<第十四章 不況>
大正十四(1925)年
震災後二年たつのに微妙な不景気が続いてる。すっごく悪いわけじゃないけど、良いわけでもない。
このままでは大恐慌を乗り越えられないのではないかと玉串会員の一部から声が上がった。
そこで、現況を乗り切り大恐慌に備えるため、財閥の長への玉串情報一部開示が決まった。
方法として
・秘密厳守を誓約した者のみに開示する
・会議への出席はさせず、大恐慌他、経済に関することのみ伝える
・情報に沿って決定される経済方針を実施前に説明し協力を求める
・情報の出所は秘匿する
財閥は規模に合わせて甲乙の二種に分けて渡す情報に差を付ける。
甲:核心部分以外の未来情報を提供し、協力者とする。五大財閥
乙:限定情報を提供し、政府方針として指導する。準大財閥
財閥しか優遇しないということだ。
大恐慌が来たら小金持ちなんかが一番被害に会いそう。
庶民は損するお金もないから、食糧さえ支給すれば我慢するだろうというのだ。
そして、情報開示が始まった。
しかし、その効果が表れる前に金融不安が発生した。
発端は震災時に特例で支払い猶予された震災手形だ。
震災の被害に合った企業の手形は政府が発行する手形と交換しましょう。そして、二年以内に手形のお金を払ってください。というものだ。
ぶっちゃけていうと、政府が保証して借金を二年間待ちますよということになる。
そして、その期限が近づいてきた。
政府の中には猶予期限を延長すべきとの意見もでたが、大恐慌前になんとしても手形問題を全て解決することを目指して、そのまま決済を強行することとなった。
ある程度、予想されていたが、結果はひどい物だった。
決済不能の手形額は五億円(国家予算の約三割)を超え、企業倒産が相次いだ。そして、大量の不良資産が国の元に残った。
連鎖倒産も大量に発生。銀行にも大量の不良資産が発生。国内経済が一気にしぼみ、金融不安につながった。
町には銀行倒産の噂が流れ、取り付け騒ぎにまで発展する。
危ないと噂された銀行の窓口には人々が殺到して、自分の預金を降ろそうと大混雑になり、いくつかの銀行は紙幣が不足して窓口を締めざるを得ないところまで出てきた。
そうなると、もう悪循環にしかならない。
「あそこの銀行は払う金が無いらしい」
「何、本当か。違う支店へ行ってみよう。あっちならまだ残ってるかもしれん。急げ」
という感じで、一か所で紙幣不足が発生すると、他の支店でも連鎖的に紙幣不足が発生してしまう。
さらに、
「おい、この銀行も危ないんじゃないか」
「一応、降ろしておくか」
と、狼狽から預金を降ろす者も増え、他の銀行にまで取り付け騒ぎが広まっていき、収拾がつかない状態になった。
こうなると、政府は翌日から日曜までの銀行営業停止を各銀行へ指導するしかなかった。
そして、政府は日銀による銀行への無制限融資と銀行国有化を発表し、騒ぎを抑えようとした。
日銀では急遽紙幣の印刷を急ぎ、廃棄予定の古い紙幣もかき集めて、各銀行へ配った。
大蔵大臣は新聞記者を集め、銀行国有化を説明し、国民に軽挙妄動を控えるよう伝えることを依頼。
翌朝銀行の玄関には銀行国有化の記事が貼りだされた。銀行員は心配して訪れた人へ声を枯らして説明する。
日銀では不眠不休で紙幣を印刷し、終わる端からどんどん銀行へ送り込む。それは土日関係無く続けられた。
明けて月曜日、銀行が開くと同時に人々が殺到。
興奮する人々がそこで見た物はうず高く積み上げられた札束だった。
行員は閉店時刻が来ても最後の一人まで、紙幣が無くなるまで、払い戻しに応じることを約束。
そして、人々は落ち着きを取り戻していった。
それでも、全国で取り付け騒ぎが収まるには二週間以上の時間が必要だった。
俺は『リーマンショックで世界が大不況』ということを知っていた。
入社一年目の時、社長が『リーマンが、リーマンが』と騒いでいた。テレビでも何度もリーマンの言葉が出てくる。
最初はサラリーマンのことかと思っていたが、どうやらアメリカの会社らしいと知ったのはしばらくたってからだ。
社長はことあるごとに『これから厳しくなるぞ』と言っていたが、それから本当に段々景気が悪くなってしまった。
翌年には仕事が大幅に減り、社長は社員の給料確保にかなり走り回ったようだ。
俺はオジサン達に
「あと一年生まれるのが遅かったら、うちの会社に入れなかったところだな」
と、よく言われた。
それで、仕事の無い社員は資格の勉強をして時間を潰した。
俺が建設業経理士の勉強をしたのもこの頃だ。
それで、リーマン・ショックのことはよく覚えている。
こっちへきてしばらくたった頃、中尉からラ行のことを思い出さされてた時、
「リ、リ、リ、リ、リー、リー……、リーマン、リーマンショック」
と思い出したのだ。
「リーマンショックとは何だ」
「アメリカのリーマンという大きな会社がつぶれて、それが世界中に影響して、世界中が不景気になるんです」
「ほう」
「それで日本でも銀行がつぶれそうになって、国が銀行を助けるんです」
「国がか。どうやって」
「さあ、そこまでは……。どうやってか知りませんけど国有化するんです」
「それから」
「それから、危ない銀行は他の銀行に吸収されて、国有化は多分民間に戻ったと思うんですけど……。
いや、それはバブル崩壊の時だったかな」
「バブル崩壊とは何だ」
「バブル崩壊はお前が生まれた頃のことだったな」
「そうです。そのバブル崩壊です」
と、当時こんな感じで中尉には説明した。
不思議なことに半年前中尉が来て、またリーマンショックやバブルのことを聞いてきた。俺もそれ以上覚えてる訳じゃなくて、同じことを話すしかなかったけど、それでも中尉は納得した感じで帰っていった。
だから、銀行国有化の話を聞いた時すぐに中尉のことを思い浮かべた。
最終的に国から銀行への税金の投入額は七億円を超えた。だが、まだ増えるかもしれないという状況だ。
震災手形の五億と合わせて合計十二億円もの税金が使われ、すべてが国債で賄われた。
このうち何割かは戻ってくるかもしれないが、それでも巨大な金額には変わらない。
また、国債が増えたけど大丈夫なんだろうか。
元の世界みたいに国民一人当たり何百万円の借金、とかにならなければよいけど。
そんな、混乱してる世の中なのに、俺は第二世代ユンボ試作機のテストにかかっている。
だって、俺、公務員扱いで倒産の心配ない親方日の丸だから。
第二世代ユンボの特徴は二点。
油圧ポンプと国産エンジン搭載。
油圧ポンプは外国製最新機械で部品精度を上げることと合成ゴムのパッキンで何とか実用化の目途が付いた。
合成ゴムはドイツのゴム会社に特注で作ってもらった。本当は戦争のことを考えると国内生産したいけど、数が少なすぎて割に合わない。月産十台とか二十台のパッキンに大金は払えない。もっと生産数が増えたらライセンス生産を考えようと思う。
実用化の目途が立ったと言っても多少のオイル漏れはある。だけど定期的な保守で何とかなる程度。
あとは量産に入った時にこの精度を維持できるかだ。これは工場の人に期待するしかない。
試作機は前作に比べて動作速度は二倍以上に上がり耐久性も増している。土もかなり掘れる。
これなら十分実用に耐える。自信を持ってお勧めできる製品だ。
本当はキャタピラも国産化したかったが、そこまで手が回らない。
ユンボがあまり売れてないから開発費が少ない。開発費が少ないから人を増やせない。だからキャタピラ開発に人を回せないという状況だ。
それでキャタピラは第一世代と同様にアメリカのキャタピラー社から輸入する。
第一世代の時、最初の内はホルト社(現キャタピラー社)から輸入した牽引車をそのまま使用していた。
途中からはユンボ用に若干仕様を変更したものを作って送ってもらってる。
今回も第二世代用に変更したものを送ってもらう予定だ。もちろんエンジン抜きだ。
今は耐久テストを繰り返し不具合を直すと同時に、細かい改善も続いている。
油圧に使う油の種類を変えてみたりとか、油圧ポンプの中のバルブの形状を変えたり、パッキンのサイズを0.1ミリ単位で変えたりとかだ。
それから寒冷地や熱帯でのテストをしなければいけない。
樺太だと夏の間しか使えませんとか、沖縄台湾では夏の間使えません、では製品としてどうかと思う。
こんな具合であと一、二年で量産に入れそうな感じで進んでいる。
他に変わったこととしてメシ係さんの監視が終わった。
結婚して半年くらいたった頃だろうか、急にメシ係さんが真面目な顔をして、
「別の仕事もすることになりまして、これからは連絡がある時だけ参ります。これまで大変お世話になりました」
と言ってきた。
そして、次の日からは本当に顔を見せなくなった。
今では、連絡がある時、必要な時にしか来ない。
メシ係さんの連絡先は聞いているので困ることは無い。急ぎの時は夜中に中尉の家へ押しかけるつもりだ。
スケジュールも俺が自分で決めるようになった。ほとんど重機関係の仕事だけど。
やっと自由になった。やっぱり、イイね。自由。
なんか気持ちが軽くなる。
悪いことをしたい訳じゃないけど、常に監視されてるのは気分が良いものじゃない。
七年。色々あった。戦争が終わって、大震災があって、結婚して、ユンボも開発して。
これで俺の中の「こっちの人間度」がワンランク上がった気がする。
でも、たまに不自然な人の視線を感じることがあるんだよね。
気のせいかもしれないけど、中尉のことだから、こっそり監視を付けてるのかもしれない。
聞いても絶対答えないだろうから、無視するに限る。気にし過ぎても仕方がない。
大正十五(1926)年。
年が変わっても俺は相変わらずユンボ漬けの毎日です。
それと、妻が妊娠しました。出産予定は十二月です。ということは、ひょっとしたら、昭和元年生まれ。
父親が平成元年生まれで、子供が昭和元年生まれ。運命って不思議だ。
そして十二月。天皇陛下崩御。
俺にとっては別世界の話だ。顔も知らない歴史上の人って感じだ。
元の世界で言うと、テレビで昔有名人だったらしい人が死んだニュースを見てるのに似ている。
ご愁傷様とは思うけど、しょせん他人事にすぎない。
これが皇太子殿下だったら話は全然違う。歴史上の人物でもお互いに顔を知ってる訳で、多分もの凄く驚いて、もの凄く悲しくなると思う。
大正が終わっても、我が子供はまだ生まれてこない。
大丈夫なのかと心配になってくる。
中尉からは
「いざという時は、良い病院に入れてやるから心配するな」
と言われてるけど、やっぱり心配だよね。
そして日本中が悲しみに包まれ、そんな中でも暮れの忙しさに追われる十二月二十九日。
ついに生まれました。
女の子です。母子ともに健康です。狙ったわけじゃないけど本当に昭和元年生まれです。
自分に子供ができて嬉しい。でも、まだ父親になった実感は無くて、自分でもよく分からない。
名前は典子にしました。この時代でも変じゃなくて、戦後でも違和感の無い名前です。
ここで一つ問題がある。
この子の誕生日をいつにするかだ。
この時代では誕生日が結構いい加減で、親が勝手にずらしても怒られない。
だから、縁起の良い日やキリの良い日にしたりする親が多い。
そして、この世はいまだに数え年を主に使っている。これだと、この子は後三日で二歳になってしまう。
生まれて三日で二歳。こればっかりは、どうしてもなじめない。
本当の誕生日で届けて親子二代で元年生まれって俺が喜ぶか、それとも今後のことを考え元日生まれにするか。でも、元日だと戦後に誕生日を祝うようになった時に正月と一緒にされて可哀想。いやいや、もうその頃は大人になってるから関係ない……。
とか色々悩んだけど元日生まれにしました。
だって、妻がその方が良いって顔してる。昔の女性なので面と向かって文句は言わないけど目が言ってる。
それに俺が平成元年生まれって秘密なんだよね。妻にも話してない。今の戸籍上は明治二十六年生まれになってる。だから昭和元年生まれにしても、喜ぶのは俺だけ。
だから、俺が一人心の中で『本当は元年生まれ、親子でお揃い』とニヤニヤすることにしました。
いずれにしろ元気に育ってくれればそれでいい。これからは頑張って稼ぐぞ。
昭和二(1927)年。
最近、天皇陛下に呼ばれることが多い。あの皇太子殿下が即位して天皇陛下になっているのだ。
正確に言うと何とかという儀式はやって天皇にはなってるけど、即位の儀式はまだという段階だそうだ。
天皇陛下には間違いないので、あまり関係ない。間違って殿下とお呼びしないように気を付けるだけだ。
で、その天皇陛下から呼ばれては、昭和や平成の庶民の暮らしについて聞かれる。
何を食べているか、どんなところに住んでいるか、余暇の過ごし方……。
何を話しても驚かれるので話し甲斐はあるけど、やっぱり緊張する。
中尉に話してみると、
「喪の最中で大っぴらに動けずお寂しいのだろうからお相手して差し上げるのは当然」
と言われた。
月一くらいのペースで呼ばれてます。
そして、時代は少しずつ動きを速め、二年がたった。
この間、俺は第二世代ユンボの完成、販売開始、改良。ユンボ用の替えアタッチメントの開発。ディーゼルエンジンの重機搭載。ダンプやブルドーザーへの油圧利用など重機漬けの毎日を送っていた。
日本にも色々あった。
特に大きいのが石油関係。クウェートと北樺太の油田では試験掘りから採掘のための本格掘削へ進み、満州の扶余油田では石油の出荷が始まっている。クウェートの次はドーハで油田探査が始まる予定だ。
これによって海軍の重油化が進み、石炭を使う船は廃船か改装が行われている。
航空機研究も順調に進み、欧米まであと一歩のところまで来ている。
これはエンジン開発が進んでいることが大きいと思う。
○菱がドイツ製エンジンの研究を始めた頃、中島飛行機も負けじとアメリカからエンジンを輸入し研究を始めている。
最初は輸入エンジンの修理が精一杯だった技術も、今では近々ライセンス生産ができるところまで来ている。
この調子で行くとゼロ戦の性能も相当良くなるんじゃないかと思う。
ちなみに、中尉にはゼロ戦の設計者のことは話してある。
俺はあのアニメ映画を見に行ったから知ってるのだ。昔の重機が出てるかなと思って見に行った。
今では見るどころか触れるし作ってるしで大満足なんだが、あの頃は昔の重機について知りたかった。
監督は細かい点にこだわるはずだから出てるとしたら、きっと本物そっくりなんだろうと思ったのだ。結局出てなかったが。
で、設計者さんはちゃんと○菱に入社してる。
きっと、凄いゼロ戦を作ってくれると思う。
一方戦車開発はほとんど進んでいない。というか陸軍にやる気が無い?
いまだに輸入したフランス戦車を使ってる。
陸軍の戦車研究所がある小倉まで見に行くと、これが凄いオモチャっぽい。
ブリキで作ったオモチャを大きくしたような感じがする。このまま、あの鑑定番組に出てきそうな感じだ。
俺の管轄ではないので何ともできない。でも、国産キャタピラができたら国産化が進むと思う。
でも一応研究はしているみたいで、キャタピラ式の牽引車を作っている。
キャタピラは自作で、○ンマーのディーゼルエンジンと国産の自動車用ガソリンエンジンの二種類を積んでテストしている。
もうすぐ戦車の開発もしてくれると思う。
そして、俺にとって一番重要な建設機械は国内への普及が少しずつ少しずつ広がっている。
残念なことに一番売れて欲しいユンボが一番売れていない。
原因は分かってる。第一世代の能力が低かったからだ。
それでも軍を中心に販売を続けている。問題は各師団にほぼ行き渡り今後の販売増が見込めないことだ。
もう、これは中尉にお願いするしかない。
旧型となった第一世代ユンボを新型の第二世代へ買い替えてもらうのだ。古い方は下取りすれば良い。
それに第二世代の能力を知ってもらえば今よりは売れると思う。
ユンボに比べてダンプの売れ行きは好調だ。特に埋立てとかダムとかで活躍してる。
実は一番売れてるのはユニックだ。でも、俺が関わってる建設機械で一番儲からない。というのも、トラックとクレーンをもってきてくっつけるだけだからだ。
それと○菱がトラックを作り始めた。
十年前は自動車に興味が無いような感じだったのに、ダンプ、ユニックの売れ行きを見て、これなら自社で作れば儲かると思ったのかもしれない。
今はまだ外国製トラックとは比べ物にならない性能だ。特にガソリンエンジンが全くダメなのだ。
最初は飛行機用のエンジンを改造してトラックに乗せようとしたらしい。
でも、それって素人考えでも無理そう。飛行機のエンジンって時速何百キロで飛ぶように作られてるんだから、それを車に乗せるのは無理だと思う。
で、今は○ンマーからディーゼルエンジンを買うか、ライセンス生産しようとしているらしい。
俺もその方が良いと思う。
○菱がトラックを作ってくれれば、ダンプやユニックを作りやすくなる。
既製品を改造するんじゃなくて、元からダンプ専用、ユニック専用で設計したものを作れる。
となると、ダンプ・ユニックはトラック部門へ担当が変わるかもしれない。
今までダンプ・ユニックの利益でユンボを開発してた面もあるから、開発費さえ減らされなければ俺はかまわない。
逆に、ユンボとブルドーザーとロードローラーに専念できるから、そうなった方が良いくらいだ。
それに新規に開発したい重機もあるから、負担が減るのは嬉しい。
重機のトータルでは全然儲かってないと思う。
それで、○菱は財閥内の建設会社に買わせたりしてる。それでも販売量が足りなくて重機レンタル会社を作って貸したりしている。
建設機械の便利さが広がって、もっと売れてくれたら良いんだが、なかなか難しい。
売れないから値段が下がらない。値段が下がらないからあまり売れない。そして、売れないから次世代ユンボの開発に取り掛かれない。
今、ユンボは月産十台くらい。これを十倍にしたい。そうすれば、もっとユンボの開発にお金を掛けられる。
中尉に愚痴をこぼしたら、
「もう何年か待て」と言われた。
何年かたつと大恐慌になって、もっと売れなくなると思うが、中尉は何か知ってるのかもしれない。
それと、中尉は最近あまり顔を見せない。
何をしてるのかと思ったら、なんと海軍大学校に通ってるらしい。
陸海軍の交流の一環として聴講生制度を作ったのだ。
自分で制度を作って、自分で通うとは、やりたい放題してると思う。
次章は5/23(金)19時に予約投稿しています。
予告です。
感想が多くて返信が大変ですし、書き溜めていたものが減って来ましたので、5/25(日)19時を最後に毎日更新は終わりにして、週二回くらいの更新にしたいと思います。
ご了承願います。