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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第3話 さようなら、侯爵夫人

引き継ぎ資料は、全部で十四冊になった。


三日かけて仕上げた。寝台の上で、膝の上に書き板を載せ、まだ少し震える指でペンを握った。領民からの陳情書の処理手順、商会ごとの契約条件一覧、訴訟案件の進捗と期日、税務申告の年間スケジュール。それから、書記官フリードリヒへの引き継ぎ指示書。


丁寧に、正確に。一字の曖昧さも残さないように。


これが最後の仕事だと思えば、不思議と手は震えなかった。


◇◇◇


旦那様の執務室の扉を叩く。三回。いつもと同じように。


「入りなさい」


部屋に入ると、オーク材の机の上にワインの杯が二つ。片方にはまだ飲みかけの赤が揺れていて、リゼッテ嬢の甘い香水がかすかに漂っている。さっきまで二人でいたのだろう。


旦那様は椅子に深く座り、いつもの社交的な微笑みを浮かべていた。明るい茶色の髪を軽く撫でつけ、仕立ての良い上着のボタンに指をかける。人当たりの良さだけなら、王国でも五指に入るかもしれない。


「ああ、クラーラ。もう身体は大丈夫かい?」


「ええ。それで、旦那様。お話があります」


十四冊の資料を机の上に積んだ。旦那様の杯の隣に、革表紙の帳面がずらりと並ぶ。


「これは何だい」


「引き継ぎ資料です。法務、税務、交渉、訴訟――私が担当していた業務のすべてを記録してあります。書記官フリードリヒへの指示書も含まれています」


旦那様は資料の山を見て、軽く眉を上げた。驚いたというより、面倒なものが目の前に現れた、という顔だった。


「ずいぶん大げさだね。少し休めば、またすぐ戻れるだろう?」


「戻りません」


沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れる。


「離縁届を、こちらに用意しました。署名をいただければ、王家への申請手続きは私が進めます」


羊皮紙を机に置いた。離縁届。この三日間で最も神経を使った書類だ。法的に瑕疵がないよう、婚姻法の条文を五回読み直した。持参金の返還条項、財産分与の条件、離縁の事由――すべて正確に記載してある。


離縁事由の欄には「配偶者の不貞行為」と書いた。もう一つ書き加えたい事由があった。「八年間の功績の不当な横領」。ただし、それは法律上の離縁事由には該当しない。だから書かなかった。法は、心まで守ってはくれない。


旦那様の微笑みが、ほんの少し固くなった。


「待ってくれ。何か不満があるなら、言ってくれればよかったのに」


その言葉が来ることは、わかっていた。


八年間で何度聞いたか数えきれないその台詞が、旦那様の口から滑り出す。「言ってくれれば手伝ったのに」。いつもと同じ、困ったような微笑みを添えて。


「――八年間、言い続けていたのに」


声は平坦だった。震えもしなければ、高くもならない。ただ事実を述べている。法廷で証言するように。


「帳簿の確認を頼みました。書記官の増員を三度申請しました。商会との交渉への同席を、毎年お願いしました。旦那様はすべて『君は好きでやっているんだろう?』とおっしゃいました」


旦那様の表情が固まった。何か言おうとして、口を開き、閉じる。


「それから」


資料の山の一番上に、手を置いた。


「この引き継ぎ資料、お目通しください。私の代わりに業務を引き継ぐ方が必要です」


「そんなもの――」旦那様は手を振った。「君がいなくても、なんとかなるさ。書類仕事だろう。他の者にやらせればいい」


書類仕事。


趣味。


八年間の私の仕事を要約すると、旦那様にとってはその二語に収まるらしい。


「あの書類を"趣味"と呼ぶなら、この領地は趣味で回っていたんですね」


静かに言った。旦那様が息を呑む音が聞こえた。――いや、聞こえた気がしただけかもしれない。


離縁届の署名欄を指差す。


「こちらに署名を。不貞の事由に基づく離縁ですので、旦那様の署名がなくとも王家の裁定で成立しますが、双方合意のほうが手続きは円滑です」


不貞、という単語で旦那様の頬が引きつった。リゼッテ嬢との関係は「友人」ということになっていた。少なくとも、旦那様の中では。


「……わかった」


ペンを取る手が、わずかに震えていた。署名が終わると、旦那様は顔を上げてこう言った。


「引き継ぎ資料は、まあ、あとで目を通そう」


目を通さないだろう。わかっている。十四冊の引き継ぎ資料は、おそらく旦那様の執務室の隅に積まれたまま埃を被る。


でも、私はやるべきことをやった。


引き継ぎ資料を作った。後任への指示書を書いた。できることは全部やった。それでも「そんなもの」と言われるなら、もう私の責任ではない。――そう思うことに、罪悪感はない。ないはずだ。ないと、決めた。


◇◇◇


廊下に出ると、ハインツが壁際に立っていた。何も言わず、深く頭を下げた。その奥の廊下に、侍女が二人、下働きの女が一人。みな、黙って頭を下げている。


「皆さん、お世話になりました」


声が少し掠れた。――いけない。ここで崩れるわけにはいかない。


荷物は革の書類鞄ひとつ。着替えと、銀縁の眼鏡と、業務日誌の最後の一冊。十三冊は引き継ぎ資料と一緒に旦那様の執務室に置いてきた。あれは侯爵家の記録だ。持ち出すわけにはいかない。


最後の一冊だけ、持っていく。これは記録ではなく――なんというか、私の日記のようなものだから。いや、日記とも違う。ただ、手放せなかっただけだ。


玄関を抜け、門に向かう。冬菩提樹の枯れ枝が風に鳴っている。門扉の鉄が冷たい。


ふと振り返ると、玄関の花瓶が目に入った。


花が枯れている。


私が生けたのは、十日前だ。水を替える者がいなかったのだろう。茶色く縮れた花弁が、花瓶の縁にもたれかかっている。


――ああ、こういう小さなことから崩れていくのだろう。


門を出る。


冬の空気が肺を満たした。冷たくて、少し痛い。でもこの痛みは、八年間の痛みとは種類が違う。


深く息を吸う。肺の奥まで冷たい空気が入って、それから出ていく。身体が軽いのか重いのか、よくわからない。


足元の石畳に霜が降りていた。朝の陽に照らされて、細かい氷の粒がきらきら光っている。こんなもの、八年間一度も見たことがなかった。早朝はいつも執務室にいたから。


空が、広い。


当たり前のことを、今さら思う。侯爵家の窓から見る空は、いつも窓枠に切り取られていた。こうして外に立つと、空には枠がない。


背筋を伸ばす。革の鞄が肩に食い込む。


クラーラ・ヴェルナー。それが私の名前だ。ヘルダーリン侯爵夫人ではなく。


もう、振り返らない。


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