第77回 ひなたぼっこ
「ほな行こか、ゴローちゃん」
「にゃ」
大阪のグルメ情報誌の出版社から内定が出た週の金曜日、朝五時、僕は車にゴローちゃんを乗せ、舞子の待つ金沢に向けて出発した。 まだまだ春の名残の季節のような気がするのに実はもう夏至が近いというこの季節、この時間で既に日は昇り辺りは明るい。 きっと鴨川デルタも、犬の散歩や朝のウォーキングの人たちで賑わっていることだろう。
東大路から三条を東に折れ、京都東のインターを目指す。 インクラインの桜は青葉が生い茂り、すっかり初夏の風情だ。
高速に上がるとちょうど太陽が進行方向の低い位置にあって目を刺してくる。 朝に東に向かうとこうなることはもう分かっていたから、ダッシュボードからサングラスを出してかけた。 カーステからは、ビリー・ジョエルの『The Longest Time』が流れていた。
歌の内容にあるような「奇跡の恋」とか「長い間待っていた愛」とか、そんな大げさな気分ではなかった。 ビリー・ジョエルの声に合わせて無意識に鼻歌まじりに口ずさみながらも、どこかしっくり来ない。
確かに、舞子と出会ってからの日々は、自分でも驚くほど楽しくて、 いつの間にか支えられている実感もあった。 けれど、それを恋と呼ぶには、まだ少し踏ん切りがつかなかった。
むしろ、歌にある「長い間忘れていた純粋さ」という言葉の方が、今の自分には近いかもしれない。 舞子といると、子どものころのように素直で無防備な気持ちに戻れる──それがただ新鮮で、心地よくて。
サングラス越しに差し込む朝日を眺めながら、僕は歌詞が曖昧になって口笛を吹いた。 それでも、今はただ、迎えに行くという事実だけで十分だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「あの、中田と申しますが、そちらの従業員の林さんいらっしゃいますか?林舞子さん」
今週の頭、内定の連絡を貰って、二日後にとんでもないすっぽん料理をご馳走になった翌日、僕は117で電話番号を確認して金沢の旅館『を宿 秋海棠』に電話をかけた。
「ああ~ハイハイ、ハルヒトさんね!お待ち下さい」
電話に出た女将さんらしき女性の声が、なぜか笑っているような気がした。
「あ、ハルくん?」
舞子の声がした。 春に兼六園で話した時に比べると、随分と声のトーンが軽く、明るくなっているように感じる。
「いい話で電話した。内定出たで。大阪の出版社の企画部門!」
「わ!すごい!おめでとう!」
「ありがとう。ほんで約束通り迎えに行きたいんやけど、そっちの様子はどう?やっぱりご主人まだ入院してはるんかな?」
「こっちもいい知らせ。最初は半年入院って聞いてたんだけど、なんかお医者さんもびっくりするくらいの回復力で、五月の末に退院してきたんだよ!」
なるほど。よかった。 でも…その時点で僕に連絡して来ずに、今もそこで働いているってことは、ひょっとして舞子は今後もずっとその旅館にお世話になるつもりなんだろうか。
「そか。よかった。で、舞子は、その、あの…」
恐る恐る訊く。
と、電話の向こうで舞子が吹き出す「ぷ」という声が聞こえた。
「帰るよ!京都に帰る!迎えに来て!」
「え!?ホンマ?!帰ってくるん!?」
やった。 舞子の声は、「今すぐたこ焼き食べさせて!」と鴨川の等間隔カップルの隙間を乱しながら言った時と同じ調子に戻っていた。 明るくて、好奇心いっぱいで、美味しいものが大好きで、突拍子もない事を突然言い出して。
「ハルくん、私がこのまま金沢にいるって言い出すかと思ってたでしょ?」
図星だ。
「ちょっとだけな…だって、それやったら五月の内に電話くれたら良かったのに…て」
「待ってたんだよ。ハルくんの就活の邪魔しないように、焦らさないように」
「良かった~!」
「で、いつ迎えに来てくれるの?」
最近は大学はゼミ以外はほとんど出席の必要もなく時間はかなり融通がきく。 前の日もその日も深夜シフトのバイト入ってなくて、翌日にバンドもラグビーもない日…
「金曜!今週の金曜日どう!?」
「今週金曜!?随分と急だね~」
舞子が笑う。
「大丈夫だよ。気を使わず素直にお帰り!」
電話の向こうで女将さんの声がした。
「もう~!」
受話器を外した向こうで、舞子の声がした。
◇ ◇ ◇ ◇
カーステからは相変わらずビリー・ジョエルが語りかけていた。 僕は少しでも早く金沢に着きたくて、多賀のパーキングにも停まらず、米原ジャンクションから北陸道に入った。
────
恋人を見つけることもできる
友達を見つけることもできる
でも、結局、僕が頼れるのは君しかいないんだ
────
賤ヶ岳、南条…滋賀・福井と大きめのパーキングもスルーして先を急ぐ。 尼御前SAの緑看板が見え始めた頃、さすがにガソリンメーターの針が半分を切った。 僕は左のウィンカーを出して駐車場に入り、エンジンを切ると、給油とゴローちゃんの水とカリカリの世話だけを短く済ませた。フードコートで缶コーヒーを流し込み、僕は車に戻った。
一刻も早く、舞子の待つ金沢に向かう必要があった。
パーキングの案内では、高速を降りる金沢西のインターまでは三十分ほどだ。 チャンピオンカレーを教えてくれた新田君の出身地の小松の空港の横を抜けるとき、ジャンボジェットのいる滑走路を黒い戦闘機が離陸していくのが見えた。 ありえない光景にぎょっとしたが、後で調べるとここは航空自衛隊と民間で滑走路を共用しているらしかった。
金沢西で降りるとすぐに「金沢市街」「兼六園」という青看板が出始めた。 あとは看板に従って進めばいい。
舞子の待つ『を宿 秋海棠』には二十分程で着いた。 車を停め、三か月前に入った自動ドアをくぐる。
「舞子ちゃーん!お迎えだよー!」
フロントにいた女将さんが、僕の姿を見て奥に声を掛ける。 女将さんは僕の名前をなぜか知っていて、最初から、何もかもお見通しだったのかもしれない。
舞子の帰りを待って、見守ってくれていた、その温かさに僕は胸がいっぱいになった。
「はーい!」
すぐに出てきた舞子は、春に見たときから少し髪が伸びているが、相相変わらず両脇で結んだ髪が、ぴょこんと揺れている。見慣れたあのリュックを背負い、手には初めて見る大きなトートバッグ。
「女将さん、本当にお世話になりました」
「何を言ってるの!舞子ちゃん来てくれて助けてもらったのはこっちなんだから!さ、"ハルくん"と京都に帰りなさい。」
女将さんに何度も頭を下げる舞子と一緒に丁重に御礼の言葉を伝え、僕は舞子のトートバッグを持って宿の玄関を出た。
「いつでも遊びにおいで!今度は"二人で"ね!」
舞子はもう一度くるりと振り返って深々とお辞儀をした。
◇ ◇ ◇ ◇
「ゴローちゃん!」
ハッチバックを開けて荷物を積み込んだ時、ラゲッジスペースと地続きになった後部座席のクッションの上で相変わらず香箱を組んでまどろんでいたゴローちゃんを見つけて舞子が声を上げた。
「うな!うな!うな~ん!」
ハッと目覚めたゴローちゃんは、僕が聞いたこともない甘えた声を出しながら舞子に近づいてくる。 舞子が抱き上げると、そのまますっぽりと腕の中に収まった──もっとも、小柄な舞子にとっては大きなゴローちゃんは全然収まってはいなかったが。
「ハルくんの車、久しぶり」
ゴローちゃんを抱っこしたまま舞子が助手席に座る。 ずっと空席だった僕の車の助手席、やっぱり舞子が馴染む。 さて、あの店に寄ってから京都へ帰ろう。 腹は減っていないが、あれは二人で食べなきゃ意味がない。
「あんな、舞子。」
「ん?」
「春に金沢来た時、めちゃめちゃ美味しい金沢ならではのメニューの店見つけたねん。次、舞子迎えに来た時にそこで食べてから帰ろうって決めてたんやけど、ええかな?」
「えー。ハルくんが気に入った金沢グルメ?何だろ?でも絶対に美味しいよね!」
「もちろん!」
「じゃ、お願いします!」
僕はじゃらんの地図ページで現在地から野々市までの道のりを確認すると、アクセルを踏んだ。 去年まで当たり前だった、舞子との日常が戻ってきたみたいで、涙が出そうだ。
──「ここ?」
赤と黄色の派手な店の前で車を停めた僕の顔を舞子が覗き込む。 懐かしい大きな目がキラキラしている。
「うん。ここ!金沢カレーの名店、チャンピオンカレー!」
「あ、ああ、うん…」
「もしかして来たことあった?」
「ううん、初めてだよ」
店に入ってカウンターに並んで座り、自分用にLカツカレー、舞子用にカツカレーを注文する。 と、程なく出てきた銀の皿に盛られた大きなカツとキャベツと黒いルーを見て、舞子が笑い出した。
「え?どうしたん?何かおもろい?」
僕は早速カツに先割れスプーンを突き立てながら訊いた。
「だってね、金沢ならではの美味しいお店って言うから、てっきり和食とか海鮮とかそういうのかと思ったら、カツカレーなんだもん」
舞子もルーをすくいながら、笑いが止まらない。
「なんかねー、『ああ、ハルくんだなー』って。久しぶりに一緒に帰る日の、金沢の思い出のご馳走がカツカレーだよ?カツカレー!」
「まあ、確かに。でも、ええから食ってみ!めちゃめちゃ美味いから!」
そういう僕にやっと笑い終わった舞子は素直にカレーを食べ始めた。
「わ!なにこれ!?」
出た。このセリフだ。 これは久々の、あの顔だ。
「わ!え!?」
声にならない声を時々上げながら、舞子のほっぺたがどんどん膨らんでいく。 カツを、キャベツを、ルーを、ご飯を、口に運ぶ先割れスプーンが止まらない。
────ほらみろ。やっぱりそうなるんじゃないか。
ようやく、元に戻った気がして、同時に胸に込み上げてくる懐かしさにこぼれそうになる涙をこらえつつ、僕もLカツカレーに取り組んだ。
「「ごちそうさま!」」
久々の二人同時ご馳走さまをして店を出る。 さあ、帰ろう。 京都へ。出町柳へ。僕達のあのアパートのあの部屋へ。
◇ ◇ ◇ ◇
「舞子、鴨川デルタ行かへん?」
舞子が帰ってきた二日後の日曜日、それまでの雨模様からやっと見えた晴れ間の午後だ。
「うん!久しぶりだね!」
「そうやな」
そう言って僕は、ギターのハードケースを片手に持つ。
「ギター持って行くの?」
「うん。ちょっと練習」
そう答えて、二人で鴨川デルタに向かう。 梅雨の切れ目の晴れ間、空は青く、川面を吹く風はかすかに夏の香りをはらんでいた。 ベンチに座ってタバコに火を付ける。
「ね、バンドって続けてるの?」
ケースを開けてギターを取り出し、軽くチューニングを始めた僕に舞子が訊いた。
「続けてるで。七月にまたライブあってな、なんとその時は一曲、僕が一人でギター弾き語りで歌う曲あんねん」
「へー。すごいじゃん。あ、それで練習?」
「うん。練習もあんねんけどな、やるこの曲、舞子帰ってきたらここで聴かせたかってん」
「わ。聴く聴く。」
僕はCのコードをストロークする。
「何ていう曲?」
「……最初はな、ローザの『ひなたぼっこ』やろ思ててん」
「最初は?」
「うん。でも、やっぱりやめた」
舞子がきょとんとした顔で僕を見る。
「なんで?」
僕は少しだけ笑って、ギターを抱え直した。
「借りもんの言葉やと、何か違う気ぃして」
川の風が、デルタをゆっくり吹き抜けていく。
「舞子がおらん間にな、曲作ってん」
「……え?」
「タイトルは一緒。"ひなたぼっこ"」
川のせせらぎ、吹き抜ける風、横に舞子がいて、ここは鴨川デルタで。 やっと戻ってきたこの日々。 僕は舞子に、この曲を歌う。
僕たちの物語に、もう言葉はいらなかった。
それでも、この歌だけは、どうしても聴いてほしかった。
♪『ひなたぼっこ』
作詞・作曲:中田ハルヒト
冬の川べり 風が冷たくて
君は膝をかかえて 空を見ていた
何を探して ここまで来たのか
僕にはまだ 分からなかった
押し入れの奥に 小さな灯り
知らないうちに 部屋が変わった
湯気の向こうで 笑う横顔
それだけで夜が 少しぬくもった
ひなたぼっこしよう
何も言わなくていい
川の音だけ聞いて
並んでいればいい
ひなたぼっこしよう
名前のない日々を
こぼさないように
手のひらで包もう
春の桜を 君は数えてた
昨日より少し 開いた花びら
僕の知らない 君の時間が
この街にそっと 根を下ろしていた
たこ焼きの匂い 銭湯の帰り道
ラーメンの湯気と 夜のデルタ
うまく言えない 好きの手前で
僕らはいつも 笑ってごまかした
ひなたぼっこしよう
迷子になった日も
戻れる場所くらい
ひとつあればいい
ひなたぼっこしよう
急がなくていい
君が笑うまで
僕はここにいる
夏の火が消えて 秋風が吹いて
遠くへ行った声を 何度も思った
借り物の言葉じゃ 届かないから
今日は僕の声で 君に歌うよ
ひなたぼっこしよう
もう一度ここから
川が交わる場所で
季節をはじめよう
ひなたぼっこしよう
君が帰る場所を
僕のとなりに
ちゃんと空けておく
ひなたぼっこしよう
何も終わっていない
出町の風の中
また歩き出そう
君が笑うなら
それだけでいい
世界で一番
あたたかい午後になる♪
川の音の向こうで、舞子が笑っていた。
六月の風が、鴨川デルタをゆっくり吹き抜けていく。
その午後の温度を、僕はきっと、ずっと忘れない。
ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ物語 Ⅰ 完




