1. 王太子の婚約者
「クラリス、クラリス、クラリスーー」
おかしいわね。どこからか慟哭が聞こえる。
かつての婚約者で、クラリスが愛した人の声。
でも今更、何者もクラリスを止めることはできない。どんな声も届かない。神殿へと続く長い石造りの廊下にヒールを打ちつける音がやけに響く。
両開きの木製の扉に手をかける。蔓薔薇が彫り込まれた重厚な扉は、軋んだ音を立てて思いのほか少ない力で開いた。
「クラリス、クラリス、クラリス、どこにいるんだ?」
先ほどより幾分近くから聞こえる気がする泣き叫び縋るような声。クラリスの青白い顔に、ふっと笑みが浮かぶ。
――これは国のために、彼のために、この身を犠牲にする私へ神が与えた慈悲なのかしら?
献身も愛情も枯れ果てた今、彼のことなんてどうでもいいけど。
そっと扉を閉めると、その声はもう聞こえない。きっとあれは幻聴に違いない。
だって、私に死ねって言ったのは彼なのだから。
◇◇
クラリス・ランチェスターは王太子の婚約者として神が用意したような人間だった。
家柄、魔力量、知性、容姿。
クラリス以上に、王太子の対となるのに相応しい令嬢はこの国にはいなかった。由緒正しい公爵家の長女として生まれ、八歳の時に当たり前のように彼の婚約者に据えられた。
伯爵家出身の王妃の唯一の子である王子の後ろ盾となるための政略的な婚約。幼いながらに求められているのは血筋と家の力であって、自分ではないというのはわかっていた。
それでも一目会った時から美しい彼に夢中になった。
「僕はローレンス。クラリス、こんな可愛い子が婚約者だなんて光栄だな。今日からよろしくね」
湖面のように澄んでいて深い青色をした瞳がこちらを見つめていて、傾けた顔に明るい金の髪がさらさらとかかる。
陛下が婚約破棄してまで手に入れた王妃の静かに人を虜にしてしまうような静謐な美しさを彼も継いでいた。
人形めいた美貌を持ちながらも気さくな様子の彼に、緊張しながら登城したクラリスはほっとして肩の力が抜けた。
正式な婚約のお披露目は彼が立太子する十六の時と決められ、顔合わせの挨拶をした後は大人達が言葉を交わし、書類に署名するのを見守る。
書類が整った後に立ち会った大神官様から、揃いの銀の腕輪を授けられた。
「お揃いだね」
左腕で輝く腕輪を掲げてほほえむ彼がまぶしくて目を細める。
「クラリス、時間はあるかな? 僕のお気に入りの庭があるから一緒に散歩しない?」
両親に目をやると頷いているので、彼について行くことにした。
彼の白く滑らかな手がクラリスの手を取ると、胸が少し弾んだ。そのまま手を繋がれ、彼に先導されて王宮の内部を進む。
「同じ年頃の子供と交流したことがないから、婚約者ができるって聞いて楽しみにしてたんだ」
ただ連れられるままに王宮の複雑な廊下を進み、その先の外廊下を辿る。庭に降りて石畳の小道を進んで連れて行かれた先には、見たこともない景色が広がっていた。
濃い青と紫が不思議な配色で彩られている尖った雰囲気の城と周りを囲むように広がる薔薇園。
華やかで甘やかな香りが濃厚に漂っている。鮮やかな赤を中心として、ピンクや黄色など優しい色味が引き立てるように植えられていて、緑の葉が見えないくらいに花が咲き誇っている。
「ようこそ、聖女様の庭へ」
中心部が紫に色づいた白い薔薇を背景に得意げにほほえむローレンスは、まばゆいばかりの美しさを放っていた。
「婚約の記念に、これをクラリスに」
いつの間に用意したのか、小さな花束を差し出される。
「ありがとうございます」
夢実心地で受け取ったクラリスの胸元で、アネモネの白い花弁とそれを束ねる青いリボンが風に揺れた。
「おいで。絵本を読んであげよう」
庭が見渡せるガゼボに着くと、侍女達があたたかいお茶を用意してくれる。
聖女様について書かれた絵本を、声変わりしていないソプラノが語るのをうっとりと聞きほれた。絵本の装丁や絵柄は違うが、内容はニナーハ国で語られている聖女様のお話と一緒だった。
「あの、この挿絵って…」
絵本の中でほほえむ聖女様の背景は、このガゼボから見える景色そっくりだ。
百年前に召喚された聖女様が暮らしたという青と紫の城。その周りに広がる彩り豊かな薔薇園。
「そうだよ。ここ青の宮は聖女宮とも呼ばれている。王族が使用する四つの建物のうちの一つで、僕は立太子後の住まいにここを希望しているんだよ」
王宮の門を入ってすぐにある黒の宮は貴族も出入りできる公的な場所だ。その奥は庭園も含めて王族しか入れない特別な場所。半円状に四つの城が建っており、ここは北東に位置している。
王は東にある白の宮。病に伏している皇后は西にある緑の宮を使用している。北西にある赤の宮は後宮だった場所で、今は使われていない。時の王の采配によって四つの建物の使い分けは異なるが、今代の王は王妃と王子である彼と共に白の宮を使用している。
「初代聖女様のために建てられた特別な城なんだよ。異国の文化や最先端の技術の結晶らしい。本当かわからないけど、聖女様の特別な加護で建物が劣化しないなんて言われてる」
聖女様の暮らした城は石造りなのに暗めの青や紫の発色が美しく、ドアノブや窓枠などの黒色の鉄製の装飾はまるで本物のツタのように美しく細工されている。
丸くぽってりとしていてクリームをしぼったような屋根が一般的なニナーハ国の様式とは違い黒色に塗られた尖った屋根が特徴的だ。前衛的で不思議な雰囲気が漂うこの城は、結婚した後に二人が住む場所となる。目に入った瞬間にどこか寒々しい気持ちになったが、そう言われると愛着が湧いてくる気がした。
「クラリスと結婚して、ここで暮らすのが楽しみだね」
ローレンスの笑顔がまぶしくて直視できず、クラリスは絵本にもう一度目を落とした。
「百年に一度、聖女様はこの世界にやって来るんですよね?」
「ああ、そう言い伝えられているね。前回聖女様が召喚されてから百年以上たっているから、本当かどうかはわからないんだけどね」
「聖女様に会ってみたいなぁ」
あたたかいお茶と砕けたローレンスの態度に、クラリスからも年相応の素直な感想がもれる。
「そうだね。でも、聖女様が召喚されるということはこの世界に瘴気が湧くということだから、ね」
「それは困りますね……」
「うん。僕だって会ってみたいけど、この国を治める王族からすると複雑な気持ちかな?」
「すみません。なにも考えずに……」
「いいんだよ、クラリス。肖像画や絵本を見ると僕だって正直な所会ってみたいと思うよ」
形のよい人差し指が聖女様の絵の輪郭を愛おし気に辿る。口には出さないけど、クラリスと同様、聖女様に憧れの気持ちをもっているのは彼も同じようだ。
この世界に存在しない黒い色彩。艶のある黒髪にぱっちりとした黒い瞳。
美しいと言うよりは、庇護欲をそそるような可愛らしく無邪気な聖女様。
こちらに視線を動かした彼が、そっとクラリスの髪先をつまむ。
「クラリスの髪も美しいけど、薬草や魔法で色を入れることはできないのかな?」
「お気に召しませんか?」
腰まである癖のない髪で、面白みのない白色。今日は少しでも華やかに見えるようにと、侍女達が毛先を巻いてくれている。
「いや、雪のようで美しいよ。でも、もっとはっきりした色の方がクラリスの美しい顔立ちが映えるかなって思っただけだよ」
なんでもないことのように言って、頭をなでて綺麗なほほえみを浮かべた。
一応プラチナブロンドなのだが、白に近い色で艶が出にくい。瞳も琥珀色というはっきりしない色味なため、ぼんやりとした印象を与える。
父や兄は同じプラチナブロンドでも、クラリスと違って光にあたると虹色に輝く銀色。クラリスもそうだったら、よかったのに。今のところ髪色を変える方法はない。成長と共に色が濃くなるように祈るしかなかった。




