の黒い染みをじっと見つめたまま、動けないでいた。
彼女の話が終わると自分は、話してくださってありがとうございました、という意味の謝罪を一言言って、借りていた文庫本を返却棚へ放り込み、足早にそこを去った。
自分は一切、涙を流すことは無かった。
その日の夕飯、ニュースを見た。昨日のニュースでやっていた行方不明事件は解決していた。いや、解決とは呼べない結果だった。
十五歳の少女は、地元の河川敷で心肺停止の状態で発見された。地元の方の通報で緊急搬送されたが、もう手遅れの状態だったそうだ。身体に傷や打撲痕、骨折などは無く、死因は病死だったそうだ。
自分はそのニュースを一通り見終わった後、祖母の作ってくれた夕飯を一切手につけず、自室へ戻った。
腹の虫が空腹を訴えていたが、それを無視してベッドへ倒れこんだ。
そうしているといつの間にか意識を失っていた。
*
夢を見た。蛍が多く飛び交っている川での夢だった。
自分と蛍さんはそれを並んで眺めていた。
蛍さんが言う。「きれいだね」
自分が言う。「そうかも」
蛍さんが言う。「蛍を見たら、夏だ、って感じがするよね」
自分が言う。「そうかも」
蛍さんが言う。「あんなに綺麗なのに、どうして蛍って長生きしてくれないんだろうね」
自分は何も言わなかった。
蛍さんも何も言わなかった。
自分は何も言えなかった。
蛍さんも何も言えなかった。
ただ二人で、ぼうっと蛍を眺めていた。
自分が言った。「どうして長生きしてくれないんだよ」
蛍さんは何も言わなかった。
自分が言った。「どうしてもっとお話を書いてくれないんだよ」
蛍さんは何も言わなかった。
自分が言った。「どうして先にいなくなっちゃうんだよ」
蛍さんは何も言わなかった。
自分が言った。「......どうして今もそうやって、笑ってるんだよ......」
蛍さんは何も言なかった。
自分もそれっきり、何も言えなくなってしまった。
蛍さんは笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
生きながら、泣いていた。
泣きながら、自分を見ていた。
自分は泣いている蛍さんに手を伸ばそうとした。
しかし自分の腕は、空しく空を切った。
蛍さんは、もうそこには居なかった。
次第に世界が霞んでゆく。蛍の光の線と線がぶれてゆく。川と地面の境がわからなくなっていく。光と闇が溶けて混ざり合っていく。
ああ、終わる。蛍さんが遠くへ行ってしまう。
そう思うと自分は、とても怖くなった。
もう何もかも区別がつかなくなった世界に、声が響いた。
「また、夏の初めに会おうね」
その声を聞いた瞬間、自分は目を覚ました。
目から大量の涙をこぼしていた。
体が一切動かない。
体の力と同時に、生きる目的まで失ってしまった。
母親に見捨てられた、あの時みたいに。
殺したかった。
もしくは死にたかった。
殺すなら、蛍さんを見捨てたこの世界を真っ先に殺したい。
死ぬなら、ヘリウムガスを大量に吸い込んで、楽に死にたい。
その時の自分は、そんなことを考えながら生きていた。
「......夏野くん、落ち着いて......落ち着いて聞いてちょうだい..................私の娘、秋越 蛍は............」
「............昨日搬送された病院で......静かに息を引き取ったわ......」
*
八月三十一日。自分は夏休みを、すべて無意味に過ごした。
朝起き、顔も洗わず、ご飯も口に入れず、ただベッドの上でぼーっとするだけの毎日。
夕飯のときだけ部屋から出て、喉の奥に無理やり夕飯を詰め込み、またベッドの上でぼーっとする。
無為で、怠惰で、無価値な夏休みを送った。
何もする気が起きなかった。
唯一好きだった読書も、この夏休みは全くと言っていいほどしていない。
何もかも、失われてしまった。
蛍さんの小説を初めて読んだときに感じたあの『絶望』と同じだった。
何もできない、何も変えられない、何も成し得ない、この先何も生まれない。
恐怖と絶望の塊が、前よりも広く、大きく、濃く、自分を包み込んでいた。
もう何もしたくない。
それしか考えられなかった。
*
自分の黒い塊に、小さな明かりが灯り始めたのは、昼過ぎだった。
このまま学校にも行かない気でいた自分のところに、小さな小さな光が灯ったのだ。
「......利来ちゃーん、郵便よー。あなた宛のー。居間の机へ置いておくわねー」
一階から祖母の声が聞こえた。
自分宛へ郵便を出す奴なんて居るのか、そう思いつつトイレへ降りるついでにその郵便を取った。
部屋に戻って確認する。差出人は――――。
「............秋越 蛍......」
配達指定便、八月三十一日。
差出人、秋越 蛍。
「......これ......は......」
蛍さんが、自分宛に送ってくれた、郵便。
その事実だけで、頭の中が蛍さんで埋め尽くされる。
封を切る。
中には数枚の手紙と、原稿用紙が入っていた。
手が震える。視界が涙で霞む。
それでも深呼吸して、気持ちをできるだけ整えてから、手紙を読み始めた。
震える手で手紙を持ち、ゆっくりゆっくり読んでいく。
途中から自分は、涙を抑えることが出来なかった。
読み終えた僕は、ようやく、声を出して泣くことが出来た。
今はもう居なくなってしまった、蛍さんのために。
*
愛したかった。
もしくは生きたかった。
愛すなら、先の長くない自分を最後まで愛してくれたお母さんを真っ先に愛したい。
生きるなら、りくくんの想いを大量に体に浴びて、楽しく生きたい。
当時の私は、そんなことを考えながら生きていました。
先に謝らせてください。りくくん、嘘をついてごめんなさい。
私の寿命は、もうこれっぽっちしか残っていませんでした。
本当に言いたいことの前に、私の病気について、から書き始めます。
十四歳も終わりかけになってきた頃、お医者さんに言われました。心臓の動きがとても微弱になってきているって。もう何ヶ月も生きられないって。
延命治療ができたそうですが、私は悩んでいました。友達も居らず、生きる意味もわからず、嫌いなお母さんに面倒を見られながら余生を過ごすのは、本当に私がしたいことなのかな、って。
それなら短い余生で何か、何か成せたら、と思ったんです。
ほら、人は追い詰められたら実力以上のものが出るそうじゃないですか。それです(笑)
結局私は、延命治療を受けませんでした。
私がいつからか、自分でお話を書くようになったのは、前にお話しましたよね? 私にはそれが当時の生きがいみたいになってましたから、私が何かを残すにはそれしかない、って思いました。
それから私は、今まで以上に熱心に、真剣に、誠実に、お話を書いていきました。
そこで......りくくん、あなたの登場です(笑)
私はいつものように図書館のあの席でお話を書いていました。
途中でお薬を打たなければいけない時間になったので、お手洗いへ行ってお薬を打ちました。そして帰ってくると......私の作ったお話を、とてもわくわくした、期待に満ち溢れた表情で読んでくれている人が居ました。
その人は、時に興味深そうに、時に悲しそうに、時に憎らしそうに、表情や雰囲気を変えて私の物語を読んでくれていました。
私はそれを見て、『ああ、なんて心が豊かで、素敵な人なんだろう』って思いました。
それだけです。
それだけだったんです。
私がりくくんの事を好きになった理由は。
......なんだか恥ずかしいですね、こういうこと書くのは(笑)
でも、しっかり勇気を出して、お手紙を書き上げますね(笑)
さて。
そこから私は、人を愛する、ということを覚えました。
私が十数年間、出来なかった事です。
その日、家に帰ったら、まずお母さんに挨拶をしました。『ただいま』って。
それが私の初めての『ただいま』でした。
私の家は母子家庭で、家族はお母さん一人だけです。
お母さんはいつも夜遅くに家に帰ってきて、帰ってきたら帰ってきたで私にせわしなく気を使います。私は今までそれがうざったくて仕方ありませんでした。でも、気づけたんです。りくくんに恋をして、愛情を知って。お母さんの世話焼きも、私への精一杯の愛情なんだ、って。
お母さんと一緒にいろいろお話をしました。一緒にご飯を食べました。どれもこれもなんで今までやってこなかったんだろうっていうぐらい満ち足りていました。
すべて、りくくんのおかげでした。りくくんが私の物語を読んでくれなければ、今の私は無かったと思います。大げさでもなんでもないですよ? 本当にそう思ってます。
だからそのりくくんに、『好き』って言ってもらえて、本当にうれしかったです。
大好きな人と両想いになれるなんて、本当に嬉しいことで、幸せなことなんだなぁ、って思いました。
仮にもお話を書いている人なのに、捻った表現とかうまい言い回しができないのが残念です(笑)
思ったことをそのまま順々に書いてるので、ちょっと読みづらいかも? でも私にはもう文面を推敲する時間がありません。この後すぐに、図書館でずっと待っているであろうりくくんと会わなければならないからです。待っていてくれてるかな、りくくん。
言っておかなければならない事を、後に回していたのを今思い出しました。
りくくんに、とっても大事なことをお願いしたいんです。
私の物語を、終わらせてください。
私のペンを持つ手は、もうすぐ動かなくなります。
私の物語を一生懸命考えてくれていた脳みそは、もうすぐ動かなくなります。
私のいのちを精一杯支えてくれた心臓は、もうすぐ動かなくなります。
でも、私が書いてきた物語の主人公たちまで動かなくなるのは、絶対に嫌なんです。
何かを残したいとか、人に評価してもらいたいとかじゃなく、私の物語書きとしての、小さなプライドです。
どうか、これだけはお願いします、りくくん。
りくくんの、ペンが持てるその手で。
りくくんの、物語を考え出せるその脳みそで。
りくくんの、いのちのひかりを灯し続けてくれているその心臓で。
私の物語を、終わらせてください。
もう手持ちの手紙の原稿が少なくなってきました。とうとうお別れみたいです。
私が書いてきた、いわば『書きかけの十五話』は、この手紙と一緒に郵便で届けますね。
どうか、どうか、よろしくお願いします。
最後は、私の気持ちを、ずらりと書き並べておきます。見るに堪えない文章になるかもしれません。見たくなければ見ないで......なんて謙虚なことは言いませんよ?(笑)私の想いすべて、受け取ってください。受け取った後は、棚にしまうなり、部屋に飾るなり、好きにしてくださって結構ですから。少し寂しいですが、置いたところを忘れたり、廃棄しても......構わないですよ? 化けて出るかもしれないですが(笑)
やっぱり私、死ぬのは怖いです。
私にいっぱい夢を与えてくれた文字の世界に出会えたから。
いつまでもやさしくしてくれたお母さんに出会えたから。
私を深く、深く、強く、強く、愛してくれるりくくんに出会えたから。
こんなきらきら輝いてる宝物を、もう眺められなくなるなんて、嫌です。
死にたくない。
死にたくないです。
嫌です。
りくくんと離れたくない。
ずっとずっといっしょにいたい。
死にたくない。死にたくない。
もっと生きていたい。もっとお話を書きたい。もっとお母さんに愛情をお返ししてあげたい。
もっとりくくんを愛し返してあげたい。
死にたくない。
死にたくないです。
でももう、お別れの時間はそこまで来てしまいました。
最後にもう一度、りくくんに会いたいです。
どうか、遅くなっても、図書館でずっと待っていてください。
どうか、私を、強く抱きしめてください。
どうか、泣いてしまうであろう私を、放さないでください。
どうか、居なくなってしまう私を、忘れないでください。
思ったことを殴り書きで書いたら、少しすっきりしたような感じがします。
あら、もうこんな時間。
もうここを出ないと本当に間に合わなくなってしまいます。
では、また会うときがあれば。
また、夏の初めに会おうね。
最後に、あの日のりくくんにお返事をしないといけないことを思い出しました。
ほんと、最後の最後になってしまったけれど、
りくくん。
私も。
だいすきだよ。
秋越 蛍
*
もうあれから、何年も経った。
いや、何年も、と言うには、少し早いかもしれない。
それは、高校三年生の冬だった。
「あ、あのっ! 夏野くん......」
下校途中、一応顔と名前は知っている、ぐらいのクラスメイト、冬木 陽花と言う女生徒が話しかけてくる。
「......なに?」
彼女は、自分が見る限り、だが、気弱で自己主張の少ない、クラスに一人は居るだろう大人しめの女生徒だ。
身長は小さめ、百四十から五十の辺りだろう。容姿はなかなか整っており、男子生徒からの評判が高そうだ。詳しくは知らないが。
休み時間はいつも本を読んでいるか、連れと話している。非生産的な過ごし方だ。
その連れは、我が強そうな春日野 友佳という。
その春日野のほうは、校舎の影でこちらの成り行きをこそこそと見守っているのが見える。恐らく、この冬木のことを応援しているのだろう。
こうやって言い寄ってくる女子は、大体告白だ。
「夏野くん......あのね、私――――」
やはり、予想通りだ。
「ごめん、俺好きな人居るから」
すぐさまきっぱりと、言ってやった。
「......えーっ!?」
叫んだのは校舎の影に隠れていたほうだった。
お前が叫ぶのか。と思いつつ、冬木の様子を伺う。
「......」
まるで電池が切れたブリキのロボットのように動かなくなった冬木。
自分は、冬木が息をしていることをさっと確認すると、「じゃ」といって家路についた。
後ろで「......はるちゃぁ~ん」「ああかわいそうに......よしよし」という会話が聞こえてきたが、無視を決め込んだ。
*
あの後......蛍さんからの手紙を読んだ後、自分は勉強に勉強を重ねた。
蛍さんが書いた、『書きかけの十五話』を完成させるために。
中学二年の秋から、死に物狂いで勉強をした。出来るだけいい高校へ進学するためだ。
学校の勉強とともに文章を書く練習もした。これがなかなかやっかいで、どうしてもうまくなった気がしないでいた。蛍さんのような文章が書けるようになるにはどうすればいいか、悩みに悩み、練習を重ねた。できるだけ多く読書もした。
自分は最初、ジャンルで言うとホラー小説風に蛍さんの物語を書き上げた。
そして自分は、初めて書き上げた文章で舞い上がったのか、ある文学賞へ蛍さんと自分の作品を応募した。
結果は惨敗だった。有名作家と編集者から丁寧に評価されるシステムの文学賞で、「前半部分と後半部分が噛み合ってない」「これは合作なんでしょうか? 前半はすばらしい出来栄えですが後半がそれを打ち消してしまっています」という酷評を受けた。
思い上がりで応募したものの、目の覚めるいい機会にはなったと、今では思う。
それから自分は学校の勉強もしっかり行いつつ、物語を書く練習も今まで以上に取り組んだ。
中学二年のあの夏、蛍さんとの約束を果たすために、日々努力を重ねていた。
*
とは言ったものの、あれから自分が書いた文章だけを丸めてゴミ箱へ捨てただけで、それから一行も書けないままでいた。
数年前からほとんど毎日通っているあの寂れた図書館のいつもの席で、今日も蛍さんが書いた原稿用紙のコピーとにらめっこをしていた。
「......くそ、今日も書けない」
蛍さんの書いた文章を見て、つくづく思う。自分が書いた文章は蛍さんより何枚も劣る。
『合作か?』なんて言われてしまうほどに。
机に突っ伏す。
何も見えてこない。
だが代わりにある人が視界に入った。
冬木だ。
向こうもこちらを認めると、とことこと近寄ってくる。
「な、夏野くんっ。偶然だね、ここに居たんだ」
何も思い浮かばないので、少し相手をしてやる。
「......ああ。冬木......だっけか、連れは」
「はるちゃんのこと? 帰り道は別々だから今は居ないよ」
「そうか............お前もここ、来るんだな」
「う、うん、最近友達に教えてもらったんだ......ここから家も近いしちょうどいいかなって」
それはまずい。
「......お前、この辺不良が多いぞ。よくこの辺で溜まってる。あんまり来るのはやめとけ」
ありもしない嘘を言って、冬木をこの図書館に近寄らせないように試みる。
「え、ええっ、ほんと? それは困ったなぁ............あ、でも、大丈夫だよ」
「なんで」
「だ、だって......夏野くんが、居るし......」
意味がわからない。理由になってないだろう、それは。
「......どういうことだよ」
「え......だって夏野くん、私が不良さんに絡まれてたら、きっと助けてくれるでしょう? ......だって夏野くん、やさしいんだもん」
まったく関わりの無い奴をどうしてそこまで信用できるのか。
「......買いかぶりすぎだ......そもそも......俺なんかのどこが良いんだ」
「え? 夏野くん、女子の中じゃ結構レベル高いほうだよ? クールな秀才、って」
唖然とした。まさかそんな下らないカーストの上位に自分が居るなんて。
「......お前もその口か」
「............夏野くんがクールな秀才だから、私が言い寄ってる......ってこと?」
「......ああ」
「ちっ、違うよ! 私はそんな理由じゃない!」
あの大人しい冬木が突然、声を張り上げた。
「私が夏野くんを好きな理由は......」
恥ずかしいことを言おうとしているのに気がついた冬木は、ぼっ、と音が立ちそうなくらい勢いよく顔を高潮させた。
「わ、わわわ......」
自分は目線で、いいから言え、と言った。
「え、えっと......こほん。わ、私が夏野くんを好きな理由は......」
声が若干上ずっていたが、指摘しないでおく。
「夏野くんが......結構前の自習のとき、本を読んでたでしょ、その姿が......なんて言うか......好きだったの」
一瞬、懐かしい顔が頭をよぎった。鳥肌が立つ。
すぐにその顔を意識の外へ追いやった。気を抜くとあの頃を思い出して涙腺が緩み、冬木の前でみっともないところを見せてしまうことになる。
「......夏野くん?」
はっと我に返り、話を続ける。
「あ、ああ......そうか、冬木も本を読むんだな」
「うん、小さいときから結構読んでるんだよ。夏野くんは、好きな本とか、ある?」
好きな本。好きな物語ならあるが......。
「......特別好きな本は無いかもしれない。冬木は」
「私? 私は......そうだなぁ......最近読んでたのは恩田陸先生の本とかだけど......」
「......好きなのか?」
本の話になると無意識に熱くなってしまうのは、読書好きの性なのかも知れない。
「ええと......一番好きなのはね......志賀直哉先生の、『暗夜行路』かな」
ああ。
ああ、くそっ。
なんで、そんなに。
今度はどうやら自分は、思い出し涙を抑えることが出来なかったようだ。
「......え? ちょ、ちょっと夏野くん!? どうしたの!?」
突然泣き始めたのだ、慌てるのも無理は無いだろう。
「......す......すまない......すこし............ほうっておいて......くれ......」
「む、無理だよ夏野くん。どうしたの? 何か私、いけないこと言った?」
冬木は悪くない。
悪いのは......何年も経った今でも、しっかり折り合いをつけられていない自分だ。
「......昔を、思い出して......冬木、お前が......」
死んだ彼女に、似ているからだ。
*
自分がが泣き止むまで、冬木はそばに居てくれた。
自分はどうやら、無意識に冬木に心を許してしまったみたいで、自分が中学二年の夏に体験したことをすべて、伝えてしまった。
それを聞いた冬木は、黙って何かを考えている様子だった。
「......それで、俺は今、こうして何も思い浮かべられないまま、ここで蛍さんの原稿用紙と白紙の原稿用紙をじっと見つめているわけだ」
「......そっか、そうだったんだ」
心なしか冬木の今までの元気が萎んでしまっていた。
沈黙が、続く。
それは打破したのは、冬木だった。
「............ねえ、夏野くん。私はさ、夏野くんが書きたい文章と、秋越さんが書きたかった文章を、合わせてみたらいいと思うんだ」
それを聞いた自分は、冷や水を頭にかけられたような感覚に陥った。
「......違ってたらごめんね? たぶん夏野くんは、今までの体験を『トラウマ』として置いてきちゃったんじゃないかな。だから思い出して泣くし、つらいんだと思う............ちゃんと、居なくなったとしても向き合わなきゃ。秋越さんと」
「......そうかも、しれない」
「......秋越さんは、このお話をこうしたい、とか言ってなかった?」
ああ、しっかりと思い出せる。
数年前のあの日、ここと同じ場所で、蛍さんが言った言葉。
「............この悲しい物語を、ハッピーエンドに繋げたい、って......」
「......そっか、じゃあ、そうすればいいんじゃないかな。だって秋越さんがしたいことが、夏野くんのしたいことでしょ?」
そういった彼女は、にっこりと、『明るい』笑顔をしていた。
いつか見た彼女と、同じ笑顔だと感じた。
*
「......今日はありがとう冬木。本当に」
「ううん、力になれてよかった」
図書館が閉館時刻になったので、自分たちは図書館を出た。
「う~っ、やっぱり外は寒いねぇ~」
「......そうだな」
「............ねえ、夏野くん」
「......なんだ」
「そのお話、書きあがったら読ませてね」
それぐらいなら。
「......ああ、わかった」
「うん、やくそく」
彼女は『明るい』笑みをした。
「......やっぱ、お前の笑顔も、蛍さんに似てるよ......」
自分は冬木に聞かれないよう、ぼそっと呟いた。
「..................ねえ、夏野くん」
「なんだよ、また」
「あのね......」
寒空の下、彼女の頬がほんのり赤くなっていたのは、夕日のせいではないだろう。
「......その物語、書き上げたらまた、賞に応募するよね?」
「ああ」
「その......賞に......落ちたらでいいの。落ちたら......私と............付き合ってください」
彼女の消極的な告白。
もっとましな告白の仕方は無かったのか、と突っ込みを入れたくなるほどだ。
だがそれを、『冬木らしいな』と肯定的に感じ取る自分がいたのは、事実だ。
「......考えとく」
「............うん!」
そう返事をした冬木は三度、『明るい』笑顔をしてくれた。
「あ、それまで私、夏野くんの原稿、手伝うからね!」
「は? 冗談きついぞ」
「......じゃないと私、毎日この図書館来ちゃうよー? 不良さんが出るんでしょ? ここ。私が襲われちゃってもいいの?」
彼女には似合わない、意地悪な笑みを浮かべる冬木。
「............くっそ、好きにしてくれ......」
「んふふー、ありがと!」
下手な嘘なんか、つくんじゃなかった。
*
墓参りに来ていた。
梅雨が開け、さっぱりとした夏が始まりだした。
石段を登り、目的の人物の墓へ着く。
「んしょ、んしょ、おーもーいー」
「あんま無理すんなよ、ほら、貸せ」
彼女の持っていたバケツを受け取り、墓の前へ置く。
「ふー、つかれたー」
「おう、お疲れ」
秋越 蛍。
墓石にはそう、刻まれていた。
周りを二人で一通り掃除し、花を変え、線香を焚く。
「あっついねー、溶けちゃいそう」
小さな体でがんばる彼女は、きっと自分より疲れるだろう。帰りに冷たいジュースでも買ってやろう、そう思った。
「......さ、一通り済んだし、拝んで、墓参り終えるかー」
二人で並んで、蛍さんの前に手を合わせる。
結局、蛍さんと自分が書いたお話が、賞を受賞することは無かった。
蛍さんが望んだとおり、最後はこっちまで嬉しくなるようなハッピーエンドに仕立て上げた。
自分でも感嘆するぐらいの出来だったが、それでもダメだった。
ちなみに自分の横で手を合わせている彼女は、読み終わった後、号泣していた。
だが自分は満足している。自分の、そしてきっと、蛍さんも満足できるような形で、彼女の物語を終わらせることが出来た。そんな風に思う。
合わせた手を解き、目を開け、頭上に横たわる晴天を見上げる。
いつの間にか、自分の周りを漂い、自分を縛り上げていた恐怖と絶望の塊は、どこかへ霧散していた。
それもこれも、横でまだ手を合わせている小さい彼女のおかげなのかもしれない。
彼女が目を開ける。
とても満足そうな微笑を携えて。
「......さあ、今日は楽しもう。行くぞ、陽花」
「うん! 利来くん!」
蛍さんと自分の、いわば『書きかけの十五話』は、賞こそ逃したものの、めざとい編集者の目に留まり、近々、ハードカバーで本が出版されるそうだ。
『秋越 蛍』というペンネームで。
拙文をお読み下さり、ありがとうございました。皆様の心に残るような作品が書けたのならば幸いです。
ご感想など、よろしければ気軽によろしくお願いいたします。
本当にありがとうございました。