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第三話 ファンタジアは終わらない

 葵は思いのほか現実的で、堅実な人間である。


 それが数年彼女と一緒にいて、わかったことだ。


 明後日納期の書類は上司に提出済み、後輩全員への指示は滞りなく終わり、現段階で未確認のメールはゼロ。先方との打ち合わせを手帳に記せば、今日の仕事は終わり。読み通りの時間を刻む時計に、私はにんまりとした。うん、概ね予定通り。

 薄暗いオフィスを後にし、夜道を適切な足取りで進む。

 『今日もおいしいごはんだよ』

 私用の携帯に入っていたメッセージを、心臓に溶かす。気づいた時には息切れするほど足早に、改札を通り抜けていた。

 まもなくやってきた電車に滑り込み、そっと彼女の言葉を反芻する。別になんの変哲もないメッセージ。それなのに、こんなに胸が高鳴るなんて自分は存外食い意地が張っていたのかもしれない、なんて明後日の方向を考えて首を振った。

 こういう素直じゃないところが、私の悪いところだ。


「おっかえりー!」

 陽気な声とドアの開く音、それから漂う香ばしい匂い。キンと冷えた部屋の空気に、心が凪いでいくのがわかる。

「お風呂する? ごはん?」

「お風呂」

 了解!と軽快に返事をして葵は鼻歌を歌っている。

「お水、いる?」

「ううん、大丈夫。さっと入ってくるから」

「はーい」


 首から熱いシャワーを流していると、ふと口ずさむ自分に気がついた。

 さっき葵が歌っていた古い歌。随分前、私が子供の頃に流行った歌だった。同じ歳の頃、この懐かしい歌を葵もテレビ越しに聴いていたのだと考えると少しおかしかった。

 この歌を歌っていた歌手は今頃どうしているのだろうか。大して興味の無いことをふと考えた。もう顔もよく思い出せないその人が、音楽だけを残して霞んでしまったことが不思議に思えて。

 でも同時になんとなく納得してしまう。そういうものなのだろう、思い出も、人も、景色も。鮮やかな一点だけが誰かの脳内にこびりついて、それ以外は徐々に失われてしまうのだ。

 そういうものだ、恋も。


「沙夜ちゃんー! 遅いぞー!」

 磨り硝子越しにぼわぼわと、元気な二つ結びが浮き上がる。こうして見ると、うさぎみたい。

「もう上がるよ」

 冷めちゃうよ!と急かす葵にそう返事して、棚のバスタオルで慌てて全身の水気を拭き取る。髪はしっかり絞って、ふわふわのタオルをきゅっと巻いた。

「全然さっとじゃないじゃん!」

 ぱたぱたと頬を仰いでいると、葵が両手に布巾を持って笑った。眉を下げて、仕方ないなって顔をして。その顔が好きだな、と思う。

 私の好きな葵の表情。

 まあ両手には使い古された布巾だけれども。

 鍋つかみは使わないのかと以前尋ねたら、付けたり外したりが面倒で効率が悪いと言っていた。こんなのは厚手の布巾で十分なのだと。

「さ、早くはやく」

 急かされて席に着く。私と葵のためだけのテーブルは、向かい合わせの二人掛け。面積自体ははその割には大きめだ。

「じゃーん、今日はグラタンです」

 熱い! と言いながら葵は深い青色の皿をテーブルへドンと置く。ぐつぐつとチーズとパン粉が表面で音を立てる。立ち上るのは、ほんのりとした甘さと香ばしい香り。玄関で嗅いだ香りの正体だ。

「「いただきます」」

 熱々のホワイトソースをふうと冷まして、口に放り込む。チーズのまろやかさとピリリとアクセントになった胡椒の風味がよく合う。

「おいしい?」

 同じようにはふはふと熱さを逃しながら、丸い目をゆるりと細めて葵が問う。

「おいしいよ」

 いつの間にか添えられたスープを一口含む。小さめに切ったもやしがしゃくしゃくと鳴る。

 私は料理が苦手だけれど、葵は冷蔵庫にあるもので何かを作ってしまうのが得意だ。当番は決めてあるけれど、結局遅くなった時に黙って葵は用意をしてくれる。

「大家さんに更新手続き頼んだんだけど、大丈夫だった?」

「もうそんな時期なの。 うん、ありがと」

 こういう日常的なことをやってもらってしまうことも少なくない。

 私たちを見た人達は必ずと言っていいほど、葵を甘えたがりにする。浮世離れした発言が多い彼女に、はじめは私もそう思っていたけれど。

「沙夜ちゃん?」

 いつだったか、好きな人とずっと一緒にいるほど難しいことはないよと彼女は言っていた。その瞳は冷たくて、曇っていて。多分幾つもの別れを見てきた人間なのだろうと思った。同じ人と一緒に居続ける難しさを、年を重ねるごとに失くしてゆく何かを、葵は十分に知っていた。だから、本当は葵の方がうんと現実的で、堅実な人間なのだろうと思う。

「沙夜ちゃんてば」

「あ、ごめん」

「やっぱり勝手に更新しちゃったの駄目だった?」

「ううん、違うよ。 助かる。 ちょっと仕事のこと思い出してた」

「そう? ならいいんだけど」

 遠くの記憶にしまっていた言葉が蘇って、頬が緩む。 明日も、少し先の未来も、彼女が私の隣で笑うことを望んでくれていることに心がくすぐったくなった。

「沙夜ちゃん、今日はご機嫌だね」

 その言葉をそっくり返したくなるような軽快な口ぶりで、葵はグラタンを掬い上げる。

 なんだかそれが気恥ずかしくて、私は冷めたスープを黙ってそっと口に含んだ。

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