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第3話 銭湯と三角州と長浜ラーメン

僕の部屋には風呂がない。


親は「今どき学生が風呂なしなんて」と首をかしげ、家賃を出すから普通のワンルームにしろと言ってくれた。

それでも僕は譲れなかった。木造2階建て、猫が昼寝しそうな軒、雨の日にトタンの音が響く屋根、そして銭湯通い。

それらが僕の中の「京都の学生」のイメージだった。


ただし、台所だけは妥協できなかった。

2口のガスコンロが置けて、まな板を広げられる調理台があること。

その条件に合ったのが、この出町の小さなアパートだった。


親は結局「変わった子やなぁ」と笑って折れてくれ、「入学祝いに」と車まで買ってくれた。

僕を甘やかすのが趣味みたいなところがある。

ありがたいけれど、時々申し訳なくなる。


そんな環境だから、銭湯通いも僕の日常になっていた。


舞子が押し入れに“巣”を作った日の夜、僕はいつも通り声をかけた。


「舞子、風呂行くけど、どうする?」


「行く! 行く行く行く!」


舞子は本当にテンションが高かった。

けれど、なぜか僕のタンスをガサゴソしている。


「何してんの」


「赤い手ぬぐい探してるの。銭湯っていえば赤い手ぬぐいでしょ?」


……何でその歳でそんな古い曲知ってるんだ。


仕方ないので、ラグビー部時代の赤いスポーツタオルを渡すと、舞子はそれをマフラーに巻いてご満悦だった。


銭湯までは歩いて5分。

昔ながらの小さな浴場で、壁にはなぜかジョンとヨーコの写真。

スピーカーからはビートルズ。

僕が好きな場所だった。


番台のおばちゃんがニヤニヤして言う。


「今日は彼女さんと一緒かいな?」


否定する間もなく、舞子が「こんばんは?」と頭を下げたので、僕は曖昧に笑うしかなかった。


湯に浸かりながら、押し入れの巣のことや舞子との距離感を考えたが、答えは1つ。


――まあ、いいか。


「あるがままに」。ビートルズもそう言ってる。


髪を乾かして外へ出ると、タバコの煙が夜風に溶ける。

10分ほどすると、頬を赤らめた舞子が脱衣所から出てきた。


「待たせちゃった?」


「石鹸カタカタ鳴らしながら待っててくれた?」


――だから何で知ってるんだ、その曲。

そして彼女は相変わらず短パンだった。


「舞子、それ寒くないん?」


「大丈夫。1年中これ。好きなの、この格好」


この子は寒さに強いというより、体感温度の基準そのものが違う気がする。



アパートへの帰り道、舞子が言った。


「ねえ、ハルくん。昼間歩いてたら、大きな橋から三角州みたいなの見えたんだけど、あれ何?」


「ああ、あれは、賀茂川と高野川。北の方から流れてきた2つの川が、ちょうどあのあたりで合流して、鴨川になる。みんなの憩いの場やで。僕の入ってる広告研究会では『鴨川デルタ』って呼んでる」


「へえ、鴨川デルタ。かっこいい名前だね」


「ほんまはそんな名前、地図には載ってへんねんけどな」


「でもいい名前だよ。“鴨川デルタ”って、なんか秘密基地みたい」


「今のところ、うちのサークルだけやと思うけど、いずれ広まるんちゃう?」


「行ってみたい。今から」


「今から?」


「風呂上がりの散歩ってやつ」


断る理由もなく、僕たちは鴨川デルタへ向かった。

夜の三角州は、昼よりずっと静かで、川のせせらぎだけが細く響いていた。


「ね、あれ何? 川の中!」


「浅瀬に石が頭出してるな。子どもがよう入って遊ぶとこやで」


「へえ~、渡りたい!」


「夜は危ないって。足滑らすかも」


舞子は名残惜しそうに川面を見つめた。

するとふと思い出したように言う。


「ねえ、ハルくんの部屋にあった『宝島』って雑誌で見たんだけど、京都の鴨川には等間隔でカップルが並んでるってあったよね。ここ?」


「いや、それはもっと南。三条から四条あたりの鴨川沿い。ここのことちゃう」


「ふ~ん」


意外と薄いリアクションだった。

夜風は冷たいのに、その時間だけはやけに温かかった。


帰宅すると、舞子は押し入れの巣へ戻り

「あー楽しかった! おやすみー!」と言うなり寝息を立てた。

僕はひっくり返された荷物を天袋へ押し込みながら、ため息をついた。


やれやれ。


◇    ◇    ◇    ◇


舞子が住み着いて1週間。

彼女は毎朝5時半にバイトへ行き、11時に戻ってくる。

モーニングで余ったパンを持って帰る日もある。


昼前に目が覚めた僕は、舞子のパンに合わせて軽食を作った。


「わ、いいにおい!」


バターたっぷりのスクランブルエッグ、シャウエッセン、軽く炙ったパン、ミルクティー。

朝食っぽいが、僕にとっては起き抜けの“朝ごはん”だった。


「ハルくん、今日の夜って暇?」


「午後に講義が2コマあるだけやけど」


「明日バイト休みだから、私がご飯ご馳走する。四条とか三条の方、まだ行ったことないから連れてってよ」


「ええけど……お金大丈夫なん?」


「言ったでしょ、貯金あるって。大丈夫」


話はあっさり決まった。


移動手段はバスの予定だった。

――はずだった。


講義が終わって帰ると、

アパート前で舞子がニコニコしながら自転車を立てていた。


「…まさか盗んできたんちゃうやろな」


「違うって!中古で買ったの!」


ピンクの子供サイズ(KIDS150)の上着に、その小さめの自転車が妙に似合っていた。


「さ、行こう!」


僕たちは川端通を下って木屋町へ向かった。


「京都って“上ル”とか“下ル”って言うんでしょ? 今は?」


「南へ向かってるから“下ル”やな」


「へー、ゲームみたい」



やがて三条通に差し掛かり、僕たちは鴨川を渡って木屋町へと進んだ。


「ここでええ?」


と一応訊いたものの、僕は最初からここにするつもりだった。

木屋町を少し下がったところにある博多・長浜ラーメンの店。


ここの豚骨ラーメンはあっさりして匂いが抑えめで、細麺がするすると喉を滑る。何より冬場の冷えた体に、あの優しい熱さが染みわたるのがいい。


カウンターに2人並んで座り、出てきたどんぶりに「いただきます」と手を合わせた。


「あ、うんまっ!」


舞子は一口すするなり、目を丸くした。

熱々を、脇目も降らず、おしゃべりもせず、食べるのとフーフーするの以外何もせずに必死で食べ始めた。

1月の京都、外は冷えるが、ラーメンの湯気が顔に心地いい。身体の芯から温まる感覚が、言葉少なにしてくれる。

完食して「ごちそうさま!」と店を出ると、空はすっかり夜色に染まり、川の方から冷たい風が吹いてきた。


「随分と一所懸命食べてたやん。気に入ったん?」


「それもあるけど、私猫舌で、食べるの遅いから必死で食べてたんだよ。それでも待たせちゃったでしょ。ごめんね」


外へ出ると、夜の気温が一気に肌に刺さる。

舞子は短パンのまま、橋の欄干から河原を覗き込んだ。


「うわ~! 本当に等間隔に並んでる!」

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