第4話 侯爵家の長い一週間
父の書庫は、記憶よりずっと埃っぽかった。
ヴェルナー男爵邸の東棟。天井まで届く本棚が壁の三面を占め、残りの一面は曇り硝子の窓になっている。子供の頃はここが世界のすべてだった。祖父の膝の上で法学書を開き、インクと古い羊皮紙の匂いに包まれて育った。
今、その匂いは少し違う。記憶の中よりも乾いていて、どこか甘い。たぶん、長い間誰も開けなかった書物の匂いだ。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
侍女のヒルダが盆を運んできた。蜂蜜入りのハーブ茶。湯気がまっすぐ立ち上っている。
「ありがとう。――ヒルダ、私はもう『お嬢様』で構わないの?」
「旦那様がそうお呼びするようにと」
つまり、父は私が帰ってくることを前提にしていた。いや、正確に言えば、帰ってこられるように準備していた、というべきか。
茶を一口含む。舌の上で蜂蜜が溶ける。こんなにゆっくり茶を飲むのは、八年ぶりかもしれない。侯爵家では、茶は書類に染みをつけないよう気を遣いながら、冷めてから一気に流し込むものだった。
◇◇◇
三日目。身体は少しずつ回復していた。
医師の言いつけどおり午前中は寝台の上で過ごし、午後になると書庫に降りる。そこで何をするわけでもなく、祖父の法学書を棚から抜いて、適当に頁を開く。
面白いことに気がついた。祖父は欄外に書き込みをする人だった。「この判例は再考の余地あり」「ペーターに要確認」「この条文、起草者は酔っていたのか?」。几帳面な筆跡の中に、たまに力の抜けた感想が紛れている。
――お祖父様、あなたも法律に毒づくことがあったんですね。
思わず口元が緩んだ。こういう時間の過ごし方を、私は忘れていた。というより、知らなかった。侯爵家の八年間に、用のない本を手に取る余裕など一度もなかったから。
◇◇◇
五日目の午後。庭の木椅子に座って日向ぼっこをしていたとき、父がやってきた。
「客間で茶を飲まないか」
父の顔は穏やかだったが、眉間に深い皺が刻まれている。この皺は昔からあった。研究費で借金を作ってしまった罪悪感が、十年経っても消えないのだろう。
客間に入ると、父は向かいの椅子に腰を下ろし、ゆっくりと話し始めた。
「町に出た商人から聞いたのだが。ヘルダーリン侯爵領で、少し騒ぎが起きているそうだ」
「……騒ぎ」
「商人たちへの支払いが滞っているらしい。契約どおりの期日に銀貨が届かなかった商会が三つ。うち一つは違約金の請求に動いたとか」
指先が冷えた。――いや、冷えたのは指ではなく、胃のほうだ。
支払期日の管理は私の仕事だった。毎月の帳簿照合、四半期ごとの予算配分、商会ごとの契約条件の確認。書記官フリードリヒに手順は引き継いだ。十四冊の資料にすべて書いた。あの資料さえ読めば、誰でもできる作業のはずだ。
読めば。
読んでいればの話だけれど。
「それから」父は茶杯に目を落とした。「港町ノルトハーフェンの漁業権訴訟、次回期日に侯爵家の代理人が出廷しなかったそうだ。裁判所から督促状が出ている」
漁業権訴訟。あの案件は処理に三年かかっていた。相手方の証拠整理だけで引き継ぎ資料二冊分を使った。期日は――確か、今月の十五日。
「お父様、それは私が聞くべき話ではありません」
声が少し硬くなった。自分でもわかった。
「もちろんだ。ただ、知らせておいたほうがいいかと思ってな」
父は穏やかに頷いた。責めてはいない。ただ、事実を伝えている。
◇◇◇
六日目。一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、指が止まった。ハインツ。侯爵家の家令だ。
封蝋はヘルダーリン家の紋章。馴染みのある鷲の意匠。八年間、何百回この紋章を押してきたか。封蝋の縁がわずかに歪んでいる。ハインツは几帳面な人だから、手が震えていたのだろう。
手紙を開く。
『クラーラ様。突然の書状をお許しください。侯爵領の業務が停滞しております。引き継ぎ資料の在処がわかりません。旦那様の執務室を探しましたが、見つかりませんでした。もし所在をご存じでしたら、お教え願えませんでしょうか。ハインツ』
見つからない。
十四冊の引き継ぎ資料が、見つからない。
あの日、旦那様の執務机の上に積み上げた。杯の隣に。それを「そんなもの」と手を振った旦那様の姿が浮かぶ。
どこへやったのだろう。引き出しに入れたのか。書庫に移したのか。それとも――考えたくはないが、本当に読む価値がないと判断して、処分でもしたのだろうか。
胃が重い。
この手紙に返事を書くべきか。在処を教えるべきか。いや、教えたところで、資料を読みこなせる人間がいなければ同じことだ。法務の判断ができるのは私だけだった。つまり、書記官には手順は渡せても、判断の軸は渡せない。それは八年かけて私の中に積み上げたものだから。
手紙を、丸めた。
丸めてから、しばらくそのまま手の中で握っていた。羊皮紙の皺が指に食い込む。
――私の責任ではない。
引き継ぎ資料は作った。手順書も書いた。やるべきことはすべてやった。あとは向こうの問題だ。
手紙を文机の引き出しに入れた。丸めたままだったことに気づいたが、広げ直す気にはならなかった。
◇◇◇
七日目の午前。庭に出た。
春告げ草が芽を出し始めていた。薄紫の蕾が土を押し上げて、まだ花開いてはいない。冬の残りの冷たい風が頬を撫でる。
木椅子に腰掛けて、何もしなかった。
何もしない、ということが、こんなに難しいとは知らなかった。正確に言えば、こんなに落ち着かないとは思わなかった。手が所在なく膝の上に置かれている。ペンもなく、書類もなく、封蝋もない。何もない手の平がやけに広く感じる。
でも、陽が温かい。
目を閉じると、まぶたの裏が橙色に染まる。鳥が鳴いている。何の鳥かは知らない。侯爵家では鳥の声を聞く時間がなかった。
八年ぶりに、「何もしない午前」を過ごしている。
これは怠惰だろうか。――いや、これは回復だ。医師がそう言っていた。休むことも仕事のうちだと。あの言い方は法的に不正確だが、趣旨は理解できる。
風が吹いた。春告げ草の蕾が揺れる。私の髪も揺れる。
たぶん、これでいい。
◇◇◇
その日の夕方、父が書庫にやってきた。珍しく表情が硬い。
「クラーラ。手紙が届いた。王都の法律事務所からだ」
「法律事務所?」
父は封書を差し出した。封蝋は見慣れない紋章。差出人は『ヴァイセンブルク第三法律事務所』。
「ヴェルナー男爵閣下宛てだ。だが、内容はおそらくお前に関わることだろう」
私は封書を受け取った。羊皮紙は上質で、厚みがある。王都の事務所が使う類の紙だ。
まだ開けていない。封蝋の鷲の意匠が、蝋燭の灯りに赤く光っている。
――これはいったい、何の用件だろう。




