表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

第6話 ぶぶ漬けパラドクス

酢豚の余韻が残る食卓で、舞子が突然「あっ」と声を上げた。


「どうしたん?」


「ハルくん、あのね……こたつ拭いてたときに、うっかりレポートみたいなやつの上に、濡れた布巾置いちゃった。ごめん。乾いたらシワになるかも。」


僕はそんなこと、まったく気づいていなかった。


「大丈夫や。まだ下書きやし。」


「そっか。よかった。」


ほっと息をついたかと思うと、舞子はまた別のスイッチを入れた。


「あのさ、ハルくん。“ぶぶ漬けでもどうどす?”って、使う?」


「……は?」


ジャスミンティーが変なところに入りかけた。


「昔さ、マンガで読んだの。京都で“ぶぶ漬けでも”って言われたら、“そろそろ帰れ”って意味だって。だからさ、レポートにシワ付けちゃったお詫びに、“ぶぶ漬けでもどうどす?”って出されたりしないかなーって。」


「いやいやいや。舞子のヘマなんか、今さら減点にもならへんわ。」


「ひどっ。」


「褒めことばや。あと“ぶぶ漬け”って、そんな呪いのセリフちゃうから。そもそも出される前に帰るのが京都流やし。」


「うわー、ほんとなんだ……。マンガだけかと思ってた。」


舞子は感心したようにうなずいたあと、ふと真顔になった。


「でさ、その“ぶぶ漬け”って、本当にあるの? 食べ物として。」


「普通のお茶漬けやったら、どこでも食べられると思うけど。」


「永谷園じゃなくて?」


「……まあ、店ならもうちょいマシやろ。」


「えー! 食べたい! 京都の本気のお茶漬け。ちゃんとした“ぶぶ漬け”!」


舞子は、すっかりいつもの「食べたことないものレーダー」の目になっていた。


「ぶぶ漬けなあ……。」


そこから、僕らの“ぶぶ漬け探訪ミッション”が始まった。


◇    ◇    ◇    ◇


翌週の日曜。舞子は朝からそわそわしていた。


トーストをかじりながら、ぴあ、Lマガジン、SAVVY、あまから手帖……テーブルいっぱいに情報誌を広げている。メモ帳には大きく「ぶぶ漬け」と殴り書き。観光パンフのコピーや、マンガのコマの切り抜きまで出てきた。完全に自由研究モードだ。


「で、どこ行くん?」


「うーん……やっぱり老舗の料亭とか“本気”っぽいけど、敷居高そうだよね。ハルくんの財布が死にそう。」


「できれば長生きさせて。」


「でもさ、漬物いっぱいあるところがいいな~。お茶漬け専門店とかもあるんだよ? ほら、これ!」


記事の写真には、小鉢にきれいに並べられた漬物、焼き鮭、ちりめん山椒、梅干し。湯気の立つ土瓶から、ごはんに出汁が注がれている。


正直、そのページだけで白ごはん2杯はいけそうだった。


「よし。今日は“本気のお茶漬け”ツアーな。」


「やったー! ぶぶ漬けラバーとしては外せない!」


誰がいつそんな称号を与えたのか知らないが、本人が楽しそうなので放っておく。

そう言って押し入れに着替えに向かった舞子は、5分後、迷わず「さてんのに~ちゃん」Tシャツで出てきた。


「舞子、それで祇園行くつもりなん?」


僕はなるべくやさしい声で訊いたつもりだったが、どうしてもツッコミが滲む。


「なんで? かわいいのに。」


前掛け姿で咥えタバコのにいちゃんが、堂々と白菜をキャベツと間違えている。胸元いっぱいに、その世界観が広がっていた。


「悪いけど、それはさすがに祇園には連れて行けへん。」


「え、なんでよ。」


「たぶん景観条例に違反する。海外の観光客に写真撮られて、“KYOTO STRANGE FESTIVAL”とかタイトル付けられるで。」


舞子は自分の胸元を見下ろし、「に~ちゃん」と目を合わせてから、ぷっと吹き出した。


「……わかった。今日はお留守番してもらう。」


素直に押し入れへ戻り、今度は落ち着いた色のニットで出てきた。下はいつものデニムの短パンだ。


「お、ええやん。ちゃんと“普通にお出かけ”の格好や。」


「褒めてる?」


「ちゃんと褒めてる。」


「えへへ。」


玄関で買い物かごを手に取ると、舞子は軽やかに階段を下りていった。

僕らは自転車に乗り込み、いつもの川端通りを南へ下っていく。今日は四条まで。


「“ぶぶ漬け”って、店のメニューにそのまま書いてあるもんかな?」


「どっか1軒くらいはある気がする。あった方が分かりやすいし。」


「全部“希望的観測”やん。」


祇園の裏通りから先斗町、木屋町筋へ。

小料理屋や定食屋のメニューを外から覗き込みながら走る。


「うーん……“茶漬け”“お茶漬け膳”ってのはあるけど、“ぶぶ漬け”はないね……。」


そのあとも、錦市場の定食屋や、お茶漬けを看板に掲げている店、漬物の有名店を回ったが、「これだ」と思える“ぶぶ漬け”には出会えなかった。


「やっぱり、ぶぶ漬けって幻の食べ物なのかな……。」


舞子はハンドルにもたれかかるようにして、しょんぼりと呟いた。


僕も、足はだるいし腹も減ってきていたが、ここまで探した以上、何かしら“京都のお茶漬け”を食べさせてやりたかった。

少し戻ったところで、ふと目に入った木造の町家風の食堂。軒先の小さな札に、さらりと筆文字で「出汁茶漬け」とある。


「ここ、よさげちゃう? 値段もランチならギリやし。」


「うん。お腹も空いたし、入ってみよ。」


引き戸を開けると、ランチの終盤らしく、客は僕たちだけだった。

カウンターの向こうには白衣姿の女将さんと、無口そうな職人風の男性。店の奥からは、出汁の落ち着いた香りが漂ってくる。


ほどなくして運ばれてきたのは、焼き鮭をメインに、小皿に盛られた琵琶湖の小魚の飴炊き、色とりどりの香の物。艶のあるごはんの横には、片口の湯桶に入った、透き通った黄金色の出汁。


舞子は、湯気を見ただけで目を輝かせた。


「えっ、これ、お茶じゃなくて出汁? 出汁って、そのままごはんにかけていいんだ……。」


おそるおそる、湯桶を傾けてごはんに注ぎ、一口すする。


その瞬間、舞子の眉がぴくっと跳ね、頬の力がゆるんだ。


「なにこれ……うっま……。」


「だから“出汁茶漬け”って書いてあったやろ。」


「この紫の漬物なに……? この黄色いのは? このパリパリしたやつ、山椒? ちりめん? 全部おいしい……。」


ひと口ごとに、いちいち僕の袖をつついて報告してくる。

まるで初めて外国の料理に出会った旅人みたいだった。


「器もかわいい……このスプーン、レンゲじゃなくて銀のやつだ……。お茶漬けって、こんな高貴な食べ物だったっけ……?」


ぶつぶつ言いながら、最後の1粒まできれいに平らげた。


◇    ◇    ◇    ◇


店を出ると、川端通りの空に、薄く雲が広がり始めていた。

僕たちは自転車で出町柳まで戻り、アパートに荷物を置いて、そのまま銭湯へ向かった。冬とはいえ、あちこち歩き回れば汗もかく。


湯気でぼんやりした脱衣場を抜け、熱めの湯に浸かりながら、僕はさっきの出汁茶漬けを思い出していた。

風呂上がりに瓶の牛乳を飲み干し、タバコを1本だけ吸ってからアパートに帰る。


こたつに潜り込んで、今日の反省会が始まった。


「で、結局、“ぶぶ漬け”は出てこんかったな。」


「出てこなかったけど……めちゃくちゃ美味しかった……。あの赤いのと黄色いのと白いやつ……名前は覚えてないけど、全部ずっと食べてたい感じ。」


「でも、“ぶぶ漬け”って言葉自体が、もともとメニューの名前とちゃうのかもしれん。」


「え、どういうこと?」


「なんとなくやけど……ほんまの意味、誰かに聞いてみたいなって。」


僕はふと、嵯峨に住む畳屋の親戚のことを思い出した。

子どもの頃、送り火の時期になると泊めてもらった家だ。晩ご飯のとき、喋りすぎては「ハルヒトくん、しゃべってんと食べよし」と笑われていた。


あのおばちゃんなら、何か知っているかもしれない。


実家に電話して番号を教えてもらい、そのまま受話器を持ち替えて嵯峨の家を呼び出した。


「もしもし、ハルヒトです。お久しぶりです。実はですね――」


事情を説明すると、おばちゃんは、いかにも京都らしい調子で、あっけらかんと教えてくれた。


ぶぶ漬けいうたら、ご飯にほうじ茶やお出汁かけて、梅干しや漬物や川魚なんか添えた、ただのお茶漬け。

ただ、長居してる客に「そろそろ」ってやんわり伝えるときに使う“場合もある”、というだけ。

せやけど、テレビが言うほど使わへんえ。若い子はなおさらや。


要するに──

“ぶぶ漬け”は料理じゃなくて「タイミングの言い方」だった。


僕が説明すると、舞子は無表情に「ふ~ん」と言った。


「じゃあさ、ハルくんが私を追い出したくならない限り、“ぶぶ漬け”は出てこないんだ」


どこまで理解しているのか分からない声だった。


そして続けてこう言った。


「じゃあもう“ぶぶ漬け”じゃなくていいから、さっきのお店より美味しいお茶漬け、ハルくんが作って!」


「ええよ。ほな、美味しい漬けもん買いに行こか。まだ店開いてるやろ。」


こうして僕らは、薄暗くなり始めた鴨川デルタを横目に見ながら、再び川端通りを自転車で走り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ