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第20回 湖と桜とちゃんぽんと

海津大崎の桜並木は、本当に見事だった。

満開の桜が頭上を覆い、淡い薄紅色のトンネルの中を走っているような気分になる。

風に舞った花びらがフロントガラスをかすめ、ワイパーに手を伸ばしかけて、もったいなくてやめた。


「うわ、なんか……夢みたい」


助手席の舞子が窓を少し開け、顔を近づける。花びらが髪にふわりと一枚とまり、すぐどこかへ飛んでいった。


桜のトンネルを抜けると、道は琵琶湖の最北端の入り江に沿って続いていく。

右手には琵琶湖。午前の光を受けて、湖面がきらきらと光っていた。


少し走ると、道が二手に分かれている場所に差しかかる。


「ここで北行ったら三〇三号のショートカットやな」


そうつぶやきながら、僕は「奥琵琶湖パークウェイ」の案内に従って右にハンドルを切った。

急いで帰る理由はない。

湖北の琵琶湖を、もう少し舞子に見せてやりたかった。


やがて道は湖岸を離れて山裾へ入り込む。そこから先はくねくねとした登りだ。

杉や桧の木立の間から苔むした岩肌が覗き、ガードレールの外はなかなかの急傾斜で、対向車が来るたびに少し身構える。


「なんか、すごい山入ってきたね」


「展望台あるねん。上から琵琶湖見えるで」


「え、じゃあ……もっとすごい景色なの?」


「もちろん」


急坂を登り切ると展望台に着いた。

車を停めて視界の開けている方へ進む。


「……すご」


舞子が息をのむ。

駐車場からは、琵琶湖がパノラマみたいに見渡せた。

ずっと南の方は霞んで見えず、ところどころに島影のようなものが浮かんでいる。


「ねえ、双眼鏡、あれやっていい?」


展望デッキの端にコイン式の望遠鏡が立っている。


「またすぐ終わるで、屋島の時みたいに」


そう言いつつ、僕は百円玉を入れてやる。

ガチャンとレンズが動き、舞子がわくわくした顔で覗き込む。


「琵琶湖だー。遠くは見えないね。どんだけ広いんだー? ……あ、あそこに島ある!ちっちゃいの。あれ何?」


「竹生島。琵琶湖八景のひとつ。昔から信仰の島や。弁才天が祀られてる」


「へー、あそこ行けるの?」


「うん。今津と、この先の長浜と、彦根の港から連絡船出てる」


「いいなー」


「船の中、琵琶湖の説明ナレーションは面白いんやけど、それ以外はずーっとおときさんが歌ってはる」


「おときさん?」


「加藤登紀子さん。『琵琶湖周航の歌』っていうのがあってな。舞子、『われはうみの子』って歌で来たら続き何?」


「し~らなみの~♪」


「やろ? けど滋賀県民は『さす~うらぁいのぉ~♪』やねん。琵琶湖の歌や。湖を海みたいに歌う、ちょっと不思議な歌」


「へえ……琵琶湖って、歌まで海みたいなんだ」



駐車場の片隅には、小さな売店があった。

パック詰めの佃煮や漬け物、乾物が並んでいる。その中に見覚えのある味があった。


「うわ、稚鮎とモロコや。ゴリの飴炊きもある」


思わずいくつかをカゴに放り込む。


「これ、なに?ゴリって魚なん?」と舞子。


「ちっちゃい川魚。甘辛く炊いてある。ご飯にめっちゃ合う」


「へー。あ、そういえば、ぶぶ漬け探してた時に写真で見た気がする」


「京に都あった頃から、こういうの献上されてたんやろな」


他にもエビ豆や赤こんにゃくなど、見慣れた食べ物が揃っていた。


「え?これこんにゃく?なんで赤色?」


「織田信長の派手好きにちなんだとか、祭りに合わせたとか、いろいろ言われてるらしいで。僕なんかはこんにゃくは赤いもんやと思って育ったから、灰色の見た時びっくりしたわ」


「なにで色つけてるんだろうね?」


「そこまでは知らん」


冷蔵庫の奥に、目を引く真空パックがあった。


「……あっ。鮒ずしや」


薄くスライスされた身の周りに白い飯がびっしり敷き詰められ、オレンジ色の卵が輝いている。


「え?それ?どこが鮒でどこがお寿司なの?」


「今のお寿司やなくて、日本古来のなれ寿司。発酵食品。子供の頃から、これでお茶漬けするのが大好きでな」


値段を見て一度棚に戻しかけ、「でも、こういうとこ来たら買わな損やろ」と結局買ってしまう。

ここだけでそこそこの散財だ。


再び車に乗り込みパークウェイを北へ。

やがて道は山を下り、「賤ヶ岳古戦場」の案内板が見えてきた。


「……寄ってええか?」


「いいけど、賤ヶ岳ってなんだっけ?戦があったの?」


「本能寺の変のあと、信長の後継をめぐって、秀吉と柴田勝家が天下かけて戦った場所。そこで名を挙げた『七本槍』とか有名なんや」


「へー。なんか社会の時間で聞いてない気がする」


駐車場の奥には、一人乗り用の古いリフトがあった。「運転中」の札が掛かっている。

チケットを買って係員に渡す。


「これ……けっこう怖くない?」


「高所恐怖症なん?」


「全然!」


笑いながらリフトに乗ると、足がぶらんと宙に浮いた。

後ろの椅子で舞子が「わー」と叫びながら手を振っている。大はしゃぎだ。


終点で降りてからも、古戦場の碑のある山頂までは思った以上にしっかりした登りだった。

ゼエゼエ言いながら辿り着き、ふと振り返ると、琵琶湖の向こう側に小さな湖が見える。


「あの小さな湖は?」


「あれは余呉湖。冬になったらワカサギ釣りとかできる。あそこにな、『羽衣伝説』が残ってるんや」


「天女の?」


「そう。水浴びしてた天女が羽衣盗られて、地元の若者と結婚する話。でも最後は、やっぱり天に帰ってしまう」


展望スペースには無料の双眼鏡があった。

舞子が喜んで覗き込んだが、すぐに「……なんかイマイチ」と顔をしかめる。


帰りもリフト。

少し慣れたとはいえ、前の席で「きゃー」と叫び続ける舞子に、


「うるさい。静かに乗れ」


「だってー」


そんな声を聞きながら、僕たちはゆっくり山を降りた。


◇    ◇    ◇    ◇


「ちょっとお腹すいた」


舞子が言う。たしかに僕も空いてきた。

お昼は、広告研究会の同期で彦根出身のアツシに教えてもらった店に行くつもりだった。


田園風景の中をしばらく走り、「美濃大返し」で名を馳せた木之本の町を抜けると、ふたたび湖岸に出る。

右手には、きらきらと光る琵琶湖。信号もほとんどなく、のんびりしたドライブが続く。


「ストップザ、シーズンインザサーン♪」


カーステでは、TUBEが少し気の早い歌を歌っていた。

彦根城が見えてきたところで、ハンドルを左に切って市内に入る。


「わ。お城!」


「彦根城。桜田門外の変で有名な井伊直弼の井伊家の城や」


「ハルくん、ほんと歴史好きだね」


「そんな詳しくはないけどな」


古い商店街の一角に、その店はあった。


「たしか、このへんて聞いたけど……あ、ここや」


木枠の引き戸に白いペンキで手書きの看板。

藍色の暖簾がゆらりと揺れ、店先に立つだけで出汁の香りがふんわり鼻をくすぐる。


「なんか、年季入ってるね」


「アツシが高校の時から通ってたって。ここ、ちゃんぽんが名物なんやて」


「え?ちゃんぽんって、あの白いスープの?」


「らしいけど……ちょっと違うらしい。和風の出汁やって言うてた」


舞子が不思議そうな顔をするのを横目に、僕は引き戸をガラリと開けた。


店内は少し薄暗く、木のテーブルとベンチがいくつか。

カウンターの奥では、割烹着の女将さんが鍋をかき回している。

壁には短冊形のメニュー札がびっしり貼られ、色褪せた観光ポスターや高校野球の写真が並んでいた。


「いらっしゃい」


声に迎えられ、窓際のテーブルに腰を下ろす。


「ちゃんぽんって、長崎のじゃないの?」


舞子がメニューを覗き込みながら首を傾げる。


「僕も最初そう思ったんやけど、アツシ曰く、ここは全然ちゃうらしい。出汁が澄んでて、麺が細くて、野菜がどっさり」


「ちゃんぽんなのに、白くないの?」


「たぶんな。近江うどんの親戚みたいなもん、って言うてた」


「ふうん。気になるね、それ」


「ほな、せっかくやし」


水を持ってきた女将さんに声をかける。


「ちゃんぽん、ふたつお願いします」


「はーい。少しお時間いただきますね」


注文を終えると、舞子は肘をついて外を見た。

アーケードの向こうの空が淡く色づきはじめている。春の午後の、静かな時間だ。


「こういう町の、こういう店って、落ち着くね」


「やろ? ばあちゃん家に来たみたいな感じするやろ」


「うん。ちょっとだけ、そんな感じ」


やがて湯気を立てた丼が、ふたつ運ばれてきた。


「おまたせしました」


透明に近い金色のスープから、ふわっと香りが立ちのぼる。

キャベツ、もやし、にんじん、きくらげ、薄切りの豚肉が山のように乗り、その下に細くて柔らかそうな中華麺。


「見た目からして全然ちがうな……これ、ほんまにちゃんぽんなんか?」


そう言いながら、レンゲでそっとスープをすする。


「……あ」


昆布と削り節のやわらかな香りに、豚の旨味がじんわり重なって、どこか懐かしい味がした。


「どう?」


舞子が箸を持ったまま見てくる。


「うまい。胃に染みるって、こういうことやな……これは、ええなあ」


「じゃ、私も」


舞子もレンゲでスープをすくい、そっと口に運ぶ。

ふたりとも、しばらく黙ってその優しい味を噛みしめた。


「アツシ、ええ店教えてくれたわ」


「……ハルくん、ほんとに嬉しそうな顔するんだね、ごはん食べてるとき」


「舞子もな。うまいもんは正義や」


舞子は小さく笑い、僕の丼からキャベツをひと切れつまんでいく。


そこから先は、いつものようにふーふーしながら、一心不乱だった。

頬をまん丸にして、途中からほとんど喋らない。


「はあ、ごちそうさま」


声だけで、大満足なのが分かる。


僕も最後の一口まで堪能した。

美味しかった。

ありがとう、アツシ。ありがとう、をかべ。


「今からどうするの?」


「せっかくやし、このまま湖岸ぐるーっと走って琵琶湖大橋まで行こか。ほぼ琵琶湖一周や」


隙あらば琵琶湖一周するのは、滋賀県人と京都の大学生の性みたいなものだった。

このルートを舞子に見せてやれたことが、妙に嬉しかった。

窓の向こうの琵琶湖の風景が、少しずつ午後の色を帯びていく。

この春は、きっと一生覚えているだろう。

隣で舞子が、小さくあくびをした。


近江八幡あたりで、僕は湖岸を離れた。


「どうしたの?琵琶湖終わり?」


「いや、琵琶湖は終わらへん。この先ずっと湖岸行ったら道がややこしなるし、寄らなあかんとこ思い出した」


田んぼと安土城跡のあたりを抜けて市街に入り、車を一軒の店の前に停める。


「たねや?」


「うん。子供の頃から、贈答品とか手土産はたねや、っていうのが滋賀県人の嗜みやねん」


「和菓子買うの?」


「ううん。ちょっと前からバームクーヘンもやりだしてな。これがもう、めっちゃうまい」


「へー、バームクーヘン大好き。小さい頃、小袋のやつお兄ちゃんたちと取り合いだった」


「たねやのは全然ちゃうで。しっとりして滑らかで、周りの砂糖のコーティングがカリッとしてて……他であんなん食べたことない」


「わー!楽しみ!」


バームクーヘンを買って、更に南へ。

秀次の八幡山城にも寄りたかったが、今日はがまんした。


中主あたりで再び湖岸に出る。


「わ、マイアミだって! ……って、あれ?マイアミってアメリカの南の方じゃなかった?」


「それ知った時、『アメリカにもマイアミあるんや』って本気で思ったもん」


「なにそれ」


「それとな、滋賀県に『びわ湖放送』っていうローカル局あって、通称がBBCでな。大きくなってからイギリスにもBBCあるって聞いて、これも驚いた」


マイアミとBBCがツボに入ったらしく、舞子はゲラゲラ笑う。


「ちょ、待って!苦しい……滋賀県人、アホすぎ!」


「このへん、夏に帰省してきた時はタツヤとほぼ毎日ウィンドサーフィンしてた」

「中学生の頃は、自転車にテントとギター積んでキャンプしに来ててな」


そんな地元話をしながら琵琶湖大橋へ。

料金所で二百円を渡して橋に入る。


「大きな橋!」


「そうそう。夏は大渋滞やけどな。僕が生まれるちょっと前に開通して、子供の頃よく親に『工事中にミキサー車でコンクリートにされた女の人の幽霊が出る』って脅かされてた」


「いや、やめて。怖い話。せっかくの風景が見られなくなる!」


北側には、さっき走ってきた湖北までつながる広い北湖が、南側には少し狭い南湖が広がる。

白いヨットの帆が、気持ちよさそうに湖面を滑っていた。


琵琶湖大橋を越えれば、あとは途中越えを逆から辿れば京都だ。


「京都~大原、三千院♪」


今度は舞子は、ちゃんと「三千院」と歌った。

マルコも、お母さんに会えたのだろう。


峠道が少しずつ薄暗くなってきた頃、僕のスプリンターカリブは白川通に出た。

もうすぐアパートだ。


助手席を見ると、舞子はいつの間にか寝息を立てていた。

髪に、桜の花びらが一枚ついていた。

指先でそっと取ろうとして、やめた。

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