第1章:鼻水の極北、あるいは黄色い黙示録
西暦20XX年、3月。
日本の首都・東京は、死の街と化していた。
かつて「春の訪れ」を告げたはずの柔らかな日差しは、今や「イエロー・アウト」と呼ばれる気象災害の引き金でしかない。空はどんよりとした不気味な黄土色に濁り、視界はわずか五十メートル。街を走る自動車のボンネットには、一晩で数センチの厚さの黄色い粉塵が積もる。それは砂漠の砂ではない。すべては、進化したスギたちが放つ、呪われた生命の結晶――花粉であった。
「……クソが」
高根沢は、地下シェルターの自室で毒づいた。
彼の顔面は、もはや人間のそれではない。鼻の頭は度重なる摩擦により、熟れすぎたトマトのように赤黒く腫れ上がり、皮膚は剥け、常にヒリヒリとした熱を持っている。目は白目が見えないほどに充血し、まるで深海から引き揚げられた異形の魚のようだ。
彼は震える手で、枕元にある「点滴型目薬」のチューブを調整した。角膜に直接、高濃度の抗ヒスタミン薬を流し込む。一瞬の清涼感。だが、それも数分後には、圧倒的な「痒み」という名の暴力に塗り替えられる運命にある。
高根沢は、かつてエリート自衛官だった。しかし、ある年の春、演習中にスギの群生林に迷い込み、許容量を超えた花粉を吸い込んだ瞬間、彼の人生は終わった。重度の「アナフィラキシー型花粉症」を発症。今や、完全密閉型の防護服なしでは一歩も外に出られない。彼の妻は、洗濯物に付着したわずかな粒子が原因で家中のティッシュを使い果たし、絶望して実家の北海道(シラカバ花粉はあるがスギは少ない)へ帰ってしまった。
そんな彼の元に、一通の召喚状が届いたのは一週間前のことだ。
送り主は、内閣府直轄の極秘組織「国立抗アレルギー戦略局」、通称『アンチ・ポレン』。
高根沢は、重い足取りで局内の最深部へと向かった。そこには、巨大な円環状の機械が鎮座していた。
「来たか、高根沢。君の鼻の具合はどうだ?」
声をかけてきたのは、局長の及川だ。彼もまた、鼻の穴にチタン製の高性能フィルターをぶち込んだ、筋金入りの患者である。
「最悪です。昨晩は、鼻詰まりのせいで自分のいびきがホイッスルのように鳴り響き、一睡もできませんでした」
「そうか……。我々の戦いも、もはや限界だ。製薬会社が開発する新薬のスピードを、スギの進化が上回った。奴らは今や、コンクリートを突き破って芽吹き、一年中花粉を垂れ流す『超スギ』へと変異しつつある。このままでは、日本人は全員、鼻水で溺死することになるだろう」
及川は、モニターに映し出された古い白黒写真を指差した。
そこには、戦後の焼け跡で、満面の笑みを浮かべて苗木を植える一人の男がいた。
「杉山源三。昭和20年代、この男が『国を豊かにするために』と私財を投じて始めた大規模植林。これが、すべての元凶だ。当時、彼が植えたのは、成長が早く加工しやすいスギだった。彼の善意が、数十年後の我々を物理的に窒息させている」
高根沢の充血した目に、鋭い殺意が宿った。
「……これを、消せというのですね」
「そうだ。タイムマシン『ノーズ・ダイバー』の使用許可が下りた。送れるのは一人だけだ。過去へ戻り、杉山源三によるスギ植林計画を根底から叩き潰せ。苗木を燃やせ、地主を説得しろ。……最悪の場合、彼自身を排除しても構わん」
及川は、高根沢の前に銀色のスーツケースを置いた。
「中には、未来の最新装備が入っている。超高性能の鼻栓、一拭きで全ての炎症を鎮める魔法の点鼻薬、そして……。当時、貴重だった『高級羊羹』だ。これで地主を懐柔しろ」
「羊羹、ですか」
「ああ。昭和の人間は甘いものに弱い」
高根沢は、覚悟を決めた。
これは、自分自身の尊厳を取り戻すための戦いだ。もう一度、マスクなしで深呼吸ができる世界。鼻をかみすぎてゴミ箱をティッシュの山にしない世界。妻が笑って戻ってくる世界。
「行ってきます。……春を、取り戻しに」
高根沢は『ノーズ・ダイバー』のハッチに乗り込んだ。
カウントダウンが始まる。
「3……2……1……点鼻完了!」
及川の叫びと共に、激しい閃光が走った。
凄まじい衝撃。意識が遠のく中、高根沢は心の中で強く唱えていた。
(待っていろ、杉山源三。お前の植えるその一本が、未来の俺の鼻粘膜を破壊しているのだ。情けは無用。一本残らず、引っこ抜いてやる……!)
次の瞬間。
高根沢を包んでいた不快な湿度と、重苦しい「イエロー・アウト」の気配が消えた。
耳元で、鳥のさえずりが聞こえる。
頬をなでる風は、驚くほど冷たく、そして……。
「……っ!?」
高根沢は、思わず目を見開いた。
そこには、360度どこまでも見渡せる、抜けるような青空が広がっていた。
空気が、あまりにも「無」なのだ。粒子がない。刺激がない。鼻腔を通り抜ける酸素が、まるでシルクのように滑らかだ。
「は、鼻が……通る。鼻が通るぞ……!」
高根沢は、昭和25年の大地に立ち、生まれて初めて「呼吸の快感」に打ち震えた。
だが、感動している暇はない。遠くの丘の上、一人の男が大きな荷物を背負って歩いているのが見えた。その背負子から突き出ているのは、青々とした、忌まわしき「スギの苗木」だった。
高根沢は、懐の羊羹(と、静音拳銃)を握りしめ、獲物に向かって駆け出した。
史上最も「私怨」に満ちたタイムトラベル任務が、今、幕を開けたのである。




