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第9話 ラム・イズ・オーヴァー

3月に入ったとはいえ、京都の空気はまだしんと冷たい。

昼過ぎには粉雪がちらつき始め、北山が見えなくなるほどの本気の吹雪になった。


その日、僕は布団から出られなかった。身体が鉛のように重く、節々が痛い。

体温計を見ると、38.9度。

──たぶん、インフルエンザだ。


「ねえ、病院行こ?」


舞子が布団の脇から覗き込んでくる。前髪がぴょこんと跳ねていて、妙に心強い。


舞子は「一緒に行く」と言い張ったが、未成年の彼女を吹雪の中に連れ出すのは気が引けて、


「すぐそこやし、舞子は家で待ってて」


と言うと、渋々うなずいた。


診断はビンゴ。インフルエンザB型。

「今は薬あるからね」と先生は笑ったが、こっちは笑える状態じゃない。ふらふらになりながら帰宅すると、舞子が例の子ども向け料理本を真剣に読んでいた。


「おかゆ、作るからね」


出されたおかゆには、大根おろしが山盛り入っていた。さっぱりしていて悪くはないが、僕はおかゆが苦手だ。なんにも食べた気がしない。

続いて出てきた生姜ハチミツ湯はうまかった。


昔から、風邪を治すときは肉だった。高校ラグビー部の監督が


「風邪には鉄分とタンパク質や。肉食うて寝たら治る」


と言っていて、僕はそれを信じ、今まで何度も回復してきた。


「舞子、頼みがある」


財布から1万円札を出す。

正月に実家でもらったお年玉の残りだ。


「……ステーキが食べたい」


「えっ、インフルで?」


「頼む。いい肉……できれば赤身のええとこ」


舞子はきょとんとしたあと、真剣な顔でうなずいた。ただ、その目に浮かんだ「どうしよう」の色に、僕は気づかなかった。


吹雪の京都を、舞子は短パンにジャンパーといういつもの格好で、さすがに一瞬躊躇した。


「……ステーキのためだしなぁ」


そのつぶやきとともに自転車にまたがり、川端通りを南下し、河原町の阪急百貨店へ。

「デパートならいい肉がある」という直感だけが頼りだった。


買ってきたのは──神戸牛のヒレ。

2枚で6千円を軽く超えていた。


「焼き方、詳しく聞いてきた!」


濡れた前髪を垂らしながら、メモを片手に笑う舞子。

台所で奮闘している気配を感じながら、僕は夢うつつになっていた。


「お待たせ、できたよ!」


肉は文句なしにうまかった。

赤身ならではの歯ごたえがあるのに、驚くほど柔らかく、舌の上でとろける。

塩加減に迷いながらも、精肉売り場で教わった通りに焼いた舞子のステーキは、人生で五本の指に入る美味しさだった。


そして予想通り──翌朝、熱は下がっていた。

僕は勝ち誇った気分だったが、舞子は「理不尽だ」と言いながらも喜んでくれた。


だがその翌晩、舞子がぐったり倒れた。


「うう……なんかフラフラする……」


まさか、と思ったら案の定。

今度は舞子が同じ症状で布団に沈んだ。


「筋肉痛い、関節痛い、体だるい、喉痛い、暑い、甘いの食べたい、スープ欲しい、たいくつ~」


寝ない。

テンションが妙に高く、ぐずる。


仕方なく、マッサージをし、買い置きのフルーチェを食べさせ、クノールのスープを飲ませ、いかるがのフルーツ牛乳、すりおろしりんご……ついには親父直伝の怪談まで。

結局、一晩中つきっきりで、僕はほとんど寝られなかった。


「明日、朝イチで病院連れてったるから」


氷をタオルで包み、ビニール袋に入れて頭の下に敷く。

それでも舞子は寝ない。


熱のせいで眠れない舞子は、僕の授業用の源氏物語を読めとごねはじめた。

僕と舞子の攻防は、空が白むまで続いた。


翌朝、前に診てもらった医者へ連れて行く。


「インフルやなあ。そらカップルやったら移るわ」


余計な一言を添えて、先生が笑う。


今度は僕が看病する番だった。

栄養といえば肉。冷蔵庫を開けると──ジンギスカン用のラム肉がぎっしり。

タツヤが六甲山牧場のお土産に買ってきて持て余していたやつだ。


「よし、これでいこう」


買い物に行こうとすると、舞子は「ひとりにされたら寂しい」とぐずる。

冷凍庫のピノとみかん缶でようやく落ち着いた。


買ってきたもやし、玉ねぎ、ピーマン。

舞子の買い置きのりんごも使う。


ニンニク、生姜、玉ねぎ、りんごをすりおろし、醤油・酒・みりん・砂糖をひと煮立ちさせ、ごま油とすりごまを加える。

北海道出身の同級生が教えてくれた本格ダレだ。


「ジンギスカンの主役は、実はもやしやからな」


舞子を抱き起こし、テーブルへ。

じゅうじゅう焼けるラム肉を見た舞子は、驚いた顔で言う。


「なにこれ……ひつじさんって食べられるんだ……匂いヤバ……」


おそるおそる口に運び──


「おいしい……」


だが、取り皿の半分とご飯を少しだけ食べたところで、えづいた。


「美味しいのにっ……めっちゃ美味しいのにっ……しんどくてムリだよぉ……」


胃が受けつけないようだ。


僕は仕方なくひとりでモリモリ食べた。

特製ダレのラムも旨いが、脂を吸ってクタッとしたもやしが最高だ。


ふと見ると、舞子が布団から恨めしそうに睨んでいた。


「また元気になったら絶対作ってやるから!」


10回言っても、舞子は「それ……舞子の……舞子のひつじさん……」と泣き続ける。


弱っている舞子には重かったのだろう。

何なら食べられるか……うどんならどうか。


「舞子、うどんなら食べられる?」


『うどんなら……』


よし。

ならば“本物のうどん”を食べさせたい。


もう春休みで予定もない。

──舞子を香川へ連れて行こう。温泉もつけて。


熱で眠りに落ちた舞子の顔色が少し良くなったのを見て、僕は決めた。


舞子は関西と軽井沢、筑波万博くらいしか行ったことがない。

「香川に行く」と言えば絶対に喜んで熱がぶり返す。

だから何も言わず連れ出すことにした。


僕のスプリンターカリブは座席を倒すとほぼフルフラットになる。

押し入れからクッションを敷き詰め、ポテチとフルーツ牛乳を積む。

眠っている舞子を毛布に包んで抱き上げ、“巣”の中にそっと寝かせた。


「お薬もらいに行くの?」


早朝に開いている病院なんてないが、昨日歩いて行っただろ、と突っ込みつつ、


「そうやで」


と答えてシートベルトを締めた。


こうして、まだあたりが真っ暗な午前5時、僕たちは出発した。

鴨川デルタも、闇の中に沈んでいる。


春はもう、すぐそこだった。

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