第10話 海の上の猫舌ハムスター
♪Everybody needs a little time away...
カーラジオから、ピーター・セテラの甘い声が流れていた。
車の後部座席をフルフラットにして「巣」を作り、毛布で包んだ舞子を乗せてアパートを出たのは、鴨川デルタもまだ真っ暗な朝の5時だった。
今出川通を西へ抜けて国道に出て、そのまま南へ。
インター特有のきついループを回り、高速道路の本線に合流するころ、後ろで舞子がごろりと転がる気配がした。
「うーん…」
低くうめいたきり、すぐにまた、すうすうと寝息が聞こえはじめる。
バックミラーに映る東の空がうっすらと青くなり始めたのは、天王山トンネルにさしかかったあたりだった。
ふだんならブレーキランプが連なる渋滞の名所も、この時間は夢の中のように静かだ。
トンネルを抜けると、朝の気配をまとい始めた山並みが、闇の向こうにぼんやりと浮かび上がる。
ラジオは相変わらず洋楽のヒットナンバーを次々と流していた。
グロリア・エステファンの軽快なラテン、フィル・コリンズのどこか湿った声。
テンションの違う曲が続けざまにかかるのに、どれも、夜明け前の高速には妙にしっくりきた。
吹田ジャンクションを抜け、中国道へ。
耳を澄ませば、タイヤが路面をなぞる音だけが聞こえる。
「んー…ここ、どこー?」
吹田の分岐を過ぎたあたりで、後ろから寝ぼけた声が飛んできた。
さっきのカーブで転がされたとき、毛布の端を蹴飛ばしたらしい。
「内緒」
そう言うと、「うそーん」と呟いて、また丸くなる気配がした。
♪We are the world, we are the children...
ラジオから流れてきた大合唱をBGMに、中国道を西へと走りつづける。
ブルース・スプリングスティーンのダミ声の向こうで、ケニー・ロギンスやスティーヴ・ペリーが次々に歌い継いでいく。
世界平和。素晴らしい。
やがて山陽自動車道へと乗り継ぎ、姫路を越えるころには、空もすっかり朝になっていた。
真新しい舗装は継ぎ目も少なく、ガードレールも白くてまぶしい。
雑音が増えてきて、ラジオが「ザ…」とノイズを吐くようになった。
「ああ、もう入らへんか」
そうつぶやいて、ダッシュボードのカーステレオを指で押す。
カチリ、と軽い音がして、エアチェックしておいたカセットテープが再生を始めた。
ちょうどTOTOの「Africa」がサビに差しかかるところだった。
このタイミングなら、悪くない。
「んにゃ?ここどこ?」
岡山県に入ったあたりで、後ろの毛布の山がもぞもぞと動き、舞子が顔を出した。
「備前あたり。岡山やで」
「へ?岡山?なんで?病院は?」
「こんな時間に病院開いてへんやろ」
「ん?今何時?」
「6時半くらい」
「え?なんで?そういえば何で私、車乗ってるの?」
寝起きの頭で質問だけはフルスロットルだ。
「とりあえず、そのトートバッグに服入れといたから、着替え」
「はーい」
ぼんやりとした返事のあと、後ろでごそごそと着替えの音がする。
少しして、ドルフィンパンツからデニムの短パンに、さてんのに~ちゃんから、いつの間にか僕から奪い取ったNICOLEのトレーナーに着替えた舞子が、クッションの海をかき分けて助手席に移ってきた。
「え?なにこれ?どこ行くの?」
昨夜からたっぷり寝たおかげか、頬にはうっすら赤みが戻っている。
熱のしんどさより、好奇心が勝っている顔だ。
「うどん」
「うどん?」
「うどん食べに行く。舞子、うどんなら食べられるって言うてたやろ」
「うん…うどんは大好きだし、ジンギスカンは残しちゃったけど、うどんなら食べられると思う」
舞子の目がじわっと輝き始める。
「でも、なんで高速?岡山?なんで?なんで?」
助手席のテンションとは裏腹に、カーステからはジョージ・マイケルが、軽はずみな一言で彼女を傷つけたことを後悔していた。
「どうせなら、本場のうどんを食べさせたいと思ってな」
「えー!本場のうどん!?どこどこ!?どこ行くの!?」
「まだ内緒」
そう言って、僕はさらに西へとハンドルを切った。
◇ ◇ ◇ ◇
新しく開通したばかりの山陽道は、どこか病院の廊下みたいにきれいで人工的だった。
春の日差しが正面から差し込んできて、フロントガラス越しに目を細める。
「さっきのサービスエリアの案内に書いてたけど、この区間、ほんまに先週つながったとこらしいわ」
「へえ…私、開通してすぐの道路走ってるんだ。なんかすごい」
舞子は窓の外を食い入るように眺めている。
まるで、自分がテープカットに立ち会ったみたいなテンションだ。
「このまま早島で降りて、下道で宇野港まで行く。上手くいったら午前中のフェリーに間に合う。朝のうちに香川着けるわ」
「え!?フェリー!?船!?お船乗るの!?」
舞子のテンションがさらに一段上がる。
インフルエンザなんか、もう置き去りにしてきたんじゃないかと思うくらいだ。
「船の上から海見える?うどんはいつ食べるの?香川って言ったよね?香川って四国だよね?海渡るんだよね?」
一度火のついた舞子は、質問の連射が止まらない。
バッグをあさってポテチを取り出し、一口かじって「しょっぱいからやめとく」とまたしまう。
体調が戻りかけている証拠だ。
早島インターで高速を降り、国道を南へ。
朝の光に照らされた町並みが、少しずつ港町の顔に変わっていく。
ハンドルを握りながらちらりと横を見ると、舞子は遠足前の小学生みたいに、足をぷらぷらさせていた。
宇野港の青い看板が見え始めるころには、鼻歌のボリュームもだいぶ上がっていた。
「このペースやったら、間に合うな」
フェリー乗り場の案内を確認しながらつぶやくと、舞子が振り向いた。
「ねえフェリーって、乗るとき“ヨーソロー!”って言うの?あたし言うからね?」
「言わんでええ」
そう言いつつ、心の中ではガッツポーズをしていた。
窓口でチケットを買い、指示されたレーンに車を並べる。
ほどなくして、船底が赤、上が白いフェリーがゆっくりと港に入ってきた。
係員の誘導に従い、口を開けた船腹の中へと車を走らせる。
「うわ…車ごとお船乗れるんだ。すご…」
「乗船時間はだいたい1時間くらいやったと思う」
「へえ…四国って、意外と近いんだね。初めての四国だ…」
輪止めがかけられると、僕たちは車を降りて上の甲板へ向かった。
急な階段を上るとき、舞子の手を取る。
まだ少し熱はあるけれど、今朝抱き上げたときの火照りよりはだいぶましになっていた。
甲板に出ると、3月の海風が顔に当たる。
運転し続けて火照っていた身体には、ちょうどいい冷たさだ。
舞子も「気持ちいい…」と目を細めている。
「え、なにあれ?」
人だかりのできている一角を見て、舞子が指をさした。
屋根のある甲板の一角に、「さぬきうどん」と染め抜かれた白い暖簾が揺れていた。
「うどん屋さん!?“さぬきうどん”って、テレビで聞いたことあるやつだ!お船の上でうどん食べられるの?食べていい?ねえ食べるよね?」
僕が答えるより早く、舞子はうどん屋の方へ小走りに駆けて行った。
列の後ろに並ぶ。
窓口の横には、簡素なメニュー札が下がっている。
かけうどん 250円
きつねうどん 270円
天ぷらうどん 350円
京都の相場からすればかなり安いが、僕の記憶にある讃岐うどんよりは少し高い。
まあ、船の中やし、このくらいはするやろう。
自販機のジュースだって、ちょっと高くなるんやから。
「私、きつねうどん!」
舞子がニコニコしながら見上げてくる。
順番が回ってきて、きつねうどんを注文する。
店員さんはうどん玉をデボ網に入れて湯で温め、丼に入れ、澄んだ出汁を注ぎ、ネギと大きな油揚げをのせてくれた。
丼を受け取り、割り箸を手に甲板へ戻る。
ベンチはほとんど埋まっていたが、舞子ひとりが腰掛けられるスペースだけ空いていた。
舞子をそこに座らせ、僕はその前に立ったまま箸を割る。
あちこちで、同じように立ったままうどんをすすっている人がいる。
「立ったまま食べるって、お行儀悪いね」
舞子が笑う。
「こういうのはな、それがええねん」
僕が自分のうどんを口に運ぶより早く、舞子の第一声が聞こえた。
「…うま!」
出た。お決まりのやつや。
「なにこれ美味しい。いつも家で作るうどんと全然違う。これが“コシ”ってやつ?」
ずずっと麺をすすり、続けて出汁をひと口。
「お出汁もさ、いつものヒガシマルの味じゃなくて…なんか、お魚?の味する」
そこまで分析的だったのは最初の数秒だけで、あとはいつもの「猫舌ハムスターモード」に入ってしまった。
ふーふー、ずるずる、ふーふー、ずるずる、ごくり、ごくり。
熱々を怖がっているくせに、箸を止める気配はまったくない。
◇ ◇ ◇ ◇
「あー、美味しかった…」
「うん、ごちそうさん」
空になった丼を返却口に置き、甲板の手すりにもたれて海を眺める。
舞子はすっかり元気になった顔で、まだ余韻を噛み締めている。
「これがさ、私に食べさせたかった“本場のうどん”?」
大きな目が期待と満足でキラキラしている。
「これも本場のさぬきうどんやけどな。さすがに船の中やし、麺は茹で置きの温め直しやと思う。美味いけど、香川の本気はこんなもんやないで」
「ええ!?今ので十分すぎるくらい美味しかったんだけど、もっとすごいの出てくるの?香川、おそろしいとこだ…」
「まあ、楽しみにしとき」
そう言ってから、ふと思い出した。
「あ、そうそう。この船、今月で廃止になるんやって」
「え?なんで?」
「本州から四国に渡るでっかい橋あるやろ、“瀬戸大橋”。来月開通するから、そしたらフェリーの本数減って、ここの航路は終わりなんやって」
「ええ…どっちも使ったらいいのに。お船楽しいし、うどん美味しいし。もったいないね」
舞子が不服そうに言う。
僕も同じ気持ちだった。
早く着けばそれでいい、って話でもないやろうに。
そうこうしているうちに、水平線の向こうから陸地が近づいてきた。
高松港だ。
「さ、そろそろ車戻ろか」
「うん…。なくなっちゃうんだ、この船」
舞子はまだどこか名残惜しそうだ。
たぶん、僕も同じ顔をしている。
「それはそれとして、着くで、四国」
そう言うと、舞子はようやく小さく笑った。
こうして僕たちは、舞子にとって初めての四国の地に、足を踏み入れようとしていた。




