10. 聖女召喚
王妃教育と通常業務と結界魔法の研究、クラリスは隙間なく物事をこなしていて、ローレンスと顔を合わせるのは朝食と夕食時だけになった。ローレンスの方もどことなく忙しくしているので、クラリスとのお茶の時間がなくとも気にならないらしい。彼とゆっくり話せるのは夕食の時だけだ。
「聖女様が現れたら、ローレンス様はどうしますか?」
普段あまりアルコールを取らないローレンスが珍しくワインを飲んでいるので、何気ないふりを装って気になる事を聞いてみた。
「大丈夫。瘴気なんて現れないし、聖女召喚なんてお伽話だよ」
「そうですよね」
でも、瘴気が出現する前兆は現れていますけどね、と心の中でつぶやく。未だに聖女様の肖像画や絵本を彼がうっとりと眺めているのも知っている。
「また不安になってるのかな? クラリス。私の妃は可愛いクラリス、君一人だけだよ」
食事が終わり立ち上がったクラリスの頬をローレンスが引き寄せて、二人の唇が重なった。もっと天に昇るような気持ちになると思ったのに。初めてのキスはワインの味がした。ただ、それだけ。
ついに恐れていた日がやってきた。
「瘴気が発生した。そちらの対応に時間が取られる。クラリスに私の執務を回してもいいか?」
用意された朝食に目を向けることもなく、ローレンスはそれだけ言い置いて出て行こうとする。昨夜、王や国の上層部との緊急会議に召集されて、帰ってきたのがいつなのかも知らない。
「え? でも……」
瘴気の発生の前兆で各地で小さな災害や疫病の流行、不作が起こり、ローレンスが執務や視察に追われ、すでに彼の執務の大半はクラリスが担っている。これ以上、クラリスに負荷をかけるというのだろうか?
「これはお願いじゃない。命令だ、クラリス。王命だ。国の一大事なんだ。私は瘴気対策にまわり、君には王太子に回って来る通常業務を担ってもらう」
「承知いたしました」
彼の鬼気迫る雰囲気にこれ以上、言い返す言葉は出てこなかった。
「あの……瘴気が発生したのなら、聖女様を召喚する前に話を聞いて欲しいんです」
「時間がないんだ。なんだい?」
「この世界の異物をはじく結界を国を覆うように張るんです。降り積もる瘴気をはじくイメージで。もう魔法陣はできあがっていて、保持するのに必要な魔力量も計算してあります。媒体とする魔石があれば、複数人で魔力供給を行うことで保持可能で、聖女召喚の魔法陣より魔力の消費が少なくて済みます。聖女召喚を行う前に、こちらを検討してもらえませんか?」
いつになくイライラした様子の彼に少し怯むが、この先話すタイミングはないだろうと簡潔に一気にまくしたてる。
「さすがクラリス、よく考えたね。でも国の一大事にそんなふわふわした提案を飲むわけにはいかない」
充血した目をした彼はおざなりにクラリスの頭をなでながら、クラリスの提案を切り捨てた。
「話を聞いてください! 聖女召喚をしないで下さい! この世界の危機ならば、自分達で解決するのが筋でしょう? 異世界から少女を召喚するのは誘拐と同じではないですか?」
「クラリス」
「お願いです。私があなたになにかを願ったことがありますか? どうか耳を傾けてください! 実現可能かどうか、まずは陛下に提案してもらえませんか? 必要な資料は揃えてあります!」
「最近かまっていなかったから、拗ねているのかい?」
ふわっとほほえんだ彼の声に甘さが加わった。
「違います、ローレンス。話を聞いて。あなたのためを思って言っているの……」
「本当に私のためを思っているなら、執務に集中してくれないか? 君の戯言を聞いている暇はないんだ」
「……聖女様が召喚されたら、慣例通りローレンス様が娶るのですか?」
「まだ、聖女召喚の話など出ていないし、今たらればの話をしている場合ではないんだ! お願いだから、黙って言う事を聞いてくれないか? これは陛下から降りて来ている話で、王命だ」
バンっとテーブルに彼が手を打ち付け、皿やカトラリーが小さく音を立てる。彼の焦りと苛立ちが伝わってきて、クラリスはなにも言えなくなった。
「お願いだから素直に聞いて欲しい。クラリスだけが頼みなんだ」
「はい。……承知いたしました」
なんとなくわかっていたけど、ローレンスにとってクラリスは物言わぬお人形のようなもの。言う事を聞くのが当たり前で、意思なんて必要なくて対等な存在ではないのだ。クラリスは唇を噛み締めて、虚しくなる気持ちを飲み込んだ。
こんな扱いをされてもなお、彼に焦がれてしまう自分は頭がおかしいのだろうか? まだ諦めたくない。自分とローレンスの未来のために。
クラリスは王妃教育を受け、自分や王妃の仕事をこなし、王太子の通常業務を淡々とこなした。ローレンスは泊まり込んで仕事をしているのか、現地へ飛んでいるのか、青の宮で顔を合わせることはない。クラリスには彼の所在すらわからなかった。
瘴気が発生しても、通常業務が止まるわけではない。むしろ瘴気への不安が高まり、瘴気に関係ないことまで嘆願や要望が上がり、余計な仕事が増えている。クラリスは余分なことを考える暇もないほど、執務に追われた。
◇◇
月の綺麗な夜だった。
眠れなくて水でも飲もうと天蓋をあけると、そこにはなぜかアンブロワーズが立っていた。
「君には知る権利がある」
それだけを言うと、壁に背をもたせかけてこちらの意思を問う様に黙った。彼の銀髪が月の光を反射して輝いている。
「……知りたいです」
「五分で着替えて。歩きやすい靴。このローブを羽織って、フードを被る」
彼が部屋から出て扉を閉めると衣装扉を開け、一人でも着られるワンピースに袖を通し、彼が放り投げてきた魔法師のローブを羽織る。
「黙ってついて来て」
扉の外で待つアンブロワーズは険しい表情をしている。歩き出した彼の後を小走りでついて行く。
向かった先は聖女様の薔薇園の奥。ガーデンアーチと植栽で隠されるようにして小さな神殿が建っている。
正面ではなく裏側から回り込んでいるようで、入り口ではせわしなく人の出入りがあるようだ。それを裏の木陰から見守る。
「ここは前に話した奥神殿。少し時間がある。君に悪い知らせがある。絶望しそうなものと、絶望の底に叩き落されるもの。どっちを先に聞きたい?」
声を潜めるアンブロワーズはフードをかぶっていて、表情は伺えない。
「いい知らせは?」
「ない」
「じゃあ、軽い方から」
「王太子は瘴気が発生してから、王族だけに伝わる瘴気の正体と聖女召喚の真実を王から聞いた。奥神殿の真実の鏡も見た」
――彼も真実を知った?
「いつ……?」
手の先から体温がなくなっていく感覚がして、ぎゅっと手の平を握りしめる。
「二週間ほど前か」
ふっとクラリスから笑いがこぼれる。
クラリスが結界の魔法陣について提案した時に彼は真実を知っていた。わかっていたことだけど。彼は真実を自分のいいように捻じ曲げて解釈して、クラリスを切り捨てることにしたのだろう。
人は見たいものしか見ない。信じたいものしか信じない。例え、真実を告げられたとしても。
彼にとって聖女様は崇拝するなにより高い位置にいるもの。クラリス以上にその真実は受け入れられないものだったんだろう。
「もっと、絶望に落とす情報だ。あのバカ王太子は今夜、ついにやらかす。まぁ、陛下とか重鎮達もそうなるように圧をかけていたんだけどな……。でも、決断したのはあいつだ」
「!!」
その言葉に聖女召喚の儀式が行われることを察する。
「若さゆえか、この先に起こることを楽観視していて、自分がすることが正しいと信じ込んでいる……」
「なんとなく、わかっていたんですけどね」
でも、どこかで希望を捨てられない自分がいた。彼や彼の愛情を信じたい自分がいた。
「まぁ、誰にもこの流れは止められないんだろうけど。全部、王太子の責任にするつもりなんだろうなぁ……」
アンブロワーズの憂鬱そうなため息が聞こえる。
「認識阻害の魔法はかけているけど、なにを見ても声は出さないように」
クラリスは無言で頷いた。奥神殿の近辺の人通りが途絶え、先ほどのざわめきが収まり内部もしんと静まり返っている。
手振り身振りで伝えてくるアンブロワーズについて行って、奥神殿の横の大きな窓から内部を覗き込む。正面左手の聖女像の前の白い床に大きくて複雑な魔法陣が描かれている。その上には透明な魔石が鎮座していて、周りには円状に魔法師が五人控えていた。
傍らには王と王の側近達とローレンス、大神官が並んでいる。しばらく会わないうちに、彼はずいぶん頰が削げている。立ち会うのは最小限のようで、護衛の騎士達は少し離れた入り口付近に控えている。
魔法師のうちの一人が低い声でなにかを唱えると、見たこともないような巨大な魔法陣が光となり立ち上がる。魔法師たちが魔石に手を添えると。みるみるうちに魔力が吸われているのか魔石が見たこともないほど明るい虹色に輝く。
異世界と繋がり、人を一人転移させるのには膨大な魔力が必要なのだろう。魔法師が一人、また一人とうめき声をあげて膝をつき、床に崩れ落ちていく。最後の一人が床に横たわり、ぷつっと魔力の供給が途絶えたように見えるが、魔石は輝いたままで魔法陣は空中でその姿を保っている。
――失敗したのかしら……?
クラリスの喉が鳴る音がした。
次の瞬間、魔法陣が弾け光の粉が舞った。どうやら五人の魔法師を犠牲にして、聖女召喚の魔法陣を発動させる魔力はまかなえたようだ。あまりのまぶしさに目を開けていられない。
次に目に入って来たのは、空中に浮かぶ少女。黒髪の少女がふわりふわりと舞い降りてくる。駆け寄ってそれを抱き留めたのは婚約者の王太子。
少女の目がぱちりと開く。黒髪に黒い目。まるで絵本の中から飛び出てきたような――
彼がかつて読んでくれた絵本や肖像画の聖女様と瓜二つの少女。
「ここは……?」
「ようこそ、聖女様」
彼の腕の中の少女の黒曜石のような瞳と湖のように澄んだ青が見つめ合う。婚約者が恋に落ちる瞬間をクラリスは目撃した。自分に見せたあの表情はまやかしだとわかるくらい溶けるような笑顔を向けている。
自分がどうやって、部屋に戻ったのかも覚えていない。ただ、本当の恋に落ちた彼の顔だけが、脳裏に焼きついて離れなかった。




