第一章:風の前触れ 第四話「三日月と焚火」
戦は続く。
が、戦だけがすべてではない。
その狭間――静かすぎる夜の存在もまた、戦場においては異形だ。
その夜、空には三日月が浮かんでいた。
照らすには頼りなく、隠すには明るすぎる、そんな月。
※
焚火は、闇に小さく灯っていた。
ぱちり、という音がするたび、薪の火がゆるく弾け、灰が空に舞う。
その周囲に、三人の男が座っていた。
一人は、いつものように白装束の静。
一人は、矢野蓮。
そしてもう一人が、矢野よりさらに年長の太一だった。
太一は、数日前の戦で太腿を軽く斬られて後衛に下がっていたが、今はもう歩ける。
それでも、「今日は役立たずをやらせてもらうぜ」と笑いながら焚火の世話をしている。
「……なあ、静」
火をつつきながら、太一がふと切り出した。
言葉は、焚火の音と空気の向こうにゆっくりと混ざっていく。
「お前、熱いもんとか平気なのか?」
静は、火の前に両手を差し出していた。
皮膚のきめ細かい手のひらが、ほのかに赤く染まっている。
「……熱いものは、熱いですよ」
「そりゃそうだろうがよ。でもなんつーか、お前、火のそばにいても火傷しなさそうっていうか……」
太一は言葉に詰まり、結局、
「……いや、なんでもねえわ」と笑った。
矢野はそのやり取りを黙って聞いていた。
無理に笑いを取るでもなく、無視するでもない――奇妙な温度感。
そこにはまだ、遠慮と警戒があった。だが、それは敵意ではなかった。
※
火の粉が小さく舞い、夜の沈黙がまた戻ってくる。
太一は干し肉をちぎり、二人に渡した。
静はそれを手に取って、しばし見つめる。
まるで、食べ物が“命の名残”であることを知っているかのように。
「なんだ、祈ってんのか?」と太一が冗談めかして言った。
「……あまり、慣れてなくて」
静がぽつりと答える。
「食べるということに?」
矢野が問いかけると、静はうなずいた。
「生き残った命を、もらうというのが……どうにも」
それを聞いた太一は、口いっぱいに肉を詰めたまま、言った。
「お前、それを言い出したら、俺たち毎日地獄だぞ」
笑いながらも、その目の奥には、かすかに沈んだ光が宿っていた。
「そうだな」と矢野が続けた。
「でも、俺は――まだ、運だけで生きたくないと思ってる」
「運だけで?」
「ああ。たとえば、あの戦だってさ」
矢野は、数日前の斥候戦を思い返す。
「あの時、お前が前に出てなかったら、俺は斬られてた。……だから、それを“運が良かった”で済ませたくないんだよ」
「……律儀だねえ、お前は」
太一は呆れたように笑い、肉の残りを頬張った。
「律儀、ってわけじゃないけどよ。ただ、せめて理屈がほしいんだよ」
矢野は低く呟く。
「自分が生きてる理由を“たまたま”で片付けたら、次の戦が怖くなるだろ。だから、俺は考えたいんだ。誰が、なんで生きてて、死んだのか」
静は、その言葉を静かに聞いていた。
火を見つめながら、まるで風の音に耳を傾けるように。
しばらくして、彼は言った。
「……運で死んだ者も、いますよ」
その声は、まるで湖の底から聞こえるような静けさだった。
「何の理屈もなく、何の理由もなく。そこに、たまたまいたというだけで」
矢野は、返す言葉を見失った。
太一も、火箸を持つ手を止めた。
その沈黙のなかで、火だけが、変わらずに燃え続けていた。
※
三人は、誰からともなく黙り込んだ。
だが、その沈黙が、なぜか心地よかった。
言葉を交わさずとも、共有された何かがあった。
蓮はふと、静の白装束が風に揺れているのに気づいた。
その揺れは、風にたゆたう一枚の布のようで、どこか不安定だった。
――この男は、いずれ風に溶けるようにしていなくなるのではないか。
そんな予感が、胸を過った。
いずれ、戦場に吹いた風の中に消え、名も残さず姿を消す――そんな未来が、あまりにも鮮明に、心に描かれた。
蓮は、それが恐ろしかった。
※
三日月が、雲間に顔を覗かせていた。
澄んだ空に浮かぶその形は、まるで剣の断片のようだった。
斬られた光。
残された夜。
火が燃え尽きかけていた。
太一が立ち上がり、薪を一つ足す。
その動作がやけにゆっくりとしていたのは、傷がまだ完全には癒えていないせいだろう。
「なあ、静」
太一がぽつりと呟く。
「お前さ。そうやって風みたいにいなくなったら、誰が泣くと思う?」
静は、少しだけ首を傾けた。
「泣いてくれる人が、いると思いますか?」
「さあな。けど、たとえば――」
太一は一瞬、矢野の方をちらりと見て、続けた。
「――自分でも気づかないうちに、“そういう人”ってのは、できてたりするもんだ」
静は応えなかった。
だが、ほんの一瞬だけ、目を細めたように見えた。
焚火の灯が、静の影を長く引いた。
その影は、地面を這い、風に揺れ、まるでいつか“消えてしまう運命”を予言するようだった。
※
夜は深まり、風がやんだ。
三人は火の前に並んで座ったまま、誰も言葉を発さなかった。
ただ、火の灯りと三日月の光が、それぞれに違う表情を照らしていた。
そしてその夜の静けさは、何よりも大切な“名もなき絆”のようだった。