<第二十四章 奇妙な動き>
昭和十四(1939)年六月。
ようやくオハ油田問題が解決した。欧州での緊張の高まりの影響に違いない。
その内容は、
・日ソ両国は該当地区で国境問題があることを相互に確認する
・両軍は紛争地帯から順次撤退を行い、平和的解決を見るまで両軍とも進入しない
・災害等非常時にやむを得ず侵入する場合は可能な限り相手国へ事前通告する
・緊急時に通告無く侵入した場合は事後に遅滞無く通告し、可能な限り早期に撤収する
・進入時の武装は身辺警護等の最低限のものとする
・ソ連はオハ油田の占拠を解き、休業補償を行う
他にもこまごまと条件が書き連ねてある。
日本は不可侵条約締結も考えていたようだが、ソ連からは色好い返事が無かったそうだ。
オハ問題が解決したせいか、最近中尉がちょくちょく家に晩御飯を食べにくる。
きっと寂しいに違いない。早く結婚すれば良いのにと思う。
ちなみに家のカミサンは元々中尉と親戚だったので仲が良い。ちょっとだけ、モヤッとする。
別に浮気を疑ってる訳ではないが……。
「忙しいんじゃないのか」と聞くと、
「まあ、そうだが、お前の意見も聞きたくてな」
「政治の話は分からないぞ。もっと偉い人に聞いたら良いのに」
「いや、何でも話せて、偏りの無い意見は貴重だ」
と、背中がムズムズするようなことを中尉が言う。
それで気になることを聞いてみた。
「なんで日ソ不可侵条約が結ばれなかったんだ」
元の世界では日ソ不可侵条約が結ばれた。なのに、この世界では結ばれなかった。
なぜだか、分からない。
もう歴史が違うのだから、違う結果になってもおかしくないが、やはり気になる。
「ソ連は日本へ侵攻する気があるということだろう。日本からソ連へ侵攻することは考えにくいので、条約締結は自分の手を縛ることになる。米ソ密約の可能性もある」
「密約って、米ソで日本を分割するってことか」
「そうだ。北海道以北をソ連、南をアメリカというのは米ソ両国にメリットがある。
ソ連はかつての領土南樺太を取り戻し、かつ、太平洋への出口を得られる。
米国はソ連へ出口を渡してしまうことになるが、元々ソ連はウラジオという不凍港を持っていたのだから状況がそれほど悪化する訳ではない。
それより、朝鮮、満州、支那への足場ができることが大きい。
日本を支配できれば、その工業力も利用できる。艦艇の整備にわざわざ西海岸まで戻る必要も無くなる。
お前の時代でも米軍は日本に基地を持っていたのだろう。同じことだ」
「それはイギリスが黙ってないだろう」
「英国もいざとなったら日本を見捨てるかもしれん。
実際、英国はポーランドを見捨ててるじゃないか。
日英同盟は名ばかりの単なる友好条約で参戦義務も中立義務も無い。
米ソから、『我々が日本を攻める時には黙って見てるだけで良い。その後英米ソ三国で支那を分割しよう』と言われたら考えるんじゃないか。
支那内陸部をソ連、上海以南と台湾が英国、上海以北と朝鮮が米国で、上海は三国で共同統治。
いくら支那の人口が多いと言っても世界の三大国家に共同で掛かられたら抵抗できないだろう」
すぐには信じられない。そんなことがあり得るのだろうか。
政治ってそんなにひどい世界なのか。
戦後日本みたいにみんな仲良くという風にもできないだろうが、この時代の政治家はそんなに強欲な人間ばかりなのか。
恐ろしくなってきた。
「あくまでも可能性の話だ。そうならないように、英国と連絡を密にし、国防を強化しなければならん」
「これからどうなるんだ」
「各国とも戦争の準備が終わってない。来年の雪解けからが本番だろう」
ますます世界は混沌としている。
北アフリカでは仏伊の国交断絶以来、両国の小部隊による散発的な遭遇戦が発生している。
だが、まだ本格的な侵攻作戦には発展していない。
仏は独を抑えたいが、侵攻すると南から伊にやられる。
それでソへ対独参戦を催促するが、ソ連は独ソ不可侵条約を盾に拒んでいる。
それでヨーロッパで本格的な戦争が始まらないという中尉の予想だ。
「ソ連はフランスと裏で手を結んでいると思ったんだが、間違いかもしれん。
それか、ソ連が対仏、対独で二枚舌を使ったかのどちらかだろう」
そのドイツにも動きがある。
これまで外国籍ユダヤ人(主にポーランド系)についてはドイツも手を出さなかった。
だが、今回、ポーランドへドイツ国内のポーランド系ユダヤ人の引き取りを要求。二万人以上のユダヤ人がドイツからポーランドへ強制移住させられた。
ポーランドは最初国境を封鎖して拒んでいたが、最終的にドイツの軍事的圧力に屈して受け入れる形となった。
ドイツは北、西、南からポーランドを包囲している。東ではソ連が国境近くの軍を増強している。
ポーランドは四面楚歌の状態だ。
頼みのフランスは口ばかりで何もしない。
この状態ではポーランドはドイツの理不尽な要求を飲まざるを得ない。
ドイツは現在チェコ、ハンガリーへ軍を進駐させている。
ただドイツ軍は国境付近には出ない。東欧諸国軍が前に出ている。
だから独ソはまだ直接対峙していない。
またブルガリアに対しては武器供与を行っているが軍を進駐させていない。ブルガリアはイギリス影響下のギリシアと国境を接しているため気を使っているのかもしれない。
ドイツ本国ではポーランド国境の防備を固めると同時に、東プロイセンのリトアニア国境を重点的に固めている。
漏れ伝わるところによると日本製ユンボも少数ながら壕掘りに使われているらしい。
各国が動きをひそめ戦争準備に邁進している中、ただ一か国ソ連だけが活発に動いた。
六月の一ヶ月間で三か所へと侵攻している。
・フィンランド
・バルト三国進駐、傀儡政権樹立
・ルーマニアのベッサラビア占領
そしてフィンランドではいまだに戦争が続いている。
そのあまりに無法なやり方にソ連は国際連盟を除名されてしまう。
ソ連の急拡大に世界各国は不安な思いを抱いている。
だが、奇妙なことにどの国も積極的に動こうとしない。
一方各国の軍需産業がフィンランドへ武器を売却している。もちろん各国政府の黙認の元でだ。
日本も昭和通商という国策会社を通じて三八式歩兵銃用の銃弾が輸出された。
なんでも、第一次大戦時に三八式がヨーロッパへ輸出されたので結構出回っているのだ。
陸軍内では、これで銃弾工場を遊ばせなくて済むと喜んでいるそうだ。
ルーマニアではソ連侵攻に無策だった国王派が失脚し、ドイツの息の掛かったファシズム政党が政権を取った。
ルーマニアはドイツの支配下に入ったも同然であり、これで東欧はポーランド以外全てがドイツの支配下に入った。
ドイツはルーマニア支配の為に、ソ連の占領を見逃したのではないかとさえ思える。
いずれドイツはルーマニアにも進駐するだろう。
七月某日。
今度は信じられないことにソ連がポーランドへ侵攻した。
夜明けとともに数十万の大軍がワルシャワ目掛けて国境線を超えた。宣戦布告は無い。
ポーランド軍は予想していたのか、陣地に籠り侵攻軍へ手痛い損害を与えながら、ゆっくり後退していく。
そして、国内で大動員を行い、戦線を補強する。
イギリスはすぐさまソ連を非難。だが、ポーランドの支援は中立の範囲内でできることに限定する。食料、医薬品、衣料品の援助を始めた。
フランスは表面的にソ連を非難し、ドイツが侵攻した時と同様に軍事上の援助を発表した。対ソ宣戦布告はしない。
ドイツはチャンスとばかりにポーランドへ侵攻するかと思われたが、国境から出ずにその防御を固めている。
代わりにソ連とフランスを激しく非難した。
ソ連には宣戦布告無しの戦争行為と、大義名分の無い侵略行為を。
フランスには独のポーランド回廊回復時に非難をしたのに、ソ連の場合には実質黙認する二重規範を。
ドイツにとってみればソ連もポーランドも両方敵であり、敵同士が戦ってくれるなら、これほど楽なことは無い。
両者が疲弊して決着のつかないままダラダラ続いてくれるのが一番都合が良いはずだ。
イタリアはドイツにならって同じ批判をしている。それもソ連よりフランスを強く批判している。
ポーランド以外の東欧諸国はソ連を非難しながらドイツからの兵器供与を受けて軍の強化に努めている。
次は自国だと考えているのかもしれない。
「なぜ、ソ連はあっちもこっちも色々手を出しているんだ。戦力の集中が戦争の基本じゃないのか」と中尉に聞いてみた。
「確かにおかしい。戦力の集中は大切だ。
俺はスターリンじゃないから確かなことは分からんが、思い当たることはいくつかある」
・今が混乱の時だと考え勢力圏拡大を急いでいる
・対独戦に備えて有利な状況を作ろうとしている
・兵器の実戦試験
・国内の不満をそらすため
・反乱の可能性ある部隊を首都から遠ざけ、すりつぶす。
と、中尉はいくつかの点を挙げた。
「ソ連のポーランド侵攻でフランスが動かないということはソ仏間で話し合いが済んでいると考えるべきだ。
だが、分からないのはドイツの動きだ。もしワルシャワが陥落すれば、東欧諸国に動揺が広がる。
それに、独ソが直接対峙する戦線が広がるのは好ましくない。
しかも、今回はソ連が一方的に悪いので介入の口実がある。
他国領土内で戦えるので、国土が荒れることなく軍に実戦経験を積ませられるし、兵器の試験ができる。
絶好の介入の機会だ。それなのになぜか動かない。
ひょっとすると、独ソ間でポーランド分割の話し合いが済んでいる可能性がある。
ドイツがポーランド回廊を取る代わりに、ソ連はポーランド東部を取るという密約だ。
独ソ不可侵条約と一緒に決められたのかもしれん。
これなら、ドイツの動きも分かる」
中尉が考える各国の思惑は次のようになる。
ソ連:独仏を戦わせて共倒れさせ、東欧を手に入れる。混乱に乗じて勢力を拡大するためにはポーランドが邪魔になる。だから今の内にポーランドに侵攻しておく。
フランス:ソ連を早く対独戦へ参戦させて独を両方から攻める。そのためにはソ連とドイツが直接対峙するのが望ましい。そのためにポーランドには犠牲になってもらう。伊は独の後にじっくり片付ける。
ドイツ:仏をやってからソをやる。それまでポーランドが時間を稼いで欲しい。ポーランドが倒れそうな時は仕方なく介入する。
イタリア:独と協力して仏を倒し旧サヴォイア公国領を回復する。そして独に恩を売り、旧オーストリア領内の失われたイタリアを回復する。
イギリス:仏ソ独伊で潰し合って欲しい。共産主義の拡大は困る。特に植民地で共産主義が広まったらまずい。とりあえず独仏伊三国に物を売る。独が弱り過ぎないところで介入する。ドイツに仏ソを同時に相手する力は無い。だから、仏から先に相手をするはず。そのためにはポーランドにはもうしばらくソの防波堤として存続してもらう。
アメリカ:ソ仏が組めば独伊には負けないはず。疲弊したところで介入する。どうやって英を抑えるかが問題。
日本:このまま前大戦のように欧州だけで戦争してほしい。
あまりに複雑すぎて、俺の理解の限界を超えてる。
本当に政治の世界は分からない。
欧米人って本当にこんな悪いことばかり考えてるのか。
中尉の考え過ぎの気もするが、実際ポーランドは侵略されてるし、ソ連は拡大を続けている。
本当に恐ろしい世の中だ。
俺は俺のできることをやるしかない。
重機の種類を増やして、アタッチメントを増やして、もっと便利に使いやすくする。
そうして、日本の生産力、生産性を上げることだ。
小型のユンボを作るのは大型化とは別の苦労がある。
全部の部品を一律何割か小さくすれば良いという物ではない。
精度を保ったまま小さくするのは簡単ではないし、なかには耐久性が問題になる箇所も出てくる。
完全な新型を作るほどではないが、それなりに大変だ。
ソ連は侵攻後一週間たってもなかなか前進できずにいた。
大軍で力任せに押すが、なかなかポーランド軍を突き崩せない。
歩兵主体の前大戦とそれほど変わらない戦法でゴリ押ししている。変わっているのは砲の火力が桁違いに大きいことだろう。
戦車も投入されているが、BT-7が主力で、歩兵支援に分散して運用されポーランドの砲撃で次々と撃破されている。
こういった様子は観戦武官から日本へ報告されている。
「ポーランド軍はけっして弱くない。
大正九(1920)年からの対ソ戦争では一時キエフまで迫ったくらいだ。
それにしても兵力差から考えるとソ連が弱すぎる。
赤軍の力が弱まってるのかもしれんな。
実態は分からんが粛清で数万から数十万の兵士がシベリアへ送られたそうだ」
と、中尉。
ある、ある。スターリンならやりそうだ。
「案外、今度の侵攻は対ドイツの戦争に備えて弱体化した赤軍に実戦経験を積ませるのが狙いかもしれん」
「日本はポーランドを支援しないのか」
「支援したいが、遠いしな。それに対価がないと。無償で援助するほど日本に余裕は無い」
「でも、何もしないでポーランドがソ連のものになったらまずいんじゃないのか」
「その辺は欧州各国のほうが分かっている。
本当に危なくなったら、イギリスかドイツが手を貸すだろう。どちらも、まだポーランドには存続して欲しいはずだ
日本は欧州にあまり口出ししない方が良い。
余計な勘繰りをされても困るからな。
それにポーランドもいざとなったらドイツやチェコから武器を輸入してでも戦うだろう」
そう言われると、そうかもしれないが、しっくりこないというか、座りが悪いというか、何となくモヤモヤする。
そういえば、モヤモヤすることが他にもある。
十二歳の長女典子、十歳の次女美代子が二人とも中尉に懐いていることだ。
最初は軍人特有の雰囲気に怖がっていたが、ちょいちょい来るようになって慣れたのか『神崎のおじさん』といってまとわりついている。
中尉もまんざらではないのか来るたびにお菓子とかお土産を持ってくる。
俺の娘達は一応中尉とは親戚になるから"おじさん"でも間違いではない。カミサンの母親が中尉の従姉だから娘達は六親等になる。
中尉に変な趣味は無いだろうし、親戚だからと納得するしかないが、やはりモヤモヤする。
なんか娘を取られたような気分だ。
それにしても、あのお菓子は中尉が自分で買ってくるのか? それとも部下に買いに行かせるのか?
どちらにしろ制服姿の軍人さんがお菓子を買う姿はちょっと変だ。想像すると笑ってしまう。
それも今の内だ。戦争が始まるとこんな時間も持てなくなるだろう。
中尉はそれを知ってて、束の間の休息を楽しんでいるのかもしれない。
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