<第十九章 混沌とする世界>
昭和九(1934)年春。
米国の不況は回復の兆しが無い。
中国の米国租界も一時のような勢いはない。米国から流れ込む資金が止まっている上、一部は本国へ引き上げられている。
租界の元気が無くなると、中国国内での反米運動が活発になる。以前は租界の好景気を見て黙っていた者が、おこぼれが無くなると文句を言い始める。
裏ではソ連と中国共産党が動いているだずだと中尉は言う。
最近中尉が中佐になった。
他の軍人さんに聞くと陸大同期の中では出世が少し遅いみたいだ。
俺のせいなのか?
いや、きっと、裏でコソコソする仕事が多いからだろう。
その中尉がこれから忙しくなり、しばらく来れなくなるからと、一升瓶を持ってやって来た。
二人で酒を飲みながら日本と世界の情勢について教えてもらう。
「それで日本はどうなんだ、これから戦争になるのか、何とか避けられないのか」
日本では庶民は貧しい暮らしのままだ。かといって金持ちも儲けていない。
国中が国力増大にひた走っている。
「どうだろうな、それは俺にも分からん。だが、戦争になった時のために備えはしておかねばならん。そういえば、朝鮮で東洋一の巨大ダムが完成したのは知っているか。重機が随分活躍したそうだぞ」
「あぁ、あったな、そんなの。すっかり忘れてたよ」
言われるまで、このダムのことはすっかり忘れてた。
そう言えば十年前に東洋一のダム工事を中尉が見つけてきてくれたと喜んだ覚えがある。
正直、まだやってたのかという感じだ。
追加でユンボを買ってくれたら覚えてたんだろうが、多分、ダム工事は最初の方しかユンボを使わないのだろう。
「そんなに大きなダムなのか」
「十年の歳月と七億四千万円(今年度国家予算の約三割)の巨費を投じたダムだからな。
発電力は六十万キロワットで本土全体の17%に達する規模だ。
過半は満州へ売電されるが、朝鮮で使用できる電力だけでも二十万キロワットある。本土分の6%が一気に増えるのだ。
興南ではダムの発電開始に合わせて大工場が操業を開始する。日本の国力も多少上がるだろう」
「へぇー、凄いな」
実感は無いが、よほど大きなダムなのだろう。
「他にも造船が好調だ。輸出が伸びている」
これは俺でも知っている。溶接関係でたまに会う造船所の人から聞いた。
日本は他国に比べて人件費が安いし、電気溶接の利用増で建造費も安くなってきている。重量減で性能も上がる。しかも円安だ。
それで値段の割には良くできているということで、そこそこ売れているらしい。
それに日本の造船会社は船会社と提携して、日本人船員の派遣サービスをやっている。日本人船員は西欧の船員より安くて良く働くと、それも売れている理由の一つだ。
その話を聞いた時、日本人船員をわざわざ外国船に派遣しなくても船員込みで日本からレンタルすれば良いのにと俺は思った。
しかし、保険の関係でそうはいかないらしい。
例えばベルギーの会社の場合、日本の船を買ってベルギー船籍にし、ベルギー人を船長にして、その下で日本人船員が働くという形にしないと、保険金が高くなるそうだ。
世界的にみると米英仏以外は日本の船を買うところが増えている。
日本は遠慮して英国本土には売ってないが、英植民地で本国へ行かない船には積極的に売り込みを掛けている。
独、伊、北欧などでは米英を押さえて日本船が外国船シェアトップになった。特に一万トンクラスでは世界でトップシェアだ。
現在造船は米英に次いで世界三位となった。
大型船や豪華客船ではまだ米英独仏伊にかなわないが、中規模以下の船では費用対効果で勝っている。
ちなみに自動車(含建設機械)は米独英仏伊に次いで世界六位(ソ連は実態不明)。といっても五位と六位の間の差は大きいし、輸出はほとんどしてない。ほとんどは本土、朝鮮、台湾向けで、一部を中国・満州・タイ・南アジアに販売している。
品質は欧米製に劣るので安さとアフターサービスでカバーしている。
「造船が好調なおかげで、日本の景気もかなり回復してきている」
「あぁ、それ、工場の人に聞いた。給料は上がらないけど待遇が良くなってきたって」
工業の発展に伴って大企業では自発的に社員の待遇改善を行っている。
技術者不足が顕在化してきたので社員を囲い込む必要があるのだ。
待遇改善と言っても社員食堂の食事を良くしたり、休憩時間を少し伸ばしたりなどの些細なことだが、労働者は嬉しいものだ。
自分達のために心遣いしてくれているということに嬉しくなるのだ。
俺が元の世界で働いてた時だと、たまに現場監督が差し入れしてくれると、とても嬉しかったのと同じだ。
労働意欲が上がると共産主義は自然と下火になっていき労働争議は減る。
そのせいかどうかは分からないが主要国の中では日本だけ経済が安定してきている。
中国は元々不安定で大恐慌の前後でそれほど変わらず、ソ連は実態がよく分からない。
「それで、造船以外はどうなんだ」
「日本全体で考えると外国から資源を買い、それを中級工業製品に加工して輸出。
儲けた差額で機械や技術、足りない資源を輸入している。
技術力の割に人件費が安いことを生かした典型的な加工貿易だな。
それで英国からは資源、機械を大量に輸入しているのでやや赤字になっている。
詳しく言うと英本国相手では機械輸入が多いので日本が赤字だが、英植民地では日本が黒字で差引赤字だ。
これは二国間交渉の末、日本に対して植民地向け中級工業品の関税を少し下げてもらうのと引き換えに、
こちらはエンジン、工作機械の関税を大幅に下げている影響が大きい。
分かりやすく言うと英国の仲間には完全に入れてもらっては無いが赤の他人でもない。
単なる知り合いよりは親しいが家族にはなっていないというところか。
マレー、シンガポール、ビルマなどは英本国より距離の面で有利だから中級品ならなんとか売れる」
「イギリス以外は?」
「まず、米国は赤字だ。絹が売れなくなってるのに、ガソリンや機械油を買っているから仕方が無い。
フランス、ドイツは輸出入どちらも少ないが少し赤字で、
シナはトントンだな。対日感情を考慮してわざとそうしている」
「ふーん」
「満州は黒字、他にタイや英仏独以外の欧州も黒字で、全部の合計で少し黒字になっている」
黒字なら良いのだろう。多分。
「船以外は何が売れてる?」
「綿布、綿糸が主力だが、他にもアジアでは日本製リヤカーと自転車が大人気になりつつある」
「リヤカーって、俺が考えたリヤカー?」
俺が発明した訳じゃないが、俺が考えたと言ってもいいだろう。
「そのリヤカーだ。ネコ車も最初は売れていたが、今は模造品が出回り売り上げが落ちている」
「まあ、ネコ車は仕方が無いか。作るの簡単だから。でもリヤカーは真似されないのか」
「ああ、あの自転車の車輪は意外と作るのが難しいからな。ベアリングも使っているし。真似しても技術が低いと性能が悪い」
そう言われると、スポークや枠とかは簡単そうに見えて難しいのかもしれない。
日本も最新式外国製機械の導入で品質が上がっている。特にベアリングの品質向上が良い。これで走行性能が大分上がってる。
「ところで、アメリカはどうなんだ。あまり景気が良くないみたいだが」
「米国は良くないな、支那に足を突っ込み過ぎてる」
中尉の説明によるとアメリカは中国での植民地経営に苦労していた。
当初アメリカは中国でもキューバ、フィリピン同様にプランテーション経営、および、市場支配をするつもりだった。
もちろん、作物は本国農民が作らない物かつ輸送に耐える物でなければいけない。
だが本国と気候が似ている中国では栽培可能な作物も似ている。かろうじて茶、羊毛があるくらい。
まだ、有望な作物を発見できないでいた。
他に本国内に無い資源の搾取があるが、これはタングステン等の希少金属くらい。ぜひ欲しい銅や錫は少ない。
市場として見た場合、石油、自動車、機械、武器、航空機が主であり順調に伸びているが、圧倒的に輸出超過であり、いずれ破綻が予想される。
鉄道経営は中国人従業員の教育管理に米国人管理者の人件費コストがかかり、それほど儲からない。
それに中国からの輸入品が無い以上、米国資本家の中国元資産が増えるばかりで本国住民に恩恵が無い。
中尉の予測では山東半島進出以来、米国は植民地経営では赤字続きで一度も黒字になってない。
「それは、まずいんじゃないのか」
「まずいな。この調子で行くと、米国は何か大きな動きをせざるを得ない。
また、米国資本の進出に伴い反米活動も大きくなりつつあり、治安維持のための軍事費も馬鹿にならない。
さらに米国が支援する国民党が対する共産党の後ろには明らかにソ連が居る」
米国は植民地経験の多い英仏のようには上手くいかない状況が続いているのだ。
「米国以外の欧米はどこも支那から撤退を始めている。その内、上海、北平(北京)、天津などの大都市を除いて米国以外はいなくなるのではないか」
「そうなると、アメリカが中国では独り勝ち?」
「勝ちか負けかは分からんが、米国は今まで以上に、どっぷり首まで浸かることになるだろう」
日本は国民党からの満州利権の無条件返還要求を断固として断り、険悪な関係ながらも貿易は続けている
米以外の欧州各国は利権を縮小しながらもまだ完全には撤退してない。それも時間の問題らしい。
北平、天津、上海に軍隊を派遣しているのは米英仏伊。日本の軍隊は大連、上海だけに居る。
「だが、米国の本音はどこかと戦争したい。特に日本と戦争がしたいのだろう」
「どうして」
「米国は侵略と戦争で大きくなってきた国だからな。インディアン、メキシコ、ハワイ、スペイン、フィリピンと来ると次は日本だ」
「なんで日本を」
「日本以外に適当な相手が居ないからな。
植民地候補で残っているのはタイと支那。だが、タイは英仏の植民地に囲まれていて難しい。支那へは進出の真っ最中だ。
残るは独立国だが、その中で大きな市場を持ち、かつ、文句が出にくく、それほど強くないのは日本しかない」
「日本みたいに貧乏な国に勝っても、取る物が無いでしょ」
「米国は日本より貧しくて人口の少ないフィリピンを取ったぞ。それに日本は人口でみると欧州のどの国より多い。人口が多いということは、それだけ市場があるということだ」
「人口なら中国の方が多いじゃないか」
「そうだ。だから支那に進出している。それに今のままでは支那と戦争しにくい。足場が遠いからな。後方基地がフィリピンでは兵站維持が困難だ。米国は支那侵略の為にも日本を足場として使いたい」
確かにマニラから北京は三千キロくらいある。しかも米国とフィリピン・中国の間には日本がある。
足場さえあれば米国は広大な中国を征服できるのかもしれない。元の世界の日本は無理だったが。
「排日移民法から始まって、アジア人差別、黄禍論など国内世論に気を付けながら日本との戦争のため外堀を埋めてきている。何か大きな理由があれば米国民は対日戦争に反対しないだろう。我が国の軍人や新聞の一部もそれにつられて反米をあおっている。新聞社が米国から金を貰ってるとは考えたくないが……」
「アメリカとの戦争は避けられないのか」
「アメリカの子分にでもなれば話は別だが、それは我が国の国民感情が許さんだろう」
「そうか……」
戦争は避けられないのかもしれない。
戦後日本の教育を受けて育った俺は、何年こっちの世界に住もうとも戦争は好きになれない。
「ところでドイツはどうなんだ。ヒトラーが総統になってるが」
「まあ、なんとかなるだろう」
中尉の説明によると、ドイツの急拡大に伴い独伊が接近した。
それを見たフランスがイギリスではなくソ連、ポーランドと接近。
イギリスはドイツ寄りの不干渉主義。これはドイツが極端な人種差別政策を行ってないせいもある。それでドイツの拡張政策に対して穏健な対応をしている。
なぜだか分からないが、ドイツはユダヤ人を強制収容所に入れるようなことをしてない。
それでも差別は激しくてユダヤ人の国外脱出が続いている。
日本はシベリア鉄道で逃げてくるユダヤ人を満州で救援している。
「でも、なんでナチスはユダヤ人を殺してないのかな」
「それは日本が止めたからだ」
中尉がさらっととんでもないことを言う。
「へっ、どういうこと?」
「だから、日本が資金援助する代わりに、他民族を殺さないことを約束させたんだ」
まだナチスが弱小勢力の時に日本が接近して援助を開始。
そこで、政策の一部変更を求めたそうだ。
他民族を国外追放するのは良いが、けっして強制連行や殺害しないことを約束させた。
それを今でも守っているというのだ。
「たいした額ではなかったが、まだ弱小だった頃で随分恩義を感じだのだろう。ナチスは意外と仁義を守る奴らだな。
さすがに、それだけが理由ではなくて、殺さず国外追放の方が最終的に利になると考えたからだろうが」
ナチスのことは中尉に話してた。普通なら何とか抑えようとかするものだが、逆に手綱を付けるとは思っても無かった。
「ドイツのことはドイツの国民が考えることで、我らが口出すことではない。我らに害が無いようにすれば良いのだ。
将来、ユダヤ人迫害を日本が抑えた話が広がると、日本の評判も良くなる。ユダヤ人も死なない。良いことづくめだ」
「でも、結局ドイツは殺さないにしろ迫害をしてるんだから、日本は迫害に手を貸したと言われるんじゃないか」
「いや、ナチスが第一党になった時点で援助を止めた。だから表向きは迫害を止めないから手を切ったと言い訳できる
また、そう言われないためにも、今は満州でユダヤ人を助けている」
なんか、黒い。大虐殺が無いだけましだが、なんかスッキリしない。
「さらに言うと、ドイツだけが突出して悪者になっていない。おかげで英独の関係はそれほど悪くない。英仏が接近しすぎることも無い。お前の言っていた日独伊三国同盟になる可能性も下がっただろう」
日本はイギリスとゆるやかな連携をしている。英国を刺激しない程度に輸出をして、なるべく米国ではなく英国から輸入するようにしている。
だからインドから屑鉄や鉄鉱石、銑鉄を輸入し、石油はクウェート、イランから、綿花はインドから、ボーキサイトはシンガポールなど、輸入先を米国からシフトしている。
「その代わりに米仏が接近している」
「フランスはソ連と仲がいいんだろ。でも、ソ連とアメリカは仲が悪いんじゃないのか」
中国ではソ連が支援する共産党とアメリカが支援する国民党がいまだに小競り合いを続けている。
中尉の話だと米-仏-ソで変な三角関係になる。
「フランスは伝統的にロシアと仲が良かった。今も共産党が国内に入り込んでいる。それで、アメリカの方にもけっこうソ連の手先が入ってるようだ」
「えっ、嘘だろ。自由の国アメリカだぞ」
「いや、嘘ではない。実態は分からんが、政府中枢にもアカがいると見た方が良い。ロシア革命でかなりの人間がアメリカへ渡ったし、今でも亡命する人間は居る。その中にアカが居ても不思議ではない」
「いやいや、それは信じられないぞ」
俺の中ではアメリカが世界で一番ソ連を嫌ってる。
そんなアメリカの中にソ連が入り込んでるとは考えられない。
もし、入っていても、FBIとかCIAとかが捕まえるだろう。
「諜報員からはそう報告が上がっているし、アメリカの政策もそう考えると納得できるところが多い」
「ということは米仏ソが裏でつながってると……」
「その可能性はある。支那での内戦も米ソの八百長かもしれん。お互いの子分に借金を背負わせて、なおかつ兵器の試験ができる」
「それは考えすぎだろう」
「可能性がある以上、考えておかねばならん。さらに言うと、英独が密かに手を握っている可能性もある」
「ええええぇーー、それは無い。それは無いよ」
思わず、大きな声を出してしまった。
「どうしてないと言い切れる。本来イギリスはドイツよりもフランスと仲が悪い。そのフランスと共産主義のソ連を叩いてくれるならドイツと協力することは十分考えられる。ユダヤ人迫害も国外追放止まりなので英国民としてもギリギリ許容できる。イギリスとしてはドイツが大きくなり過ぎないで、フランスとソ連が潰れない程度に弱くなるのが一番良い。潰れてしまうと敵がいなくなるからな」
「なんか、もう、俺には分からん」
「ああ、分からんで良い。政治を考えるのは政治家の仕事だ。お前は重機のことだけ考えてれば良い」
こういった話を知っているということは中尉は政治にも足を突っ込んでるのだろうか。
ドイツのことより中尉のことが心配になる。
それにしても、これだけの話を中尉は何も見ないでしゃべった。やっぱり頭が良い。脳みそはどうなってるんだ。
「そろそろお開きにしようか」と中尉がいつになく優しい顔で言った。
「今日は色々教えてくれてありがとう」
俺は素直に礼を言った。
「いや、かまわん。お前からは大切なことを教わったからな」
「あぁ、玉串情報か」
「それもだが、合理的な考え方というか、科学的に考えることというか……。まあ。ありがとう。礼を言う」
「???」
中尉から『ありがとう』なんて言葉初めて聞いた気がする。背中がムズムズする。
中尉は何か悪い物を食べたか。それとも、まさか、何かのフラグが立った?
いや、考え過ぎだろう。酒が入ったせいということにしておこう。
「いいんだ。それじゃ体に気を付けてな。死ぬなよ」と中尉が言った。
「物騒なこと言うねぇー」
そして、中尉は一人で帰っていった。
次章は6/4(水)19時に予約投稿しています。