■巻末資料
『名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り』
一、【記録から消された者 ― 白装束の剣士に関する四つの記録】
【一】 尾張国軍議筆録 抜粋(永禄三年五月)
「……奇襲成功ノ折、東ノ森ニテ不明ノ剣士一名、敵騎一隊ヲ単独撃破。
白装束ヲ纏フモ、所属不明。織田方ト推定サル。
信長公、翌朝ノ軍議ニテ“風ノ如キ斥候アリ”ト述ブ」
― 軍奉行・簗田出羽守 記
【二】 尾張兵糧奉行記録 抄録(永禄三年五月二十日)
「廃寺ヨリ戻リシ負傷兵二名、白装束ノ者ニ救助サレタルト申ス。
武器ヲ帯ビ、名乗ラズ。名乗リ所望スルモ、『名ハ持タヌ』ト答フ。
その後ノ行方不明ナリ。
(同地ニテ発見セシ白鞘一本、現在保管中)」
― 尾張奉行所記録保管帳
【三】 高山左衛門尉私記 抜粋(個人記録)
「――其の者、草木を掠めて走る姿、影のごとし。
白き布衣、血に染まらず。まるで、夜の中に紛れし霜のようであった。
拙者は命を拾われし恩を告げしが、その者、ただ一言。
『無事なら、斬らずに済んだ』と笑み、また消えたり」
― 高山左衛門尉 桶狭間戦記
【四】 信長公御内書・秘録(写本草案)
「東ノ野ヨリ帰還シ兵ヨリ奇妙ナル報告アリ。
斥候ト思ハレシ白キ者、我等ノ兵ヲ庇ヒ、敵ヲ討チ、
名ヲ告ゲズ消エタル由。
是ヲ如何様ニ評スベキヤ。
名ナキ者トハ言ヘ、此度ノ働キ、只事ニ非ズ」
― 信長内記・不出文書草案
二、【年表:名もなき剣の軌跡】
年代
出来事
永禄元年(1558)
沖田静、尾張入り。身分を偽り“影走り”として雇われる。
永禄二年(1559)
矢野蓮・高山左衛門尉らと出会う。任務を通じ関係を深める。
永禄三年五月(1560)
桶狭間の戦い。白装束の剣士として出陣、本陣を撹乱。戦後、消息を絶つ。
永禄三年六月
廃寺跡に白鞘が発見される。姿見えず、行方不明のまま。
元亀二年(1571)
矢野蓮、軍上層部に「名を記さぬこと」を願い出る。軍功録より静の名が抹消。
天正五年(1577)頃
某寺院境内に白鞘が祀られる。以後、名もなき剣を祈る者現る。
以後
各地に“白装束の剣士”の口伝が残る。正式記録なし。
三、【判読不可 以下、再構築による】
この記録は、尾張の片隅にて小さな道場を営む一介の剣士が、老いた師より伝え聞いた「一人の男」の話をまとめたものである。
名はない。書にも刻まれず、石碑にも残らず、ただ、いくつかの証言と、“何かを斬った気配”だけが残っていたという。
それでも、私の師は言っていた。
「名を持たぬ者がいた。だが、その剣は、確かにあった」と。
その男は、人を斬るために剣を握ったのではない。
誰かを救うために、または――己が悔いぬように、剣を振るった。
多くを語らず、誰の名も借りず、ただ己の歩幅で、戦のなかを駆けていったという。
私には、彼の剣がどれほどの業物だったのか、わからない。
ただ、その生き様を知る者は、皆一様に言うのだ。
「あの剣には、祈りがあった」と。
ならば、この記録の価値も、ただそこに尽きるのだろう。
名もなき者の跡を、今、名もなき者が記す。
これは、忘れられた剣に捧ぐ、静かな手向けである。
―― 風心館 江藤某 記
【補遺一】
信長の視点による追想 ― 『風記抄』断章より
――名も持たぬ剣が、戦を変えることがある。
永禄三年、桶狭間にて我が軍が義元を討ち果たした折、名も知らぬ一つの刃が戦場を裂いた。
報告には、“白き者あり、敵を攪乱し、味方を救いし”とある。
思えば、あの夜、風は異様に澄んでいた。
火が遠くで揺れ、鳴かぬ鳥の声が聞こえた気がした。
奇妙な予兆のように、あの白装束の影が現れ、消えた。
名は知らぬ。恩賞も与えられず、功績も記録には残せぬ。
だが、あの一閃がなければ、本陣へは辿りつけなかった。
――名を残す者だけが、語られるべきか?
否、名を捨ててまで“斬る”を選んだ者もまた、戦の本質を体現する者である。
我が軍記より除かれたその影。だが、風に残る気配は、今も私の背を冷たく撫でる。
いつか、あの剣が再び誰かを救うなら――
そのときこそ、“戦の真実”が後に語られるであろう。
――織田三郎信長 記す(未出草案より)
【補遺二】
静の再登場を仄めかす“幻の手紙” ― 矢野蓮・書状の奥書
拝啓
お元気でいらっしゃいますか。
もしこの手紙を読まれているなら、それは、貴方が生きている証でしょう。
戦が終わり、私は自らを見失いかけていました。
けれど、あの丘で白鞘を見つけ、思い出しました。貴方の背中を。
言葉少なに笑った、あの目を。
――あの夜、貴方は何も言わずに去った。
けれど、風の向こうで、「また会おう」と、確かに言った。
今でも、耳の奥に、その声が響いています。
季節が巡り、花が咲いても、消えません。
もし、どこかでまた剣を取ることがあれば、
そのときこそ、どうか――
名を持って、生きていてください。
私は、あなたの名を誰にも語りません。
けれど、心のなかで、あなたの名を呼び続けています。
――矢野蓮
※この手紙は発見されておらず、唯一の写しが名もなき道場の師範の蔵より見つかったと伝えられている。
真偽不明のまま、“幻の手紙”として、今も剣を学ぶ者たちの間に語られている。
【補遺三】
太一の晩年記 ― 『忘れられた者たちへ』より抜粋
太一が筆を取るようになったのは、剣を手放した晩年のことだった。
戦を語ることを好まず、道場も持たなかった彼は、尾張の町でただ子どもたちに文字を教えていたという。
その彼が、唯一自ら書き記したとされる記録が残されている。
それが『忘れられた者たちへ』である。
俺は、戦で多くの名を見た。
将軍の名、大名の名、戦死者の名、戦功者の名――
だが、名がなければ、斬られなかった者もいる。
名がなければ、生き延びることもあった。
俺はある男を知っている。
名を語らず、剣だけで道を切り開いた男。
誰にも褒められず、誰にも憎まれず、
ただ“何かを守るために”立ち続けた剣士だ。
俺はそいつの名を知っている。
けれど、墓にも記さない。記録にも残さない。
俺のなかにだけ、残っていればいい。
――だから、剣を教えることはしない。
剣を覚えるな。斬ることより、守ることを選べ。
名を持つな。持たなくても、誰かに届くものがある。
それが、俺の“教え”だ。
太一の言葉は、静の“剣を抜かない強さ”を知る者にしか書けない記録であり、
この一巻が人知れず後世に伝えられたこと自体が、彼らの存在を語り継ぐ証である。
【補遺四】
静の遺した短歌 ― 『白紙の書』より
この短歌は、尾張のとある旧家に伝わる古い帳面の片隅に、墨のにじんだ筆跡で書かれていたものである。
記録によれば、その帳面は「一度も用いられなかった家訓帳」と呼ばれており、
墨も筆も揃っていたにもかかわらず、ただ一首だけが記されていたという。
筆跡は乱れず、整っていた。まるで書き手が、己の最後に“言葉”を残したように。
誰が書いたかは不明――だが、そこにはこうあった。
ゆくさきを 風にも問わず 消ゆるなり
名をもたぬまま 雪のごとくに
古筆の鑑定によって、この短歌の用字・書風は、十六世紀半ばの尾張周辺において、
高位の武家か、もしくは修行僧に近い者によるものとされている。
研究者の間では、「この一首が、“沖田静”という名もなき剣士が、
己の最後に書き遺した唯一の“言葉”である可能性が高い」と囁かれている。
言葉は残さず、名も語らず、ただ一首の中に“すべて”を込めたとすれば――
それこそが、剣を置いた者の最後の祈りだったのかもしれない。
【補遺五】
“白き影”が現れた他国の記録 ―『甲斐古記』・『信濃風聞録』抜粋
桶狭間の戦からおよそ五年後、信濃および甲斐にて、下記のような記録が残っている。
●『甲斐古記』永禄八年条(甲府某寺蔵)
同年冬、信玄公が北上の折、国境近き村にて“白き男”と遭遇せし由。
言葉交わすことなく、ただ雪中を歩みて消えしとのこと。
供回りの者いわく、「剣気のようなものが、風に混じっていた」
信玄公、ただ一言、「あれは人ではない」と申されし。
その夜、城方に降伏を申し出る敵将あり。曰く、「夢にて“白き者”より剣を向けられ、命を諭された」と。
●『信濃風聞録』逸文(現存断片、松本城文庫所蔵)
雪の夜、旅僧、白き影を目にす。
「剣を持たぬ者が、剣よりも強いものを持っていた」と語る。
影は川べりに佇み、旅僧に向かって一礼し、風に消ゆ。
翌朝、凍った川の橋が自然と崩れ、落ちる者なし。
僧曰く、「もしや、道を変えさせに来たのか」と。
これらの記録は、いずれも“白装束”“剣を持たぬ”“雪の中”“風のように現れ消える”という共通の特徴を持つ。
そして、いずれの記録にも「誰も斬られてはいない」「戦を止める」性質が添えられている。
このことから、当時の人々の間で、“白き者”は
**「剣を抜くことなく、剣の道を終わらせる者」**として受け取られていたことがわかる。
名も、所属も、出自も知られぬその剣士の残響は、
尾張の外にも、確かに“雪の記憶”として残っていたのである。
【補遺六】
語り継がれた民話風再話
――『白装束の剣と雪』
むかしむかし、戦の絶えぬ時代、ひとりの剣士がいたそうな。
その者、名を持たず、白装束に身を包み、風のように現れては、雪のように消えるといわれた。
ある夜、村の近くで山越えしようとした侍たちが、峠道で白い影に出会った。
剣を持たぬその者は、ただ立ち尽くし、道を塞いでいた。
侍たちは「敵か」と叫び、剣を抜いたが、白い者はひと言も発さず、
ただ、目を伏せて頭を垂れた。
そのとき、風が吹いた。雪が降った。
侍たちは、なぜかその場から動けなくなった。
目の前の者が、斬るべき敵ではないと、心の底で知ったからだった。
その後、村の外れに小さな祠が建てられた。
「剣を抜かずに人を救った者の祠」として。
村の者は今でも、大雪の前にそこへ参り、こう言って手を合わせる。
「この冬も、人を斬る剣が抜かれませんように」と。
誰が建てたか、誰が教えたかは、もう分からぬ。
けれど、風の音が強い夜には、今も白い影が村を歩いていると、
年寄りたちは、目を細めて語ってくれるのだという。
【補遺七】
現代まで続く“剣の祠”参拝記録
――「剣に名はなくとも」より抜粋
場所:愛知県名古屋市緑区桶狭間
地名:『白鞘塚』(旧地図では「剣ヶ丘」)
形式:自然石の祠(標柱・説明看板なし)、樹齢三百年超の榎が傍に立つ。
【参拝者A(50代・男性・教師)】
「生徒たちに歴史を教える中で、どうしても“名もなき人”の物語を伝えたくなる。
この祠に立つと、自分の言葉も、心構えも試されている気がします」
【参拝者B(20代・女性・剣道経験者)】
「ここに来ると、なぜか“戦うとは何か”を考えてしまいます。
剣を持っていても、人を斬らない者が、いちばん強かった――
そういう話を、どこかで読んだことがあります。あれは、この祠のことだったんでしょうか」
【参拝者C(70代・元自衛官)】
「戦に意味があるかどうか、ずっと答えを出せずにきた。
でもこの祠の前では、問いよりも“祈り”が強い。
きっと、ここに祀られている剣は、“斬るより守る”ためにあったんだなと思います」
現在もこの祠には、名札も説明板もない。
ただ、訪れる者たちは皆、静かに頭を垂れ、語ることなく去っていく。
雪の日には、花が一輪だけ供えられることもあるという。
剣はそこにある。
名を持たぬまま、静かに人の心に斬り込んで――そして、祈りに変わっていく。
【補遺八】
矢野家末裔にあたる人物の手記
――『記録されざる剣に寄せて』
書き手:矢野尚志
職業:高校教諭(倫理・剣道部顧問)
年齢:41歳
記載日:令和17年1月某日
場所:尾張・桶狭間近郊、自宅書斎にて
私は長らく、ある記録に残らぬ「剣士」の話を追ってきた。
歴史書に名前はない。家系図にも残されていない。
ただ、民間伝承や口伝、そして特定の集落に伝わる祠の記録だけが、まるで“伏せられた物語”のように点在している。
教師として、私は過去と向き合う機会に恵まれている。
「語られない歴史」――それは、敗者の話だけではない。
名を残すことを拒んだ者、あるいは“誰かのために姿を消した者”の痕跡もまた、そのひとつだ。
私の祖父も、父も、なぜかその“剣の話”をぽつりと語った。
共通していたのは、
「誰にも言うなよ。だけど、忘れるな」
という不思議な口癖だった。
私は教師として生徒に剣を教える。
その技よりも、剣を握る“理由”を問いたいと思っている。
斬るためではない。守るためでも、ないかもしれない。
ただ、何かを伝えるために――剣がそこにあったと、信じたいのだ。
もしこの手記が、誰かの心に“風のような違和感”を残すなら、
それはおそらく、“あの剣”が今も、ここに在るからだ。
追記:今年の初雪の日、小さな祠に誰かが白い花を供えていた。
足跡は、一本だけだった。
まるで、「ここに来た者がいた」と、誰かに伝えるためのように。
【補遺九】
小説家によるあとがき風エッセイ
――『“名もなき剣”を書き終えて』
この物語は、記録に残らなかった者たちへの鎮魂であり、祈りであり、証です。
最初に“白装束の剣士”という民話を読んだのは、大学時代、偶然訪れた郷土資料室でした。
名前のない剣、語られぬ英雄、忘れ去られた声。
それらに対して「なぜ名を遺さなかったのか」と問うことは容易い。
けれど、名を遺さなかったからこそ、今なお“誰かの物語”であり続けられる――
そんな逆説が、この伝承の根にある気がしてなりません。
私は静という人物に、“剣士”としてよりも、“語られぬ声を背負ったひとりの人間”として惹かれました。
そして彼の傍に、いつも“誰か”がいたことにも。
それは矢野であり、太一であり、また名もなき人々だったはずです。
剣を抜かずに人を救うことができるか。
沈黙のなかで、何かを遺せるか。
この物語を書きながら、私自身もまた問い続けてきました。
雪が降る夜、白い影がひとり立っている。
その光景はもう、フィクションではありません。
誰の心にも、その剣は残りうる。そう信じて、私は筆を置きます。
――そして今日もまた、祠の前に一本の足跡が残る。
名はなくとも、その在り方こそが、語り継がれるにふさわしい。
【補遺十】
小説家による“静と矢野”の関係についての解釈
――『なぜ彼らは、言葉を交わさなかったのか』
沖田静と矢野蓮。
このふたりの関係性は、一見して「主従」あるいは「共に戦った仲間」に収まるようでいて、実のところそれ以上でもそれ以下でもない、奇妙な距離感に満ちています。
この物語を解釈する中で、私は何度も「なぜ矢野は静の名を残そうとしなかったのか」「なぜ静は、矢野に自らの過去を語らなかったのか」を問い直す必要がありました。
思うに、ふたりは――あえて“言葉”を交わさなかった。
それは、語るよりも「残す」ことに重きを置いた関係だったからです。
言葉で交わした約束は、破られる可能性がある。けれど、沈黙の中に置かれた祈りは、もっと長く残る。
たとえば、冬の終わりの野営地で焚かれた焚火。
あるいは、ただ一度だけ静が「戦が終わったら、また会おう」と言ったとき。
矢野はそれに何も返さず、ただうなずいた。
返答はなかったが、彼は“約束”のようにそれを記憶した。
静は、自分の命が長くないことを知っていた。
矢野は、それを察していた。
ふたりは、どちらも“終わり”を前提に、出会い続けていた。
だからこそ彼らの関係は、愛や友情という言葉を拒む。
もっと沈黙に近い、もっと名のないもの。
私の中では、それは一種の“記憶の祠”のようなものだったと思っています。
他人には見えず、声も聞こえない。だが、ふたりのあいだだけに立ち上がる小さな祠――
その前で、ふたりは最後まで立ち尽くしていたのです。




