第3章:無限の鼻水、あるいは神の鼻栓
昭和25年の山中。
高根沢は、猛烈な勢いでスギの苗木を地面に突き刺していく村人たちの熱狂を、ただ呆然と見守るしかなかった。
「おい、あんた! 何を突っ立ってるんだ! ほら、この苗木を運ぶのを手伝ってくれ! あんたのおかげで、村の将来はスギ一色だ!」
源三が、希望に満ちた(そして高根沢にとっては悪魔のような)笑顔で手招きする。
歴史は、完全に狂った。本来なら「スギとヒノキ、そして雑木が混ざり合う、それなりに多様性のある山」になるはずだったこの地は、今、高根沢がうっかりヒノキを全滅させたせいで、純度100%の「スギ・デスロード」へと変貌を遂げようとしていた。
(終わった……。俺が……俺の手が、未来を黄色く塗り潰してしまった……)
高根沢は、ガクガクと震える膝をついた。
彼は未来を救うために来たはずだった。しかし、彼が持ち込んだ「未来の技術(超音波装置)」と「未来の嗜好品(羊羹)」は、あろうことか戦後の日本人の勤勉さに火をつけ、スギへの信仰をブーストさせてしまったのだ。
「……帰らなきゃ」
彼は、村人たちが「スギ! スギ!」とシュプレヒコールを上げる狂乱の植林現場から、這うようにして脱出した。背後で、源三が「あの羊羹の人に銅像を建てよう!」と叫ぶ声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
茂みに隠した『ノーズ・ダイバー』に飛び込み、緊急帰還シークエンスを起動する。
転送の直前、彼は最後にもう一度だけ、昭和の澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。これが、自分の人生で最後となる「清浄な酸素」になるかもしれないという予感があったからだ。
「……さらば、鼻の自由よ」
閃光。そして、内臓が裏返るような次元転送の衝撃。
次の瞬間、高根沢の意識は、20XX年の『アンチ・ポレン』本部の地下室へと引き戻された。
ハッチがゆっくりと開く。
「……っ!?」
高根沢は、反射的に身構えた。
だが、鼻腔を襲うはずの「あの刺激」が来ない。
イエロー・アウトの黄色い霧も見えない。実験室の空気は、驚くほど無機質で、澄んでいた。
「……成功したのか?」
彼は恐る恐るハッチから這い出した。
そこには、及川局長が立っていた。しかし、その姿は一週間前とは劇的に異なっていた。鼻に突き刺していたチタン製フィルターはなく、顔を覆っていた防護マスクも外されている。
「戻ったか、高根沢。……顔色が悪いな」
「局長……。外の、外の様子はどうなっているんですか? スギは……スギはどうなりました?」
及川は、静かにモニターを指差した。
そこには、かつてのスギ山が映し出されていた。しかし、そこにあるのは枯れ果てた茶色の山肌だった。
「君の報告通り、昭和25年に『スギの過密植林』が行われた結果、数十年後に原因不明のスギ専属の病害虫が発生してね。日本中のスギは、今から十年前に絶滅したよ。一本残らずな」
高根沢は、その場に崩れ落ちた。
「やった……。やったぞ! 俺は勝ったんだ! スギに勝ったんだ!」
歓喜の涙が溢れる。スギの絶滅。それは、彼が夢にまで見た「花粉症からの解放」を意味していた。
「見てください、局長! 俺の鼻が、一回もクシャミをしていない! 鼻水が出ていない! 目も痒くない! 自由だ! 自由万歳!!」
高根沢は、狂ったように笑い転げた。
しかし、及川の表情は、どこまでも冷徹だった。
「……高根沢。君は、一つ大きなことを見落としている」
「え……?」
「スギが絶滅し、日本の山々は禿山になった。木材自給率はゼロ。政府は焦った。そこで、30年前……ある『代替樹木』の導入を決定したんだ」
高根沢の背筋に、冷たいものが走った。
及川が、窓のブラインドを開けた。
外の世界には、確かに「黄色い霧」はなかった。
その代わりに、空を覆い尽くしていたのは、不気味なほど真っ白な雪のような粉塵だった。
「……なんだ、あれは」
「『ネオ・ヒノキ』だよ。君が過去でヒノキを全滅させた際、残っていた僅かな細胞片から、当時の科学者が無理やりバイオテクノロジーで復元・強化した新種だ。成長スピードはスギの三倍。木材の強度は鉄に匹敵する。そして……」
及川が、重々しく告げた。
「放出される花粉の粒子サイズは、スギの十分の一。従来のあらゆるマスクを透過し、肺の奥深くにまで到達して、人間のDNAを書き換えるレベルの劇烈なアレルギー反応を引き起こす。……通称『ホワイト・デス(白い死神)』だ」
その瞬間。
高根沢の鼻の奥で、かつてないほどの**「地殻変動」**が起きた。
「ハ……ッ……」
クシャミの予兆ではない。それは、肉体が崩壊する前の悲鳴だった。
高根沢の目から、血のような涙が溢れ出した。鼻の粘膜が、まるで沸騰した油を注がれたかのように熱くなる。
「ハ……ハックショォォォォォォン!!!」
あまりの衝撃に、高根沢の体は三メートルほど後ろに吹き飛び、壁に激突した。
鼻から放出されたのは、もはや鼻水というレベルではない。高圧洗浄機のような勢いの液体が、部屋中を白く染めた。
「ああ、言い忘れていたが、高根沢」
及川は、最新型の「全身循環式・人工肺ユニット」のスイッチを入れながら、無慈悲に言った。
「その『ネオ・ヒノキ』、飛散時期が1月から12月まで……つまり、年中無休だ。おめでとう。日本から『春の悩み』は消えた。代わりに、一年中が地獄になったがね」
高根沢は、真っ赤に腫れ上がった目で天井を見上げた。
視界の端で、カレンダーが揺れている。
そこには、もはや「春」という区切りはなかった。すべての月が「ヒノキ警報」の赤いマークで埋め尽くされている。
「……局長」
高根沢は、意識が朦朧とする中で、絞り出すように言った。
「次、次は……どこへ行けばいいですか」
及川は、新しいスーツケースを差し出した。
中に入っているのは、昭和30年代の地図と、山のような『羊羹』。
「次は、ヒノキのバイオ復元を提唱した若き日の科学者を止める。……だが、気をつけろ。歴史の修正力によれば、もしヒノキを消せば、次は『ブタクサ』が巨大化して歩き回る歴史が待っているという試算も出ている」
「……イタチごっこだ」
「ああ、イタチごっこだ。だが、やるしかない。我々の鼻が、物理的に爆発する前にな」
高根沢は、再び『ノーズ・ダイバー』に乗り込んだ。
ハッチが閉まる直前、彼は自分に向かって心の中でツッコミを入れた。
(……っていうか、もう『木』を植えるの禁止にしろよ、この国!!)
カウントダウンが始まる。
「3……2……1……点鼻完了!」
高根沢は、再び過去へと飛んだ。
いつの日か、ティッシュを持たずに空を見上げられる日を夢見て。
その手には、世界を救うための(あるいはさらなる悲劇を招くための)高級羊羹が、しっかりと握られていた。
【エピローグ】
数分後。
誰もいなくなった実験室に、局長の及川の、小さなくしゃみが響いた。
「……フシュン」
彼は、自分の鼻の下をそっと拭った。
そこには、かつてのスギよりも、今のネオ・ヒノキよりも恐ろしい、**「未知の青い花粉」**が付着していたが、彼はまだそれを知らない。
歴史の修正は、まだ始まったばかりだった。
(おわり)




