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言ってくれれば手伝ったのに、と夫は笑った。八年間、言い続けていたのに  作者: 九葉(くずは)


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第1話 八年目の書類仕事

封蝋が乾くまでの三十秒が、今日いちばん長い時間だった。


赤い蝋に侯爵家の紋章を押しつけ、私はそっと手を離す。紋章の鷲が少し右に傾いている。――いつからだろう、この押印台の軸がずれ始めたのは。直さなければ、と思いながらもう二年は経つ。


蝋燭の芯がぱちりと爆ぜた。


執務室の窓の外は、とうに暗い。夕食の鐘はとっくに鳴ったはずだが、正直なところ、鳴ったかどうかすら記憶にない。羊皮紙の山が机の右半分を占拠し、左半分には商人との契約書が三通、領民からの陳情書が七通、税務の修正申告が二件。それから、今し方封をした訴訟の準備書面が一通。


つまり、今日の仕事はまだ半分も終わっていない。


ペンを取り直す。鉄製のインク壺の蓋を開けると、かすかに酸の匂いがした。このインクは質が悪い。前に発注したものより一段落ちる。――きっと、予算が削られたのだろう。交際費に回されたか。


書記官のフリードリヒが帳簿をまとめた報告書を、今朝、旦那様の執務室に届けた。


私が三晩かけて整理した帳簿だ。


その報告書を、午後になって偶然目にした。旦那様の机の上に広げられた王都への提出用の写しに、署名欄があった。


「ヴァレンティン・ヘルダーリン」


――私の名前は、どこにもなかった。


正確に言えば、驚いてはいない。これは初めてのことではないのだから。昨年の商会との大口契約も、一昨年の隣領との境界紛争の和解も、署名はすべて旦那様だった。私は書類を作り、交渉のすべてを担い、結果だけが旦那様の功績として王都に届く。


それが、この八年間の仕組みだった。


(仕組み、か。仕組みと呼ぶには、あまりにも――)


ペンの先が紙の上で止まる。いけない。訴訟の準備書面に私情を混ぜるわけにはいかない。


右手の人差し指と中指の腹が硬い。ペンだこ、というには年季が入りすぎている。祖父もこんな指をしていた。高等法院判事として何千枚もの判決文を書いた祖父の指。「一字一句が人の人生を左右する」と教えてくれたあの人の指に、私の指は似てきたのだろうか。


――似ていたとして、だから何だというのか。


祖父の仕事には名前があった。判決文の末尾には「高等法院判事ヴェルナー」と記されていた。私の仕事には、名前がない。


窓硝子に自分の顔がぼんやり映っている。銀縁の眼鏡の奥で、目の下に影ができていた。いつからこんな顔になったのか、覚えていない。たぶん、気づかないうちに少しずつ。


◇◇◇


廊下を歩く足音が聞こえて、執務室の扉が控えめに叩かれた。


「奥様、まだお仕事を?」


家令のハインツだった。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけた初老の男は、蝋燭の灯りに目を細めて眉間に皺を寄せる。


「もう少しで終わります」


「失礼ですが、奥様。昨晩もそうおっしゃいました」


「……昨晩は本当にもう少しでした。今夜は、つまり」


言葉が途切れた。もう少しではないことを、ハインツは知っている。私も知っている。


「せめてハーブ茶をお持ちします」


断る理由がなかった。ハインツが去った後、執務室に静けさが戻る。蝋燭の芯がまた爆ぜた。二本目の蝋燭も、そろそろ短い。


机の引き出しを開けると、革表紙の帳面が並んでいる。業務日誌。この八年間、一日も欠かさず書いてきた記録。一冊目の表紙は手の脂で黒ずみ、背表紙の糸がほつれている。


八年分。数えたことはないけれど、たぶん、十冊は超えている。


これが、私の八年間のすべてだった。報告書に名前が載ることのない、誰にも知られることのない仕事の記録。


日誌の最新の頁を開く。今日の日付の隣に、処理した案件を書き込む。書きながら、ふと手が止まる。


この日誌を読む人間は、私以外にいない。


読まれることのない記録を、それでも書き続けている。理由を問われたら、なんと答えるだろう。たぶん、「記録は正確であるべきだから」と言う。それは嘘ではない。でも全部でもない。


なんというか――この日誌だけが、私がここにいた証拠なのだ。


日誌を引き出しに戻し、鍵をかけた。鍵の金属が指に冷たい。


◇◇◇


思い出したくないのに、記憶が浮かぶ。


三年前。領民への減税措置の書類を完成させた夜、旦那様に報告に行った。


「ああ、ご苦労。言ってくれれば手伝ったのに」


微笑みながら、旦那様はワイングラスを傾けていた。隣にはリゼッテ嬢が座っていた。甘い香水の匂いが、廊下にまで漂っていたのを覚えている。


言った。何度も言った。


帳簿の確認だけでもお願いしたい、と。書記官をもう一人増やしてほしい、と。商会との交渉に一度同席してほしい、と。


返事はいつも同じだった。


「君は好きでやっているんだろう?」


好きで――。


好き。確かに、嫌いではなかった。法学は祖父から受け継いだ誇りであり、契約書の一字一句を精査することに意味を見出していたのは事実だ。


でも「好きでやっている」と「一人で担うべきだ」は、まったく別のことだ。


五年前にも、同じことを言った。商会との契約更新の直前、徹夜が三日続いたあとで。旦那様は目を丸くして、それから困ったように笑った。


「そんなに大変なら、量を減らせばいいじゃないか」


量の問題ではない。構造の問題だ。――いや。それを説明しても、きっと伝わらない。八年間伝わらなかったものが、今さら届くはずがない。


ハインツがハーブ茶を持ってきた。湯気が立ちのぼり、薄荷と甘菊の匂いが鼻をくすぐる。一口飲む。苦い。この配合は胃に良いらしいが、正直なところ、美味しいとは思えない。けれど飲む。飲まなければ身体がもたないことを、身体のほうが先に知っている。


茶碗を机の端に置いた。置いた場所が悪くて、陳情書の角にぶつかる。書類がずれ、積み重ねた順番が崩れた。直さなければ。陳情は受付順に処理する決まりだ。順番を間違えると領民に不公平が生じる。


陳情書の七通目に手を伸ばしたとき、右手の指先が震えていることに気づいた。


ペンを握り直す。握り直して、もう一度。


文字が滲んだ。インクが悪いのだろうか。いや、違う。


指先の感覚が遠い。蝋燭の炎が二重に見える。


立ち上がろうとして、椅子の脚が床を擦る音がした。それが妙に大きく聞こえて、次の瞬間には、音が遠のいた。


封をしたばかりの準備書面の上に、影が倒れ込む。


封蝋の鷲が、少し右に傾いたまま――。


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