第一章:風の前触れ 第七話「名を持たぬ刃の咆哮」
翌朝の風は、冷たかった。
初夏だというのに空気はひどく乾いており、焚火の灰が細く尾を引いて空へ舞い上がっていた。
傷兵たちのうめき声が絶え間なく続く仮設の陣屋で、風走組は再編を余儀なくされていた。
戦闘不能となった者の名が一枚の板に墨で記され、その数が半分近くに達したとき、隊士たちは皆黙った。
太一は腕に包帯を巻きながら、沈んだ声で言った。
「……もう、これは別の部隊だな」
矢野は同意の言葉を口にできなかった。
静が深手を負いながらも生き残ったことは、隊の中で“神がかりの業”として語られていた。
だが、その陰で死んでいった者たちの名が誰にも知られずに消えていくことに、どうしても納得がいかなかった。
「なあ、矢野」
「……何だ」
「俺たち、本当に戦に勝ってんのか?」
問いかけの意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
勝ったはずだった。退けたはずだった。
だが胸の内は、負けたときよりも重苦しい。
それはきっと――あの“白い剣”の姿のせいだった。
※
夕刻、再編命令が届いたのは、静かすぎるほどの間だった。
軍使が運んできた命令には、ひとつだけ異質な文言があった。
「沖田静、前線斥候部隊へ異例の単独配備。速やかに配置せよ」
それを読み上げた隊長代理の男が、沈黙の後に顔を上げる。
「……ひとりで、出す気か? 本気で」
だが命令は、命令だった。
その場にいた誰もが言葉を失う中、当の本人――静は、ただ一礼した。
「承知しました」
感情の起伏ひとつない声で、静は頭を下げた。
まるで、それが当然の措置であるかのように。
※
夜、焚火の灯が揺れる。
風走組の残兵は、丸くなって食を囲んでいた。
矢野は静の姿を探したが、見当たらなかった。
太一が口を拭って言う。
「一人で行ったそうだ。夜明け前にはもう、消えてたって」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
皆、何も言わない。
言えなかった。
まるで――もう“人”ではないものとして、静は認識され始めていた。
ただの兵ではない、“風の白鬼”として。
※
翌日の夕刻、戦が始まった。
それは“戦”というにはあまりに一方的で、斥候隊を主軸とした小競り合いが局地的に燃え上がっただけだった。
だが、風走組が駆けつけた時、戦場はすでに“終わっていた”。
死体の山が、あった。
斬られた敵兵の数、二十三。
こちら側の犠牲、ゼロ。
しかも、その全員が喉元か、心臓を一太刀で貫かれていた。
まるで、人の手によるものとは思えぬ“精度”で――だ。
静は、血に染まった白装束のまま、その中央に立っていた。
無傷だった。
まるで、はじめから“斬られない”ということが決まっていたかのように。
白装束が、風に揺れていた。
その姿は、遠目から見ても異様だった。
風が吹き荒れるなか、血濡れの布をまとってなお、彼は剣を鞘に納めずにいた。
「……あれが……」
誰かが、呟いた。
「……“風の白鬼”だ」
その言葉が、兵たちのあいだを伝播する。
呪いのように、あるいは、伝説のように。
矢野は、そこに“恐れ”を感じた。
それは、名のない鬼が咆哮をあげた痕跡だった。
斬り伏せるというより、“声”を放った剣のようだった。
矢野には、近づくことができなかった。
距離は、十間ほど。
それでも、足が一歩も前に出なかった。
静の周囲だけ、まるで空気が違った。
風が止まっていた。音がなかった。
それはまるで、――「死」が一人歩きしているようだった。
太一がぽつりと漏らす。
「やっぱ、あいつ……おかしいよな。人間じゃ、ねえ……」
そう言う声すら、怖れているようだった。
矢野も、その思いを否定できなかった。
あの場にいる静は、たしかに“剣”だった。
生き物ではない。心をもたぬ斬撃そのもの。
けれど。
矢野は見た。
斬り終えたあと、静が一度だけ、目を閉じた瞬間を。
その一瞬だけ、静の目には――“人”がいた。
※
夜、帰陣の後。
矢野は、静のもとを訪ねた。
彼は、隊から外れた林の外れにいた。
剣を研いでいるわけでもない。ただ、焚火の前で、座っているだけだった。
「……静」
矢野の声に、白装束の背がわずかに揺れた。
「教えてくれ。お前は……なぜ、斬れる」
問いかけは、投げつけるようなものだった。
自分でも抑えきれなかった。
斬られた者の顔が、脳裏に焼き付いている。
ときには悪夢にうなされることもある。
それほどに、矢野にとって人を斬るということは重いことだった。なのに――、
「なぜ、お前は――人を斬って、そんな顔ができる……?」
静は、しばらく黙っていた。
焚火の音だけが、ぱちり、ぱちりと間を埋める。
やがて彼は、顔を上げずに答えた。
「……斬らなければ、僕が消えるからです」
矢野は、言葉を失った。
「僕が僕であるためには、斬らなければいけないんです」
それは、いつかと同じ答えだった。諦めでもなければ、誇りでもない。
ただの、静かな事実として告げられた言葉だった。
「名も、家も、何もなくなっても、剣だけは残ったんです。だから、斬っているんです。……ただ、それだけです」
炎が、静の頬を照らしていた。
その顔は、やはり無表情だった。
だが矢野には、その“無”の中に、底知れぬ叫びがあることが分かってしまった。
――斬らなければ、消える。
それはきっと、生き延びるための“罪”を、自分の中でどうにか意味づけするための、最後の言い訳だった。
矢野は、座り込んだ。
「……お前は、そんなふうに……」
言葉が出なかった。
静は、そっと立ち上がった。
そして、夜風の中に向かって呟いた。
「……矢野さん、戦場では、“人の声”って、聞こえることがあるんですよ」
「……声?」
「刃が、誰かの叫びになることがある。怒りでも、祈りでも、諦めでも」
矢野は、そのとき思い出した。
――確かに、今日。
あの刃は、叫んでいた。
誰かの声になっていた。
だとすれば――
「……それは、お前の声だったのか?」
その問いに、静は答えなかった。
ただ、小さく笑って――月の方を見上げていた。
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
しかし、それはこれまでの沈黙とは少し違っていた。
心を閉ざした無音ではない。
言葉にできない何かが、そこに“残っている”という静かな確信。
焚火の炎が、少しだけ高く揺れる。
その影の中で、静の白装束が風に靡いた。
「矢野さんは、優しいですね」
ぽつりと、静が言った。
「……俺は、お前が怖いだけだ」
「それでも、話しかけてくれる人は、少ないですよ」
矢野は返せなかった。
風が、焚火を吹き抜ける。
小さな灰が、宙に舞った。
そのまま静は踵を返し、林の奥へと消えていく。
背中は、変わらずまっすぐで、どこか儚く、どこか確かだった。
矢野は、ただその背を見つめていた。
“風の白鬼”。
噂は、間もなく尾張中に広がるだろう。
名もなき剣が、ただの兵の咆哮を代弁する存在として。
けれど矢野は、知っていた。
あれは――誰かになりたくて、それでもなれなかった人の、最後の“かたち”だと。
矢野は、小さく目を閉じた。
風の音のなかに、あの日の咆哮が、たしかにあった。