<第一章 プロローグ>
榊原仁志はユンボが大好きである。ユンボを中心に人生を決めるくらいだ。
ユンボ――正式名称は油圧ショベル。別名パワーショベル、バックホー(ホー《くわ》が逆向きに付いているから)。
だが、関西地方ではユンボと呼ばれることが多い。
仁志とユンボとの出会いは三歳の時だった。
当時、仁志は親の仕事の都合で大阪に住んでいて、マンションの三階の部屋から、すぐ近くでやっている工事の様子が良く見えた。
なぜか仁志はユンボが気に入り、暇さえあれば窓からユンボを眺めていた。
車体上部がくるんと回ることや、アームの動きが他の機械と違っていたからかもしれない。
誕生日やクリスマスのプレゼントではユンボのミニカーやおもちゃを買ってもらい、ユンボが動いていない時には一人で遊んでいた。
幼稚園に通い始める時は、ユンボが見られなくなると泣いて嫌がったものだ。
そうは言っても大人の力にかなうはずもなく、仁志は幼稚園に通わされる。
そのうち工事は終わってユンボは居なくなってしまったが、仁志のユンボ熱は治まらなかった。
小学校の途中で埼玉に転校し中学校へ通っても、それは変わらない。
自転車で工事現場を探したり、パソコンが使えるようになるとネットでユンボ情報の収集にはまっていく。
これだけユンボ好きだと学校で変な奴だと思われそうだが、ユンボ以外にこだわりの無い仁志は有力者グループに付かず離れず逆らわずで、変わってるけど害の無い奴というポジションに居た。
そんな仁志の進学先は工業高校の土木科だ。
本当は中卒で就職してユンボの近くで働きたかった。だが、十八になるまで資格が取れないからと、親と教師の必死の説得で思いとどまったのだ。
もちろん、高校はユンボの実習が有るところを探した。
そして、晴れて高校入学。実習で初めて念願のユンボ操縦を果たす。小型とはいえ初ユンボ。仁志の感動は大きかった。
操縦法はネットで調べ、頭の中で何度も操縦を繰り返していた。だから同級生の中では誰もよりも上手かった。
だが、やはり物足りない。
仁志の中でユンボとは、工事現場で動いていたあの十トンを超えるようなサイズなのだ。
工業高校だけあって中にはちょっとヤンチャな同級生も居たが、ここではユンボ熱もそれほど目立たない。他にも偏差値ではなく好きで工業高校を選んだ者もそこそこ居た。そんな者たちは押しなべて何かに熱中していた。
頭数を増やすために集会へ連れていかれたりもしたが、大過なく過ごしていく。
高三になると大型ユンボの操縦に向けて動き出す。
六月十日の誕生日の一か月前から自動車教習所へ通って、夏休み前には普通免許(MT)を取得。
夏休みに大型特殊を四日間(\85,000)の合宿免許で取得。そしてユンボの技能講習が二日間(\39,800+1,700)。ここで初めて仁志は大型ユンボの操縦をした。
大型機械が自分の操作で動く。思わず声が出るくらいの感動だった。この時にこれが自分の一生の仕事だと再確認をした。
これで晴れてユンボを動かすことができるようになった。
他にも就職に有利になるからと幾つかの簡単な資格を取り、全部で五十万円近くのお金がかかってしまった。
親は昔から分かっていたみたいでちゃんと用意してくれていた。親にはいくら感謝しても感謝しきれなかった。
後は就職するだけだ。
仁志がユンボ、ユンボとうるさいのは先生もよく知っていて、九月の就職活動解禁前から就職先を探してくれていた。
条件は高卒・免許有り・初心者でもユンボオペとして採用してくれる会社で、自宅から通えるか寮がある所。
何社か試験と面接を受けて社長が優しそうなところを選んだ。
就職してからは社内教育、建設機械会社での講習を受けてから、実際のユンボデビューとなった。
それからは充実した毎日を送っている。
仁志の勤めている会社は比較的ホワイトの会社で、やり手の創業者会長と現代的な息子の社長の両輪で景気の波を乗り越えている。
社長は大卒で合理的な考えをしていて、社員教育や社内合理化にも積極的。
四月から七月の暇な時期には社員に交代で講習受講や資格取得をさせている。会社指定の資格は会社が費用の半額から全額を負担してくれる。
それで仁志もいくつかの資格を取っている。
そして仁志は今年で二十五歳。会社の中では中堅のユンボ・オペレータだ。
とりあえずの目標はユンボの腕を上げること。七年でかなりの技術が身に付いたと思っているが、テレビに出てくるような達人にはまだ及ばない。
いずれは日本一、いや、世界一といわれるようになりたい。
そう思いながら仁志は日々ユンボを動かしていた。