第7話 言葉にならない八年間
あの人は、相変わらず「確認事項がある」と言って来た。
三度目の訪問だ。いい加減、確認事項の在庫が尽きてもおかしくないのだが、ヴェーバー氏は毎回律儀に新しい羊皮紙の束を持ってくる。今日の束は、前回より少し薄かった。
「本日は、港町ノルトハーフェンの漁業権訴訟における証人喚問の手続きについて」
「それは先日の訪問で確認済みでは」
「……追加の確認事項です」
追加。法律家が使う「追加」という言葉には、通常、具体的な根拠が伴う。この人の「追加」には、根拠が見当たらない。――いや、根拠がないことを指摘するのは、今はやめておこう。
客間に茶を運んできた侍女のヒルダが、盆に茶杯を二つ載せていた。もう慣れたものだ。ヴェーバー氏の茶杯は、前回と同じ位置に置かれる。
「クラーラ様。その前に、一つお伝えしたいことがあります」
ヴェーバー氏が書類鞄を閉じた。書類を広げる前に鞄を閉じるのは、法律の話ではないという意味だろう。
「王家の監査が正式に決定しました。監査官カールが来週、侯爵領に入ります」
「……そうですか」
予想していた。領民の直訴があった以上、王家が動くのは時間の問題だった。
「それから」
ヴェーバー氏は少し間を置いた。言葉を選んでいるのだろう。この人が言葉を選ぶとき、視線が少し下がる。靴を見ている。自分の靴か、それとも私の靴か。
「クラーラ様は、十分にやりました」
不意を突かれた。
「……何の話ですか」
「侯爵家での八年間です。引き継ぎ資料を作り、手順書を残し、できることはすべてやった。それでも領地が混乱しているのは、あなたの責任ではありません」
当たり前のことを言っている。法的に見れば、当たり前のことだ。離縁が成立した時点で、私に侯爵家への義務はない。引き継ぎも完了している。残りは侯爵の責任であり、私の関知するところではない。
当たり前のことだ。
当たり前のことなのに、どうして目の奥が熱くなるのだろう。
「ヴェーバー氏。それは法的な助言ですか」
「いいえ」
声が静かだった。法律家の声ではなかった。
「私は、八年間あなたの書面を読んできました。訴訟の準備書面を、契約書の但し書きを、陳情への回答書を。文字の向こう側に、いつもあなたがいました」
手が震え始めた。茶杯を握る指に力が入る。
「論理構成の正確さ。条文の援用の的確さ。それだけではなく、行間に――」
「やめてください」
声が裂けた。自分でも驚くほど鋭い声だった。
ヴェーバー氏が口を閉じる。黙って、こちらを見ている。
◇◇◇
眼鏡を外した。レンズが曇っていた。――いや、曇っているのではない。ただ、視界が滲んでいるだけだ。
「知って、いたんですか」
声が途切れる。普段の論理的な話し方が、どこかへ消えていた。
「書面の向こう側に、私がいたと。八年間、誰にも見てもらえなかったものを、あなたは」
言葉が続かなかった。喉の奥が詰まって、文が組み立てられない。法律家として致命的だ。主語がない。述語もない。ただ断片が零れ落ちる。
「八年間。毎日。封蝋を押して。帳簿を閉じて。陳情書を読んで。誰も――」
ヴェーバー氏は何も言わなかった。黙って、そこにいた。
手の中の眼鏡が震えている。レンズを拭こうとして、指が滑った。眼鏡が膝から落ちかけて、ヴェーバー氏の手がそれを受け止めた。
温かい手だった。インクの染みがついた、少し荒れた指先。書類を扱う人間の手だ。
「……すみません」
「いえ。……眼鏡、お返しします」
不器用な沈黙が落ちた。ヴェーバー氏は眼鏡を返すとき、指が少し震えていた。この人も、平静ではないのだ。
◇◇◇
どれくらいそうしていたのか、わからない。
気がつくと、窓の外が暗くなり始めていた。蝋燭の灯りが客間を橙色に染めている。
「……茶が冷めましたね」
「ヴェーバー氏。あなたの淹れた茶は、最初から冷めていたように思います」
「……すみません。茶を淹れるのは、その、得意ではなく」
そうだった。ヴェーバー氏が自分で淹れ直すと言い張った二杯目の茶は、温度も濃さも壊滅的だった。ハーブの葉をどれだけ入れたのか見当もつかない。苦いを通り越して、もはや煎じ薬のような味がした。
それでも飲んだ。飲めた。舌の上に残る苦味が、涙のあとの渇きを紛らわせてくれたから。――というのは、あとから考えた言い訳だ。正確に言えば、ただ、断る気力がなかっただけだ。
「クラーラ様」
「はい」
「一つ、お見せしたいものがあります」
ヴェーバー氏は書類鞄を開いた。中から取り出したのは、一枚の書類だった。法律事務所の開業申請書。必要事項がすべて記入されている。申請者の欄には、空白。
「法律事務所の開業には、金貨五十リヒトの供託金と、王都法律家協会への届出が必要です。手続きは、こちらで準備しました」
「……何ですか、これは」
「念のためです」
また、「念のため」だ。
「クラーラ様が、もし。侯爵家に戻るのではなく、ご自身の名前で仕事をしたいと思われた場合に。法的な障害がないよう、準備しておきました」
手が震えた。今度は涙ではない。別の何かが胸の底から湧き上がってきている。
自分の名前で。
クラーラ・ヴェルナーの名前で。侯爵夫人としてでも、男爵令嬢としてでもなく。法律家として。
「……ヴェーバー氏。これは確認事項ではありませんね」
「……はい。確認事項は、ありません」
初めて、この人が嘘をつかなかった。いや――正確に言えば、初めて嘘をつくのをやめた。
◇◇◇
翌朝。
庭に出ると、春告げ草が満開だった。薄紫の花弁が朝露に濡れて光っている。風は冷たいが、陽の匂いがする。陽にも匂いがあることを、この家に帰ってきて初めて知った。
書庫の机に、昨夜のうちに広げておいた開業申請書がある。申請者の欄は、まだ空白のままだ。
ペンを取った。インク壺の蓋を開ける。鉄のインクの、少し酸味のある匂い。ヴェーバー氏の匂いと同じだ。――いや、同じインクなのだから当然だ。そこに意味を見出すのは非合理的だ。
申請者の欄に、名前を書いた。
クラーラ・ヴェルナー。
八年間、他人の名前の下で働いてきた。ヘルダーリン侯爵夫人として。夫の功績として。今日から、自分の名前で書く。
ペンを置くと、指先の力が抜けた。深く、長い息をつく。
窓の外では、朝の陽が書庫の埃を金色に照らしている。祖父の法学書が棚に並んでいる。欄外の書き込みが見える。「一字一句が人の人生を左右する」。
そうだ、お祖父様。これからは、自分の一字一句で。
◇◇◇
夕方、ヴェーバー氏から手紙が届いた。
『事務所の候補地を見つけました。……僕の隣ですが』
「僕」。書面で一人称が変わっている。法律家としては不適切だが、指摘する気にはならなかった。
口元が緩んだ。今度は、理由を考えないことにした。




