第6話 ぶぶ漬けパラドクス
酢豚の余韻が残る食卓で、舞子が突然「あっ」と声を上げた。
「どうしたん?」
「ハルくん、あのね……こたつ拭いてたときに、うっかりレポートみたいなやつの上に、濡れた布巾置いちゃった。ごめん。乾いたらシワになるかも。」
僕はそんなこと、まったく気づいていなかった。
「大丈夫や。まだ下書きやし。」
「そっか。よかった。」
ほっと息をついたかと思うと、舞子はまた別のスイッチを入れた。
「あのさ、ハルくん。“ぶぶ漬けでもどうどす?”って、使う?」
「……は?」
ジャスミンティーが変なところに入りかけた。
「昔さ、マンガで読んだの。京都で“ぶぶ漬けでも”って言われたら、“そろそろ帰れ”って意味だって。だからさ、レポートにシワ付けちゃったお詫びに、“ぶぶ漬けでもどうどす?”って出されたりしないかなーって。」
「いやいやいや。舞子のヘマなんか、今さら減点にもならへんわ。」
「ひどっ。」
「褒めことばや。あと“ぶぶ漬け”って、そんな呪いのセリフちゃうから。そもそも出される前に帰るのが京都流やし。」
「うわー、ほんとなんだ……。マンガだけかと思ってた。」
舞子は感心したようにうなずいたあと、ふと真顔になった。
「でさ、その“ぶぶ漬け”って、本当にあるの? 食べ物として。」
「普通のお茶漬けやったら、どこでも食べられると思うけど。」
「永谷園じゃなくて?」
「……まあ、店ならもうちょいマシやろ。」
「えー! 食べたい! 京都の本気のお茶漬け。ちゃんとした“ぶぶ漬け”!」
舞子は、すっかりいつもの「食べたことないものレーダー」の目になっていた。
「ぶぶ漬けなあ……。」
そこから、僕らの“ぶぶ漬け探訪ミッション”が始まった。
◇ ◇ ◇ ◇
翌週の日曜。舞子は朝からそわそわしていた。
トーストをかじりながら、ぴあ、Lマガジン、SAVVY、あまから手帖……テーブルいっぱいに情報誌を広げている。メモ帳には大きく「ぶぶ漬け」と殴り書き。観光パンフのコピーや、マンガのコマの切り抜きまで出てきた。完全に自由研究モードだ。
「で、どこ行くん?」
「うーん……やっぱり老舗の料亭とか“本気”っぽいけど、敷居高そうだよね。ハルくんの財布が死にそう。」
「できれば長生きさせて。」
「でもさ、漬物いっぱいあるところがいいな~。お茶漬け専門店とかもあるんだよ? ほら、これ!」
記事の写真には、小鉢にきれいに並べられた漬物、焼き鮭、ちりめん山椒、梅干し。湯気の立つ土瓶から、ごはんに出汁が注がれている。
正直、そのページだけで白ごはん2杯はいけそうだった。
「よし。今日は“本気のお茶漬け”ツアーな。」
「やったー! ぶぶ漬けラバーとしては外せない!」
誰がいつそんな称号を与えたのか知らないが、本人が楽しそうなので放っておく。
そう言って押し入れに着替えに向かった舞子は、5分後、迷わず「さてんのに~ちゃん」Tシャツで出てきた。
「舞子、それで祇園行くつもりなん?」
僕はなるべくやさしい声で訊いたつもりだったが、どうしてもツッコミが滲む。
「なんで? かわいいのに。」
前掛け姿で咥えタバコのにいちゃんが、堂々と白菜をキャベツと間違えている。胸元いっぱいに、その世界観が広がっていた。
「悪いけど、それはさすがに祇園には連れて行けへん。」
「え、なんでよ。」
「たぶん景観条例に違反する。海外の観光客に写真撮られて、“KYOTO STRANGE FESTIVAL”とかタイトル付けられるで。」
舞子は自分の胸元を見下ろし、「に~ちゃん」と目を合わせてから、ぷっと吹き出した。
「……わかった。今日はお留守番してもらう。」
素直に押し入れへ戻り、今度は落ち着いた色のニットで出てきた。下はいつものデニムの短パンだ。
「お、ええやん。ちゃんと“普通にお出かけ”の格好や。」
「褒めてる?」
「ちゃんと褒めてる。」
「えへへ。」
玄関で買い物かごを手に取ると、舞子は軽やかに階段を下りていった。
僕らは自転車に乗り込み、いつもの川端通りを南へ下っていく。今日は四条まで。
「“ぶぶ漬け”って、店のメニューにそのまま書いてあるもんかな?」
「どっか1軒くらいはある気がする。あった方が分かりやすいし。」
「全部“希望的観測”やん。」
祇園の裏通りから先斗町、木屋町筋へ。
小料理屋や定食屋のメニューを外から覗き込みながら走る。
「うーん……“茶漬け”“お茶漬け膳”ってのはあるけど、“ぶぶ漬け”はないね……。」
そのあとも、錦市場の定食屋や、お茶漬けを看板に掲げている店、漬物の有名店を回ったが、「これだ」と思える“ぶぶ漬け”には出会えなかった。
「やっぱり、ぶぶ漬けって幻の食べ物なのかな……。」
舞子はハンドルにもたれかかるようにして、しょんぼりと呟いた。
僕も、足はだるいし腹も減ってきていたが、ここまで探した以上、何かしら“京都のお茶漬け”を食べさせてやりたかった。
少し戻ったところで、ふと目に入った木造の町家風の食堂。軒先の小さな札に、さらりと筆文字で「出汁茶漬け」とある。
「ここ、よさげちゃう? 値段もランチならギリやし。」
「うん。お腹も空いたし、入ってみよ。」
引き戸を開けると、ランチの終盤らしく、客は僕たちだけだった。
カウンターの向こうには白衣姿の女将さんと、無口そうな職人風の男性。店の奥からは、出汁の落ち着いた香りが漂ってくる。
ほどなくして運ばれてきたのは、焼き鮭をメインに、小皿に盛られた琵琶湖の小魚の飴炊き、色とりどりの香の物。艶のあるごはんの横には、片口の湯桶に入った、透き通った黄金色の出汁。
舞子は、湯気を見ただけで目を輝かせた。
「えっ、これ、お茶じゃなくて出汁? 出汁って、そのままごはんにかけていいんだ……。」
おそるおそる、湯桶を傾けてごはんに注ぎ、一口すする。
その瞬間、舞子の眉がぴくっと跳ね、頬の力がゆるんだ。
「なにこれ……うっま……。」
「だから“出汁茶漬け”って書いてあったやろ。」
「この紫の漬物なに……? この黄色いのは? このパリパリしたやつ、山椒? ちりめん? 全部おいしい……。」
ひと口ごとに、いちいち僕の袖をつついて報告してくる。
まるで初めて外国の料理に出会った旅人みたいだった。
「器もかわいい……このスプーン、レンゲじゃなくて銀のやつだ……。お茶漬けって、こんな高貴な食べ物だったっけ……?」
ぶつぶつ言いながら、最後の1粒まできれいに平らげた。
◇ ◇ ◇ ◇
店を出ると、川端通りの空に、薄く雲が広がり始めていた。
僕たちは自転車で出町柳まで戻り、アパートに荷物を置いて、そのまま銭湯へ向かった。冬とはいえ、あちこち歩き回れば汗もかく。
湯気でぼんやりした脱衣場を抜け、熱めの湯に浸かりながら、僕はさっきの出汁茶漬けを思い出していた。
風呂上がりに瓶の牛乳を飲み干し、タバコを1本だけ吸ってからアパートに帰る。
こたつに潜り込んで、今日の反省会が始まった。
「で、結局、“ぶぶ漬け”は出てこんかったな。」
「出てこなかったけど……めちゃくちゃ美味しかった……。あの赤いのと黄色いのと白いやつ……名前は覚えてないけど、全部ずっと食べてたい感じ。」
「でも、“ぶぶ漬け”って言葉自体が、もともとメニューの名前とちゃうのかもしれん。」
「え、どういうこと?」
「なんとなくやけど……ほんまの意味、誰かに聞いてみたいなって。」
僕はふと、嵯峨に住む畳屋の親戚のことを思い出した。
子どもの頃、送り火の時期になると泊めてもらった家だ。晩ご飯のとき、喋りすぎては「ハルヒトくん、しゃべってんと食べよし」と笑われていた。
あのおばちゃんなら、何か知っているかもしれない。
実家に電話して番号を教えてもらい、そのまま受話器を持ち替えて嵯峨の家を呼び出した。
「もしもし、ハルヒトです。お久しぶりです。実はですね――」
事情を説明すると、おばちゃんは、いかにも京都らしい調子で、あっけらかんと教えてくれた。
ぶぶ漬けいうたら、ご飯にほうじ茶やお出汁かけて、梅干しや漬物や川魚なんか添えた、ただのお茶漬け。
ただ、長居してる客に「そろそろ」ってやんわり伝えるときに使う“場合もある”、というだけ。
せやけど、テレビが言うほど使わへんえ。若い子はなおさらや。
要するに──
“ぶぶ漬け”は料理じゃなくて「タイミングの言い方」だった。
僕が説明すると、舞子は無表情に「ふ~ん」と言った。
「じゃあさ、ハルくんが私を追い出したくならない限り、“ぶぶ漬け”は出てこないんだ」
どこまで理解しているのか分からない声だった。
そして続けてこう言った。
「じゃあもう“ぶぶ漬け”じゃなくていいから、さっきのお店より美味しいお茶漬け、ハルくんが作って!」
「ええよ。ほな、美味しい漬けもん買いに行こか。まだ店開いてるやろ。」
こうして僕らは、薄暗くなり始めた鴨川デルタを横目に見ながら、再び川端通りを自転車で走り出した。




