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第75回 バック・トゥ・ザ・フューチャー

「あれ、さすがにもう外してあんねんな」


「あれって?」


「松の木とかに、傘の形にロープ張ってあるやつ」


「ああ、雪吊りね。今月の中頃に外してたよ。毎年それくらいだって」


午後の兼六園はまだ少し肌寒いものの、空はからりと晴れて、

梅林には紅白の梅が咲いていた。


霞ヶ池のほとりのベンチに並んで座りながら、

僕と舞子は、どうでもいい話ばかりを選んで口にしていた。



「なんかもうすっかり金沢の地元の人みたいやな」


「ううん。まだこっち来て1ヶ月だし、女将さんが金沢の色んなこと教えてくれるんだけど、まだまだ知らないことだらけだよ」


「そういえば舞子、なんで金沢にいるん?」


僕は昨日から訊きたかったことを切り出した。


「えっとね」


舞子は少し間を置いてから、ぽつぽつと話し始めた。


出町柳のアパートを片付けて、

いくつかの荷物は例のバイト先のお姉さんに預けて、

残りは処分して――

それから、軽井沢に戻ったこと。


やはりそうだったんだ。僕の考えがそこに至るまでに時間がかかりすぎたのか。


去年の内にホテルのレストランには年明けに辞めることを伝え、軽井沢に住み込みの段取りを付けていた。

1年ぶりに戻ってきた舞子に蕎麦屋さんはご主人も女将さんもスタッフもみんな大歓迎で、以前のように働いていたらしい。


パタパタ。


それがひと月ほど過ぎた二月の終わり頃、女将さんから話があった。


「私の古い知り合いが金沢で夫婦で小さな旅館をやっているんだけど、そこのご主人が急に入院しちまってねえ、経営的なことはその友達がやってるから大丈夫なんだけど、とにかく現場の人手が足りなくて大変らしいんだよ」

「それでね舞子、こっちはもうすぐ三月で学生のバイトもたくさん入ってきて大丈夫だから、あんた、その旅館助けてやってくれないかね?住み込みで寝るとこと三食賄い付き、まあうちと同じ条件だねえ」


それで舞子は、京都の次に憧れてた金沢ということもあって二つ返事で引き受けて、翌週にはもう秋海棠という旅館で働き出したと。

毎日目が回るような忙しさで、正直京都での生活や僕のことを思い出す暇もないくらいに毎日一所懸命働いていた。

そこに、なんの偶然か僕が突然現れたものだから、本当に驚いたらしい。


舞子が一通り話し終わったとき、ベンチの前にスズメが3羽舞い降りた。


「今日は持ってないん?パンくず」


「えー、持ってないよー」


「兼六園でも鳥集めてるんかと思ってた」


舞子が笑う。

僕は深く息を吸って、本題を切り出した。


「なあ、帰って来ぃや」


舞子の顔に笑顔が張り付いたまま固まった。

何秒か時が止まったのを、飛び立ったスズメが動かす。


「舞子いいひんかったら、おもんないねん」


「バンドとか、ラグビーとか、バイトとか、ハルくんいっぱい友達いるじゃない」


「そうやねんけど、いや、それとは別で、舞子は別やねん」


「女の人も色々いるじゃん。よりどりみどりでしょ?」


あ、そっちの方向は良くない。


「舞子いいひんかったら寂しいねん。ご飯食べてても、テレビ見てても、何もせんとコタツでゴロゴロしてるだけでも、舞子がいるのが当たり前になってたし」


「私じゃなくてもできるよ」


「違う。舞子とがおもろいねん。銭湯行って、ご飯食べて、鴨川デルタ散歩して、車で色んなとこ行って、アホな話で大笑いして。またあの毎日に戻りたいねん」


「…ハルくん、就職活動で忙しいでしょ?私と遊んでる暇なんかないよ」


「ハガキ書くのん、字ぃ書くの嫌いやし、舞子手伝ってや」


「それに、お宿のご主人入院して困ってるからって手伝いに来たのに、1ヶ月で『辞めます』ってそんなことできないよ」


「よしわかった。問題を整理しよう」


「整理?」


「うん。まず一つ目は、僕が就職活動で忙しいからってこと。せやんな?」


「まあ、うん」


「二つ目は、お宿のご主人が入院してて、舞子が手伝わんと困らはるってこと。やんな?」


「うん」


「ていうことは、僕の就職が決まって、ご主人が退院してきはったら、問題はなくなって、舞子が京都に戻って来られるてことやんな?」


「え?…いや…」


「ほしたらな、頑張って就職活動して、自分でハガキも書いて、説明会行って、面接受けて、行きたいと思えるとこから内定貰う!そんで、内定貰たら金沢に舞子迎えに来る!その頃にはご主人も退院してはるやろ!」


「いや、入院は半年の予定って…」


「就職課の話やと、今年は『史上空前の売り手市場』らしいから、早かったらゴールデンウィーク明けには内定出るかもしれんし、そしたら今年は去年行けへんかった葵祭かて一緒に行けるやん!ご主人かって、きっと治らはるって!」


「行ってへんとこまだまだあるし!貴船も、天橋立も、平等院もまだ行ってへん!ほら十円玉の!」


「今年はバーベキューだけちごてテントでキャンプも行こ!」


「それにほら!ジブリの新しい映画、魔女がクロネコヤマトのやつ夏にやるて話やし!『バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ』も今アメリカで撮影してるてキネマ旬報に出てたし!絶対一緒に観に行かな!」


舞子が少し目を丸くする。


「それから今年は『パトレイバー』の映画版も夏に来るし、ゴジラも新作作ってるらしいで。カンヌで賞とったイタリア映画も日本でやるて噂あるし、『インディ・ジョーンズ』の新作も夏に公開されるて!なあ、舞子と一緒に映画館で観たいねん!」


気付けば息を切らすほどまくし立てていた。

それくらい、舞子と同じ時間をもう一度取り戻したかった。


「それにほら、舞子まだ新福菜館は行ってへんやろ?あの真っ黒のチャーハンが…」


「ぷ…分かった分かった!」


僕の勢いについに舞子が吹き出した。


「何がどうなるかまだ分からないけど、今は私は金沢で頑張る。ハルくんは就職活動頑張る。それしか言えないけど、それでいい?」


「うん!絶対に早よ迎えに来るし!」


「私の言ってること、理解してる?」


「してるしてる!めっちゃ理解してる!」


舞子がふーっと息をついて空を仰いだ。


「じゃ、そろそろ戻らないとチェックインの準備しないとだから、行くね」


「ほな、公園の出口まで送るわ」


僕達は歩き出した。

空は青く、風はぬるく、梅は咲き誇り、つまりはこの北陸の街にも春が近づいてきていた。


「じゃ」


「ほなな」


近江町市場のアーケード前で舞子に手を振る。

良かった。

京都に帰って就職活動を頑張る。

そうしたら舞子は帰って来る。

やった。

また舞子と過ごす日々が戻って来る。

バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。




──安心した途端、急に腹が減った。

朝はモーニング、昼はミスド。

それだけじゃ、さすがに足りない。



とりあえず金沢駅まで戻って、帰りの特急の席を押さえたら何か食べよう。

金沢は魚介が新鮮で豊富だから、駅の食堂街に手頃で美味い寿司屋があるって、昨日こっちに住んでる叔母さんが言ってたし、何かあるだろう。

舞子を連れて帰るときの下見にもなる。

そんなことを、もう当然のように考えている自分に気づいた。


ところが。

僕の楽観的な予測は裏切られた。


みどりの窓口で京都行きのスーパー雷鳥の席を確認してもらうと、夕方の便は全部席が埋まっていて、7時以降の便しか空席がないという。

そういえば春休みの、しかも日曜日だった。

自由席で帰ってもいいんだけれど、せっかく親が買ってくれた指定席の払い戻しがあるんだから、座れるかどうかもわからない席のために出発時間のずっと前から並んで、一旦座ったらトイレにも行けないなんてのは避けたい。


仕方ないから十九時十七分発大阪行きのスーパー雷鳥の指定席を取って、食堂街に向かった。

が、ここでまたしても現実の壁が僕の前に立ちはだかる。

手頃で美味い寿司…

美味いのはまあ疑う余地のないところだろう。

ただ、店頭のスタンドに置かれたお品書きの値段は、確かに祇園や先斗町の寿司屋に比べたら手頃かもしれないが、学生の財布にはいささか荷の重い数字だった。


さてどうしたものか。

帰りの特急の時間まではまだ三時間ほどある。

まあ、ファストフードやチェーンのファミレスならあるかもしれないが、せっかく金沢にいるんだし、どうせなら金沢ならではのものを食べて帰りたい。

そして、次に舞子を迎えに来たときに、連れて行ける店をひとつくらい覚えて帰りたかった。


────「金沢行くんやったら、チャンカレ食って来てくださいよ!」


ふと、バイト先の後輩の新田君の言葉を思い出した。

新田くんは去年の春から入店してきた立命の一回生で、石川県の小松という街の出身だと言ってた。


「チャンカレ?なにそれ?」


僕の質問に新田君は、金沢に本店のあるカレー専門店「チャンピオンカレー」の略称で、「金沢カレー」の元祖だと説明してくれた。

普通のカレーとはちょっと違うらしい。

よし、それだ。

寿司や料亭より、なぜかそっちの方が僕らしい気がした。

そんな有名な店なら、金沢駅の構内か少なくとも近くにはあるだろう。


「この近くにチャンピオンカレーってありますか?」


観光案内所があったのでお姉さんに訊く。

が、なんと金沢駅にはなくて、ここから北陸本線で2駅移動した野々市という駅から、更に北鉄バスで金沢工業大学前まで十五分くらいかかるというではないか。

僕は少し考えたが、逆に電車の発車までの時間つぶしも兼ねるなら丁度いいじゃないかという結論にたどり着いた。

それに、わざわざ電車とバスを乗り継いで食べに行くくらいの方が、舞子に話したとき面白がってくれそうな気もした。


駅の名店街の弘栄堂書店に行って、「金沢市観光ガイド」と並んで置いてあった『るるぶ北陸版』を見つけ、チャンピオンカレー本店の情報が掲載されていることを確認して買う。

野々市までの切符を買い、北陸本線の下りホームに降りると、ちょうど電車がやってきたところだった。


北陸本線というと、演歌の世界で勝手にうら悲しい雰囲気を想像していたのだが、何のことはない、京都駅から大津駅に向かう東海道線と同じで、リュックを背負った学生でぎゅうぎゅうだった。

別に悲しみ本線日本海ではない。


野々市までは六分ほど、改札を出るとバス乗り場の案内に従って金沢工大前を通る路線の乗り場へ。

バスは住宅地を抜けて、やっと工大前に到着だ。

るるぶの地図を確認して少し歩くと、赤と黄色の派手な店構えが見えてきた。

中に入ると席はカウンター席中心、壁に写真付きでメニューが所狭しと並んでいる。

どれを注文していいのか分からない。

舞子が隣にいたら、きっと「ハルくん、こういう時だけ急に弱いよね」と笑っただろう。


「あの、初めてなんですけど、『いわゆる金沢カレー』を食べたいんですけど、どれを頼めばいいですか?」


お店の人に訊くと、『Lカツカレー』というのが、金沢カレーの特徴が全部入ったものだという。



「じゃ、そのLカツカレーお願いします。」


ほどなく出てきた『Lカツカレー』は、見た目からして僕の知っているカレーとは全然違った。

銀色のステンレス皿に、黒っぽくドロッとしたルー。

片側には千切りキャベツ。

その上に、大きなカツがドーンと乗っている。

ご飯はほとんど見えない。

添えられているのは、普通のスプーンではなく、給食を思い出す先割れスプーンだった。


さっそく一口。

濃厚なルーとご飯を先割れスプーンですくって口に運ぶと、なんとも懐かしく、妙に落ち着く味がした。

辛すぎるわけではない。

でも、後からスパイスがじわっと追いかけてくる。

次にカツへ先割れスプーンを突き立てる。

サクサクで、ジューシーで、濃厚で、理屈じゃなく体が喜ぶ味だった。


ご飯とルーで追いかける。

カツをかじる。

キャベツで口の中を戻す。

またルーに戻る。


気づけば、先割れスプーンが止まらなくなっていた。

最後は行儀悪く、キャベツとルーとご飯を少し混ぜて、しっとりしたカツを乗せて食べきった。


うん。

これは確かに、わざわざ来た甲斐がある。


金沢の海鮮でも、料亭でもなく、

結局こういうものに夢中になるあたり、

我ながらどうかと思う。


でも、次に舞子を迎えに来たときは、

絶対ここに連れて来ようと思った。


きっと舞子は、

「え!?なにこれ!?」

とか言いながら、

また頬をいっぱいにふくらませて、

先割れスプーンを止めなくなるに違いない。


「ごちそうさまでした!」


お金を払い、店を出る。


再びバスと悲しみ本線を乗り継いで金沢駅に戻ると、僕の乗るスーパー雷鳥の発車三十分前、ちょうどいい時間だった。

財布の中には、さっき貰ったショップカードが入っている。

次に来る時のための、小さな切符みたいだった。

KIOSKで缶コーヒーを買い、やがてやってきた特急に乗り込んで、切符に書かれた席を探す。


さあ、京都に帰ろう。

明日からは、とにかく就活の日々だ。

会社説明会の予定もシステム手帳にびっしりと書き込んである。


内定を取る。

秋海棠のご主人が元気になるのを待つ。

そして、もう一度金沢へ来る。


そのときは、舞子と一緒にこのカレーを食べる。


特急が金沢駅を滑るように出発したのは、もう春がそこまで来ている夕暮れだった。

窓の外で、知らない街の灯りが少しずつ遠ざかっていく。

僕はポケットの中のショップカードを、指先でそっと確かめた。

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