まだ未熟な彼について
それは、僕の間抜けな失敗から始まった。
「…………」
独特の匂いが鼻腔を満たす。不本意にもこの感覚に慣れてしまった自分に顔をしかめながら、ぼくは美術室に入ってすぐ横の机の上にリュックを置いた。肩にさげていた黒いバッグも開いて、中から一眼レフを取り出す。もちろん借り物だ。
「や、三日ぶり。いいやつ撮ってきてくれた?」
女にしては少し低めの、楽しそうな声が薄い仕切り板の向こうから聞こえた。
「分かんない。……お前、気難しいから」
ぱたぱた、と軽やかな足音が聞こえる。薄汚れた白い板の向こうから、艶のある黒髪をすっぱりと肩の辺りで切ったすらりと背の高い少女が姿を現した。相変わらず、得体の知れないほのかな笑みを浮かべていた。
シュンドウ、アキヒサ。
これがこの女の名前だ。彼女は本校始まって以来の絵の天才ならしく(調子の良い校長談)、小学校辺りから数々の賞に入っているのだそうだ。
そんな訳で集会の表彰伝達などでこの名前は何度か呼ばれていたのだが、何かしらの賞に入ったたくさんの生徒が表彰される中、わざわざ壇上を見続けようとも思わない。彼女の姿を見ていなかった僕は、最初この名前の持ち主は男だと思っていた。実質、僕の友人もそう思っていたというから、しょうがないと思う。漢字表記は、春藤瑛久、だそうだ。やはり男の名前だと思ってしまう。
春藤は猫のようなつり目で俺の手元の一眼レフを覗き込むと、「あーあ」と不満を通り越して呆れた声を上げた。
「こんなの、あたし以外でも良くないっていうよ。これなんかぶれちゃってるじゃん。もはや誰なのか分かんないじゃん」
ひどい言われようだ。いくら何でも、これが誰なのかくらいはわかると思う。
「だいいち、春藤の要求自体が無茶過ぎるんだよ。この人、先輩だぞ? しかも三年の! そんな厚かましくパシャパシャ撮れる訳ないだろ」
「あんた写真部でしょ! 厚かましくなきゃいい画なんて撮れるわけないじゃない」
いつもこの部室には誰もいないことが多いのだが、今日は一人いた。というか、俺の幼なじみだった。彼女がちらちらとこちらを見ていることに気づいて、僕は口をつぐんだ。
僕は春藤や彼らとは違い、美術部員ではない。写真部と化学探求部を兼部している、本来ならこの部室とはなんの関係もない人間だ。訳あって、この女に頼まれてある人の写真を撮る羽目になっている。
『ねえ、笹野君って写真部だよね? 体育祭で腕章つけて写真撮ってるのを見たもの』
ある日、僕は美術室に筆箱を忘れた。放課後慌てて取りに帰ったとき、この女に捕まった。
『今度描く絵の資料にね、チヒロ先輩を撮ってきて欲しいの。知ってるよね?』
知っているもなにも、千尋先輩は俺の部活の先輩である。春藤は僕と同じ一年で、なぜ彼を知っているのかと尋ねると「雰囲気があるから」とだけ返された。
どんな雰囲気だよ、と眉を寄せながらも、僕はおずおずと否定的な言葉を口にした。
『正直、難しいと思うんだけど……。だって三年の先輩だし、立場も全然違うし』
『平気だって。かわいい後輩のためだもの、きっと協力してくれるよ。見たところ、あの人って割と気にしなさそうじゃない、色んなことを』
何が、平気だって、だ。春藤に握られたとある弱みがネックで思わず頷いてしまったことを、今は強く後悔していた。
この女、僕が気まずさに耐えて必死で撮ってきた写真をことごとく酷評するのだ。確かに、春藤が言った通り先輩は僕の頼みを難なく受け入れてくれたけれども、それでも、シャッターを押せる場面には限界というものがある。撮れる写真はどうやっても無難な、無表情のものが多くて、春藤は首を横に振り続けた。つまり、「もっといいのが撮れるまで取り続けろ」というわけだ。
「あんた、写真部に入ってもう半年でしょ? そろそろいい写真を撮るノウハウくらい覚えててもいいんじゃないの」
呆れた様子の春堂の言葉が胸に突き刺さる。確かに、同学年の部員たちが何かしらのコンクールで賞を貰う中、僕だけがいつまで経っても何も起こらないままだった。このままでは駄目だと分かってはいるけれど、どうにもいい画を撮ることが出来ない。というか、イメージが浮かばないのだ。この画だったら人を感動させることが出来るんじゃないかとか、そういうものが。
「……文句があるなら、違うやつに頼めばいいだろ」
「うん、それも考えたんだけどね? やっぱり、笹野くんが一番頼みやすいかと思って」
そう言いながら、彼女は制服のポケットから二枚の小さなメモを取り出した。僕はひやりとして、彼女の手を掴んだ。これを春藤が持っているところを、あいつ――幼なじみの生島には、見られてはいけない。
何故ならこれは、生島から僕にあてた、その、ラブレター……、だからだ。
渡されたのは一週間前。僕が家に帰るところを生島に呼び止められ、半ば無理矢理にこれを握らされたのだ。小さな紙に細やかに綴られていた文字たちは、生島はずっと僕のことが好きだったということと、返事はいつでもいいということ、を僕に伝えた。
その日の夜はずっと友だちだと思っていたやつが僕を好きだったという事実が信じられず、散々読み返した挙句筆箱にしまった。思えば、そこがまず最初の失敗だったのだ。
次の日、昨日の衝撃が抜けきらないまま登校した僕は、六限の美術で筆箱を美術室に忘れた。取りに戻ったこの時、僕は最大のミスを犯す。
筆箱を、どういう訳か取り落としたのだ。缶ペンケースといわれる類だったそれは床と触れ合った途端、ヒステリックな音と共に中身をそこらじゅうに勢いよく撒き散らした。
あっちゃー……、としゃがみこんだ僕の前に、すっと同じようにしゃがみこんだやつがいた。それが、春藤だ。
『うわー、また派手にやったねえ』
『あ、っ、ごめ……』
最初は特に何も思わず、ただ、綺麗な子だな、と馬鹿みたいにちょっと緊張していただけだった。
器用そうな細い指先で散らばったペンや消しゴムを筆箱に入れてくれていた彼女が、例のメモをつまみ上げるまでは。
『ちょっ! ごめん、それ、返して』
思わず顔を上げ、声を強ばらせて手のひらを突き出す僕を見て、やつはどういう訳だかメモを二つ折にしてポケットに入れた。
絶句する僕をにやにやと見つめて、やつはしゃがんだ膝の上に頬杖をついた。
『へえー。少女漫画みたいに繊細な顔してる割に、なかなかやるんだねえ』
されたことにも、昔から気にしている女っぽい顔をからかうような言葉にも腹が立った。
『何、すんだよ……』
『ねえ、笹野君って写真部だよね? 体育祭で腕章つけて写真撮ってるのを見たもの』
……で、こうなったというわけである。下手に動けば、あのメモをどう扱われるかわかったもんじゃない。ともすれば、生島を傷つけてしまうかも知れないのだ。
生島には、正直に言えば恋愛感情は、ない。けれど、昔からずっと一緒にいた友だちなのだ。接点こそ少なくなりつつはあるものの、それは俺の中では変わっていない。そろそろ返事をしなければいけないとは思っているのだが、こんな状態でするのはあまりにもどうかと思う。
俺は憎き春藤に顔を寄せ、小声で囁いた。
「生島に変なこと言うんじゃないぞ」
彼女は真っ直ぐな目で俺を見上げた。邪気は感じられない。ひとまずはこれを信じるしかないのだろう。
『私の満足のいく写真を撮ってくれたら、返してあげるから』
この言葉を。
美術部室を出て、下駄箱へと向かう。
夕暮れに染まる廊下を進んでいく途中、図書室から出てきた千尋先輩と鉢合わせした。
「よ、笹野。どうだったの、合格した?」
陽気に問うてくる先輩の手には、分厚い参考書とノートがあった。受験勉強をしていたのだろう。彼は学年でも三本の指に入ると噂で聞いたから、きっと難関を目指しているのだと思う。
「……それが、どれも表情がない、雰囲気がないって……あいつの求めてる千尋先輩がどんななのか全く分からないです」
「っはは、難しい子なんだな。ま、いつでも撮っていいよ、おれで良ければ」
変に思われないように、先輩には春藤のことを教えている。彼もやはり春藤の名前だけは知っていて、やつのことを男だと思っていたようだった。
「……すいません。ありがとうございます」
傍らを通り過ぎた同級生の女子が、「あ、あの人かっこいい」と小声でささやいたのが聞こえた。
うらやましいくらいに高い背に、すっと通った鼻筋。千尋先輩は、イケメンってのはこういうのですよっていう、見本みたいな人だ。きっとモテるのだろう。
春藤は、千尋先輩の見た目の良さで資料に選んだのだろうか。雰囲気って、一体……。
「先輩はどこを受けるんですか?」
デリケートな話題かなと思いつつ、何かヒントになるかも知れないと質問してみる。
「おいおい、それ結構答えづらい質問だぞ」
苦笑しながら、先輩は空いた手で無造作に前髪をかきあげた。
「んーと。まぁ、大学名までは言えないけど、一応……国公立の医学部、を、目指してる」
うち、そんなに金に余裕もないし、と言う彼の言葉に、驚いたけれど少し興奮した。千尋先輩ならいけるだろうという、どこからきたのかも分からない確信が僕の中にあった。
「っ、頑張ってください! 先輩なら余裕で合格すると思います」
「わー、やめろって。そんなきらきらした目でおれを見ないで」
先輩は照れた様子で僕の額を掴み、ぐっと押した。すいませ、と呟いた僕に、先輩はけたけたと笑った。
それから、
「……ありがと」
と微笑む。
やっぱり千尋先輩は、かっこいいと思った。
それから数日後のことだった。
いつものように先輩の写真を何枚か撮って、春藤に見せては酷評されて。そんな日々が続いていたある日のこと。
家のドアに手をかけたちょうどその時、呼び止められたのだ。振り返るとそこには生島がいた。
セミロングの髪が、緩やかな風に揺れた。
「あのね、この間渡した、メモのことなんだけど」
どきりとした。もしかして、ばれてしまったのだろうか。春藤が持っているということを。
「笹野には、好きなひとがいたんだよね。困らせちゃって、ごめん」
――え?
ちょっと待て、どういうことだ。
「生島、」
「春藤さんが好きなんだよね。私、部室での二人を見てたからわかるよ。きっと、春藤さんも笹野のこと好きなんじゃないかなって思う」
「まっ……」
「私ね、いっつも鈍くて、馬鹿なんだ。人の気持ちなんて考えずに……だからね、メモに書いてたこと、忘れていいから。……ほんと、ごめんね」
声を震わせてそう言い切った生島が足早に去っていくのを、僕はどうすることもできずに見つめていた。
「馬鹿はあんただよね」
冷ややかな声が僕の心を八つ裂きにした。
「誤解されたのはさておいてもだよ、どうして追いかけなかったの? そういう情けないところがね、写真にも出ちゃうんだと思うよ」
ひどく落ち込んだ様子だったらしい俺に気づいた春藤に昨日のことを打ち明けたところ、帰ってきた反応がこれだった。
おまけに、今日の写真も全滅だった。……というか、そろそろ僕の身辺に怪しい噂が流れ始めてきている。昨夜友人から、「なあ、お前ってもしかしてそっち系だったりする? いや、俺は大丈夫なんだけど、そんなんでお前のこと嫌ったりしないんだけど」というメールが届いた。いつも教室の片隅に集って怪しげな漫画や雑誌を開いている女子の集団のほうから、「だからあたし的にはぁ、笹野くんってウケだと思うんだよねー!」などという意味不明かつ不穏な大声も聞こえてきた。……正直、潮時なんじゃないかと思う。
「やめたいならやめてもいいよ。正直、今のあんたにいい写真が撮れるとは思わない」
そう言われて、なんだかカチンときた。
さっきから馬鹿だなんだと言っているけれど、こいつは生島の手紙を奪ったのだ。そのことだって、生島からすれば十分にショックなことだろう。なのに、こいつに俺を攻める権利なんてないんじゃないのか。
「……あのさ、お前、あんな卑怯なことしておいて、よく僕を責められるよな」
低い声で呟くと、キャンバスに向かっていた春藤の頭がぴくりと動いた。彼女の口が開かれ、何かを言おうとする。なぜか頭がきん、とした。してはいけないことをしてしまったような罪悪感にとらわれた。
リュックとカメラのバッグを引っつかんで、返事も聞かずに美術室を飛び出していた。
あれから一週間が経とうとしている。美術室には一度も行っていない。……気まずかったからだ。確かに春藤に僕を責める権利なんてないと今でも思うけれど、生島を傷つけたのは確かに僕のはっきりしない行動の結果なのだ。なんだか八つ当たりをしてしまったみたいな(そんなこともないような気がするけれど)、嫌な気持ちになった。これが僕の情けないところなのかも知れないが。
今日は月曜日で、美術部は休みだ。この間に写真を調達しておこうと思う。謝るまではいかないにしても、ちょっとでも役に立つ写真を提供してやろうと考えた。
第三化学準備室を訪れる。千尋先輩は、放課後は大抵図書室かこの部屋にいた。ここは前まで先生が使っていた部屋なのだそうだ。
引き戸を静かに開けて、「先輩」と呼びかける。
彼は眠っていた。一番奥の椅子に腰掛けて腕を組んで、背もたれに身を預けて。机の上には参考書が広げられていた。
ホコリがきらきらと舞っている。柔らかな秋の日差しが先輩の頬を白く染めていた。何かに気づいて、僕はそっと近づいた。
はっとした。
千尋先輩が、泣いていた。
閉じた瞼から、一筋の涙が頬に流れている。優しい光が、嘘みたいに先輩を包み込んでいた。彼はじっとしたまま少し俯いて、静かに寝息を立てている。それは何かの絵みたいに美しくて、言いようのない悲しみに包まれていた。
雰囲気があるから、という春藤の言葉の意味が、この時ようやく分かった気がした。
――憂い、だ。この人には、他にはない憂いがあるのだ。
これだ、と確信する。僕が撮るべき画はこれなのだ。これまでにないくらい、シャッターボタンの重みを感じた。二、三枚撮ったところで、千尋先輩は静かに目を開いた。
「……何、寝てんのも撮るの?」
むくりと起き上がった先輩は、さりげなく涙を拭った。軽く伸びをして、僕に微笑みかける。
「嫌でしたか」
「別に。悪用しないならいいよ」
悪戯っぽく笑って、彼は片腕で頬杖をつく。日に透けても黒い髪が、ひらっと風に舞った。風に揺れる柔らかな髪。不意にあの日の生島のことが思い出されて、胸が痛んだ。
「なんか元気なさげだな。しょんぼりしてるのが丸わかり」
「……僕は、情けない人間なんです。いつだってはっきりとした態度を取ることが出来ないから、他人を傷つける」
「お、いきなり自虐かあ。……どした? おれでよかったら聞くぞ」
優しく目元を緩ませる先輩に、僕は戸惑いながらもすべてを打ち明けた。僕を好きだと言ってくれた少女を傷つけてしまったこと。春藤にきつく言ってしまったこと。
千尋先輩は真剣な顔つきで聞いた後、かすかに笑った。
「ふうん。でもさ、だいたいみんなそんなもんだろ? 言いたいときにかぎって言いたいこと言えなかったり、逆に言っちゃいけないのに言っちゃったりさ。ま、春藤さんのは仕方ないかも知れないけどな」
けたけたと笑った後、先輩は頼もしい笑みを浮かべて僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「でもさ、ちゃんとそういうことを気にしたり、悩んだり出来るとこ、おれはすごくいいと思うよ。これからも大事にしてやりなよ」
きゅううっ、と、体の奥が縮こまって、ゆっくりと柔らかくなっていくような思いがした。思いがけないことで褒められたことに対してのほんのわずかな罪悪感と、大きな安堵のせいだった。
お前のここがいい、って他人に認めてもらえること。それでこんなにも気が楽になるとは、思いもしなかった。
「――ありがとうございます。……千尋先輩って、もてますよね」
「まさか。お前こそ女子から人気ありそうだぞ。……てかさ、ずっと前から思ってたんだけど」
千尋先輩はちょっというのをためらうような素振りをみせた後、困惑したように笑ってみせた。
「なんでお前らってさ、おれのこと下の名前で呼ぶの? ちょっと気にしてんだよね、女っぽいから」
僕は少しの間きょとんとした。何故なら、「あいつ(千尋先輩を指して)のことは下の名前で呼ぶこと」というのは、化学探求部に入った時に顧問から伝えられたことだからだ。
なんだかそれを言うとややこしくなりそうだったので、やめておいた。
「じゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
もう引退されてますけど、と心の端っこで思いながら聞いてみる。
すると彼はちょっと笑って、「決まってるだろ」と言った。
「普通に、嶋先輩、でいいんだよ」
「今日も相変わらず少女漫画のひとだね、笹野くん」
「おま……、なんで、」
「なんでって? 彼女に連れてきてもらった」
感情を感じさせない声音で返す春藤の隣にはどういうわけか生島がいて、所在なさげに視線をさまよわせていた。
現在地、笹野家玄関先。
なるほど、生島の家はまさに目と鼻の先にある。彼女に着いてくれば間違いなく僕の家にたどりつけるだろう。
そんなことよりも遥かに大きな謎として僕の中にあるのが、「なぜあの春藤が僕の家までやってくるのか?」ということである。
春藤はまっすぐと僕を見つめると、なぜか一瞬すごく不安そうな顔をした。やつには似つかわしくない表情だ。まるで、初めてのピアノの発表会で自分の出番が目前にせまった小学生のように、幼く、頼りない――。
「ごめんなさい。あたし、笹野くんにひどいことをたくさん言った」
――……、え?
春藤の表情は窺えない。なぜなら、彼女は深々と頭を下げていたからだ。
夕方の、少しつめたい風が吹く。春藤のあまり長くない髪もさらさらと揺れた。沈黙に耐え切れなくなったらしい生島が少し早口で喋る。
「あのね、春藤さんが私のクラスに来てくれて……弁解、してくれたんだ。笹野と自分は何もないって」
春藤が?
目を白黒させる僕に、頭を下げたままの春藤が妙にはきはきとした口調で言った。
「笹野くんの言う通り、彼女の誤解を招くに至る原因を作った私が笹野くんを責めるのは理に反している。それに、あんたのことも傷つけてしまった。……ほんとうに、ごめん」
「も、もういいよ。顔を上げろよ、春藤」
たまらず僕は声をかけた。ゆっくりと春藤が頭を上げる。
「だいいち、生島のことに関しては僕が悪いんだ。ちゃんと早くに返事をしなかったから……。それに、お前が僕に言ったことも、確かに腹は立ったけど……図星だった。だから余計にかっとなって。だから、僕も、ごめん」
あれ、なんで僕まで謝ることになってるんだろ、と自分のなかで少し混乱したが、これでいいんだ、とどこかほっとした。春藤が僕と仲直りしたいと思ってくれて、僕のところまでやって来てくれたということを予想外に嬉しく感じていたのだ。
「じゃあ、おあいこってやつだね」
生島がくすりと笑った。僕はなんだか無性に恥ずかしくなって、そして彼女にまだ返事をしていなかったということを急に思い出し、
「生島、あの、こないだの返事なんだけど」
と口走った。
途端にばちんという音とともに口元を覆われる。
「ちょっ、ちょっと。春藤さんがいるのに、こんなところで言わないでよっ」
「え? あたしは別にかまわないけど」
「私が困るんだってば!」
人を食ったような笑みを浮かべる春藤に、生島が真っ赤な顔でかみついた。僕の口元を覆っていた手を慌てて外して、「ご、ごめん笹野」と素早く後ずさる。
ちょっと痛かった……。生島は昔から大人しいタイプだったのに、こんな荒技を身につけていたとは。しかし、確かにこの状況での返事は無いな、と冷静に反省した。
「で、笹野くん。こんなあたしのことを、あんたは許してくれる?」
再び真剣な表情に戻って、春藤は僕に聞いた。
「え、だからもういいって」
「そう、良かった。あたし、笹野くんにもう一つだけ頼みたいことができたの」
殊勝な表情から一転、それはもう邪悪な笑みを浮かべて、春藤は言い放った。
「仲直りしたんだし、聞いてくれるでしょう?」
独特の匂いが鼻腔を満たす。不本意にもこの感覚に慣れてしまった自分に顔をしかめながら、ぼくは美術室に入ってすぐ横の机の上にリュックを置いた。肩に下げていたバッグは、今日は開けない。というか、開けてももう意味がなかった。
「なあ、わざと変に描いたりするなよ……」
椅子に座り、恐る恐るキャンバスを覗き込もうとする。途端に額を指で弾かれた。
「痛っ」
「もう少しで完成なんだから覗かないで、変態」
「はっ?」
「肩の辺りの色合いを少し淡くしてみたいの。考えてるところだから話しかけないで」
「お前なぁ……」
春藤がじっと『僕を』、見つめる。そしてパレットに並べた色のいくつかに筆を滑らせて、手馴れた手つきでキャンバスに走らせる。
どういうわけだか、奴は急にくるりと方向を変えて僕を描くと言い出したのだ。もちろん普段の僕なら断固拒否したに違いないのだが、そのときの僕は彼女の思いがけない言葉に惑わされていたとでも言うしかない。
『笹野くんがいなくなって、筆の進みが格段に遅くなった。よくわからないのだけど、とにかくあんたに傍にいてもらったほうがいいような気がするの』
こんな、今時ドラマでも通用しないくらいに遠まわしな言葉の、一体どこにあんなに動揺する要素があったのか自分でも分からない。ただひたすらに春藤がうつむきがちで、髪の合間から覗いた耳が妙に真っ赤だったことだけが記憶に残っている。
あとでこのことを、ちひ……嶋先輩に言ってみたら、「青春だなあ」と腹を抱えて爆笑された。
……というか、あそこまでこてんぱんに叩きのめされた僕の写真たちは、一体どうなるのか――と言いたいところだが、僕が最後に撮った嶋先輩の写真を見て、やつはついにオッケーサインを出した。いわく、「最初から本気を出せばよかったのにね」だそうだ。腹が立つ。どう使うのか知らないが、今描いている僕の絵の資料として使うのだという。変なようにされなきゃいいとだけ願っている。
「タイトルはね、もう決めてるんだよね」
鼻歌交じりに絵筆を滑らせながら、春藤は言った。
「え、何?」
それこそ変なやつだったら困る。思わず身を乗り出して聞くと、やつはわざとらしく目を細めて僕を見た。
おあー。
なんか載せてる途中からもう奇声上げたさマックスでした。一番青臭いのはこれを書いた私です。精進したい。