第2章:苗木と羊羹、あるいは善意の暗殺者
昭和25年。戦後の復興という名の熱気が、まだ焦げ臭い土の匂いとともに立ち込める時代。
高根沢は、丘の上の男――ターゲットである杉山源三を、物陰からじっと見据えていた。
(……あいつか。数千万人の鼻粘膜を破壊する「元凶」の種をまく男は)
高根沢の視界は、現代の「イエロー・アウト」による濁りとは無縁で、驚くほどクリアだ。未来では失われた「本当の青空」がそこにはあった。だが、彼にとってこの清々しい空気は、嵐の前の静けさに過ぎない。数十年後、この場所は黄色い粉塵が舞い踊る地獄絵図と化すのだ。
「よっこらしょっと。……よし、このあたりにするかな」
源三が荷物を下ろした。彼は手慣れた手つきでスコップを握り、愛おしそうに一本のスギの苗木を手に取った。その顔は、慈愛に満ちている。
「しっかり育てよ。お前が大きくなれば、村の子供たちが立派な家に住めるようになるんだからな」
その言葉を聞いた瞬間、高根沢の右鼻の奥が「ピクッ」と疼いた。条件反射だ。善意。それこそが最もタチが悪い。悪意で植えられたのなら焼き払えば済むが、この男は「未来の幸せ」を願って植えているのだ。
「……待て。その呪いの棒を地面に突き刺すのは、俺が許さん」
高根沢は、物陰からゆっくりと姿を現した。
彼の格好は、未来の「防護服」を脱ぎ捨てたものの、下に着ていたタクティカル・アンダーウェアが妙にピチピチしており、昭和の村人から見れば「変な色のモジモジくん」にしか見えない。
「おや、あんた……見ない顔だな。どこの人だね?」
源三が不思議そうに首を傾げた。その瞳は、濁りを知らない。
「通りすがりの、鼻の守護者だ」
高根沢は、懐から銀色の包みを取り出した。未来から持参した、戦略兵器――『とらや』の高級羊羹である。
「……それを植えるのをやめて、この羊羹を食え。話はそれからだ」
源三は、差し出された羊羹の、見たこともない上品な包装に目を丸くした。
「よ、羊羹……? こんな上等なもん、見たことねえ。いいのかい、俺みたいなもんに」
作戦は順調だった。源三が羊羹のあまりの美味さに悶絶している隙に、高根沢は手際よく作業を開始した。未来の特殊部隊で培った隠密スキルを、今、「苗木の抜き取り」に全投入する。
源三が「ほっぺたが落ちるようだ!」と涙を流しながら羊羹を頬張っている背後で、高根沢は音もなく移動し、植えられたばかりの苗木を次々と引き抜いていった。ただ抜くだけではない。根元に、未来から持ってきた「超強力・植物成長抑制剤(ただし人体には無害)」を注射していく。
(これでいい。このエリアのスギは、二度と芽吹かない。歴史が変わる音がするぞ……!)
だが、事態は高根沢の予想を超えた展開を見せる。
羊羹を食べ終えた源三が、感激に震えながら立ち上がったのだ。
「あんた……! こんな美味いものをくれるなんて、神様みたいな人だ! あんたの心意気に打たれたよ。俺は決めたぞ!」
「……ほう、植林をやめる決心がついたか」
高根沢が冷徹に微笑む。しかし、源三の言葉はその斜め上を行った。
「いや! こんなに美味い羊羹をくれたあんたの恩に報いるためにも、俺はもっと頑張らなきゃいかん! 明日から、隣の村の連中も巻き込んで、この山の十倍の規模で植林をすることにした! 日本中をスギで埋め尽くして、あんたみたいな親切な人がもっと豊かになれる国にするんだ!」
「なっ……!?」
高根沢の鼻から、一筋の鼻水が垂れた。ショックによる自律神経の乱れだ。
逆効果だ。善意に「高級羊羹」という燃料を投下した結果、源三のモチベーションが爆発してしまった。
「お、おい待て! 違うんだ! スギはダメだ! 杉山、話を聞け! スギは数十年後にバイオテロ兵器になるんだ!」
「ははは、照れなくていいぞ! さあ、みんな! 植えるぞー!」
源三の声に応えるように、どこからともなく村人たちが集まってきた。
高根沢は、焦燥に駆られた。このままでは、歴史の修正力が「より最悪な方向」へ働いてしまう。彼はついに、最後の手段に出た。
「……こうなったら、物理的に阻止するしかない」
彼はスーツケースから、未来の「超音波除草装置」を取り出した。見た目は完全にSFのレーザー銃だ。これを最大出力で放てば、半径一キロのスギの細胞を分子レベルで破壊できる。
「くらえ! 鼻粘膜の敵め!」
高根沢が引き金を引こうとした、その時。
茂みから一人の老婆が這い出してきた。
「待っておくれ……! スギだけは、スギだけは植えておくれ……!」
「なんだ、婆さん。邪魔をするな。これは未来を救うための……」
「わしらには、これしかないんだ……。スギがなきゃ、冬を越す薪も、家を直す板も手に入らん。スギは、わしらの希望なんだよ……」
老婆の切実な訴え。そして、泥にまみれながら懸命に苗木を運ぶ子供たちの姿。
高根沢の指が、引き金の上で震えた。
彼らが求めているのは、数十年後の快適な鼻呼吸ではなく、明日の温かい食事と屋根なのだ。
(俺は……何をやっているんだ? 未来の自分の鼻が痒いという理由だけで、この飢えた子供たちの希望を奪おうというのか……?)
高根沢の心に、エリート自衛官としての正義感が、一瞬だけ芽生えた。
だがその直後、春の風がふわりと吹き、地面の土埃が彼の鼻腔をかすめた。
「……ハ、ハ……ハクション!!」
昭和の山々に、高根沢の絶叫に近いクシャミが木霊した。
その衝撃で、手にした超音波装置が暴発。狙いとは全く別の方向――山肌の一角を直撃した。
ズドォォォォン!!
土煙が舞い上がり、そこにあった「何か」が消滅した。
高根沢は呆然とした。彼が破壊したのは、源三が大切に保管していた「スギの種子」の山……ではなかった。
「あ、ああ……! 俺の……俺の『ヒノキ』の苗木がぁぁぁ!!」
源三が悲鳴を上げた。
そう、そこには源三が「いつか、スギよりも高く売れる最高級ブランドとして育てよう」と密かに用意していた、ごく少量のヒノキの苗木があったのだ。
「……え?」
「あんた、なんてことを! スギはまだいい、代わりがある! でも、あのヒノキは、わしが何年もかけて品種改良した、生命力の強い『超ヒノキ』だったんだぞ! これで、ヒノキの歴史は断絶してしまった……!」
高根沢は、ポカンと口を開けた。
ヒノキの苗木を、自分のクシャミのせいで、ピンポイントで殲滅してしまった。
(待てよ。……ということは、未来からヒノキ花粉が消えるのか?)
一瞬、勝利の予感が脳裏をよぎった。だが、歴史の歯車は、彼の想像以上に残酷で、そして「木を植えたがる日本人」の性質を反映していた。
「仕方ない……。ヒノキが全滅した以上、もう選択肢はないな」
源三が、決意に満ちた目で村人たちを振り返った。
「みんな! ヒノキは諦めよう! その代わり……全山、スギだ!! 余った予算も全部スギに突っ込むぞ! 密度も二倍だ! 植えて植えて植えまくるんだ!!」
「おおおおおー!!」
高根沢の目の前で、歴史が猛スピードで「最悪の未来」へと舵を切った。
もともと「スギとヒノキの混合林」になるはずだった山々が、今、純度100%の「スギ・メガ盛りフォレスト」へと書き換えられようとしていた。
「やめろ……。やめてくれえええ!!」
高根沢の叫びは、村人たちの「エイシャ、エイシャ」という威勢の良い掛け声にかき消されていった




