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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第8話 法廷にて

王家の監査法廷は、侯爵家の執務室より寒かった。


石造りの壁に窓は高い位置に三つだけ。冬の光が細く差し込んで、傍聴席の埃を白く照らしている。椅子は木製で、座面が薄い。十分も座っていると尾てい骨が痛む。――法廷の椅子というのは、どこもこういう設計なのだろうか。長居させないための意図的な不快、とでも言うべきか。


つまり、居心地が悪い。


正確に言えば、椅子のせいだけではないのだけれど。


証人席は法廷の中央にある。私の前に監査官カールが座り、その右手に書記が二人。左手側の席に旦那様――いや、元旦那様が座っている。仕立ての良い上着に、磨かれた靴。社交の場と同じ身なりで法廷に来る人だった。隣にリゼッテ嬢の姿はない。傍聴席にもいない。


呼ばれなかったのか、来られなかったのか。どちらでもいい。


監査官カールは四十代半ばの痩せた男で、表情というものがほとんどない。書類だけを見て、事実だけを語る。法律家として、少しだけ好感が持てた。


「では、元侯爵夫人クラーラ・ヴェルナー殿。証言を求めます」


立ち上がる。椅子の脚が石の床を擦る音が、法廷に小さく響いた。


◇◇◇


監査官が机の上に広げたのは、二種類の書類だった。


一方は、王都に提出されていた領地運営の年次報告書。もう一方は――私の業務日誌だった。引き継ぎ資料として旦那様の執務室に置いてきた、あの十三冊。


「この業務日誌の筆跡と、年次報告書の筆跡を照合しました」


監査官の声は平坦だ。まるでインクの発注書を読み上げるような調子で、八年分の事実を並べていく。


「年次報告書の署名はヴァレンティン・ヘルダーリン侯爵。しかし、本文の筆跡は業務日誌と一致しています。つまり――」


「異議あり。筆跡の一致は、書記官が清書した可能性も――」


旦那様の弁護人が立ち上がった。監査官は手を上げてそれを制す。


「書記官フリードリヒの筆跡とも照合済みです。一致しません。業務日誌と年次報告書の本文を書いた人物は、同一です」


法廷が静まった。


私は右手を見た。ペンだこのある指。八年分の封蝋を押し続けた指の腹の硬さ。筆跡というものは消せない。インクが乾いても、書いた手の癖は紙の上に残る。


それが、八年分。


◇◇◇


商人たちの証言は、午前中いっぱい続いた。


港町ノルトハーフェンの穀物商が最初だった。髭面の大柄な男が証言台に立ち、監査官の問いに答える。


「契約交渉の相手は、常に侯爵夫人でございました。侯爵閣下にお目にかかったのは、署名の場だけで」


次に、東部丘陵の木材商。


「減税措置の条件交渉、陳情の窓口、すべて侯爵夫人が対応されました。あの方がいなくなってから、問い合わせの返答が三ヶ月止まりました」


三人目。四人目。証言のたびに、法廷の空気が重くなっていく。


――リゼッテ嬢が言った言葉を思い出す。「ただの事務仕事でしょう?」。あれは私が倒れた直後のことだ。医師の診察の後、見舞いに来たリゼッテ嬢は「趣味のようなもの」と笑った。


趣味で回る領地があるなら、見てみたい。


商人たちの証言は、一人一人が短かった。けれど、積み重なると厚い。八年分の取引記録と商人たちの記憶が、法廷の上に書類の山のように積み上がっていく。


◇◇◇


午後の証言は一人だけだった。


「法律家ルーカス・ヴェーバー氏。専門家証人として出廷を求めます」


ルーカスが証人席に立った。紺色の上着、磨かれた靴。――靴の縫い目が丁寧だった。靴職人の息子の靴は、いつも縫い目が正確だ。


「ヴェーバー氏。あなたはヘルダーリン侯爵領に関わる訴訟を複数担当していますね」


「はい。過去五年間で、対面での法務協議を十二回行っています。すべて、元侯爵夫人クラーラ・ヴェルナー殿が相手方でした」


「侯爵の同席は」


「一度もありません」


監査官が頷く。ルーカスは続けた。


「法律家としての所見を述べます。ヘルダーリン侯爵領から提出された準備書面は、王都の法律事務所の水準と比較しても、極めて精度が高い。論理構成、条文の引用、反論への事前対応――いずれも、相当の法学的訓練を受けた者でなければ不可能です」


声が落ち着いている。法廷証言に慣れた人間の声だ。でも――いや、というより、私の目が勝手にルーカスの手元を追っている。証言台の縁を握る指の力加減。少しだけ、爪が白い。


「当該準備書面の作成者が侯爵本人でないことは、法的文書の専門家として断言できます」


初めて会ったとき、ルーカスは私の書面を「精緻」と評した。あの言葉が、今、法廷の記録に残る証言として形を変えている。


褒め言葉を聞くと、いまだに思考が止まる。法律家として致命的な欠陥だと自覚はしている。だから今も、眼鏡のブリッジを指で押し上げるふりをして、視線を逸らした。


◇◇◇


夕刻。


監査官カールが立ち上がった。


「本監査の暫定所見を述べます」


法廷が静まる。傍聴席の衣擦れの音すら消えた。


「筆跡鑑定、商人十一名の証言、専門家証人の所見、および八年分の業務日誌の精査に基づき、以下の事実を認定します」


間を置いた。法廷の窓から差し込む夕陽が、監査官の書類を橙色に染めている。


「ヘルダーリン侯爵領の対外業務――法務、交渉、税務、訴訟対応――は、過去八年間にわたり、実質的にすべて元侯爵夫人クラーラ・ヴェルナーの手によるものであった」


声が石の壁に反響した。


「侯爵ヴァレンティン・ヘルダーリンは当該業務を自身の功績として王都に報告しており、これは重大な虚偽報告に該当します。よって、王家監査規定第十七条に基づき、侯爵の領地管理権を一時的に剥奪し、王家直轄の暫定管理下に置くことを勧告します」


旦那様の顔が青ざめていく様子を、私は見なかった。見る必要がなかった。


代わりに、自分の手を見ていた。右手のペンだこ。八年分の封蝋の跡。爪の際にうっすら残るインクの染み。


この手が書いた書類が、この法廷で証拠になった。名前のなかった仕事に、今日、名前がついた。


「――なお、メルツ男爵令嬢リゼッテについても、侯爵家の帳簿管理を担当した期間の重大な不備が確認されました。社交界への出入りの停止を併せて勧告します」


傍聴席がざわめく。


私はただ、深く息を吸った。石造りの法廷の空気は冷たくて、肺の奥まで沁みた。


◇◇◇


法廷を出ると、回廊に夕暮れの風が通り抜けた。


石の柱の陰に、ルーカスが立っていた。手に、湯気の立つ陶器の杯を二つ持っている。


「……確認事項はないのですが」


「はい」


「温かい飲み物を。――念のためです」


杯を受け取った。蜂蜜入りのハーブ茶だった。甘菊の匂いが湯気と一緒に立ちのぼる。一口飲む。甘い。侯爵家で飲んでいたハーブ茶より、ずっと甘い。


ルーカスは何も言わなかった。隣に立って、自分の杯に口をつけているだけだった。


回廊の向こうに、冬の空が広がっている。


私は深く、長い息をついた。指先の力が、ゆっくりと抜けていく。


八年分の仕事に、名前がついた日だった。


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