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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第2話 それを趣味と呼ぶのなら

天井の染みを数えるのは、思えば初めてのことだった。


寝台の白いシーツが肌に冷たい。枕元に薬草茶の湯気が漂っていて、鼻の奥がつんとする。甘菊ではない、もっと薬臭い配合。身体のどこかが痛いはずなのに、どこが痛いのかよくわからない。全部、かもしれない。


「過労です」


医師のグレーゼル先生は白髪を掻きながら、実に簡潔だった。


「侯爵夫人。端的に申し上げます。このまま今の生活を続ければ、命に関わります」


命。その単語が妙に遠く聞こえた。書類に出てくる「命」は、いつも他人のものだった。土地の権利、相続の問題、損害賠償――法律の文脈で「命」は「生命侵害に対する慰謝料請求権」として処理される。


私自身の命が議題に上がるのは、つまり、――いえ、正確に言えば、初めてではないかもしれない。三ヶ月前にも目眩で倒れかけた。あのときは壁に手をついて事なきを得たから、数に入れていなかっただけで。


「食事は摂れていますか」


「……摂っています。たぶん」


たぶん、という答えが医師の眉間の皺を深くした。嘘ではない。朝食は口にしている。昼は書類を片手にパンを囓ることが多く、夕食は鐘を聞き逃すことが――。


「体重が、前回の診察から七ポンド落ちています」


七ポンド。それは多いのか少ないのか、法学では計れない。


◇◇◇


医師が去った後、午後の陽が窓から差し込んだ。


八年間、この時間に寝台にいたことがない。午後は商人との面会か、書記官への指示出しか、陳情書の処理に充てる時間だ。何もしていない自分が、奇妙に思えた。


――いや、奇妙に思えること自体が、おかしいのかもしれない。


扉を叩く音がした。控えめではない、遠慮はしているが遠慮しきれない種類のノック。


「お加減はいかが? 少しだけ、お見舞いに参りました」


リゼッテ・フォン・メルツ。男爵令嬢。旦那様の――なんと呼べばいいのだろう。友人、と旦那様は言う。社交界の一部では、もっと別の言い方をしているらしい。


薄い桃色のドレスに銀の髪飾り。見舞いにしては華やかな装い。部屋に入ると、甘い花の香水が薬草茶の匂いを塗り潰した。


「大変でしたわね、奥様。お仕事を頑張りすぎてしまったのでしょう?」


微笑みながら、リゼッテ嬢は枕元の椅子に腰かけた。


「あなたは事務仕事が好きなだけでしょう? ご趣味が高じて、つい無理をなさったのね」


趣味。


その単語が、思ったより深い場所に刺さった。


三晩徹夜した帳簿の整理を、趣味と呼ぶ。商会との値切り交渉を夜通し続けたことを、趣味と呼ぶ。領民の陳情に一件ずつ回答を書いたことを、趣味と呼ぶ。


「ヴァレンティン様も心配なさっていましたわ。奥様がいないと書類が溜まるって」


ああ、そうだろう。溜まるだろう。私がいないのだから。


「無理はなさらないでくださいね。私でよければ、何かお手伝いしますわ」


リゼッテ嬢の指先は白く、爪が丁寧に磨かれていた。インクの染みもペンだこもない、きれいな手。あの手で帳簿を開いたことはないだろう。契約書の条項を一つ一つ精査したことも。


――いけない。人の手を見て仕事ぶりを推し量る癖は、祖父の悪い遺伝だ。


「ありがとうございます、メルツ嬢。お気持ちだけで十分です」


笑顔を作る。八年間で上手くなった笑顔だ。口角を上げて、目尻を少し下げて、声の温度を二度ほど上げる。これは交渉術の応用であって、本心の表明ではない。


「それと奥様、ヴァレンティン様がおっしゃっていましたわ。『言ってくれれば手伝ったのに』って」


――また、その言葉。


喉の奥が詰まる感覚がして、私は薬草茶の碗に手を伸ばした。ぬるくなった茶を一口含む。苦い。苦いけれど、その苦味で喉の詰まりが少しだけ薄れる。


「お伝えしておきますわ。奥様がゆっくり休めるように、って」


リゼッテ嬢が去った後、部屋に花の香水の匂いが残った。窓を開けたかったが、身体が言うことを聞かない。枕に顔を埋めると、自分の髪からインクの匂いがした。風呂にも入れていなかったのか。


◇◇◇


夕暮れ。


寝台から手を伸ばせる範囲に、私の持ち物はほとんどない。銀縁の眼鏡。ハインツが運んでくれた着替え。それから、枕元に一冊だけ置いた業務日誌。


最新の一冊。表紙はまだ綺麗だ。開くと、昨日の日付がある。整った文字で、処理した案件が五件、未処理が十二件と記されている。


十二件。


私が倒れたことで、あの十二件は宙に浮いている。商人への支払い期限は来週。訴訟の準備書面は明後日が提出期限。領民の陳情のうち二件は、今月中に回答しなければ王都に直訴される恐れがある。


それらすべてが、今、誰の手にも渡っていない。


書記官のフリードリヒは記録と写字は正確だが、法的判断を任せたことはない。家令のハインツは家政の専門家だが、対外交渉は門外漢。旦那様は――旦那様は、書類の山がどこにあるかすら知らないだろう。


胃の奥が重い。この重さが責任感なのか罪悪感なのか、正確に分類できない。


嫁いだ日のことを思い出す。十八歳だった。侯爵家の執務室に初めて入ったとき、書類が埃を被って山積みになっていた。先代侯爵が急逝した混乱のまま、二年分の案件が放置されていた。あのとき、「これは私の仕事だ」と思った。思ってしまった。


それが間違いの始まりだったのか、それとも正しかったのか。八年経っても答えが出ない。


たぶん、両方だ。


でも、とも思う。この重さを、あと何年抱えられるだろうか。


日誌を閉じた。表紙の革の手触りが指先に冷たい。


命に関わる、と医師は言った。


つまり、このまま続ければ死ぬ、ということだ。法律文書風に言い換えれば、「現状の業務負荷を維持した場合、生命に対する重大な危険が生じる蓋然性が高い」。


……我ながら、こんなときまで法律用語に逃げ込む自分が、少しおかしかった。


日誌を胸に抱えたまま、天井の染みを数え直す。七つ。昼に数えたときと同じ。変わっていない。


何かを、変えなければならないのだ。


けれどそれが何なのか、まだ、正確に言葉にできない。


指先が日誌の表紙をなぞる。革の凹凸が爪に引っかかる。この日誌を、明日も書くのだろうか。明後日も。来月も。来年も。


――来年の私は、まだ息をしているのだろうか。


窓の外で、最後の鐘が鳴った。今度は、聞こえた。


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