表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第9話 クラーラ・ヴェルナー法務事務所

看板の文字が少し曲がっている。三回直してもまだ曲がっている。


「クラーラ・ヴェルナー法務事務所」。木製の看板に黒い塗料で書かれた文字は、私が自分で書いた。書類の文字なら自信があるのに、看板となると勝手が違う。木目に筆が引っかかって、「ヴ」の濁点が微妙にずれている。


――いや、もう四回目を試す気力はない。曲がったまま開業する。


事務所は王都ヴァイセンブルクの裏通りにある二階建ての一室。一階が事務所で、二階が住居。隣はルーカスの法律事務所。偶然ではない。ルーカスが「隣の部屋が空いているのですが、念のためお伝えします」と、三度にわたって手紙で知らせてくれたのだ。三度。念のためにしては執拗だった。


窓は東向きで、朝の光がよく入る。机はオーク材の中古品で、右端に小さな傷がある。革の書類鞄を机に置き、銀縁の眼鏡を拭いた。インク壺は新品を奮発した。安いインクで書いた文字は滲む。書類は正確でなければならない。


つまり、ここが私の仕事場だ。


侯爵家の執務室は広かった。蝋燭台が四つあり、窓が三つあり、書庫には梯子が必要な高さまで書架が並んでいた。ここには蝋燭台が一つと、窓が一つと、書架と呼ぶには心もとない棚が一つ。


でも、看板には私の名前がある。曲がっているけれど。


鉢植えをどこに置くか、三十分迷った。窓辺に置くと光は良いが来客の視線を遮る。机の端に置くと書類を広げる場所が狭くなる。棚の上に置くと水やりのたびに椅子に乗らなければならない。


結局、窓辺に置いた。来客が来る前提で悩んでいるが、まだ一人も来ていない。


◇◇◇


最初の依頼人は、開業三日目に来た。


扉を叩く音がして、開けると、日に焼けた顔の壮年の男が立っていた。擦り切れた上着、泥のついた靴。農夫だ。靴底の減り方を見れば、長い距離を歩いてきたことがわかる。


「あの――先生、でしょうか」


先生。


その呼称が耳に届いた瞬間、手に持っていた書類が指から滑り落ちた。三枚の羊皮紙が床に散らばる。


「……失礼しました」


慌てて拾い集める。顔が熱い。なぜ熱いのか、合理的な説明がつかない。――いや、つかなくていい。今は依頼人の話を聞くのが先だ。


「どうぞ、お座りください」


男はペーター・ホルンと名乗った。旧ヘルダーリン侯爵領の農夫で、土地の権利に関する相談だという。


「侯爵様が――正確に言えば、あの、もう管理権がないんでしたか。その、以前に約束された農地の拡張許可が、書面に残っていないんです。口約束だけで」


口約束。


旦那様らしい、と思った。口では何でも約束する。書面には残さない。私がいた頃は、口約束を聞きつけて私が事後的に書面化していた。私が去ったあと、誰もそれをやらなかったのだろう。


ペーターの手を見た。指の関節が太く、爪の間に土が入っている。畑仕事で鍛えた手だ。祖父が言っていた。「手を見ればその人の仕事がわかる」。この人は、嘘をつく手ではない。


「契約法第四十二条に基づき、口頭での合意も一定の条件下で法的拘束力を持ちます。ただし、立証のために――」


ペンを取り、聞き取りを始めた。日時、場所、同席者、合意の具体的内容。ペンが紙の上を走る感触が心地よい。このインクは滲まない。


「先生は、あの……こんなに丁寧に聞いてくださるとは思いませんでした」


またその呼称だ。


眼鏡のブリッジを指で押し上げて、視線を書類に落とした。


「丁寧なのではなく、正確にしているだけです。……というより、正確にしなければ法務は成り立ちません」


自己訂正が入ったのは、声が少し上ずったのを誤魔化すためだ。誤魔化せていない自覚はある。


◇◇◇


ルーカスは毎日来た。


「確認事項があるのですが」


初日はそう言って、契約書の書式について質問した。二日目も確認事項だった。三日目は「先日の確認事項の補足です」。四日目は「補足の訂正です」。


五日目になると、確認事項という体裁すら薄くなってきた。


「この茶葉、知人から頂いたのですが、量が多くて」


つまり茶葉を持ってきた。林檎と生姜の配合で、湯を注ぐと甘い香りが事務所に広がった。


「……ヴェーバー氏。確認事項は」


「今日はありません」


ないのか。


ルーカスは私の向かいの椅子に座り、自分の杯に口をつけた。靴の縫い目が今日も丁寧だ。指が書類の角を無意識に折っている。――いや、私がルーカスの指を見ていることに気づいて、慌てて窓の外に視線を移した。


「ヴェルナー殿」


「はい」


「あなたの隣で仕事をすることは、私にとって――」


言葉が途切れた。ルーカスの目がわずかに泳ぎ、それから視線が手元の杯に落ちる。


「……いえ。正確な表現が見つかりません。法律用語でも。失礼しました」


立ち上がり、「また明日」とだけ言って隣の事務所に戻っていった。


扉が閉まった後、事務所に林檎と生姜の匂いが残った。


窓の外では、裏通りの石畳を荷馬車が通り過ぎていく。車輪が石を噛む音が規則的で、不思議と落ち着く。侯爵家では聞こえなかった音だ。あの執務室は二階の奥まった場所にあったから、通りの気配など届かなかった。


ここでは、世界の音が聞こえる。


◇◇◇


夜、帳簿をつけながら考える。


開業資金の金貨五十リヒトのうち、残りは三十二リヒト。家賃が月に二リヒト、インクと羊皮紙の消耗品が月に一リヒト弱。依頼が安定するまで、あと半年は持つ。――というより、半年で安定させなければならない。


帳簿の数字を眺めていると、侯爵家の帳簿を思い出す。あちらは桁が三つ違った。年間収入金貨三千リヒトの領地会計と、金貨五十リヒトの個人事務所。規模は比較にならない。


でも、この帳簿には私の名前がある。


「クラーラ・ヴェルナー法務事務所」。曲がった看板の、曲がった文字の、私の名前。


机の上に封筒が置いてあることに気づいた。ルーカスの筆跡だ。几帳面な文字が封筒の表に並んでいる。いつ置いていったのだろう。五日目の確認事項なし訪問のときか。


封を開ける。


「昨日の発言を訂正いたします。正確に申し上げれば――」


手紙はそこで終わっていた。「正確に申し上げれば」の後に、何行分かの空白があり、最後に「明日改めてお伝えします。ルーカス・ヴェーバー」と書かれているだけだった。


手紙でも言葉が見つからなかったらしい。


封筒を机の引き出しにしまった。しまいながら、口元が緩んでいることに気づいて、慌てて引き締めた。


――引き締まらなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ