第48回 秋風セッション
タカトモから『その件』の電話がかかってきたのはそれから二週間後の午後のことだった。
「ハルヒト、今暇?」
その日は日曜日で、僕はお昼ごはんにナポリタンを作って舞子と食べて、口の周りがケチャップで真っ赤になったままタバコを咥えようとして舞子に叱られていたところだった。
「うん、今日は別に予定ないで」
「そうか。ちょっと涼しなったし、俺原チャでそっちまで行くから、お前んとこの近くの三角州の公園あるやんけ?」
「鴨川デルタ?」
「え?あっこそんなシャレた名前あるんか?」
「あ、ごめん、うちのサークルでそう呼んでて、普段も会話で使こてるからつい。」
「なんやそれ。まええわ、そのデルタまで、ギター持って出てこられるか?」
「別にええけど、どないしたん?」
タカトモは僕の質問には答えず、
「ほな、十分くらいで行くわ!」
と電話を切った。
「一方的なやっちゃな」
そう独り言を言いながら僕はギターをケースに収めて、舞子と一緒にアパートを出た。
「なんか、急に涼しくなったね」
舞子がそう言いながら帽子を押さえる。ツバの先が、風に揺れていた。
「帽子、もう要らん季節になってきたなあ」
「まだ日差し強い時あるし、クセで被ってきちゃった。ハルくん、ギター重くない?」
「平気。まあ、のんびり歩こか」
川沿いへ出た瞬間、
空気がひとつ、季節の頁をめくったように感じられた。
数字の上ではまだ夏のはずなのに、
肌を撫でる風はもう、真昼の粘りつく熱を失っていた。
どこか乾いて、ひんやりとして、
胸の奥のほこりまでそっと払い落としてくれるみたいだった。
空には薄絹のような雲が広がり、光はやわらかく拡散している。
川面には風が細かな模様を刻み、そのさざ波を押し分けるように、水鳥がゆっくり泳いでいく。
夏と秋のあいだにある、ごく短い"境目の時間"が、そこに静かに立っているようだった。
「……気持ちいいね」
舞子がぽつりと呟く。
水面には薄い雲がゆらりと映り込み、その輪郭が川の流れに合わせてゆっくり形を変えていた。
鴨川と高野川が合流する三角州には、休日を楽しむ人たちが散らばっている。
ピクニックの家族、ギターをつま弾く学生、寄り添って本を読むカップル──
どの姿ものんびりしていて、夏の名残と秋の気配が同じ場所に座っているようだった。
「タカトモさん、まだ来てないね」
「原チャで来る言うてたし、すぐちゃう?」
ベンチに腰を下ろすと、風が舞子の髪をふわりと持ち上げて、僕の肩に触れた。
鴨川デルタは汗もかかずにじっとしていられるくらい快適で、
声を張らずに会話ができるくらい静かで、
そしてギターの音を少しだけ鳴らしてみたくなるような、そんな場所だった。
「おー!悪い悪い!」
僕がタバコに火を点けようとした時、タカトモがやってきた。
こいつもギターを持っているのかと思っていたが、荷物は小さなショルダーバッグだけだった。
「ほんで、どうしたん?急にギターもってこいって?」
「まあまあ、順番に話すわ。とりあえずギター出してチューニングしてや」
言われるがままに、僕はギターケースを開けた。
久しぶりに触ったギターは弦が少し錆びかけてザラリとした感触になっていた。
「えっとな、とりあえず何か弾けるか?」
相変わらずいきなりだなこいつは。
「何かって、急に言われても」
「最近もフォークとか甲斐バンドなんか?」
「いや」
京都に住み始めてまもなく、ローザ・ルクセンブルグというバンドを知った。
京大の学生が組んだ、学園バンドの熱気をそのまま背負ってプロへ飛び出した、稀有な存在だ。
その音には、僕が密かに憧れていた京都のアングラな匂いが濃く立ちのぼっていて、気づけば完全に虜になっていた。
入学した年に出たアルバム「ぷりぷり」と「ROSA LUXEMBURG II」は特に好きで、部屋で何度もコピーしてはギターで弾き語りの練習をしていた。
深夜のアパートに、あの少し不穏で自由なメロディがじんわり染みていくのが好きだった。
「このへんどう?」
そう言って僕はピックを持ち、Eのコードをストロークした。
低音弦で、あの独特のベースラインを真似る。
「うお!ローザ!お前それ来るか!?」
タカトモはそう言ってショルダーバッグからハーモニカを取り出し、甲高い掛け声のあと、いきなり曲に飛び込んできた。
僕が少し不穏で、でも妙に間の抜けた歌い出しを始めると、その隙間に、見事な泣きのオブリガードが入る。
犬だか人だか分からない相手に呼びかける、妙におかしくて、妙に切ない歌だった。
サビでは、僕とタカトモの声が勝手に重なる。
舞子は最初、何の歌なのか分からない顔をしていたが、すぐに手拍子を始めた。
やがて、曲がラップなのか掛け声なのか分からないところへ突入すると、完全に耐えきれなくなった。
「何その曲!?」
舞子は腹を抱えて笑い転げている。
「昔な、河原町に"ジュリー"って呼ばれてた浮浪者のおっちゃんがおってな。その人の歌や!」
「その人の歌!?」
舞子はヒーヒー言って、一段と笑い転げている。
「ほな次は、さらにアホなやつ行こか!?」
僕がそう言って軽くイントロを弾くと、タカトモは、
「ちょい待ち、キーは原曲のままか?」
と、妙に真剣な顔になった。
「うん。Dや」
「ほな、ハープはこれやな」
タカトモが持ち替えてカウントを出す。
「ワンツースリーフォー!」
今度は出だしから、まるで打ち合わせたようにギターとハーモニカのイントロが始まった。
内容は、簡単に言えば、しょうもない男がしょうもない視点で女の子を見ている、どうしようもなく馬鹿な歌だ。
でも、メロディはやたら明るく、ハーモニカは無駄に格好いい。
その落差がひどかった。
「何それ!? なんでそんなに楽しそうに歌えるの!?」
舞子はまた笑い転げている。
サビに入る頃には、僕とタカトモの声は完全に悪ノリになり、舞子はベンチに転がってしまった。
「もう~!!! なにさっきから!!!! 笑い死ぬかと思ったよ!!!」
舞子が言う。
「もうちょっとこう、真面目な歌ないの?」
「ハルヒト、RC行けるか?」
タカトモがそう言って、また持ち替えたハーモニカでAのブルーノートを吹き始めた。
僕はそれに応えて、八分の六拍子のストロークの合間に、あの特徴的なピアノのフレーズをギターに置き換えて入れた。
夜の車。
駐車場。
毛布。
眠っている女の子。
ラジオから流れるスローバラード。
そんな情景が、ぽつりぽつりと浮かぶ歌だった。
タカトモのブルースハープが、間奏で泣くように伸びる。
さっきまで笑い転げていた舞子は、いつの間にか目を閉じて聴いていた。
「よし!決まりやな!」
短いセッションが終わって、タカトモがそう言った。
「決まり?何が?」
「お前な、俺らのバンド入ってくれ」
「は?」
突然何を言う。
「何とな、俺らのバンド、ローザとキヨシローのカバーバンドやねん。お前、あまりにバッチリやんけ!」
「ちょ、ちょっと待って」
唐突な話に面食らったが、とりあえずタバコを咥えて火を点けて一息吹かすと、
それはとても魅力的な話に思えてきた。
音楽も久しぶりにやりたいなとは思っていたが、大学生になってからきっかけがないまま時が過ぎてしまっていた。
「ええよ。やらせてもらうわ」
「お!やった!」
「うん」
舞子も笑顔だ。
「ほんでな、楽器やねんけどな」
「ギターやろ?エレキ買わなあかんかな?」
「いや、実は…ベースが辞めてしもて、ベースやって欲しいねん」
「は?」
「いや、お前のギター聴いてたら、いけるやろ。それにドラムもやってた言うから、リズムもバッチリやんけ。」
「は?」
「ほな決まりな!スタジオのリハの時間、また電話するわ!今日はおもろかった!ほな!」
そう言ってタカトモは走り去ってしまった。
は?
そういえばそういうやつだった。
「ハルくん、バンドやるんだね?」
「うん…けど、ベース弾いたことはあるけど、バンドでなんかやったことないねんけど」
「そうなんだ…難しいの?」
「うん。ギターとかキーボードとか、"上に乗ってる"楽器は、乱暴に言うたらちょっとくらい音とかリズムずれてもどうにかなるんやけどな、ベースは音間違えたらバンド全体の和音が変わってしまうし、リズムズレたら下手したら全体が止まってしまう。」
「へー、難しいんだね」
そんな話をしながらギターを提げて舞子とアパートに向かいながら、でも僕はワクワクしていた。
「あ、あとそれとね」
舞子が大きな目で僕を見上げて言う。
「最後の曲、感動しちゃった。」
「どういうとこが?」
「車で毛布にくるまって朝まで寝るところとか、寝言を聞くところとか。
香川の帰りのパーキング、思い出しちゃったよ」
僕は一瞬言葉に詰まり、涙が出そうになった。
僕も歌いながら、あの時のことを思い出していたんだ。
鴨川から吹いてきた涼しい風が、秋を乗せて僕達の間を通り抜けていった。




