第二章:疾る影、迫る戦 第八話「疾風の報せ」
雨が降っていた。
まだ朝とは呼べぬほどの薄明の刻。空は色を忘れたように白く、風が吹けば梢が揺れ、葉を伝った雫がぽとりぽとりと地を打つ。
尾張、清洲の地。今は前線からわずかに引いた軍営の端に、薄布の天幕を並べた一角があった。
矢野蓮は、天幕の中で目を覚ました。
寝起きには不思議と静謐な気配があった。昨夜までの騒がしさは失せ、太一の寝息が聞こえるだけだ。
焚火の残り火は尽きており、湿った藁が少しだけ重く体にのしかかっていた。
蓮は息を吸い込む。冷たい空気が肺の奥を撫でる。
「……降り出したか」
誰に言うでもない呟きを落としながら起き上がり、外を見やる。
静の姿が、ない。
蓮はそれに気づいた瞬間、眉をわずかに寄せた。まだ夜明け前。巡視の当番ではない。斥候に出る時間でもない。
だが、いない――。
嫌な胸騒ぎが、蓮の中に残った。
それは、“あの男”を知る者なら誰しも覚えるだろう、予感のようなものだった。
※
静は、野を歩いていた。
雨に濡れながら、音もなく、まるで水に溶けていくように。
道なき道を選び、地形を辿り、戦の匂いを嗅ぎ取るように前へ進む。
尾張の境を越え、今川の先鋒とされる朝比奈隊が展開する山麓へと、ひとり、足を踏み入れていた。
彼の手には、何も持たれていない。腰の白鞘も帯刀しているだけ。身を包む白装束はすでに泥に染まりつつあり、それでもなお、目立つほどの異形をしていた。
(この風は、違う)
静は、顔を上げて思った。
風の流れが重い。湿気を孕んで、どこか、息が詰まるようだ。
動いている軍がある。しかも、それは散発的な動きではない――まとまり、方向性を持ち、意志を持って進軍している。
それはつまり、「戦」が来る、ということだった。
音もない森を抜けると、静は一度、足を止めた。
遠目に見えるのは、丘の下。木々に隠れるように並ぶ今川の兵たち。旗印が微かに見え、鼓の音が雨の向こうからかすかに届く。
その数、目測でも千を超える。ここは斥候ではなく、進軍そのものだ。
(朝比奈泰朝……この道筋……)
静は目を細めた。
ただの前衛ではない。この位置から進めば、尾根を超えて桶狭間へ抜ける“谷”がある。
そして、その谷の地形を知る者が今川側にいるということは――。
静の喉が、ごくりと鳴った。
「……これは、風ではなく、嵐だ」
※
その報告を受けたのは、正午をわずかに過ぎた頃だった。
戻ってきた静の白装束は泥にまみれ、肩には擦り傷がいくつもありながらも、彼の表情には一片の焦りもなかった。
ただ、平坦な声で告げる。
「進軍は確実です。先鋒は朝比奈、すでに千五百は見えました。彼らは、こちらの陣を“抜きにくる”つもりです」
軍議の場に集う士たちの表情が凍りつく。
「それは、奇襲ではないのか?」
「いいえ。堂々たる進軍です。今川義元は、戦を“抜き”ではなく、“踏み潰す”意図で来ています」
その言葉に、誰かが息を呑む音がした。
「……織田軍は、五千に満たぬ。義元が二万五千という話は誇張ではなかったというのか」
「実際に見た範囲で、誤差はありますが……誇張ではありません」
静の口調は穏やかだった。
穏やかすぎて、それがかえって、場に重く響く。
「……あれは、風ではありません。嵐です。近づいているというより、すでに、ここに吹き込んでいるのです」
矢野蓮は、黙ってその言葉を聞いていた。
彼には分かる。静が言葉を選ぶとき、それは“伝えなければならない危機”があるときだ。
つまり、これはただの偵察ではなかった。
“戦の本当の始まり”を見た者の言葉だ――。
軍議の後、蓮は静のもとへと向かった。
「……静」
その名を呼ぶと、彼は振り返らずに「はい」とだけ答えた。
「……見えたか」
「ええ。たくさんの兵と、たくさんの死の予感です」
静の声には、湿った雨の匂いが混じっていた。
「俺たちは……どうなると思う?」
問うと、静はやっとこちらを向いた。
その瞳は、いつものように、深く、どこか遠くを見ている。
「誰かが、残って……誰かが、消えます」
「そんなの、戦じゃ当たり前だ」
「ええ、でも、当たり前の顔をして、その“誰か”が選ばれる」
蓮は答えられなかった。
静は、もう一度だけ言った。
「……風じゃ、なくなってきているんです。いずれ、すべてを呑む嵐になる。その時、矢野さんが立っている場所に、僕はいたくありません」
「……それは、どういう意味だ」
「きっと、分かります」
静はそれきり、背を向けた。
その背中には、まだ泥が乾いておらず、滴る雫が白装束を濃い灰色に染めていった。
蓮は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
風の音が消えた気がした。雨音すらも、遠のいたようだった。
静という存在が、“この場所”にいながら、すでに“どこかへ行こうとしている”ことに、矢野蓮は気づいていた――。
※
天幕に戻った静を、太一が出迎えた。
彼は怪我を負った脚を引きずりながらも立ち上がり、「おかえり」といつものように声をかけた。
「……無茶はしてないか?」
「無茶、ですか?」
静が少しだけ眉を動かす。太一は肩をすくめて笑った。
「お前に言っても仕方ねぇか。だがな、静。お前がいなかった間、矢野がずっとそわそわしててな。何度も天幕の外を見に行ってたんだ」
「……そうでしたか」
「だから、ちゃんと帰ってきたって言ってやれ。心配性なんだよ、あいつ」
静は、わずかに視線を落とし、それから天幕の外を見た。
白い帳の向こうに、今はもう誰も立っていない。
「……分かりました」
そう言って、彼は天幕を出た。
だが、そこに矢野の姿はなかった。
代わりに、乾いた風だけが吹き抜けていった。
※
その夜、軍営に静かな緊張が走っていた。
今川の軍が動いた。前線の斥候が複数の進軍を確認。複数の路から尾張へと入り込む構えだという。
軍議は再び召集され、地図の上に油指しが並べられる。
「どこで迎え撃つ?」
「桶狭間の地形は狭い。数では敵わん。だが、風と雨が味方すれば、あるいは……」
誰かが言う。
「味方……か。戦に、味方する風などあるかよ」
その言葉に、沈黙が落ちた。
やがて、ひとりの若者が口を開く。
「……あるかもしれません」
それは、静だった。
地図をじっと見つめたまま、彼は言葉を紡いでいた。
「風は嘘をつきません。昨日の風と、今の風とが、違うとすれば……その理由が必ずある。地の高低、雨の流れ、人の歩み。全部がひとつの筋に繋がっている」
誰かが嘲るように言った。
「そんなもの、占いと変わらん」
「占いは“未来”を語りますが、風は“現在”を語ります」
その静かな言葉に、場の空気が変わった。
蓮が、その沈黙を破った。
「……静の読みは、これまで裏切ったことがない。風走組が生きてるのは、こいつの読みのおかげだ」
「矢野……」
「信じろとは言いません。しかし、聞く価値はあると思いますよ」
軍議の中枢にいた中年の武将が、やや驚いたように目を細めた。
そして、黙ってうなずいた。
「いいだろう。話せ、“風読み”の若武者」
静は、少しだけ目を伏せ、それから、地図の一点を指差した。
「朝比奈の動きは陽動です。本隊は別の谷を抜けて、もっと南へ……“桶狭間の窪地”を目指すつもりです」
「そこは……湿地が残るはずだ」
「ええ。ですが、乾いていれば、通れる。そして、義元が通ろうとしているのは、その“細道”です」
「まさか、本隊が?」
「まさか、と思わせるからこそです」
再び、場に沈黙が落ちた。
それは、疑念ではなく、驚きの沈黙だった。
言葉がすでに、“信じる/信じない”の域を超え、そこに“ただ、真実がある”と感じられるだけのものだったからだ。
※
夜が深まる頃、蓮は天幕の外で白い背を見つけた。
静が、ひとり焚火の前に座り、黙って剣を拭っていた。
蓮は隣に腰を下ろした。火の光が、静の頬を照らす。
濡れた髪からは、まだ雨の匂いがわずかに残っていた。
「……なぁ、静」
「はい」
「さっきの、“嵐だ”って言葉。あれは、“負ける”って意味か?」
静は、少しだけ考える素振りをした。
そして、首を横に振る。
「負けるかどうかは、分かりません。けれど、勝っても、何かが……“失われる”戦になる気がします」
「失われる?」
「大切なものとか、名とか、生とか……」
静の言葉は、ひとつひとつが深く、重かった。
蓮は、火を見つめながら言った。
「……それでも、お前は前に出るんだな」
「僕は、風が言うことを聞くから、です」
「違う。お前は、誰よりも“風に抗ってる”」
静が、焚火の光の向こうで、わずかに微笑んだ。
「……そう見えますか?」
「ああ。俺には、そう見える」
「なら……そうなのかもしれません」
炎が、ぱちり、と音を立てた。
火の粉が、ひとつ、夜空へと昇っていく。
その一瞬、静の横顔が照らされた。
それは、ひどく悲しい顔だった。
風のように笑い、影のように消えていく、その男の、たしかな“人間”の表情だった。
※
翌朝、風は止んでいた。
嵐の前の、沈黙だった。
戦の気配が、地を這って忍び寄ってきていた。
まだ、誰も斬られていない。まだ、誰も死んでいない。
だが――それは、始まっていた。
矢野蓮は、静を見た。
静は、ただ、立っていた。
白い装束に風を孕み、
その目に、まだ誰も知らない“嵐の未来”を映して――。