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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第6話 帰ってきてください

その人は、八年前と同じ深い皺を眉間に刻んで、実家の門に立っていた。


ハインツ。五十五歳。侯爵家に三十年仕えた家令。白髪交じりの髪はきちんと整えられているが、上着の袖口がほつれている。ハインツの袖口がほつれるなど、私は一度も見たことがなかった。この人は自分の身なりを乱すような人ではない。


つまり、それほどの事態だということだ。


「クラーラ様。突然の訪問をお許しください」


深く頭を下げた。その背中が、記憶よりも小さく見える。


「どうぞ、お入りください。ハインツ」


客間に通し、茶を出した。ハインツは茶杯を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。湯気が細く立ち上り、窓から差す午後の光に白く溶けていく。


「侯爵領の状況は、手紙でお伝えしたとおりです。いえ――手紙で書いた以上に、悪くなっております」


声が低い。ハインツの声はいつも低いが、今日は特に底の方から絞り出すような響きがあった。


「商会への支払い遅延は五件に増え、違約金の総額は金貨八十リヒトを超えました。漁業権訴訟は相手方が欠席裁判を申請。領民からの陳情書は三十通を超え、未処理のまま積み上がっています」


金貨八十リヒト。侯爵家の年収の四十分の一を超える額だ。たった二週間で。


「それで、ハインツ。何を確認しに来たのですか」


わかっていて、聞いた。


「……お戻りいただけないでしょうか」


ハインツの手が震えていた。茶杯の中で、水面がかすかに揺れる。


「領民が困っております。商人たちは怒り、訴訟は止まり、税務の申告期限も迫っています。旦那様はリゼッテ嬢に帳簿を任せましたが――」


言葉が途切れた。ハインツは目を伏せる。


「リゼッテ嬢は、どうなりましたか」


「帳簿の付け方をご存じありませんでした。収支の項目を逆に記載し、税率の計算を間違え、商会への発注書に署名の代わりに花の印を押されました」


花の印。帳簿に、花の印。


正確に言えば、それは帳簿ではなくもはや落書きだ。――いや、落書きに失礼かもしれない。


「最終的に、帳簿を暖炉に入れようとなさいました。『こんな面倒なもの、全部燃やしましょう』と」


胃の底が冷えた。暖炉に。帳簿を。


「止めたのですか」


「はい。書記官フリードリヒが取り上げました。ただ、一部の頁は焦げております」


一部の頁。あの帳簿は私が八年かけて整備した複式簿記の体系だ。焦げた頁がどこかによって、修復の難易度がまったく違う。


……いけない。これはもう私の仕事ではない。


◇◇◇


ハインツは、手土産を持ってきていた。侯爵家の厨房で作らせた菓子だと言う。


箱を開けると、砂糖菓子が並んでいた。薔薇の形をした、甘ったるい砂糖菓子。これはリゼッテ嬢の好物だ。


私は甘いものがあまり得意ではない。好みは蜂蜜入りのハーブ茶と、黒パンに塗る木苺のジャム程度。八年間、同じ屋敷に暮らしていて、誰も私の好みを知らなかったのだろうか。


――いや、知ろうとしなかっただけだ。


「ハインツ。お気持ちはわかります。でも」


言葉を選ぶ。慎重に、正確に。


「私が戻れば、また同じことの繰り返しです。私が倒れるまで働き、功績は取り上げられ、限界が来たらまた別の誰かが同じ目に遭う。構造が変わらない限り、人を入れ替えても意味がありません」


ハインツは何も言わなかった。ただ、深い皺の刻まれた顔で、静かにこちらを見ていた。


「領民が困っていることは、わかっています。でも、それは侯爵が解決すべき問題です。侯爵の、責任です」


声が少し震えた。――いけない。ここで揺れてはいけない。


「お引き取りください。ハインツ」


◇◇◇


ハインツが去ったあと、庭に出た。


春告げ草が花を開き始めていた。薄紫の花弁が、午後の風に揺れている。


手が震えていた。冷えたのではない。胃が重いのでもない。もっと奥の、名前のつけられない場所が軋んでいる。


戻るべきだろうか。


領民は何も悪くない。商人たちも契約どおりの対価を求めているだけだ。訴訟の相手方にも権利がある。苦しんでいるのは、私を追い出した人間ではなく、私が守ろうとしていた人々だ。


でも。


戻れば同じことが起きる。私が倒れるまで。あるいは、今度は倒れる前に命が尽きるまで。医師の言葉が蘇る。「次はありません」。


……法的に、侯爵家を助ける義務は、もう私にはない。


離縁は成立した。持参金も請求していない。引き継ぎ資料も作った。私の責務はすべて果たした。


それでも胃が重いのは、きっと砂糖菓子のせいだ。一つだけ食べてしまったから。


◇◇◇


夕方、門の鈴が鳴った。


父が対応に出て、すぐに客間に案内した。


「ヴェーバー氏が確認事項があるそうだ」


ヴェーバー氏。また「確認事項」だ。この人は「確認事項がある」以外の訪問理由を持たないのだろうか。


客間に入ると、ヴェーバー氏は書類鞄を膝の上に載せて座っていた。あの磨き抜かれた黒革の靴が、夕陽に照らされている。


「漁業権訴訟の件で、追加の確認が必要になりまして」


「……そうですか」


自分の声が、思ったより低いことに気づいた。ハインツの訪問のあとだ。まだ、軋んだ場所が元に戻っていない。


ヴェーバー氏は書類を広げかけて、手を止めた。私の顔を見ている。何かを言いかけて、口を閉じた。それからもう一度開いて。


「……確認事項は、明日でも構いません」


「いえ、今日で結構です」


「しかし」


「ヴェーバー氏。私は法律家です。確認事項があるなら、今済ませましょう」


強がりだった。たぶん、この人にもそれが見えていた。


それでもヴェーバー氏は頷き、書類を広げた。淡々と法律の話をした。条文と判例と手続きの話を。感情の入り込む余地のない、乾いた言葉の応酬を。


――ああ、これでいい。法律の話をしている間は、胃の重さを忘れられる。


帰り際、ヴェーバー氏は玄関で振り返った。


「クラーラ様。領民への陳情対応について、法的には王家への直訴が次の手続きになります。すでに領民の一部が王都に向かったという情報があります」


「……王家の監査が入る、ということですか」


「可能性は高いかと。念のため、お伝えしておきます」


王家の監査。それが入れば、侯爵家の統治の実態が白日の下に晒される。八年間の功績が誰のものだったか。そして今、誰がそれを壊しているか。


「……法的に、侯爵家を助ける義務は、もう私にはない」


声に出した。ヴェーバー氏に向けてではない。自分に向けて。


ヴェーバー氏は何も言わず、ただ静かに頭を下げて去っていった。


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