第三章「はじまりの日」
午後8時―――
結局、この日はあの後私以外のお客さんは
誰ひとり店に足を運ばず、閉店の時間を迎えた。
カチャ・・・
カウンターの向かいにある流し台で
洗い物をしているサヨの背中が、なんだか物悲しさを語っていた。
「洗い物、手伝うよ。」
「ありがとう、ペルチェット。でも大丈夫よ、洗い物少ないから。
あなたは先に屋根裏に行って休んでて。ベッドは右側を使ってね。」
「そう?それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」
チリン、チリン・・・
私が店の扉を開けると、びゅーっと音を立てて
外の冷たい風が一気に流れ込んできた。
私は外に出ると、急いで扉を閉めた。
「うぅ・・・今まで暖かいところにいたせいで、よりいっそう寒く感じるなぁ。」
私は寒さをこらえるため、両手で自分の体を抱きながら屋根裏への階段を探した。
しばらく目をきょろきょろさせていると
喫茶店の横から十二段ほどの階段が、屋根に向かって続いているのが見えた。
しかし夜の影が落ちた路地裏はあまりに暗く
この視界の悪さで階段を上ることに、私は少しだけ躊躇した。
すると見計らったようなタイミングで、サヨが扉を開け喫茶店から出てきた。
「あら、ペルチェット。まだ外にいたの?」
「あ、うん。暗くて辺りがよく見えなくて・・・」
「そう・・・私もちょうどお店の片付けが終わったところだから
一緒に上にあがりましょうか。」
そう言ってサヨは喫茶店の扉にかかった
オイル式のランプを手に取り、私を階段へと先導した。
ランプの光は綺麗なオレンジ色に光り
私たちの足元をまるで昼のような明るさで照らした。
コツ・・・コツ・・
階段をゆっくりとのぼるサヨについていき、私も階段を一段一段のぼっていった。
ランプの光で階段横の壁に映し出された私とサヨの影は
まるでカルガモの親子のようだ。
階段をのぼりきると、サヨはランプの燃料バルブをゆっくりと閉め火を消した。
今度は屋根裏の扉にランプをかけると、サヨは私の方を振り返り言った。
「ここが今日からあなたが寝泊りする屋根裏よ。」
カチャ、と音を立てて開いた扉の向こうは
屋根裏という言葉から想像していたよりも、ずっと広い空間だった。
焦げ茶色のフローリングにレンガづくりの壁。
入口のすぐ近くには赤レンガの暖炉、奥には淡いピンク色のシーツが敷かれた
ふかふかそうなベッドが置いてある。
「わー、快適そうな屋根裏だなー・・・」
私が感心している間にサヨは、タンスからふたり分の寝巻きを取り出し
それぞれ自分のベッドと私のベッドの上に置いていた。
「さ、明日は開店前にざっとお店のこと説明しちゃいたいから
今日はもう寝るわよ。」
「えー、もう少しお話してから寝ようよ。」
「だーめ。お話ならまた明日できるでしょ?」
「ちぇー・・・」
不機嫌そうに頬を膨らませた私には見向きもせず
サヨは背を向けて黄色い寝巻きに着替え始めた。
わがままを言っていても仕方ないので
私もベッドに置かれたピンク色の寝巻きに着替えることにした。
黒いネクタイを外し、白いシャツのボタンを上から順に外していく。
シャツを脱いだ後
スルスルと寝巻きの袖に腕を通しながら、私はつい数時間前のことを考えていた。
「(そういえば、ついさっきまではまさか年の近い女の子と
一緒に暮らすことになるなんて、考えもしなかったな・・・)」
同性とはいえ、同じ部屋で背中合わせで寝巻きに着替えているこの光景に
少し気恥かしさを覚えた。
「(あれ・・・そういえばこのお店、お母さんから継いだって言ってたけど
お母さんは今、どうしてるんだろう。このベッドだってお母さんのじゃ・・・)」
私は疑問に感じ、サヨのベッドの方向に振り返った。
「すー・・・すー・・・」
「寝てるし・・・」
サヨの静かな寝息だけが聞こえる部屋で
私は着替えを最後まで終わらせ、毛布をかぶって横になった。
「(やっぱり余計なことを聞くのはやめよう・・・
それにそのうち、サヨの方から話してくれるかもしれないし。)」
私はゆっくりとまぶたを閉じ、真っ暗な世界へと入っていった・・・
・・・
・・・
・・・チュンチュン。
まるで点と点をつなぎ合わせたかのように
一瞬にして朝は小鳥のさえずりとともにやって来た。
ぼやけた世界のピントを合わせるように、私はひたすらに目をこすり続けた。
しばらくすると、じょじょに目の前がはっきりと見えるようになってきた。
隣のベッドには寝ていたはずのサヨの姿がない。
枕元の壁にかかった振り子時計の針は、まだ朝の5時を指している。
「ふあーぁ・・・サヨは早起きだなぁ・・・」
むくりとベッドから起き上がり、私は重りがついたかのように
重たい体を引きずって屋根裏の扉を開けた。
朝の爽やかながらも、冷たいひんやりとした風が吹いている。
「きょ、今日も一段と寒いな・・・」
私は転げ落ちないように、壁に手をつきながらゆっくりゆっくりと
階段を下りていった。
昨日、サヨが屋根裏の扉にかけたランプはお店の扉にかかっていた。
喫茶店の扉を開けた私は、カチャカチャと音を立てながら
食器を準備しているサヨの姿を見つけて、朝のあいさつをした。
「おはよー。」
「あら、おはようペルチェット。早かったわね。」
「サヨこそ。」
サヨは食器を並べながら、私の方を見て優しく微笑んだ。
その笑顔に、私も思わず顔がほころんでしまった。
「癒されるなぁ・・・」
「え、なにか言った?」
「あ、ううん。なんでもない。
ところでお店の手伝いって、私はなにをすればいいの?」
慌てて話をごまかした私に
一瞬サヨは不思議そうな顔を見せたが、すぐに話を続けた。
「ペルチェットにはル・プティニュイの宣伝をしてもらいらいの。」
「・・・宣伝?」
「そう、宣伝。」
「こんな路地裏にある以上、誰かが偶然通りかかって
お店に足を運んでくれる、なんて可能性は低いわ。」
「だから、まずはこのお店の存在を街の皆に
周知してもらうために、あなたに宣伝してもらいたいの。」
私は顎に手を当てて、少し悩むような素振りを見せた。
「うーん、ひとくちに宣伝といっても難しいな・・・
具体的になにをすればいいんだろう。」
するとサヨは私にひとつ宣伝方法を提案してくれた。
「例えば、一般的な方法だと広場の掲示板に宣伝文を載せるとか・・・
まあ、そこはペルチェットの腕の見せどころね。」
「私の腕の見せどころか・・・なんだか燃えてきたぞ。」
私はギラギラと目を輝かせ、勢いよくイスから立ちあがった。
「そうと決まれば、まずはさっそく広場に行ってくるよ!」
「・・・あ、待って!朝ごはんは!?」
「後で食べるからとっといて!」
私はイスから立ちあがった勢いそのままに、外へと飛び出していった。
その姿を、サヨは少しあきれたような面持ちで送り出した。
「もう・・・本当にせっかちな子なんだから。」
サヨには私に会った時から、少しだけ不思議に感じている思いがあった。
私の姿になにか遠い幼い頃を感じるような、不思議な感覚を覚えていたのだ。
「それにしても・・・あの子・・・」
サヨはカウンターの下の引き出しから、一枚の写真を取り出した。
そこに写っていたのは幼い頃のサヨと
彼女が大切そうに抱いた一匹の赤い体毛の子猫・・・
「・・・ううん。まさかそんなはずないわよね。」
サヨはふるふると首を横に振って、取り出した写真を
再びカウンター下の引き出しにしまった。




